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2018.07.31Vol.360 出川哲朗と山崎方正改め月亭方正

 昨春、小学校のPTA会長として総会であいさつをした。例年持ち時間2分のところを事前に3分に変更してもらった。そして、その倍以上の6分と少しも話した。なぜか。笑いを取りに行って、リアクションを待っていたらそれが無かったから。山登りをして、向かいの山にヤッホーと叫び、耳の後ろに手を当てて山彦を期待したが全く聞こえず、何度か声の出し方を変えるなどして試したものの結果は同じ。ようやく「あっ、ここでは無理なんだ」と気づいたようなものである。散々な結果だったと伝え聞いた私の友人が、私のことを知っているあるお母さんにそのことを嬉しそうに報告すると「あの人は滑り芸だから」というような返答があったらしい。「幼稚園の会長をしてたときからそうだった」と。おかしい。あの頃は確かな手ごたえを感じていたのだが。
 私が20代であった頃、滑り芸の二大巨匠と言えば、出川哲朗と山崎方正であった。タイトル、冒頭の文章。こんな分かりやすい話の転じ方はない。「転じる」で私が思い浮かべるのは『天声人語』である。本題に入る前に、それについて少し述べてみる。
 『天声人語』の要約などをさせる国語の先生は、それだけで「アカンな。安易すぎる」となる。朝日新聞のCMでも、入試でそれが使われていることをアピールしているが、そのこととそれがテキストとして優れているかは別の話である。確か、あれは2、3人が担当をしている。字数や段落分けの仕方なども決まっている上に、旬の話題を扱わなければならず、かつ話をうまく転じられるかにかなりの力点が置かれている。当然時間にも追われる。それらの制約がある中で「これはうまくまとまった」と筆者自身が納得できるのは、おそらく5回に1回ぐらいしかないのではないか。それゆえ、先生自体が選りすぐってさせるのならまだしも、たとえば、その日の朝刊の分を毎日写す、もしくは要約させる、ということを義務付けていたり、市販のものをただ与えるだけであったり、というのはやり方としてひどすぎる。もし、先生が1か月分の中から3つぐらいをピックアップして、それらを選んだ理由を説明できるのであれば、それなりの効果は期待できるかもしれない。
 話を戻す。今回、これを話題にすることにしたのは、ネットニュースで月亭方正の記事を読んだから。要約すると、次のようになる。
 「滑り芸」や「いじめられ芸」などと言われ人気が上昇し、給料も上がったものの、周りの人に助けられているだけという感覚があり、常に不安にかられていた。夜、枕を濡らしたり、枕に向かって叫ぶことがあったりするほど精神的に不安定だった。ある日、落語に出会い、大人になってから初めて打ち込めるものを見つけられた。初めて上がった舞台で終わった後に巻き上がった拍手は今も忘れられない。昔は暇があれば飲みに行っていたが、今は空いている時間のすべてを落語に費やしている。
 何を書きたくて、これを選んだのかは自分でもよく分からない。でも、何だかいろいろなことを思った。「あれは10年前のことだったのか」「訳の分からんことを始めたな、どうせすぐやめんねやろな、とあのときは思ってたけど、本当はこんな思いを抱えてたのか」「こういうことって、ある程度の年数が経って、ある程度の結果を残して初めて少しぐらいは語ろうと思うもんなんやろな」などなど。抱かれたくない芸人で常に上位にいた出川哲朗も今やテレビ、CMで引っ張りだこである。時を経て、2人がそれぞれの道で人気が出ているのは興味深い。
 評価は人がするもの。それはそうなのだろう。でも、人が評価してくれても自分が納得いかないこともあれば、その逆もある。人はやめろと言うが、この道を行った先に、自らの求めるものがあるという確信。自分だけの、自分らしいものさし。自分のものだからと言って都合よく変えない客観的な指標。そういうものがあれば、5年先、10年先に結果は出てくる。
 なんだかんだと書いてきたが、記事にあった最後の一文「50人集めるのがやっとだった観客も、独演会で800席を満席にするほどの人気となっている」に魅かれ、志高塾もそんな風にならんかなぁ、という願望を持ったのが、このテーマを選んだ最大の理由なのかもしれない。

