
2018.08.28Vol.364 夏
大玉のすいかが出回るようになると、夏の始まりを感じ、産地が北上するにしたがって終わりが近づいていることを知る。今夏、少なくとも5玉以上は買った。子供達も食べるのだが、7、8割が私の胃袋におさまる。「まだ夏は終わらせない」と最後の抵抗を試み、山形県の尾花沢産のものを買った。「尾花沢は有名やけど甘いんか?」と半信半疑で口にしたものの「あっ、やっぱりうまい」となった。期待される。そして、それにきちっと応える。「志高塾もそうありたいものだ」と。タイトルを「すいかが私に教えてくれたこと」にでもすれば良かったか。
この夏、教室に生ける花はほとんどがひまわりであった。店先には様々な種類のものが陳列されていたのだが、その中に、黄色い花びらにワインレッドが混ざったものがあった。初めて見たので興味を持って、それについて尋ねると「そういう種類なんです」という答えが返ってきた。それはそうだろう。まったく持って相手が何を知りたいかを無視したものであった。これで行くと「花屋さんが私に教えてくれなかったこと」となるのか。でも、そういう受け答えを自分もしないようにしないと、と気づかせてくれたので「花屋さんが私に教えてくれたこと」の方が適切か。
話は変わる。こと勉強においては、学生時代に一度も充実した夏休みを過ごしたことはなかった。4年生の長男が、友達何人かが誘いに来て「宿題が終わってないから遊べない」と返すと、「えっ、まだ終わってないん?」と突っ込まれていた、ということを妻から伝え聞いた。「なっ、そういうこともあるから、やっといた方がええんやで」ととりあえず、それっぽいことを言ってみたものの、私自身も似たようなものであった。別に早く仕上げなさい、とは思っていない。ただ、追い込まれたときに泣き言をもらしたら怒る。「それは自分の責任や」と。うまく行かないとき、これは自分の責任だ、と思えれば、それは一つの糧になる。私の場合、最初の2, 3日で一気にやって「あとは余裕」となってからがまったく進まず、最後の1日2日で仕上げていた。仕上がっていなかったような気もする。浪人生の頃、夏休み前に「このままの調子で行くと、夏休み後には成績がかなり良くなる」というような言葉をチューターからいただいた。それで調子に乗ったのと、鬼門の夏休みとが重なって、チューターの予言は見事に外れた。
この夏嬉しかったのは、先週末、長男とサッカーの練習を近くの公園でしたのだが、初めて文句を言わずに真剣に取り組んでいたこと。これまでも妻から「教えてあげて」と頼まれていたのだが、「やる気ないのに無理にやらせても」と基本的には断っていた。だから、きっとこれまでに5回ぐらいしか一緒にボールを蹴ったことはない。下の兄弟が周りの遊具で楽しそうにしているのを見て「自分だけ」と文句を言うので、途中で切り上げたこともあった。妻に言わせれば「上手になれば、それでやる気になる」ということなのだ。それも間違いではない。でも、それであればある程度のところまでは行けるが、それ以上にはならない。
親御様から相談されて「本人がやる気にならないとどうしようもないです」というようなことを伝えると、「先生、やる気にならなければどうするんですか?やる気になりますか?」と返ってくる。私は「やる気になるまで待つ」という考えなのだが、それは「やる気になるのを待つ」というのとは違う。「どうしたらやる気になるだろうか」と考え、実践する。私の息子の場合、「全然動いてへん」ということをこれまでに何度も指摘していたのだが、一向に変化が現れなかった。1か月ほど前に初めてビデオを撮って見せると、自分のへぼさに気づいたのだ。それから一気に動きが変わった。ちなみに、私と練習した翌日、教えてらったことを試したら試合で点が取れた、と嬉しそうに報告してくれた。きっと、今週末も私のことを誘うだろう。でも、きっと長続きはしない。また停滞期が来る。だが、無理矢理やらせなかったことで、再び自らの力で前に進もうとするはずだ。そのときにまた背中を押してやればいい。それによって少し加速する。もし、やる気のない止まった状態のときにそれをしたらどうなるか。前向きにポテンと倒れておしまいである。
