
2024.11.15Vol.40 「できる」の限界(三浦)
エスカレーターの正しい乗り方は、アナウンスでも流れているように「二列に並んで立ち止まって」乗ることだ。だが、それを守っている人はそういない。「関東は左に立ち、関西は右に立つ」という地域差すら有名になってしまうほどに、皆、歩く列と立ち止まる列に分かれることが当然のようになってしまっている。
随分前にテレビで見かけたのだが、歩く列と立ち止まる列に分かれるよりも、二列で立ち止まって乗った方が、全員が移動し終わるまでにかかる時間は短いそうだ。だが、理屈の上ではわかっていても、それを実行するのは難しい。自分ひとりの問題ではなく、周囲へ強制することもセットになってしまうからだ。例え立ち止まる気が満々だったとしても、後ろの人からの視線を感じると竦んでしまうのではないだろうか。私は実際にそうだ。何度も「これは立ち止まるのが正しい乗り方なんだ」と自分に言い聞かせても、左側の人波に流されるまま歩いて降りていってしまう。その途中で立ち止まれたことはない。
ずっとそれが引っかかっていたのだが、以前ふと、名古屋で取り組みをしているという情報を耳にした。エスカレーターの片側に、立ち止まるように促す大きなマークを背負った人が乗っている画像を見かけたことがきっかけだ。改めて調べてみると、名古屋ではエスカレーターを歩くことを禁止する条例が去年から施行されており、その取り組みの一環である「なごやか立ち止まり隊」の働きのようだ。それを見たとき、なんだかとても腑に落ちたことを覚えている。結局のところ、自分が立ち止まれないのは「ひとり」かつ「個人」だからだ。重複しているようだが少し違う。単独ではなく複数人で行えば反感を買ってトラブルに巻き込まれる可能性も減るだろうし、それが公的な機関による活動の一環であるのなら尚更だ。
https://www.city.nagoya.jp/sportsshimin/page/0000162248.html
上記のような物理的なものだけでなく、AIによって音声を流すという取り組みもあるようだ。自動で流れ続けるアナウンスとは違って、センサーによって歩いている人を検知した場合にのみ、立ち止まるように指示をするのだそうだ。もちろんAIなので人ではないことは百も承知で(聞いているだけではわからないのかもしれない)、けれども、そうやってリアルタイムで対応をされることで、より明らかに「自分に言われている」と感じられるのだろう。
https://www.nhk.or.jp/nagoya/lreport/article/006/15/
他にも、そもそも立ち止まれないように一人分の幅にするとか、色々な対策が見込めるだろう。けれどもそれらは結局のところ、「自分」だけでは変えられないものだ。教室では『資料読解』という、時事問題に関するグラフを読み解き問いに答える教材があるのだが、現在は全体的な教材自体の見直しを行っているところだ。現代社会に合わせたアップデートをかけることはもちろん、「自分に出来ること」を考えて終わらないようにすることを意識している。
以前までの教材では、エネルギー問題や地球温暖化などについて、まず自分にも取り組めることを考えるように促していた。それが無意味だとは全く思わないし、規模の大きな話を「自分」に落とし込むには必要ではある。しかし、規模の大きな話は「自分」ひとりの力で変えることはできない。どれだけ一人が節電しようが世界に大きな影響は与えられないのが現実だし、「だからみんなに節電を呼びかける」というのもいささか現実的ではない。仮に一時的には効果があったとしても、続くとは思えない。もちろん、だからといって自分ではどうしようもないからと諦めてしまうのは本末転倒なので、バランスの取りどころである。
だからこそ、そもそもの仕組みや背景を知る、それをしっかり落とし込むことを主軸として切り替えていくことにした。そして、自分という枠にとらわれずに、けれども他人事として済ませずに、「こうしたらいいのではないか」と色々と考えられるようになってほしいという願いを込めている。
2024.11.09vol.39 経験の使い方(竹内)
まず初めに、この文章をご覧になっている皆様へ。更新の遅れや順番の変更といった不誠実が続き、申し訳ございません。そのうえで、今回のものに関しても日を跨いでの更新となってしまっていること、重ねてお詫び申し上げます。この「志同く」は、志高塾がどのような教室であるか、そこで授業をしている講師がどのような者であるか、それらを知っていただくための一つの場所です。そしてそれは予定通りの金曜日にお届けするからこそ、正しく伝わるものになります。そのことを胸に刻み、一つひとつを積み上げてまいります。
