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2024.01.23Vol.624 アピール失敗の話からの数字の話

 記念号である。算数の授業中に、「この数字見て何か思わんか?」と生徒たちに投げ掛けても、答えが返って来たためしがない。それもそのはず、彼らが私の誕生日が6月24日であることなど知る由もないからだ。中学生の頃だっただろうか、「今日、俺の誕生日やねん」と女子にアピールすると、「美空ひばりの命日と一緒やん」だけで終わったことがあった。「何でそんなこと知ってねん」となったのだが、今思えば、当日の朝のワイドショーか、前の晩に特集番組でも見ていたのであろう。算数において、624が答えになることが多い気がしているのだが、他の数字を意識していないので相対的にどうなのかは分からない。
 親御様から「くもんの算数ってどうですか?計算は早くなりますよね」というようなことを尋ねられることは少なくない。大抵は、「可もなく不可もなくです」と返す。早くなるのは間違いない。絵画教室に通えば以前より絵はうまくなるし、体操教室であればきれいに側転ができるぐらいにはなるであろう。それと同じである。ここで気を付けるべきことがいくつかある。まず、それによって失われる時間があること。体験授業に来られた2, 3年生ぐらいの親御様から「早く始めた方が良いですか?」と聞かれると、「進学塾の国語の授業を受けるのであれば、間違いなくうちです。ただ、外で遊ぶのと比べるとどちらが良いかは分かりません。」というような返答をする。その子が、他に習い事をどれぐらいしているのか、その中で勉強系のものがどれぐらい占めているかによっても勧め方は変わってくる。「すぐに始めることで他のお子さんより先んじることができます」、「お子さんのできからすると、今からやっても遅いぐらいです」と、その気にさせたり脅したりだけはしないように気を付けている。次に、そこで得られた計算力にどれだけの価値があるかということ。計算が少しできるになった代わりに、計算=算数だと思うようになってしまえば本末転倒である。「文章題は好きだけど、計算は苦手」という子と「計算は得意だけど、文章題は嫌い」という子のどちらの方が伸びるかは明らかである。また、計算力を付けるのに他の方法は無いかのか、ということも考えておかなければならない。そろばんに代表されるように代替手段があることは明らかなので、「もっと効果的な方法が他に無いのか?」という問いが適切である。一番良いのは、算数の文章題などを解いていく中で身に付けて行くことである。それで不十分であったときに、計算問題で補強して行くというイメージである。計算力自体もそうなのだが、それと同等、もしくはそれ以上に大事なことがある。たとえば、0.7×0.6の答えを4.2としていたとき、「明らかにおかしいけど、なんでか分かる?」と質問することがある。「0.7に1より小さい0.6を掛けたら、0.7より小さくならないといけないから」というのが正解である。これを単に「小数点の移動のさせ方のミス」だけで終わらせると、いつまで経っても感覚は磨かれて行かない。その他、速さの問題を解いている生徒に「『駅から徒歩何分』という表示を見かけたことがあると思うけどけど、『1分当たり何メートルで計算しているか知ってる?』」と聞くことがある。正解は80メートルである。それが分かっていれば、もし算数の問題で歩く速さ20メートルと出て来たときには「おかしいかも?」とならなければならない。ちなみに、受験でそんな問題を出す学校は非常識である。当の私はくもんに1年生の終わりから約3年間通った。それは、毎日のように一緒に野球やサッカー、探偵などをして遊んでいた2学年上の子が習っていたので、「その時間遊べないなら」ということで付いて行ったことがきっかけである。その前から計算はできていたので、わざわざ通わなくても正確性も速さも大して変わらなかった気がしている。単純作業なので面白くなかった。それもあって、3人の息子たちは誰一人として通わせていない。
 計算の話で言えば、父に教えてもらった車のナンバーの4桁の数字を使って、10を作る遊びをよくやっていた。たとえば、「38-22」であれば、「3+8-2÷2」、「8×2-3×2」、「3×2+8÷2」などが考えられる。「38-22」は適当に出したものだが意外とパターンがあった。できても1つしかないものも多く、まったくできないものもある。並んだ数字を見た瞬間に、何となくできるかできないかという判断ができるのもまた感覚である。それ以外には、デジタル時計を使ってのものがある。サンテレビで放映があるときは、開始から阪神の試合を見ていた。少なくとも私が2年生のときは我が家のテレビにはリモコンが無かった。CMはもちろんのこと、野球は間の時間が長い。テレビのところまで行ってチャンネルを変えるのも面倒だし、その間やることもないので、テレビの上の時計を見ながら計算をしていた。「7:52」であれば、52を7で割ったら余りが3で、4分後にはちょうど割り切れるな、ということであったり、何の数字で割れるか(何の倍数か)を探したりしていた。その当時、私が読書の楽しさを知っていたら、本を読みながら、チャンスやピンチの時だけテレビの方に目をやり、投球と投球の間には計算をするみたいになっていたかもしれない。そうすれば、もっと優秀な人間になっていたはずだ、きっと。
 自分の誕生日と関わる数字には、多くの人が愛着を持っているのではないだろうか。私の場合は、並び替えたら2, 4, 6と等差数列になり、24は6の倍数で、2+4=6となるので、良い数字だなぁ、と昔から思っていた。高校入学後、最初の数学の授業で、先生が確か美しい数字の話をしてくださった。どういう話であったかは忘れてしまったが、勉強とは別に、上のように自分がやっていた数字の遊びを褒められた気がして、何だか嬉しかったのを覚えている。そして、授業もやはり面白かった。自分が好きだったその先生に認められたくて数学の勉強を頑張った。先生とは、そういう存在であるべきなのであろう。

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