夏の出来事を並べ立てただけに終わった。結局タイトルはあれで良かったということなのだろう。
2018.08.21Vol.363 志高塾のストロー
「志高塾とストローと私♪」というタイトルにしようかと思ったが、くだらないのでやめた。と言いながら、それにとりあえず触れてみるところが自分らしい。こういうとき「自分らしい」の前に「良くも悪くも」と付くことが多いのだが、残念ながら「良くも」に当たる部分が見つからなかったのでそのままにした。
現在、環境保護の観点からプラスチックストロー廃止の運動が世界的に広がりつつある。それがスタバから始まったというのが私の認識である。調べれば分かることなのだが、どこから、というのは私にとってそれほど重要なことではないので、この文章ではそのまま、スタバ、ということにしておく。ホットドリンクは直接口をつけて飲むので、冷たい飲み物だけにストローをつけるというのも考えてみたらおかしい話である。「考えてみたらおかしい」というのは世の中にたくさん転がっているが、「考えないからおかしい」ままなのだ。そのニュースを耳にしたとき「ストローの代わりに何を使うのか?」という疑問が湧いた。そして、その後どうやらホットドリンクと似たような形状の蓋になるらしいというのを知った。この件に関して、「紙のストロー」なるものが存在することを初めて知った。それで代替したところで、環境負荷は下がるがゼロにはならないので、当然のことながら無くすのがベストである。「少しずつ良くしていく」という方法もあるが、一気に改善できるのであれば、それに越したことはない。このままだとずっとストローの話になるので、ここで一旦、志高塾の話題に移る。
作文には、性格なども含めた物事の考え方が強く反映される。それゆえ「一気に改善」というのはほぼ不可能である。だからと言って、生徒が書いたものを何となく添削すればいいというわけではない。それは、砂浜で表面の砂を撫でているようなものである。そうではなく、腹ばいになって、片方の腕を必死に伸ばしてどんどん穴を掘り、肩から下が全部埋もれるぐらいに奥深く進んでいく。表面はやけどするぐらい熱くても、5, 60cmの深さにある砂は、間違いなくひんやりとしているはずである。その砂をガチっと掴み取る。頑張って例えてみたものの、全然伝わらない気がしてきた。まあ、表面的なやり方ではだめだ、ということが言いたかっただけなのだ。
入塾してまだ半年も経っていない高校2年生の男の子に意見作文をさせると、とにかく面白いぐらいネガティブな内容になる。それに対して「もっとポジティブに考えた方が得やで」なんてありきたりのアドバイスはしない。冒頭の「良くも悪くも」ではないが、「物事には良い面と悪い面がある。誰が考えても良いもの、逆に悪いものには議論の余地が残されていないのでそもそも考える対象にはなりえない。今は、悪い面にばかり目が行っているが、良い面にも目を向けた上で結論付けた方がいい」と伝えた。最終的にポジティブ、ネガティブのどちらに重心を置くかはその子の自由である。5回に1回ぐらいはポジティブなスタンスで書き上げるかもしれない。残りの4回はやはりネガティブであったとしても、物事を多角的に見られるようになると「シュール」となるかもしれない。その子の作文の一例をここで紹介する。「僕は小さいころ、怖くてうんていができなかった。5, 6年生になって克服できたが、その頃は既に足が地面についていた。今、誰かが高さ3mぐらいのうんていを作ってくれたとしても、童心に返って楽しむことはできない。」身長180cmを超えるその子が、真顔でぶら下がっているところを想像してしたら、かなり愉快な気分になれた。