休日にぼちぼちと車の運転を練習している。死角が存在することを認識し、周辺への注意を常に払いながら、近くにも遠くにも目を向ける。こんなのは熟練ドライバーの方からすればもはや体に染みついているレベルのことであろう。人に乗せてもらうときにはただただ気楽に座っているだけだったが、運転する側の目の動きがどれだけ忙しいかを毎回実感している。長距離運転をすることによる疲れや、横断歩道のないところで急に渡ってくる歩行者の恐怖など、これまでもずっと想像できていたとは思うが、「実感」との間には隔たりがあったと気付かされる。時間は有限で、何でもかんでも経験できるわけではないし、ということは全てを「分かる」ことはやはり難しいのだが、でもだからこそ、できる経験はすべきだという考えに至っている。また、想像と実感とに隔たりがあるということは、前者の力をいかに豊かにしていくかが肝要であるということでもある。
少し違う方向に話が転がりそうだったので早めに戻す。免許を取得した時点では、「家族に緊急事態が発生した時に、近くにいる自分がすぐに動けるように」というそれはそれは殊勝な思いを持っていた。が、家の状況もやや変わり、私がいち早く出張る必要もなくなった。そんなわけで、練習が目的ではなくて別の理由で実家に帰ることがあった時についでに乗っておくか、という向き合い方になってしまっている。目標を見失っているのだ。実際に、合宿所で仲良くなった女性は、駅からやや離れたところが新しい転職先になったこともあり、スムーズな通勤が可能になるようにほぼ毎日練習していたそうだ。朝の時間帯は混雑もするので、日々鍛えられているはずである。一方の自分は現時点で機会が少ないうえに、不慣れであるゆえの操作のぎこちなさも残っているので、やる気よりも「事故でもしたらどうしよう」の不安の方が上回っていってしまう。それを乗り越えるためには、「でも、こうならないといけないんだ」を自分の中に持つしかない。私の場合のそれは「自分の運転で姪っ子と甥っ子を須磨のシーワールドに連れていく」になる。
まだすべての親御様とのそれを終えたわけではないが、今回の面談では、よく「より先」のことを話した。特に中学受験や高校受験において、志望校に合格することと共に、入学後の生活を充実させることもその子にとって欠かせないことである。ある6年生の男の子は、AとBの2校のうち、その時点での成績ではBは十分に狙えるがAはまだ不透明という状況だったため、Bを第一志望に据えるかという話が一旦出た。しかし、Aを一緒に目指している友人たちの個性が豊かで面白い=そういう子たちがより多く集まるところに進みたいという強い意志のもと、Aを第一志望として走り切ることになった。
この春から通塾を開始した中3の女の子がいる。バレーボール部に所属しており、7月末に引退するまでは練習や試合の都合で授業を変更することがそれなりにあった。今回の面談は体験授業ぶりにお母様とお話しする機会となり、彼女について色々なことを教えていただけた。特に印象的だったのは、中学でレギュラーメンバーではなかったものの、希望する高校に入学後もバレーを続けたいという意欲を持っていることである。夏休み中の授業時に引退式が行われることを楽しそうに話していたこともあり、中心に立ってやり切ったという達成感があったのだろうという先入観を持ってしまっていた。試合に出られないことが多いと面白くないので、高校では違う部活にしよう、となることはきっと珍しくないはずである。
しかし、私自身、中学でソフトボール部に所属しており、高校に進学してからもそれを続けた。めちゃくちゃへたくそだったので、中学の間は何もできなかった。振ってしまうとバットにボールがかすらないのでバントするのだが、見切るのが早くてそれも空振り。監督はさぞかし困っただろう。でも、高校ではもう少しできる気がした。実際に、やっとこなした数が見合ってきたのか長打を含むヒットが出るようになって、試合に出られることが増えた。だから、彼女のその選択は、ある時に「こういうことか」になる瞬間を生み出す布石になるかもしれない。そんな思いを込めて、自分の話をした。
なお、優良ドライバーになるためにまだまだ数が必要なことは、感覚ですでに分かる。
2024.11.01Vol.38 自分の形は削らない(徳野)
