
2018.06.26Vol.355 ”いい”は一定以上の”うまい”を内包している
今回は、大学2回生の男の子が研修課題である「志高塾に通う生徒に将来どのような人材になってほしいか」について書いた文章を紹介する。このようなとき、先に私見を述べることが多いのだが、今回は最後にそれを持っていく。では、どうぞ。
近年になって日本は、かつてにはなかった問題が多く生まれてきている。例えば、LGBT、移民の受け入れ、ブラック企業、貧困格差、少子高齢化等々。これらが肥大化してきた背景には、「人々の想像力・思考力の欠如」が影を落としているように私は考える。なぜなら、想像することができないということは、「他人の気持ち」「自身が社会の一員であるという自覚」「これらの問題の深刻さ」がわからないということと同義だからだ。他人の気持ちがわからなければ、自身の言葉が誰かを傷つけていても気づかない。社会の一員であると自覚しないがゆえに、社会問題に関して無関心になる。問題がどのように大きくなって、いずれはどうなるかが想像できなければ、問題を問題として捉えられない。
もう一つ、私自身が最近、日本の同世代の人々に強く感じていることがある。それは「表現の貧弱さ」、あるいは「国語力の低さ」だ。流行りのJ-POPはどれもこれも似たり寄ったりで、直接的な表現しか用いない。だが、そんな稚拙な歌詞に涙を流す人すらいる。ではなぜ、そのような曲が人々の心をつかんでしまうのか。そこにも、「想像力の欠如」が関係している。端的に言えば、今の日本の若者は、いわゆる詩的な表現が理解できなくなっているのだ。今の若者に谷村新司さんの「昴」を聴いてもらっても、多くの人は何も感じられないだろう。これは、現代の人々が歌詞の真意、裏側を想像できないからだ。このようなことが目に付くようでは、日本の学力が低下しているといわれても納得をせざるを得ないわけである。
なぜこの二つを並べたかと言えば、これらの問題は密接に関係しているように私は考えているからだ。つまり、国語力のない人々の増加は、想像力の欠如した人々が増えていることを示すということだ。
さて、長く今の日本の問題について私の考えを述べさせていただいた。なぜこれらに触れたかだが、これらは志高塾の生徒にどうなってほしいかを話すうえで非常に重要であるからだ。結論から言えば、私は生徒たちには、想像力を働かせ、万事を柔軟に受け入れ活用していくような人材になってほしい。では、どのようにすれば想像力を鍛えられるのか。想像力は本来、小さいころの冒険や読書によってはぐくまれる。この山を越えればどうなるのだろうか、この川の先には何があるのだろうか。この物語の主人公はなぜ悲しいのだろうか、この難しい言葉はいったいどんな意味なのだろうか。そういった疑問が頭の中に残って、気になってしょうがない。しばらく考えてどうしてもわからないから、自身の目で確かめようとするなり、ほかの人と議論するなりで答えにたどり着く。この考える時間が想像力を磨くのだ。しかし、便利な検索ツールは子供たちからこのかけがえのない時間を奪ってしまった。ならば、現代では何がその代わりをするのか。そこで重要になってくるのが「文章を書く」ということだ。文章を書く過程は先ほど述べたものとよく似ている。まず、主題を決める。次に、本文を考えてみる。ここで、うまく表現出来なければ壁にぶつかり、そこで試行錯誤する。そうして文章を作っていく。これはまさに冒険と同じだ。時には失敗もするだろうが、それは次回に活かされる。生徒には、そういった体験を志高塾で沢山してもらい、大いに想像力を鍛えてほしい。
豊かな想像力は、さまざまな場面で、生徒を助けるだろう。まず、危険を前もって察知することができるようになるだろう。なぜなら、何をすればどうなるかが前もって想像できるようになるからだ。すると、致命的な失敗、取り返しのつかない失敗は少なくなるだろう。また、柔軟な発想ができるようになることで、身の周りの問題に対して有効な対策がとれるようになるだろう。さらに、世の中に蔓延る真偽の確かでない情報に振り回されにくくなる。おかしな話をおかしいときちんと判断できる人間は思っているよりもはるかに少ない。なぜなら、自分が騙されるということが想像できない人が多いからだ。生徒達にはそういった、汚い人間に足を引っ張られるようなことがあってほしくない。ブラック企業というのは、まさにそういった足を引っ張る人間が上に立っている企業であろう。そういった企業に万が一就職してしまっても、病気になってしまう前にこの企業はおかしいと判断して、自身の判断で辞められるような人間になってほしい。一方で、どれほどきつくても、正当な大変さだと自分が感じたなら働き続けることのできる人間にもなってほしい。間違っても、厳しいことすべてから目を背けるような人間にはならないでほしい。そのバランス感覚の基礎となるのも想像力、思考力だ。