2018.07.24Vol.359 研修レポート3部作

第1部「志高塾に通う生徒に将来どのような人材になって欲しいか」
第2部「現在の教育について」
第3部「志高塾での教え方」

 20コマの研修期間中、新しく入った講師には、上の3つのレポートに取り組んでもらう。それらとは別に、『コボちゃん』など教室で使用しているテキストの作文を実際に書いてみる、という課題などもある。
 第1部と第2部の順番はどちらでもいい気がするが、「志高塾での教え方」はこの位置しかない。最初の2つに正解などない。ただ、各人がそれらについて考察し、それらを踏まえた上で子供たちにどのように指導するかを考えて欲しいのだ。
 夏休みに入っても夏期講習の時間割とのにらめっこは続いている。思考停止に陥っている私を救ってくれるレポートを新人の講師が提出してくれた。豊中校を開校し、生徒が偶然増えていることなどもあり、昔からお子様を通わせてくれている親御様の中には、教育の質が落ちることを心配している方もいる。ただ、私としては講師の質が明らかに上がっているという手ごたえがある。
 Vol.355 「”いい”は一定以上の”うまい”を内包している」で、他の講師のものを紹介した。そこで「2,600字超である」とその字数の多さに言及した。多ければいいというものではないが、今回のものは2,800字を超えている。与えられた課題を適当にやり過ごそうとするのではなく、真摯に向き合う姿勢に喜びを覚える。では、ご堪能ください。