先日、新聞からふいに顔を上げた父が「『とうい』の反対が『存在』なの?」と尋ねてきた。しかし、私は「とうい」が何のことか分からなかったので、恥ずかしながら逆に教えてもらう運びとなった。
漢字に直すと「当為」となる。漢文風にすると「当(まさ)に為すべし」であり、「なすべきこと、あるべきこと」という意味の哲学用語だ。一方で、「存在」はほぼそのまま「あること」なのに加え、「あらざるをえないこと」を指す「自然必然性」の概念も「当為」の対義語である。より分かりやすくまとめると、世の中には「理想主義」対「現実主義」という構造があるということだ。それだけだったら至極当たり前のことを小難しく説明しているだけなのだが、父が興味を持った新聞コラムによると、石破茂首相の政治観を一言で表すと「当為」らしい。例えば、今年の自由民主党総裁選において論点になっていた衆議院解散の時期について、当時の石破氏は「自民党の都合だけで勝手に決めてはいけない。政治情勢をあわせて考えないと『今すぐやります』という話にはならない」と正論を述べながら慎重な姿勢を見せていた。また、「野党との討論を踏まえて国民の皆様に選挙で判断していただくべきだから」というのも理由として挙げていた。その頃は非主流派だからこそ派閥問題で揺れる党に刷新感をもたらすことを期待されていた。ちなみに、対極の「存在」を体現しているのは、今は亡き安倍晋三氏とのことだ。実際の文章を読まずに関西に戻ったものの、その鮮やかな対比関係に思わず唸ってしまった。
さて、10月1日付で内閣総理大臣に就任した石破氏だが、さっそく「存在」と「自然必然性」に苦しめられているような印象を受ける。求心力の弱さを不安視する声は常に上がっており、長年の悲願を達成したとしても党内融和のために総裁選での主張をひっくり返すような決断をせざるをえない事態を予想していた人は以前からいたはずだ。しかしながら、あまりにもタイミングが早すぎた。それが地位を得ることの条件だったのではないかと疑ってしまうスピード感で解散を決行し、総裁選で(いちおう)争点の1つになっていた政策活動費の扱いについても優柔不断に対応したことは、今回の選挙結果に少なからぬ影響を与えたに違いない。そして何より、「裏切り者」と呼ばれても仕方ないほどの方針転換をしたにも関わらず、組織内での評価が悪化の一途を辿っている現状に哀愁を感じる。ご本人は周囲に「選挙が終わったら自分がやりたいようにする」と漏らしていた、という噂をネットニュースで見かけたが、本心では「変わりたくないのに変わらざるをえない」という心境なのだろうか。
現首相が直面している苦境に関する報道に触れているうちに、ふと蘇ってきたのが三島由紀夫の代表作『金閣寺』内の一場面だ。主人公である修行僧の溝口とその数少ない友人である柏木が決別する様を描いているのだが、前者は吃音、後者は内反足(足の先天的な形態異常のこと)という風に症状こそ違えど、ふたりとも障害を抱えながら生きてきた大学生である。だが、両者の価値観は真逆と言ってもいい。
溝口は円滑なコミュニケーションが困難なせいで嘲笑を受け続けるうちに、他者、特に異性との接触を恐れる若者に育った。もうひとりの友人である鶴川の健全な心身に憧れつつ、彼の鈍感さ単純さを密かに軽蔑することで精神の安定を保っている節がある。一方で、自分だけの世界に閉じこもりながらも孤独感に苦しみ、誰かに理解してもらいたいという悲痛な願いも根底に抱えている。そんな彼にとって金閣寺は完璧な「美」の具現化であると同時に、醜い自身の劣等感を刺激してくる両面的な存在だった。そして、溝口は次のような結論に至る。「自分を魅了し苦悩させる金閣を燃やすという『行為』によって、これまでの人生から解放されるのではないだろうか」。
そんな中で、鶴川は恋愛での絶望感をきっかけに自ら命を絶ち、彼の遺書を柏木が溝口に手渡しに来た。溝口の目には鶴川が明朗で前途洋々たる美青年としか映っていなかったため、その唐突な死は動揺をもたらした。そして、衝撃を受けている溝口を前に柏木は口火を切った。
柏木:「俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。」
溝口:「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない。」