また、人を思いやれる人間になってほしい。現代の大人の社会でもいじめが問題になることがある。この問題の根本には、きちんとした訓練をしてこなかったがゆえに、他人の気持ちを考えられず、自身の正しい表現の仕方も知らずにそのまま形だけの「大人」になってしまった「子供」が多くいることがある。想像力のない「子供」は自分の所属するコミュニティが世界のすべてのように思いこみ、そこで幅を利かせることが何より大切だと思っているのである。もし、いじめにあうようなことがあっても、世界はそこだけじゃないのだという知識があれば、逃げることができる。生徒たちには絶対にそのような幼稚な人びとに押しつぶされてほしくない。また、人を追いやるような人間にもなってほしくない。自分と違う人々と接するというのは非常に難しい問題のように思われる。だがその実は、理解をするだけでよいのだ。男と女以外の性別を持つ人がいる。それだけのことだということがわかるだけでよいのだ。少し想像すればそんなことは自明のように感じられるだろう。それこそが思いやりだと私は考える。
最後に、今の日本は窮地に立たされていると思う。もはや日本の技術力は世界一ではなく、流出すらしている。後進国であったアジアの各国は今や技術大国となり、世界の覇権を握ろうとする勢いだ。ゆえに、今までのような終身雇用はおろか、大学を出ても就職すら怪しい世の中だ。そのような世界で大事なのは、自分で考え、道を選んでいくことだ。他人の言葉をうのみにできない世界だからこそ、自分で歩んでいく力は人と差をつけ、成功へと導いてくれると思う。そうして、社会は誰かが作っていくものではなく、自身が作っていくのだという自覚を持って、社会を変えていけるような人材に、生徒たちにはなってもらいたい。
一読した際の私の印象は「いい文章だな」だった。「いい文章」には心がこもっていて、自分の意見がしっかりと入っている。そして、それが伝わるということは、ある程度うまくないといけない。一方で、うまいものが必ずしもいいとは限らない。そういうものを私は時に「きれい」と表現する。きれいだけど面白くないものは世の中にあふれている。
私の『志高く』は、平均すると2000字程度だろう。彼のものは実に2600字超である。しかも、私に手渡すときに「なんか十分でない気がするんです」ということを漏らしていた。研修課題として与えているので、給与は払うのだが2時間分である。ブラック塾と言われてしまいかねないほどのエネルギーの掛け方だ。そして、彼はわざわざ片道1時間ほどかけて通ってくれている。社員なら分かる。しかし、体育会系のクラブに入っている大学生がそれをしているのだ。余談ではあるが、面接は10分ぐらいで終わることが多いのだが、彼とは45分ほど行った。そのことを何人かの大学生に話すと「松蔭さんとよくそんなにも話が続きましたね」と返ってきた。私もそう思う。
うまい教え方をするのではなく、いい教え方をする講師が集まって来てくれている、というはっきりとした手ごたえを感じている。「いい教え方」は一定以上の「うまい教え方」を内包していることを念のため最後に断っておく。
2018.06.19Vol.354 自信満々が生む不安
入塾して2か月ほどの小6の受験生のお父様との面談で「うちの嫁が、先生が自信満々すぎて逆に不安になる、と言ってます」と告げられた。「えっ、そうなんですか。じゃあ、今日は自信なさそうでした、とお伝えください」と返したら「それも困ります」とのこと。そのお母様とは問い合わせの電話をいただいた際に話したきりである。そのとき「今からでも間に合いますか」というようなことを尋ねられ、確か「自分の目で見てないので、何とも言えません」というような答えをした。だから、私が何かを確約したわけではない。別に自信があるわけではない。かと言って、自信が無いわけでもない。自分の感覚を信じている、というのが一番近い。正確には、自分の“今”の感覚である。それは不変ではない。過去の経験を踏まえて微調整を繰り返している。もし、私自身が、自分の“今”の感覚を頼れなければ、私は何を拠り所にすればいいのだろうか。