 子どもへの教育のあり方と社会問題は強く関連しているとよく思う。
 まず、日本における残業の問題について述べたい。残業が多い会社は「ブラック企業」と称されるが、強制的に夜遅くまで会社に残り様々な仕事をこなさなければならないという状態に置かれ、睡眠時間や余暇の時間が極端に削られるという人は現代社会においてかなり存在する。これに関して、前々から疑問に思っていることがあった。はたして、仕事の時間を延ばすことと業績が伸びることの間に因果関係はあるのか、という疑問である。
 昨今、日本の教育は、今までの知識の詰め込みを重視するあり方への批判を元に、アクティブラーニングの導入によって、コミュニケーションや発想力を重視する形にシフトしつつある。確かに現在の教育や受験制度が特定の力のみを重視しているというのは問題であると私も考えている。
 よく、学校での勉強に対して、「こんなことを学んで何になるのか」という意見を聞く。古代日本の歴史や微積、漢文などを学んで何になるのか。しかし、私は現行の知識詰め込み型の教育を全否定したいとは思わない。学校での勉強で得た知識の「内容」自体はそこまで役に立たないものもあると思う(かといって、全く役に立たないとは思っていないのだが)。ただし、私が重要だと思うのは、日々の学校での学習や受験勉強を通して、「方法論」を学べるということである。
 私がこの考えに至ったのは、高校時代と浪人期の自分自身の経験がある。高校時代、私はそこまで成績が良くなかった。高校2年のときに、それでは良くないと思って真面目に勉強をしようとした。しかしそれはうまくいかなかった。なぜなら、勉強の仕方が分からなかったからだ。勉強したくても膨大な学習範囲から、まず何を勉強すべきか、どうやって学習を進めるべきかが分からなかった。また、そもそも今までほとんど勉強していなかったから、学習環境を整備することにも手こずった(というかそもそも学習環境の重要性に気づいていなかった)。その後紆余曲折あって、浪人することになったのだが、浪人時代通っていた予備校の職員からあることを教わった。それは、「どのように勉強するか」を考えることの重要性である。
 大学受験では、がむしゃらに勉強することよりも、最も効率良い勉強法を探り、自分の性格を見極め、どう学習するかを計画することの方が重要だと私は考える。
受験を通して知った方法論の一つに、必ずしも成績の伸びは勉強した時間に比例するわけではない、ということがある。たとえば睡眠時間を削って朝から深夜までずっと勉強し続けることと、十分な睡眠時間や休憩時間をちゃんと取った場合では、後者の方が勉強時間そのものは少なくても、効率的に勉強できることがある。なぜなら、一つは人の集中力の持続時間には限界があること、もう一つは時間が限られているということを認識することで、気を引き締めて勉強できることがあるからだ。他の観点から言い換えてみる。たとえば、歴史の教科書を1冊通読するとする。この場合に、通読にかける時間を長くとりすぎると、中だるみして、ちゃんと読んでいると思っても、実際そこまで頭に入っていないことがある。その場合、少し時間が足りないのではないかと思うくらいで、通読にかける目標期間を設定すると、頭をより能動的に動かすことができたりする。
 冒頭で残業の多さが必ずしも会社の業績の伸びと結びつかないのではないか、という疑問はここから来ている。
勉強の方法論というのは、非常に様々なものに応用可能である。大学に入ってからの勉強にも応用できるし、おそらく仕事にも使えるだろう。私は懸命に何かに取り組む力を軽視しているわけではなく、それも大事なものだとは思っているが、仕事であれば手を動かすだけでなく、頭も動かして、状況を俯瞰して考えなければ企業としての存続に影響するのではないだろうか。
 いままでの経験を振り返っても、ニュースを見ていても、苦痛に耐え忍び、努力することだけが変に重視されすぎていると思うことがよくある。
 私は勉強の方法論の重要性について述べたが、学校において、それを見落とした指導がなされることがある。たとえば、英語の単語を覚えるために、膨大な量の単語を10回ずつ書かせて提出させるなどである。暗記の仕方は人によって合う合わないがあって、手で書いて覚える方法を取らない生徒もいるし、そもそもすでに提出範囲の単語を暗記している生徒もいるかもしれない。また、この前ツイッターで話題になっていたのが、中学校か高校の夏休みのノートを提出する課題で、「ノートのすべてのページにおいて色がたくさん使われていて、イラストなども描かれてあって、時間をかけてきれいに書き取ってある場合はAA、地味だがびっしりと小さい字で書きとってあればA」という評価の方法を取るという指導がされていた、という話があった。英語の問題を解くノートでイラストや色を多用することは、必ずしも成績とは結びつかないのではないか。
 私がこの2つの例の何を問題視しているかというと、あまりに「努力量」が重視されすぎていて、「成績を伸ばす」という観点がおろそかになっていることである。成績の伸びにつながらない努力を生徒に強要しているということである。
 これと同じで、企業の業績の伸びにつながらない残業というのが、世間には存在しているのではないかと思う。他にも、日本では労働においてルールが厳しいという例はいくつも存在する。
 人は無意識的にすりこまれた常識を多かれ少なかれ必ず持っているが、その刷り込みの過程で大きな影響力を持つのは教育である。教員が生徒に対して課題提出や校則などの強制力を持っているし、小学校から高校まではクラスという狭い世界の中で長い時間を過ごすため、生徒が世間一般の価値観に染められやすい。
努力や忍耐が不必要に持ち上げられているのは、少なからず教育機関の影響がある。
 また、塾については、学校とは違う性質を持っているが、企業利益が絡んでくるからこそ、人々の価値観に対して、学校とはまた違った影響の与え方をしている。受験塾であれば、受験競争が激しくなるほど、塾教育の需要が増す。たとえば、大手予備校は入学難易度によって、大学にABC…とランクをつけたデータを毎年発表する。いまでは、定員割れするような入学が容易な大学を揶揄する言葉になっている「Fラン」という語は、某大手予備校が作ったものである。就職との関係などもあるであろうが、学歴至上主義の形成要因の一つに塾があるということは事実だろう。
 教育が人々の価値観に与える影響が多いからこそ、現場にいる人はそれに自覚的である必要があると私は考える。そして、私が提起したもののように、さまざまな問題にテコ入れしていく際に、教育のあり方を見直すというのは、必須の作業であるとも思う。
 以上が、私が考える現在の教育に対しての問題提起である。