現実的には「認識」と「行為」は綺麗な二項対立に落とし込めるようなものではないだろうが、上記のやり取りからは、困難にぶつかった時に「まず自分が変わるか、もしくは他者(そこには人間に限らず、物質や環境も含まれている)を変えようとするか」という命題が浮かび上がってくる。しかしながら、後者の立場を取る溝口が破滅的な末路を辿ったことを考えると、やはり柏木の方に軍配を上げざるをえないだろう。高い知性を持つ柏木は自らのハンディキャップを、他者の同情心を刺激する「道具」として扱い、社会的地位も気位も高い女性を手玉に取ることまでやってのける。女性関係に奔放な分、人脈は広く文化的な素養も持ち合わせており、嫌味に満ちた言動を繰り返しながらも社交的な印象も与える。全く褒められた人物ではないのだが、身近な人間を冷静に観察し、何より自分自身のコンプレックスに対する捉え方を転換させることで生き方を確立してきた。だから、自分と似た境遇の溝口に鶴川の実情を知らせることを通して「視野を広げて自己憐憫をやめろ」と真剣に諭したのだ。だが、柏木の大上段に構えたような物言いは反発心を招き、溝口の凶行を止めるには至らなかったのだが。
「自分らしさ」と「集団・社会の論理」の間で葛藤する時、泣いたり暴れたりするなどの破壊的な「行為」によって都合の良い状況を作り出そうとする子どもは少なくないが、年齢を重ねるにつれ通用しなくなることを本人も学んでいく。そして、ある程度成熟してくると、今度は組織に迎合するか否かの選択を己に迫るようになり、集団内の常識と足並みを揃えようとすることを「認識」の変化とみなすこともできるかもしれない。ただ、石破首相の現状を見るに、周囲に合わせて行動するだけで事が必ず上手く運ぶわけではない。まず必要なのは、今の自分を悩ませている「思い込み」に気づくことではないだろうか。それは、『金閣寺』の柏木にとっての「内反足があっては女性と交流できない」という諦念であり、石破氏にとっての「自分自身の方針では自民党に十分な利益をもたらせない」という自虐感情である。しかしながら、その時々の情勢や周囲にいる人々の心情を分析してみる中で、負の要素だとばかり思っていた自分の特性を「武器」にする可能性を発見することもあるのだ。それこそが、本当の意味で「認識」が世界を変貌させる瞬間なのだろう。
2024.10.25社員のおすすめビジネス書⑬
徳野のおすすめビジネス書
『「静かな人」の戦略書 ― 騒がしすぎるこの世で内向型が静かな力を発揮する法』ジル・チャン
「英語が母国語では無い台湾人ながらもミネソタ大学を卒業後、ハーバード大学でリーダーシッププログラムを修了し、メジャーリーグやアメリカ州政府など多彩な分野でマネジメントを経験。」
上記は本作の著者の経歴である。そこからイメージされるのは、アジアとアメリカを股にかけるパワフルで外交的なエリートかもしれない。だが、実際の本人は、性格診断のMBTIを受ければ「内向型志向」の割合が96%という結果が出るほどの、根っからの引っ込み思案な女性である。(エリートであることに変わりはないが)どれだけキャリアを積んでも、仕事の関係者が集まるパーティーやプレゼンテーションの日が迫ってくると憂鬱な気分に襲われるという。しかし、彼女が、一般的には外向型の人材に適しているとみなされる「交渉」と「経営管理」の領域で信頼を得たのは、自身の性分を受け入れ長所を生かしてきたからである。具体的には、大勢の人に向けたスピーチに臨む前には何度も自主練習を重ね、取引先とのやり取りの際はまずは聞き役の立場に徹して相手の要望を丁寧に汲み取ってきた。特に欧米人が多く集まる環境では、内向型だからこその勤勉や謙虚が重宝される。
活発なコミュニケーションに苦手意識がある人材は、事務やアシスタントのようないわゆる「裏方」の業務を任されやすいし、本人もその立ち位置に安心感を覚える。一方で、自他ともに「地味なことしかできない」というレッテルを貼ってしまうがゆえに、人事評価に対してフラストレーションも抱えている場合も少なくない。しかし、だからといって自身を無理やり目立つポジションに立たせるのは賢明ではない。大事なのは今の自分が得意なこと、周囲から求められていることにおいて最大限の成果を出すことである。それこそ数値化できるような堅実な仕事ぶりで組織に貢献すれば、自ずとキャリアは充実していく。
三浦のおすすめビジネス書
『池上彰の行動経済学入門』池上彰
AmazonのPrime readingで本を探すことが続いている。今回もそうで、もともと行動経済学に興味もあったので選んでみた。