この春、灘に入学した生徒のお母様には、6年生の5月の時点で「今、受験を迎えても合格します」と話していた。合格点より70点ぐらい高い点数で合格しているので、私の予想はおそらく正しかったはずである。開校1年目に3年生であった男の子は、国語も算数も見た上で、出会ってから半年もしないうちに「私より断然賢いので、甲陽、医学部以外であれば東大、京大でも余裕です」とお母様に話した。実際、大して勉強せずに甲陽に合格した。しかし、京大は不合格になり、現役で慶応に行った。京大模試ではA判定を取っていたとのことだったので、私の見立てはそれほど外れてはいなかった。この2つの事実は何を表しているか。私は余計なことを言う、ということである。言質を取られないように、差し障りのないことばかりを並べ立てるわけではない。単純に私がそういう人が好きではないからだ。何かを聞いたときに、それがマニュアルで決まっているからであろう、とりあえず「何とも言えません」というような答えが返ってくることが少なくない。後から「前に~と言っていたのに違うじゃないか!」というクレームが怖いのだ。頭では分かる。だが、心がそれを許さない。先方は、私の現時点での見解を知りたいのだ。上でも述べたように、私も「分からない」と返答することはある。しかし、それはそのように断ることを決めてのことではない。しかるべき判断材料が揃った時点で、私なりの答えを出す。
この3月、慶応高校のニューヨーク校を受験して合格した中3の生徒がいる。1月ぐらいに「先生、よろしくお願いします」と依頼され、2か月で準備をした。国語と数学の2教科を指導した。この件、親御様は我々に実績がないことを百も承知の上で託されているのだ。ネットからプリントアウトした過去問をドサッと渡された。解答はなかった。合格点も公表されていない。五里霧中とは正にこのことだ。「やれるだけのことをやります」と約束した。そして、無事に合格した。ちなみに、彼女を約5年指導してきたこともあり、慶応が願書などの書類と合わせて提出を義務付けている「行動・性格評価書」を記入することを親御様から依頼された。詳しい内容は忘れてしまったが、「目標があれば努力できる人物である」、「周りの人と協調しながら物事を成し遂げられる」というような類の項目が10個ほどあり、それぞれを確か5段階で評価することが求められた。その書類には、必要であれば推薦文を添付してもいいと記されていた。推薦文の一段落目で私の素性を簡単に説明した二段落目で次のように述べた。
「行動・性格評価書」を前にして、少々大げさではありますが途方に暮れてしまいました。どこにどのように印をつけてもAという人間を適切に表現できそうになかったからです。貴校が重要視しているからこそあれらの項目が挙げられているにも関わらず、このような対応になってしまったことを先にお詫びします。
私は結局、どこにもチェックを付けずに出した。なお、途中以下のようなことも述べた。
実に様々な子供たちに接しているため、画一的な物差しで彼らを評価することなく、どうすれば社会でそれぞれがそれぞれらしく活躍できる人間になるのか、ということを念頭におきながら指導しています。彼女には、特に小学生の頃はかなり手を煩わされましたが、当時から「この子はおもしろい人間になる可能性を秘めている」と直感し、特長を伸ばすことを大事にしながら、一方で、それをより生かすためにもできないことを少しずつ減らそうと努めてきました。
私の推薦文に効果があったかどうかは分からない。ただ、チェックをつけなかったことはマイナスに働かなったのは、紛れもない事実である。過去、そのようなものが提出されたことはあるのだろうか。私は何も変わったことがしかったわけではない。時間を置いて、何度かそれと向き合ってみてもどうチェックをするべきか、何も湧き上がってこなかったのだ。その代わりに、心を込めて推薦文をしたためた。
もちろん、うまく行くことばかりではない。受験直前に進学塾から志望校を下げるように説得されてクラスも下げられるとのことで、それであれば、と最後の1か月半、そこには通わず志高塾一本にされた。やれるだけのことはやったが、うまく導いてあげられなかった。結果がすべて。ただ、その後も通い続けくれている。また頑張ろう、という気になる。