2018.07.16Vol.358 生活に役立たないものを”意見作文”と呼ぶことなかれ

 意見作文に取り組んでいる中高校生に私はしばしば次のようなことを伝える。「学校で書かされているわけではなく、わざわざここに通ってまでやってるんだから、実生活に生きるようにしなよ」と。
 2か月ほど前、高校1年生の女の子がとてもとても、そう、とても嬉しい作文を書き上げたので、それについて「すごく嬉しいことがありまして」というタイトルで取り上げる予定であったが、延び延びになって今に至る。どのような課題であったかは忘れたが、確か「自分が抱えている課題に対して、自ら問いを立て、それを解決する方法を考案しなさい」というものであったような気がする。仮に、本番に弱い人がいたとする。その場合「なぜ自分は本番に弱いのか?どうしたら、それを克服し、結果を出せるようになるだろうか?」と自問し、自答することになる。
 当時彼女は学校のフランス留学プログラムに参加するかどうかで迷っていた。なぜか。フランスに行くと、高2の選択科目でフランス語を選ばなければいけないからだ。選択科目のもう一つの候補が化学であった。将来なりたい職業に就くには、理系に進まなければならない。そのためには、受験科目として化学が必要である。高2で化学を勉強しなければ理系への道が閉ざされると考えていたため、岐路に立たされていたのだ。それゆえ、どちらにすべきか、と自らに問うていた。そのようなものを私は二者択一的思考、と勝手に呼んでいる。なぜ、やる前から二兎追うことを諦めるのか。彼女の作文に目を通して「化学なんて自分でできる。実際、俺は学校の授業を真面目に聞いていなかったから、参考書を買って自分で勉強した。京大に行くぐらいならそれで足りる。ちょっと待ってて」と伝えて、パソコンで「照井式」と検索した。すると、「独学で確実に東大・医学部に合格できる勉強法」というブログの「東大合格者から絶大な評判!照井式解法カードの使い方まとめ」という文章がヒットした。それをプリントアウトして「ほらっ」と見せた。そして、そこからしばらくは私の自慢話。「これは、ちょうど俺が高校生のときに出た参考書で、そのときは有名じゃなかったけど、それを手に取った俺って先見の明があったんやろうなぁ。さすがやなぁ」と。ちなみに、物理は同じ出版社から出ていた「橋本流」で学んだ。つまり、物理の授業も適当に受けていた、ということ。くだらない話はさておき、翌週、授業に来た彼女をつかまえて「で、どうなった?」と聞いた。すると「フランスに行くことにしました。応募しただけなので、選ばれるかどうかは分かりません。そして、あのテキストも買いました」と返ってきた。後日、無事に留学のメンバーに選ばれたことを報告してくれた。
 彼女がその参考書を使っても理解できなければ、大学受験レベルの化学なんてほとんど何も覚えていないが、私が責任を持ってゼロから勉強して納得できるまで教える。そうならないことを心の底から願っているが、それだけのエネルギーを割いてあげたいと私に思わせるだけの選択を彼女はした。大げさに表現すれば、この結果によって、彼女はこの先もいい意味で欲張りでいられるか、もしくはどちらか1つを諦めるという選択をするようになるか、が決まる。
 ゼロから勉強する、なんて格好つけたことを述べたが、もし、そのような状況に置かれたら「俺の生徒が化学で困ってんねん。誰か上手に教えられる人知らんかな?」と伝手を使って人探しすることに私は全エネルギーを費やすことになるのであろう。そして、私は彼女に言葉を掛ける。「自分でできへんことは、それが得意な人に頼るのも生きていく上で大事なんやで。それにしても、学びの多い作文だったね」と。

2018.07.10Vol.357 つながる繋がり

 Vol.344「噛めば噛むほど」でも登場した筑波大学1回生の女の子が「ライフセービングの入部届の下書きをしたので良かったら見てください」とラインを送ってきた。「『思う』が多いな」と指摘すると、「私もそんな気がしてました」ということで、それを踏まえて修正したものが以下。

 私の父は水先案内人です。私が幼少の頃、父は資格を取るために海で経験を積んでいました。年に数回自宅に戻ると、父は自室にこもって海図に色を塗ったり、数字を記録したりしていました。床一面に広げた海図は絶対に踏むな、とだけ言われました。海は父の全てなのだろう、と幼心に海に嫉妬していました。
 小学生になると、毎年夏に近所の市民プールで真っ黒になっていました。三年生になって水泳を習い始めると、父の実家の淡路島の海水浴場に連れていかれました。海水がしょっぱくて、水が冷たくて、全く海が好きになれませんでした。中学校に進学すると水泳部に入部しました。引退試合で初めて同期四人でリレーを組んで入賞して、団体種目の連帯感が好きになりました。高校では書道部と茶道部に入部して、泳ぐのは夏にプールに行くくらいでした。高二で友達と舞子浜へ行ったときのことです。雲一つない空の下で海面が輝いていて、海に一気に引き込まれました。ずっとここにいたい、と身体が湧いていました。
 筑波大学に入学したその日にライフセービング部を知りました。海にいける…。それだけの理由で海新歓に行きました。大雨の日で、海が恐怖だったけれど、先輩方が守ってくださると安心できました。それから少しして2回目に行くと、今度は前回とは打って変わって快晴で、海がいろいろな顔をするのを面白く感じました。それから入部したいと思い始めました。何度も頭に浮かんだのはボードを片手に海へ駆けて行く先輩方の後ろ姿でした。こんなに楽しそうに何か一つのことに熱中した事が私にはないです。
 Basic講習会を二日終えた今、正直私は海が怖いです。きっとこれからも恐怖は続くと思います。それなのにいつの間にか私は海の虜になってしまっていて、平日は波の音や身体が波に揺らされる感覚が恋しくなります。沢山の人に海を楽しんでもらいたい、そのために海を知り、海から人を守ることができるようになりたい、その一心から、私は筑波大学体育会ライフセービング部への入部を志望します。