「行動経済学」というと、どうしてもそれを利用してどのように商品を売るか、サービスを広めるか、といった商売のイメージが先行する。だから自分が実際に活用する機会はないと漠然と思っていたのだが、消費者の立場として知識をつけておくことも重要だと感じた。行動経済学では、人間を合理的なモデルとして捉えるのをやめ、「人間はいつも損得や確率を正しく見極められるわけではなく、利己的とも限らない」というポイントを基軸にしている。日に幾度も行う意思決定のコストを減らすために、人は自分で考えているよりも直感的な選択を行っており、そこには得をするよりも損を避けることを優先する思考や、自分にとって都合のいいものだけを考慮するバイアスが働いている。まず、「自分はそうやって選択している」と気づくだけでも、重要な選択を行う際に冷静になれるのではないだろうか。
また、興味深かったのはナッジ、つまり強制ではなくあくまで「自由」の中で相手の意思決定を操作する、というものだ。完全に禁煙にしてしまうのではなく、喫煙できる場所を減らすなどの「不自由」を増やすことで、あくまでも当人の判断で禁煙を選ぶように誘導する、というものである。これに関しても、案外身近にありそうなものだ。そういった点で、身の回りのものに対する見方は広がった気がする。
竹内のおすすめビジネス書
『武器としての決断思考』瀧本哲史
ちょうど今回の内部生向けに配布している「志高く」でも取り上げられていた、瀧本哲史氏の著作の一つである。出版は2011年9月。もう10年以上前の本だが、今の時代だからこそ一層、ここで述べられていることを自分の「武器」にすべきである。
東日本大震災の時、新宿にいた筆者はタクシー待ちの人々が約500人、長蛇の列を作っているのを見かけた。電車が動かないときにはタクシーを使えばいい、待っていれば必ず来る、今までを信じてただ受け身でいることに筆者は異を唱えている。どうしても帰らなければいけないのなら、相乗りするのも一つ、どうにか近くの民家まで歩いて自転車を借りられないか交渉するのも一つ、自分で判断できなければ緊急時を脱することができなくなってしまう。知識と判断と行動は結びついていなければいけない。「500人も並んでたら1時間どころではない」とか「そういえばこの先は住宅街だな」とか、知っていることがあった時、「じゃあこうすればいいか」と思えるかどうか、肝心である。
自分で判断を下すための思考法の訓練として、ディベートのプロセスが挙げられている。一つの題に対して賛成派はそのメリット、反対派はそのデメリットを主張することになるが、「正しい主張」とは「反論に耐えうる根拠」を持っているかどうかにかかっている。これは私自身、生徒たちの意見作文を添削していることを思い返してみて実感がある。「なんでそう言えるの?」を投げ続けることが根拠を強固なものにしていくのだ。議論において一つの結論を導き出すためにもそのように突き詰めていくことは必要だし、それを自問自答できる人は絶対に強い。
ぜひ、思考の練習に本書を使ってみてほしい。
2024.10.20vol.37 共有スペース(物理的、心理的)(竹内)
9月くらいからベランダの柵のガラス部分に白くて小さな虫がへばりついていた。午前中、洗濯物を干す時に見つけ、でも物干し竿の位置からして服には当たらないからいいか、などと考えて放っていた。夕方に取り込むとまだ同じところに止まったままだ。直接は触りたくないのでガラスを叩いて揺らしてみても微動だにしない。なんなんだこれは、と気になりながらも部屋に戻って服を畳んでいる間にそのことは頭の片隅に追いやられていく。洗濯のたびに思い出しては忘れを繰り返していたのだが、初めは1匹だったのがよく見れば3匹、4匹、今はもっと増えているのでさすがにちょっと気持ち悪くなってきた。そろそろ疑問を解消せねばということで、「ベランダ 白い虫」で検索をかけてみた。Googleがまず持ってきたのは「チャタテムシ」だったが、これは画像と見比べても違うのが明らかだった。また一般家庭ではベランダのような屋外よりも屋内で見られることが多いそうなので、やはりこれではない。そこでワードに「ガラス」と付け足してみたところ、Yahoo!知恵袋のページがヒットした。「ベランダのサッシ回りや窓ガラスについている」「細くて白くて体長1センチ程度」「死んでいるのか生きているのかさえ分からない」といった特徴は、まさに私が見ていたものと同じである。これらから導き出された回答はというと、カゲロウの「抜け殻」であった。どうりでいつ見ても同じところにいるわけだ。