その子は、大学受験の小論文対策のために通い始めてくれた。他の塾であれば(そもそも、志高塾は少なくない数の親御様たちから「塾」と認識をされていない。この前も迎えに来られた親御様が私に「先生どうしましょう。他の同級生の子たちはこの夏休み、みんな塾に行っているのに、うちの子は全然で。いや、ここが塾ではない、とは言ってないんですよ・・・」と相談された。「私、塾の先生ではないので、いいアドバイスが思い浮かびません」と返せば良かったのか)、受験を見据えて、知識であったり、テクニックであったりを詰め込みに行くのだが、ここではそんなことはしない。まずは思考を柔軟にする。言葉を使って考える楽しさを知りもしないのに、点数を取るための作文をさせて何になるのか。過去問対策に2年もいらない。
一体、プラスチックのストローは世に出てどれだけ経つのだろうか。他の外食チェーンもスタバに追随している。環境ではなく、ブランドイメージを守るために。それでも、環境のためになるのであれば、それはそれでいい。そんなことを考えながらコンビニに行くと、普通にレジ袋をもらえた。私がよく利用するスーパーなどでも袋の値段が最近上がった。いいことである。いつ、コンビニは有料化に踏み切るのであろうか。店舗数、利用者数を考えても、環境に与えるインパクトは計り知れない。
悲しいかな志高塾の規模では世の中を変えられない。ただ、通ってくれている子供達には、良くも悪くも影響を与えることができる。「プラスチックのストローは便利だから何の疑いもなく使用していました。でも、環境に良くないと気づいたのでこれからは使いません」的な考え方は許されない。子供にとって本当に何が必要かを考え、手を打ち続けなければならない。もし、10年後に誤りに気づいたら、その間に通ってくれていた子供たちはどうなるのか。他の塾にはあるストローのようなものがないから、志高塾は「塾」だと位置づけられないのかもしれない。飲み物を受験に例えると、別にストローなんかなくても飲むことはできる。環境にやさしい、ではないが、子供にやさしい受験をさせてあげたい。それは、「甘い」とは違う。そこには「厳しさ」がある。たとえば、間違えたら怒られる、という類のものではなく、簡単に「分かりません」と諦めさせずに、とことん考え続けさせるというのも、その1つ。
志高塾では、まるでストローで吸い上げるみたいに「チュー」って子供たちの才能を引っ張り出すんです。そんなことができたら苦労しないわな。
残暑のせいであろう。最後は少し馬鹿になりすぎた。
2018.08.14Vol.362 勉強をして何の役に立つのか?
「勉強をして何の役に立つのか?」子供のこの質問に親や先生は「将来役に立つから」などと答える。それに似たものとして「将来の選択肢を増やすため」というのもある。もちろん、そのような答えでは子供の中で何の変化も生まれない。聞いている子供自体が納得できる答えを求めているわけではない。勉強をしたくなくて、そのように聞いているだけなのだ。子供は、大人がこの問いにうまく対応できないのをよく知っている。
私の場合、小学生ぐらいであれば「じゃあ、ゲームは何の役に立つの?」と逆に尋ねる。そして「勉強だけ、そういう風に聞くのはおかしくないか?」と続ける。中学生であれば「じゃあ、高校行かなければ。義務教育でもないんやから」で終わりである。学校は、勉強だけをしにいくところではないが、あくまで勉強が主である。「勉強をするより仕事をする方が大変やで」と付け加えることもある。
自分もそうであったが、子供は大人を困らせたいのだ。いつも偉そうに言われてばかりだから、逆の立場に立ちたくてしょうがない。そういうチャンスを虎視眈々と狙っている。そして「ここやっ!」と子供が自信満々にパンチを繰り出してくる。それに対して私は強烈なカウンターパンチをくらわせる。
同じような状況が生まれるのが、子供が嘘をつくときである。典型的なのは、宿題をやっていないのに、忘れました、と伝えてくるとき。面白いのは、私と付き合いの長い生徒がその場にいたときである。「正直に言っといた方がええで」と声を掛けたりする。取りに帰らされたり、家に電話されたりして、私が確かめるのを知っているからだ。40分ぐらいで往復できる距離にあるのに、1時間半以上戻ってこないことがあった。もちろん、その時間を使って残っていた分をやっていたのだ。帰ってきたときには「あれ、引っ越したの」と嫌味を見舞っておいた。先の生徒は、そんな感じでみんなの前で恥をかかされることや、その何倍もやらされることを知っているのだ。私は「嘘をつくな」とは絶対に言わない。ただ「ばれたときの覚悟をした上で、俺に嘘をつくんやで」と優しくアドバイスをしてあげる。