 彼女と大学2回生の男の子と先月東京で会ってきた。夜ご飯を食べ、その後はカフェへ。最初の店で飲み物が来るのを待っている間「心で書いた良い文章だよ」と上のものを彼に見せた。それを読んでの彼の感想は「良いですねぇ。最近、どうもかっこつけたものばかり書きすぎていて、それに自分でも気づいているんですけど、そこから中々抜け出せなくて」というようなものだった。その彼は今、大学の夏休みを利用してカンボジアに一か月ほど滞在している。ビジネスコンテストで提案した、発展途上国のゴミ問題を解決するプロジェクトの実証実験をするためだ。クラウドファンディングも行っていて中々本格的である。「頑張れ」という気持ちを込めて少し出資したこともあり、進捗状況を記したレポートを送って来てくれる。昨日の帰り道、電車に乗っているとそれが届いたので、自分なりに「もっとこうした方が読みやすいものになるんじゃない」と思うところをいくつか述べた。昨日のものが3回目だったのだが、その度にちょこちょこと意見交換をする。
 今回、タイトルの候補は3つあった。その1つは「潜在意識の中の作文」である。あの日、我々は結果的に5時間ぐらい一緒にいただろうか。様々なことを話したのだろうが、その内容はほとんど覚えていない。何日か経って「彼らの意識の下に作文というのがあるんだな」とふと感じられた。幸せである。考えようによっては、入部届にそんなにエネルギーを割く必要なんてない。やっつけでやる人もいるであろう。でも、そうはしない。振り返ってみたら、3人で会話していると、決して多くはないのだが、ふとしたタイミングで作文の方に話がスーッと流れることがあった。何気なくそのことについて語り、そして、また別の話題に移る。
 話は変わるが、カンボジアに滞在している彼が、現地に知り合いの日本人がいれば紹介してほしい、と先のレポートの中で広く呼びかけていた。私が大学生の頃に教えていた当時高校生だった生徒が、会社を辞め、今世界旅行をしているのだが、世界中に友人がいることもあり、「カンボジアに誰か知り合いおらん?」と尋ねると、うまい具合に「いますよ」とのことだったので、2人を繋げた。既に会ったのかどうか分からないが、その方向で話が進んでいるとのこと。
 今回、元生徒とのことをテーマにしようとしていたのだが、字数の関係上、書くかどうか迷っていたことがあった。それは2人の大学生の男の子たちについてなのだが、1人は中学受験までは通ってくれ、その後東京に引っ越した。その親友が、中学の途中から高校卒業するまで志高塾で学んだ。2年ほど前であったか、東京の元生徒がこっちに遊びに来たときに、2人を甲子園の阪神戦に連れていき、その後バッティングセンターへ、そして締めは居酒屋。彼らは「これは大学生にとっての最高のフルコースですよ」と言いながら喜んでくれた。すると、一昨日、1年以上ぶりにメールをくれた。2人とも就職が決まったので、その報告もかねてあいさつに来たいとこと。時間が合わず今回は会えなかったのだが、その機会は遠からず訪れるだろう。なお、就職先を聞くと、1人は私の友人が勤めているところであった。
 そろそろ文章を締める。もう1つのタイトル候補は「プラスマイナス>ゼロ」であった。どこかに連れて行けば「先生ありがとうございます」となるのだが、私にとってはプラスマイナスゼロなのだ。正確には、私の中ではプラスマイナスゼロなのだ。学生や20代であった頃、私も同じように誰かのお世話になっていた。「プラスマイナス>ゼロ」というのは、つまりゼロではなく、プラスだということを意味している。「していただいこと」と「したこと」でゼロになる、それに加えて、自分に少なからず誰かに与えられるものがある、と思えることはそれなりに心地よいことである。その分プラスなのだ。20代にはかなわないが、少しずつでも成長し続け、「プラスマイナス>ゼロ」の状況を保てる人でありたい。