大人になってすっかり虫は苦手になってしまったが、きっとたくさんいるはずの同じような方々に、せっかくなので簡単に説明する。チョウやハチのように蛹の状態を経て成虫になるのは完全変態、そうではなく脱皮によって成虫になるのは不完全変態と分けられる。例えばセミは後者に分類される。言われてみれば確かに「サナギの抜け殻」ではなくて「セミの抜け殻」と呼んでいる。私の部屋のベランダに現れたカゲロウという生き物は少し特殊で、水辺で卵が孵化したのち、幼虫と成虫との間に「亜成虫」という期間がある。その時点で成虫に近い形状になっており、羽が生えているため短い距離であれば飛行することができる。今の家から300メートルほどのところに猪名川が流れているので、どうやら彼らはそこからやってきたようだ。近いとはいえ、部屋は7階にあるので、決して力強くはない羽根で、結構な高さのところまで飛んできていることになる。カゲロウの成虫は、短いものの例えとしてその名が使われるほどに儚い命で、数日、種類によっては2時間くらいで死んでしまう。子孫を残すことに適応した体になっているため、口や消化器官が発達していないといわれている。川に長居すると魚や鳥に狙われてしまうので、亜成虫となってひとまずその場を離れ、準備を整えてまたどこかの水辺へと戻っていくのだろうか。うちのベランダまでやってくることができた時点で、生存競争の分岐点を勝ち抜いてきた証だと言える。そう思うと、もう中身がいないことは分かっているので手で払い落とす心理的負担は小さいものの、ちょっとだけ忍びない。よく分からないものに対しては恐怖を抱いてしまいがちだが、解像度が上がると心の壁は少し薄くなる。
ここからきれいに文章をまとめていくなら、子どもの成長と亜成虫とを絡めていくことになるのだろう。しかし、虫が好きではないためにそれらを結び付けることに何となくの抵抗感がある。でも、「一皮剥ける」は脱皮することから来ているし、蛹からかえって劇的な変身を遂げるチョウの姿は人間の成長のたとえにも使われる。そういえば、卵の殻を割って雛が顔を出すことも、新しい自分の誕生と重ねられる。虫が嫌なら、洗濯中ではなく料理中の出来事から考えを広げた方が良かっただろうか。
先日第2回の『beforeとafterの間』を終えたが、その名称を分解してみると「after」はこれからの展望を指している。これは分かりやすいし、実際に1回目と2回目で共通している。一方で、「before」と「間」が意味するものにはやや違いがある。初回にスピーカーになってくれた彼の場合は、「before」には志高塾に通っていた頃、「間」にはまさに「今」を当てはめるのが適切である。「卒業するまでの期間」とくくることができるくらいに、常に主体性のある取り組みができているのを見ていた。それが毎回の密度の濃さにもつながっていた。対して、今回の彼女の場合は「before」とは意識の変化が起こる前、「間」とはそれ以降から今に至るまで、ということになるだろう。内面的な部分が変わったからこそ今の学生生活が充実しているのであり、そのような変化は大学に進学したから、というだけで生まれるものではない。単に時間的な区切りでそうなるのではなくて、精神的な成長によって初めて「before」と「間」の境界線ができたのだ。志高塾の大きな強みは色々な子がいることである。自分ですっと線を引けてしまう子もいれば、それができるように我々が導いてあげることが必要な子もいる。ぐいぐい引っ張ってあげるべき子がいれば、そっと背中を押してあげるべき子もいる。すぐでなくとも、子どもたちが振り返ることのできるbeforeを作ってあげたいし、子どもたち自身が「ここで変われた」と感じられる場所でありたい。ちょうど、カゲロウたちの羽化を支えた我が家のガラス板のように。
2024.10.18Vol.36 いつか振り返るまで(三浦)
すっかりオリンピックにまつわる話を聞かなくなった。塾では佐藤雅彦氏の著作である『毎月新聞』を読んだ上で行う作文教材があるのだが、この『毎月新聞』の中で、話題のタイミングについて書いている内容があった。紅白の話題は年末年始には盛り上がるが、それを少し過ぎると「その話、今じゃないよね」という時期になり、しかしそれを越えるとまた「あれは良かったよね」と振り返る時期になる、というものである。私の説明では不足しているので、またぜひ元の本にあたってほしい。つまるところ言いたいのは、タイミングを外した今だからこそ、じっくりとオリンピックについて考えられるのではないか、ということだ。
