
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.07.18Vol.64 マニュアル作成のマニュアル(三浦)
口下手もあいまって、説明することがいつまでも上手くならない。これまで一度で伝わった試しがなく、二度三度、質問してもらってようやく7割程度の伝達、といったところだろうか。一から十まで説明したつもりで三くらいなのかもしれないし、かえって十二くらいになってわかりづらいのかもしれない。「一度の指示で出来るとは思わないように」とはよく言うが、ここまで伝わりにくいのだとしたら、間違いなくこちらに非があるのではなかろうか。昔からそんなことを思いながらも、ずっとどうするべきかを放っておいてきた。しかし、そろそろそんなことを言っている場合ではなくなってきた。
以前にビジネス書で見かけた内容として、属人化を防ぐためだろうか、「自分の仕事を細かく手順ごとに分ける」とあった。今ぱらぱらと捲ったところ該当の内容が見つからなかったのだが、「自分にしか出来ない仕事と思っていても、実はそうではない。どのような仕事なのかを細かく分けて明文化しておくことで、誰にでも引き継ぐことができるし、誰が突然プロジェクトに配属されても即戦力になれる」というようなことだった気がする。もちろん私は、説明が苦手であれば、引継ぎもとても苦手である。
少し、なぜ苦手なのかというより下手なのかを考えてみる。まず、相手にとってどの順序で情報を伝えるのが最適かを考慮しきれていないのがひとつあるだろう。口頭では、文章のように急に段落の順序を変えることはできない。元々順番を組み立てて話すことが苦手なのだが、それがかなり悪影響を及ぼしているかもしれない。もうひとつ、「相手にはどのレベルの情報がすでに共有されているのか」がわかっていないこと。だから一から十二まで話すことになったり、一から三くらいになってしまったりして説明不足になるのだろう。
考えれば考えるほど難しい。例えば何かの作業について頼むとする。そのとき、目的から話すべきか、手順から話すべきか、そして手順の例外についてはどのレベルまで言うべきか、世の人々は毎回きちんと考えてから伝えているのだろうか? それとも、そのうちに自然にできてくるのだろうか。話しながら考えて、後からあれこれ足りなかったとテンパってしまう身としては、尊敬しきりである。
ここで少し前の話に戻るが、苦手だなあどうしようかなあと考えていたところ、先のビジネス書を思い出し、「マニュアル」を作るのが良い練習になるのではないかと思いついたのが、この話の発端だ。簡単な印刷などの業務を例に試しに作ってみようとしたのだが、案の定苦戦している。紙に手順を書き出した時には出来ている気がしたのだが、それをワードに起こしていると、「ここの説明は足りていないんじゃないか?」「初めて見た人がこれで完全にわかるか?」が増えていって、どんどん煩雑になっていく。必要最低限に絞ればいいのかそうではないのか、そこから悩んで止まらない。しかし、こうやって可視化すると、いかに自分が自分の中だけで確立していたやり方に頼っていたのか、それを痛感する。自分ひとりの暗黙の了解は人に通じるはずがない。その当たり前を、よく見落としてしまう。
さて。そういうことで、この夏はいろいろなことを一度マニュアル化することで練習していこうと思っているのだが、とはいえ、例えば志高塾での指導の仕方や生徒との関わり方をマニュアル化するとなると、やはりそれはなんだか違う気もする。いや、違うと断言できる。実際、私は他の講師に指導についてお願いするときに、「生徒によって違うんですけど」と口癖のように言う。もし私のこの指導のせいでワンパターンになってしまったらどうしようと思うからだ。人には杓子定規で対応するべきではない。それぞれ色々なところに課題があり、魅力がある。それは言葉にはしきれない部分にもしっかりとある。
そもそも、教育とは属人的な要素が強くて当然だ。誰に教わったかで考え方も学びの質も、あるいはもしかすると生き方すらも変わってしまうかもしれない。学生生活を思い返しても、思い出深い先生は授業内容ではなく細かな態度や所作、言動のほうが覚えているし、それが後々に影響を与えている。ああいった先生方には、やはりマニュアルなどはないのだろう。言葉にできないものをどう伝えるべきか、それもまたひとつの課題かもしれない。