自分の“今”の感覚を信じているから、自信満々に映るのか。そうではない気がする。誰かが、自分に、自分達に何かを任そうとしてくれる。それを意気に感じて「やります」と受け止める。普通、その喜びが笑顔になって現れたりするのだろうが、私の場合、そのやる気が力んだ形で顔に出てしまう。もう少し涼やかな顔をしていたら、不安にさせずに済むのだろう。こんな顔でごめんなさい。
でも、よく考えたら、そのお母様は私と会ったことがないんだった。文章としてまとまったからよしとしよう。
2018.06.12Vol.353 〇だ×だと言う前にX
先週は西宮北口校の面談ウィークであった。今回は時間が合えば豊中校の方にも顔を出す予定であるため、少なくとも50人以上の親御様とお話しさせていただくことになる。お子様を預かっている身であるため、授業中の様子、現状、今後の展望などをこちらからしっかりと報告しなければならないのだが、私の方が教えていただくことも多い。また、親御様が抱えているお子様の悩みなどに関して、少しでも参考にしていただけるように、と自分なりの見解を述べようと頭を回転させることも自分にとってプラスに作用する。瞬時に返答しようとすると、時間をかけてああでもないこうでもない、とじっくりと思考を巡らせるのとは別のアイデアが引き出されたりするからだ。直感というやつである。後から振り返って、的外れだったな、となることはほとんどなく、新たな気づきがあったりするので不思議だ。
三姉妹通わせてくださっているお母様に対して「お母様としては、二女が一番心配なのでしょうが、将来のことを考えると彼女が一番安心です。逆に気になるのは三女です」というお話をした。確かに二女に一番手を焼いているとのこと。マイペースなので親からするとやきもきさせられるのだが、私に言わせれば、1つずつ確実に自分のものにできている。一方、三女は効率がよく何でもそつなくこなせてしまうため、常に7, 8割の力でそれなりの結果を残しているように見えるのだ。悪くないだけに、本人に「実力出し切ってないやん」という事実を受け入れさせるのは容易ではない。
「そういう風に言っていただけるのはここだけです。少し気が楽になりました」というコメントを親御様からいただくことは少なくない。他のところでは「あそこがだめ、ここがだめ」と指摘を受けているのだ。親御様の気持ちを楽にしたくて慰めているわけではない。私なりに適切に子供を評価した結果をお伝えしているだけのこと。我々は批評家ではないので、少しでもその子の未来が明るくなるように手を打ち続けていくことこそが果たすべき役割である。そのためには、まず的確に現状を分析する必要がある。
話は変わるが、美術館の絵画や教会の壁画などの修復はX線を用いて解析が行われる。随分と前に読んだので、何の絵であったかは忘れてしまったが、それが何百年も前のものであり、これまでの修復によって、原画とは別の色になっていたということが判明した。勝手に上から塗られた部分を削り、元の色を再現したとのこと。大きな筆に墨汁をつけて、紙の上に乗って、大きな字を書く書道のパフォーマンスがある。それと同じように、大きな絵筆に色をたっぷり含ませて、たった一色で塗り上げようとする。色むらができれば、思い通りに染まらないことを非難する。書道の場合は、大きな1枚の均質な白い紙である。でも、色を塗ろうとしているのは、それぞれの子供が持っている特質を反映したパッチワークなのだ。水彩に向いている紙もあれば、油彩用のカンヴァスかもしれない。もしくは、ゴッホが経済的に苦しくて代わりに用いたジュート布かもしれない。しかも、それぞれは白ではなく、既に子供たちの色がついているのだ。その色に良いも悪いもない。もし、同じ色に染めたいのであれば、せめてそれぞれの画材、既にそこにある色をしっかりと見るべきではないだろうか。それをすれば、同化させることが無意味だと気づくはずだ。
誰かがぐちゃぐちゃに塗ったのであれば、それをひとまずきれいにしなければならない。もちろん、そこで終わりではなく、元の色が引き立つようなものを何か付け加えてあげたい。修復作業のようにとても地味で、丁寧に取り組んだ分だけ喜びが得られる。教えるというのはそういうものなのかもしれない。
2018.06.05Vol.352 これでもまだそう思われますか?