開催当時に種目外でよく耳にしていた話題に、選手村の食事や環境のことが挙げられるだろう。批判的なものがほとんどだったので偏っているかもしれないが、食事は野菜がベースで、環境としてはやはりエアコンの設置がなかったことがすぐに思い出される。今になってようやく調べてみると、プラントベースの食事は栄養が偏るわけではないとか、そもそも欧州ではエアコンは一般的ではないとか、地熱冷却システムが外気より6~10度ほど温度を下げてくれる仕組みになっていたとか、そういった内容もちらほらと見える。今回のパリオリンピックは持続可能な社会を目指すための工夫が、そして実験が凝らされていた。その工夫は、快適で便利な生活とは共存し得ないものなのかもしれないが、これからの世で必要となるのは間違いない。まあ、一般市民が生活できるかどうかと、アスリートが最高のコンディションを保てるかという話はまたそれぞれ別なのだろうが。
結果、先進国はエアコンを注文したり自国から持ち込んだり、外部の宿泊施設を利用したり、そして食事に関しても自国からシェフを連れて行ったりといった対策を行うことになった。そう、「先進国」は、そんな工夫ができる。だが、そんな余裕のない国は? 記事を見るに、希望すれば選手村から貸与されるとあったが、果たしてそうだったのだろうか。窓を開けて対策をした話のほうがよく耳にした気がする。
https://www.cnn.co.jp/style/architecture/35220836.html
それから私の中でずっと渦巻いているのは、「エコ」と「平等」は相反するのでは、ということである。エコのために何かを削ったとき、そのしわ寄せは平等にはならない。当然のことではあるものの、目をそらしていたいことでもある。
そもそもスポーツそれ自体、ユニフォームや国の支援や環境など、様々な面でスタートが横並びではない。それでも、オリンピックという土俵に立った以上は、平等であってほしいと思うのも確かだ。
少し話は違うかもしれないし、聞きかじったことではあるが、被災地では緊急を要するからこそ、「いらないもの」を考えるコストを減らし、とにかく「必要になりそうなもの」を送り続けることを優先するのだそうだ。場所ごとの偏りを考慮して調整する手間を取るよりも、オーバーしたとしてもまとめて対応した方が合理的なことには間違いない。優先順位は、「足りない」ことをなくすことが最優先なのだから。
しかし、それができるのは資源が十分だからに他ならない。もっと切迫した状況であれば、必要なものを必要なだけ、という対策をするのは当然だ。例えそれが、時間的にコストのかかることだったとしても。そしてその結果、優先順位をつけざるを得なくなっても。そして資源が不十分だったとき、上記のように分配する仕組みではないのだとしたら、それはもちろん「力のある」方が手に入れることは明らかである。
ところで、スポーツウォッシングという言葉がある。政治的、国際的に不祥事があっても、スポーツの熱狂により洗い流してしまおう、というものである。スポーツウォッシングといえば、この一連の記事は読み応えがあった。特にかつてのベルリンオリンピックをナチス政権が成功させ(てしまっ)た例は、当時のニューヨークタイムズの記事も相まって、なるほどと思わされる。
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/cc/%e3%82%b9%e3%83%9d%e3%83%bc%e3%83%84%e3%82%a6%e3%82%a9%e3%83%83%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%82%b0
今回、終わってみて振り返ったとき、オリンピックは大成功だというパリ市民は少なくないという報道を耳にした。開催前はパリを脱出する市民も多く、そのせいで飲食店などは打撃を受けたそうだったが、今はどうなのだろうか。やはり、良かったものだと振り返る人が多いのだろうか? あるいは、その報道自体が「洗濯」されたものなのだろうか?
なんとなく、ずっともやもやを抱えている。世間から話題が去っていくまでずっと抱えていても、そうして冷静に振り返ってみようとしても、文章にうまく起こせるとは限らない。もっともやもやを抱え続けていれば、いつかこの時期を乗り越えて、はっとするタイミングが訪れるのかもしれない。いつかリベンジしたいテーマだ。








