
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.10.10Vol.72 最高のハッピーエンド(豊中校・山本)
「人生の最後までやってみないと分からない」とは聞くが、タイムマシンでもない限り自分の終わりを確かめることはできない。だが、私にはそれを教えてくれた人がいる。それは、今年5月に96歳で大往生した私の祖母だ。
祖母は、怪我で車椅子生活となり自宅のある奈良の施設に入ったが、諸事情あり、92歳で故郷を離れて豊中の老人ホームで暮らすことになった。当時はコロナ禍真只中で、施設は面会謝絶。祖母に引っ越しが伝えられたのはなんとその当日朝。祖母は突然迎えにきた私に大阪に連れられ、その日の夕方には知らない施設に入居した。その滅茶苦茶な状況を92歳がすぐ理解できるわけはなく、新居に着いた祖母は涙を流して私の腕にしがみついた。しかし、1週間後にはすっかり慣れ、職員さんから「かわいい」と背中をさすられていた。見た目には無頓着で可愛らしいおばあちゃんとは思えないが、都会の人を掴むものがあったことにほっとした。その後は、職員さんに「おおきにぃ(ありがとう)」をニコニコと振りまき、「頼んどくわえぇ(お願いします)」を付け加える。頼まれた側の職員さんは、「分かりましたよ」とにっこり顔。そうした愛想の良さとは真逆に、自分の我を押し通して職員さんと激しくやり合う時もあったが、そのギャップが面白いとますます人気が高まりアイドルになっていた。場所で人の評価はこんなに変わるのか、驚きと同時に祖母の逞しさに恐れ入った。
1年が過ぎた頃、続く面会制限のため家族に自由に会えないことが辛いと祖母が嘆くようになり、「なんとかしてあげたい」が私の中で膨らんだ。しかし、私は家と家族のことで精一杯で、特に長男は中3の受験生。その状況で大きな責任を抱えることはできるのか?いや、やる前に決められない、ダメだったらその時考えたらいい。苦労続きだった祖母の残りわずかな人生を寂しい思いで過ごさせたくないと私は決心し、家族に同居を切り出した。最初はたじろいだ夫が賛成してくれ、一番気がかりな長男からは「自分にはたっぷり時間があるが、おばあちゃんにはあと少し。今この瞬間にどっちが大切かは決まってるやん」と何の迷いもない答えがあり、子供たちにとっても意味のある同居にしようと私はより前向きになった。こうして予想もしていなかった3世代同居が始まったのだ。
祖母の人生を少し振り返る。祖母は名家に生まれ、穏やかに成長したが、祖父と結婚したことで苦難が始まる。祖母とは対照的に貧乏な家に生まれた祖父は金持ちになるという志に燃え、家族を残して出た大阪で苦労の末に事業を成功させた。男気に溢れ、世間的には自慢の夫だっただろうが、実は家庭内では最低男この上なかったのだ。家には帰ってこない、お金は全く入れない、お酒、女遊びは当たり前で、祖母は独り身のようなものだった。3人の子供のうち1人は障害で歩行できない。それに加え、同居の姑からの厳しい虐め。それだけ聞くと極度の悲壮さを想像するが、生活費を稼ぐために就いた旅館での仲居の仕事で、お客さんとの会話を楽しみ、一杯およばれし、時にはチップもいただく、仕事を日常の生き抜きにしたのだ。そうやってポジティブに必死に働き、休憩時間には家に飛んで帰り、姑と子供の世話という日々を送った。その後、2人の子供を病気、事故で亡くすという身を引き裂かれるような経験もし、若い時はこれ以上ない程の辛苦を味わった。
一緒に暮らしたことで祖母への理解が深まった。物事の流れに身を任せ、それが良くも悪くも淡々と処理し、自分のペースを崩さない。大きく感情を揺さぶられ過ぎずに心がフラットなので、側にいると安心できた。そして、「おおきにぃ」「頼んどくわぇ」は私にも何度となくあり、最初は自分の立場を守る術と捉えていたが、「人のために生きてきた」からこその「人に助けてもらうこと」に対しての強い感謝の表れなのだと感じるようになった。その言葉を向けられた後は温かい気持ちが残ったからだ。また、別の一面もあった。暇さえあればリビングを車椅子で走り回り、体操をする。その真剣な様子に家族で室内を工夫し、応援し、いつの間にか祖母が家族の中心にいた。もちろんいいことばかりではない。介護は本当に大変だ。一番困難だったのは生活スタイルの差を埋めること。私はストレスがたまり大喧嘩になったこともある。滅入ることもあったが、そんな時は家族に助けられた。主人は帰宅後に嫌な顔一つせずサポートしてくれ、長女は食事からトイレのことまで何でもやってくれた。思春期の長男は、祖母にだけはゆっくりとよく通る優しい声でいつも接してくれ、祖母はそれが何よりも嬉しそうだった。そういう日常の繰り返しが子供たちの心の奥行きを作ったと思う。また、私が悩んでいた時には、「負けたらあかん」と険しい道を乗り越えた人ならではの力強い言葉で背中を押してくれた。
それからまた1年が経ち、祖母の介護度合が上がり施設に入ることになった。そこは同居中に利用していた場所で、多くの職員さんが本当のおばあちゃんと愛し、祖母に頬を寄せて、一緒に笑顔で過ごしてくださった。その温かさの中、祖母は静かに息を引き取った。その表情は本当に眠っているようで、死化粧を施した顔を見た田舎の親戚たちは、都会の人になったとその変化に驚いていた。とても96歳には見えない美貌で輝いていたのだ。祖母の最期の4年間はそれまでで一番楽しかったのではないだろうか。他の誰もしていない辛い経験を重ね、懸命に生きた人生の終わりが最高の幕となったことが本当に嬉しい。
祖母は根性があったから、子供のためだったから苦労を乗り越えることができたのだろうか?困難に決して負けない気高い魂の持ち主だったのではないかと私は考えている。それは生まれ持って備わったもの。私や私の子供たちは、自分にも同じものが流れていると信じ、何にも屈さずに大切に次の世代に引き継いでいかないといけない。
最後に祖父母のことをもう少し話したい。祖父は80歳の時に肺がんで入院した。私がお見舞いに尋ねると、祖父母がいつもと違う様子で話していた。祖父が「二人の子供を育てきれなかったことは全て自分のせいだ。本当にすまなかった」と心から詫びていたのだ。その言葉に、いつもは静かな祖母は大声で泣き、様々な思いを込めて壁を打ち叩いていた。それは、初めて二人が心を寄り添わせた場面だったのではないだろうか。二人の約60年のほとんどはバラバラだった。だが、祖母がその関係を諦めることなく努力し続けたから二人はそこに辿り着くことができた。私が長男を出産した3か月後に祖父は旅立つのだが、その短い間、祖父母は仲良くひ孫の世話をした。「目に入れても痛くないってほんまのことやった」と隣で眠る小さな命がどれだけ可愛いい存在なのかを私に無邪気に語る祖父、その横で微笑む祖母、その絵は幸せそのものだった。
おじいちゃん、おばあちゃん、一生懸命生きてくれて本当にありがとう。