私はよく大人げない、と言われる。子供のサッカーのコーチをしていても真剣に点を取りに行く。子供の嘘に手加減なく対処するのと同様に。それに対して、子供たちが「そんなん止められるわけないやん」と愚痴をこぼすことがある。だが、彼らは私に勝った時にはものすごく嬉しそうにする。大きな悔しさと大きな喜び。小さな悔しさと小さな喜び。どちらのセットを選ぶのか。子供の頃の私は、間違いなく前者を求め、後者には見向きもしなかった。小学3年生の頃、学校でドッジボールをしているとき、手加減して投げる教育実習で来た若い男の先生(面白いことに、このことを書こうとしたら、30年ぶりぐらいにその先生の名前を思い出した)に「なんで手を抜くんだ」とくってかかったことがあった。私は同級生ではなく、その先生だけを狙っていた。「あの先生のボールを取れるのも、当てれるのも俺だけだ」と信じていた。自分がそうだからと言って、他人もそうだとは限らない。「他の人も同じように考えるだろうか?」と自問する。時には、自分の価値観を押し付けるのは良くないな、となることもある。しかし、スタートラインは「自分だったらどうであろう?」だ。
冒頭の質問に話を戻す。どれだけ論理的に答えたところで、答えられたところで、大した意味はない。大事なのは言葉を尽くすことではない。結果的に勉強が、勉強を通して身に付けたことが将来役立つようにしてあげることなのだ。たとえば、子供が「分かりません」と伝えてくる。「あっそ。じゃあ考えて」と投げ返す。困ったなぁ、という顔をしながらも再考する。そして「分かりました」となる。「ほらな。できたやろ。簡単にあきらめるな」と言葉掛けをする。考え直すように指摘しているのに「これでもいいやん」と口答えをする子供がいる。「テストでそれを書いたら丸になるかもしれへん。でも、俺が言いたいのはそんなことちゃうねん。もっと良いもん出せるやろ。ぶつぶつ言わずにやれ」と。こちらが求めていたものが、場合によっては求めていた以上のものが子供から出てくる。仮にうまく行かない場合でも、子供自身が考え抜いたのであれば「よう考えたやん。それを続けてたら、いい言葉を引っ張り出せるようになる」と励ます。私の指摘が正しかったことは、子供たちの満足そうな顔が証明してくれる。
手ごわいものと正面から向き合う姿勢は、将来間違いなく仕事に生きてくる。「私にはできません」ではなく「私にはできる」と信じて取り組む。「これぐらいでいいですよね」ではなく「ここまでやりました」と胸を張って誇れる仕事をする。
子供たちが目の前のことに一生懸命格闘している姿を見ながら、彼らの未来に光が射すのが見えることがある。そういう大きな喜びが得られないなら、この仕事をしていてもしょうがない。
猛暑のせいであろう。少し熱くなりすぎた。
2018.08.07Vol.361 オーガニックオーガニゼーション
組織って有機的でないといけないよなぁ、と考えたのだが、「有機的な組織」を英語で表すと“Organic Organization”となる。ちなみに、WHO(世界保健機関)やNPO(非営利団体)などの”O“は”Organization“の頭文字を取ったものである。いくつかの辞書で調べても、“Organic”と“Organization”のつながりについては書かれてはいなかったのだが、この2つは間違いなく関係している。そう考えると、“Organization”には、元々”Organic“の意味が含まれているので、“Organic Organization”だと「腹痛が痛い」、「違和感を感じる」みたいなもので、意味が重複することになってしまう。組織とは有機的であることが大前提なのだろう。
