
2018.05.07Vol.348 「お客様目線」と言うけれど
お客様目線。何の前触れもなく私のもとにやってきた。そして考えた。いや、まるで「考えた」というプロセスが抜け落ちたかのように「『お客様目線』っておかしいよな」と結論づけた。少し時間をおいても、瞬時に出した、出た答えに対する確からしさは変わることはなく、むしろ確信の度合いは深まっていった。「こんな書き方もできるんですよ」と自信満々に披露して、逆に能力の限界を露呈しただけに終わったかもしれない。何はともあれ、ここからはいつも通りの文体で。
このブログの中などで「お客様」という言葉を使ったことはあったかもしれないが、好きではない。「お客様は神様」というように、とても高いところに位置付けているようで、そこに心と心の通じ合いはなく、形式的な感じがしてならない。真心を込めて口にしている人も少なくないのだろうが、そうでない人が多すぎるせいで私はそう感じるようになった、きっと。私は「親御様」を用いる。それは開校当初から変わらない。「何の実績もない志高塾を選んでいただいてありがとうございます」という気持ちにぴったりのものがそれだったのだろう。10年と少し経た今も「志高塾を選んでいただいてありがとうございます」は新鮮なまま。その間「何の実績もない」から「少し経験を積んだ」に、枕詞はわずかに格上げされた。
「お客様目線」って何なのだろう。よく分からないから、代わりに「子供目線」を例にとる。「子供目線で語りかける」というのは、大人が、上からではなくしゃがんで子供と目線を合わせて優しく諭すようなイメージである。「~目線」と聞いてすぐに思いつくのはこの2つなのだが、どちらも表面的で、無責任な感じがする。合わせればいいというものでもないだろうに。
先日、入塾して間もない3年生のお子様を迎えに来られた親御様に「純粋でいいですね」と話した。その子は私立の学校に通っていて、私が想像するその学校の平均的な子供たちと比べると、勉強することに慣れていない印象を受けた。それが私には魅力的に映った。親御様が、周りの親に流されずに育ててきた結果なのだ。もちろん、勉強させることが悪いわけではない。ただ、無理にやらせたせいでその年齢で既に考えることが嫌いになっている子も少なくない。その子は私の質問にうまく答えられなくても、にこにこしながらあきらめることなく一生懸命に考える。ちなみに、上の私の言葉に対して親御様に「先生、本当に褒めています?」と聞き返された。そういうことを他のところで評価されてこなかったから、私の言葉をすぐに受け入れていただけなかったのだ。そう言えば、vol.344で登場した彼女が最後に私に会った時に次のようなことを漏らしていた。「体験授業で、先生が私のことを褒めてたら志高塾には入らなかった」と。他の塾では、洛南に通っているというだけで評価されていたらしい。私は、体験授業の際に、環境か何かについて書いた作文を見て「まとまってるけど、どこかで見たことや聞いたことを文章にしただけで、自分の頭で考えてない。これは作文ではない」というようなことを伝えた。逆にそれが彼女には心地よかったのだ。
私は、褒めようとすることもなければ、もちろんけなそうとすることもない。見たままを本人なり、親御様に報告する。その際、言葉は選ぶ。それは相手を傷つけないようにするためや喜ばせたりするためではない。適切に伝えるために、である。耳障りのいい言葉を吐くのではなく、心に響く言葉を届けられる人でありたい。