2018.07.02Vol.356 物事の見方

入試が迫り時間に余裕がない中で、第1志望校の過去問と傾向が異なる場合、わざわざ第2志望校のものを解かせるとすればどちらの生徒だろうか。
A;第1志望校に九分九厘合格できそうな生徒
B;第1志望校のボーダーライン上にいる生徒

 この文章は、サッカーのワールドカップの予選リーグ第3戦を終えた翌日に書き始めた。そして、その時点で、火曜日の朝3時から始まる試合の前にHP上にアップすることを決めた。決勝トーナメント第1戦の日本の試合を見ると、別のことを書きたくなりそうだったからである。結果を見て、それについて語るのはあまり面白いものではない。
 ワールドカップに興味が薄い人でも、第3戦で取った監督の作戦に対していろいろな意見があることは知っているかもしれない。「いろいろ」というのはいわゆる「賛否両論」と言うやつである。ビジネスを始めるに際して、そのアイデアに賛成ばかりというのは間違いなくうまくいかないし、半々でもやはりそうであろう。きっと1割ぐらいが賛成してくれるものであれば、それなりに難しく、成功すればそれなりの価値があるのであろう。それが5%、1%といったように、賛成してくれる人の割合が下がっていけば、難易度はより上がり、それを乗り越えたときの達成感は増すはずである。
 第3戦の残り10分で日本はポーランドに0対1で負けていたにも関わらず攻めなかった。同時に行われていたセネガル対コロンビアでセネガルが同様のスコアで負けていたからだ。日本はセネガルがそのまま点を取らずに終われば、決勝トーナメントに進めたが、取ればその道は断たれた。一方、日本が攻めて1対1で終えていたら、セネガル戦のスコアに関係なく、その権利を得られたのだ。要は、自力ではなく他力(コロンビアがセネガルを抑え込んでくれる)にかけた作戦だったのだ。物は考えようで、他力を頼めるところまで自力で行ったとも言える。結果的にうまく行った。それを踏まえて「決勝トーナメントには進めたけど」という批判を受けているのだ。でも、決断をした時点では「決勝トーナメントに進めなかったら」となる確率も低くはなかった。その場合、現状とは比較にならないほどの批判を浴びていたはずなのだ。要は、それだけの覚悟があったのだ。もちろん、覚悟があれば、どのような判断も正当化されるわけではない。
 冒頭で、判断材料に乏しい非常に乱暴な質問をした。基本的に、私がBのパターンの生徒に対して、第2志望校の対策をすることはない。第1志望校にすべてのエネルギーを注ぎ込む。もし、第2志望校だけに合格した生徒の親御様から「元々第1志望は半々と言われていましたし、第2志望も余裕ではなかったので対策をしていただかなかったら、そっちもどうなっていたかは分かりません」というような言葉をいただいたとしても、間違いなく「そうか、少しは役に立てたか」とはならない。「自分が保険をかけたせいで、第1志望に合格できなかった」となる。それが分かっているので、そもそも、そのような選択はしないのだが。
 誤解を招かいように断っておくが、Bのパターンの生徒に対して、第2志望校の過去問を解かせないわけではない。問題の傾向が似ていれば普通に与えるし、似ていなくても、その問題の質が高いのであれば気分転換も兼ねて取り組ませることはある。要は、すべては第1志望校への合格率を高めるために何が有効かを考えた上で手を打っていくのだ。
 この後始まる日本戦に話を戻そう。ベルギーと20回戦えば1回ぐらいは勝てるであろう。3回は引き分けに持ち込み、PK戦でそのうち1回は勝てるかもしれない。それらを合わせると、20回中2回、つまり10%は勝てる可能性があると言うことだ。もちろん、日本に勝って欲しいがそんなに甘くはない。手堅く行くだろうから、負けてはいても残り30分までは1点差である可能性は高い。そこからはさすがに点を取りに行かなければいけない。そのとき、相手のカウンター攻撃(守りをしっかりと固めながらも、少ない人数で一気に攻めて点数を奪う方法)を受けて、2点、3点と点差が付くかもしれない。それは、ポーランド相手に攻めないことを選択した、西野監督の采配の正しさを裏付ける1つの材料になるかもしれない。

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