「有機的」は辞書に「有機体のように、多くの部分が緊密な連関を持ちながら全体を形作っているさま」とある。「有機体」とは生物のことである。有機の対義語は無機である。私がイメージする無機的な組織というのは、ある面上に点が存在していて、他のどれか1点としか結びついていない状況である。たとえば、A, B, Cの3点があれば、AとB、BとCがつながっているだけで、そこに線は2本しか存在しない。一方で、有機的な場合、AとCの間にも線は引かれるので合計で3本になる。3点しかなければ1本の差しかないが、これが6点だと前者は5本、後者は15本(6角形の辺と対角線の本数の和と同じである)となる。そこに新たな1点が加わった場合、前者は1本だけだが、後者はその新たなものが既存の6点すべてとの間に関係ができるので6本増えることになる。点の数が増えるほど、緊密度の差は大きくなっていく。
この週末、2泊3日で家族と母を連れて、伯母が会員になっているホテルに宿泊してきた。晩御飯の際、長男が箸を落としたので代わりのものを頼んだのだが中々持って来てもらえず、別の人にお願いしてもだめだったので、本人に取りに行かせようとしたところ、そのタイミングで手渡してもらえた。間違いなく5分はかかっていた。念のために断っておくが、基本こういうことに腹を立てたりはしないのでクレームをつけることもない。そんなことより、なぜそういうことが起こったのか、の方に興味がある。おそらく、箸を取りに厨房の方に戻ったが、そこで新たな指示を受けて、頭から抜けてしまったのであろう。同じことを繰り返さないようにするためには、個人の能力頼みではなく、システムとして解決しなければならない。そこでは、皆があちこち動き回っていた。おそらく手が空いている人に順番に役割を与えていっていたのであろう。そのような場当たり的な方法ではなく、担当のエリアを決め、そこで起こったことには責任を持ってもらう。自分のエリアさえ良ければいいというわけではなく、余裕があるときには他のところを手伝う、ということが自然とできなければならない。ただ、そのためにはある程度の人員的な余裕が必要である。それが有機的な組織というものである。箸ぐらいのことで、と思われるかもしれないが、そのレベルでうまく対処できていないのであれば、もっと大きな部分で問題を抱えているはずなのだ。オーガニックオーガニゼーションの話はここまで。
そのホテルにはプールがあったのだが、会員の人以外は有料なのだ。宿泊客は無料で使えると思い込んでいたので少々驚いた。しかも、20mしかない普通のプールがあるだけで1,000円もするのだ。ウォータスライダーがあるなどあまりにも魅力的で制限をかける必要があるなら分かるのだが。ホテル内に子供はそれなりにいたが、浮き輪を体につけてプールの方に嬉しそうに走っていく子供はついぞ見かけなかった。
会員にはそれぞれの担当者がいるらしく、初日に伯母の担当の方がわざわざあいさつに来られて「明日の昼、無料のランチを食べながら、会員に関する説明をさせてほしい」とお願いされた。2泊3日であれば、2日目だけが唯一のんびりできる。朝や夜であれば分かるが、昼の時間を拘束されると行けるところがかなり制限されてしまう。しかも、ホテルで子供向けのアクテビティなどは何も用意されていないのだ。朝と夜はご飯が元々ついているので、「じゃあ昼で」という考えになったのであろうが、子供を遊びに連れて行っているので「昼ご飯代が浮いてラッキー」とはならない。1人旅ですらそうはならない。お金のことしか考えていないので、そのような発想になるのであろう。我々も親御様からお金をいただいているわけだが、それと同じぐらい子供たちの時間を預けていただいているという感覚がある。この時間に対する意識というのはすごく重要である。
5年か10年前に、一度そこを訪れたことがある母は、朝のビュッフェの品数が随分減ったと漏らしていた。誰かに、前の方が良かったね、と思われることほど悲しいことはない。
2日連続で海に行き、4年生の長男、2年生の二男と初めてシュノーケリングをし、浮き輪を付けてはいたが年長の三男も海を満喫し、家の近所では難しくなった花火も2夜連続で楽しめた。子供たちと貴重な体験をし、かついろいろと考える題材を提供してもらえた実り多き3日間であった。