採用面接に来てくれた大学2回生の女の子に志望理由を尋ねた。すると「適切な表現ではないかもしれないですが」と断った上で「HPを見たら、ここの塾はちゃんと教えていそうな気がしたからです」というような答えが返ってきた。HPでそのようなことが伝わったことが嬉しかった。だが、それ以上に私を喜ばせたことがある。それは「私はちゃんと教えているところでこそ先生をしたいのです」という意思が、先の言葉に表れていたこと。なお、履歴書の志望動機の欄には「指導を通して教材の内容や文章、言葉の使い方について改めて考えることができ、自分のためになるのではないかと考えました」というようなことが書かれていた。もちろん、即採用である。1回生の1年間は教育とは別のアルバイトをしていたので、なぜ去年はしなかったのかと質問をすると「個別指導の塾に登録はしていたのですが、仕事の話が来ませんでした」とのこと。私はそれがどこの塾かを聞かなかったし、知りたいとも思わない。ただ、どれだけ低く見積もっても、そこに登録している大学生の上位半分に入る優秀さであることは間違いない。一体、どんな基準で授業を割り振っているのであろうか。彼女ははきはきと元気よく話すわけではないが、聞かれたことにじっくりと思考を巡らせ、その結果を明確に伝えることができる。その塾のおかげで彼女が志高塾に来てくれたので、何はともあれ良かった。
話は変わる。HPにも掲載しているが、我々は各親御様に毎月「月間報告」というもの配布している。生徒の1か月間の様子、何ができて(できるようになって)、課題は何で、それに対して我々は今後どのように対策していくのか、ということなどをまとめたものである。各生徒の責任者が作成して、西宮北口校であればすべて私にメールで送られてくる。内容が不十分であれば、私が指摘をして、考え直しをしてもらう。作成、私のチェック、再考などを含めると1人当たり1時間は掛けている。ここで、大学2回生の子が作成したものを紹介する。一文字だけ修正したが、それ以外は手を加えていない。
教えている人が大学生かどうか、というのを気にされる方は少なくない。それが間違えているとは思わない。しかし、私にとっては優秀かどうかがすべてである。
初めて間もないのでまだ作文に慣れていない様子が見受けられます。しかし、その中でも良い言葉の選択ができているのが印象的です。例えば「ある日コボとお母さんが歩いていると男の子が店でオタマジャクシを買い嬉しそうに帰って行くのとすれ違った。それを見たコボは自分も欲しいとねだったがお母さんには相手にされなかった。その後家に着いてからも彼はオタマジャクシのことで頭がいっぱいだった。しばらくして、お母さんが風呂場へ行き湯の加減を見ようと蓋を開けた。するとそこにはオタマジャクシの黒い影がゆらゆらと浮いていた。それを見た途端、お母さんは驚きで悲鳴をあげてしまった。しかし、声を聞きつけてきたお父さんが確認すると、それは生きものではなく単に黒く塗ったしゃもじであり、コボの悪いたずらだった。」という話がありました。ここで「ねだる」「声を張り上げる」「呆れる」「復讐する」などの良い表現を記述に入れられていました。ただ、「2度以上同じ語句は使わず、言い換える」というルールを忘れがちです。例えば「コボはお母さんに買ってほしいとねだった。でも、彼女は買わなくていいとコボに怒った。」としていましたが、下線部が「買う」の重複になるので、後者を「そんなものはいらない」に変えました。また、別の話では「ミニスカート」という単語を複数使用していたので一方を「それ」という指示語に変更しました。いずれのときも指摘するとしっかり別の言葉に置き換えられるので、今後は見直し時に自分で修正できるようになってほしいです。
また、『科学なぜどうして(初級編)』では「白鳥のように季節により住む場所を変える鳥を『渡り鳥』いう。オオハクチョウとコハクチョウは冬に極寒となる生息地のシベリアを離れ、温暖な日本へと飛んでくるのだ」という話に取り組みました。このとき、要約文のタイトルを「日本に白鳥が飛来する理由」としていて、自分で本文の内容を「飛来」という熟語でまとめられていたので良かったです。ただ渡り鳥が移動する理由として重要な「冬(に飛来する)」というキーワードが抜けていました。それでも重要な情報が抜けていることを伝えると一瞬悩んだものの、すぐに「冬に日本に白鳥が飛来するわけ」と直せました。現状でいろいろな言葉の引き出しがあるのはすばらしいので、今後は文章にとって不可欠な材料となる主語や重要な情報の抜けがないようにしていくことが大切です。