
2018.09.11Vol.366 一に自分、二に自分
来週は、教室が1週間休みをいただくのに伴って『志高く』もお休みです。
才能を磨かず、才能を育てずして、注文のままに書きつづけていると、けっして卵や雛以上には成長せず、時間の問題で朽ち果ててしまうのは自明の理である。よしんば感性の低い多くの読者に支えられて作家生命を少しばかり長らえさせることができたとしても、結局は初期の作品を超えられないばかりか、ただ単に職業としての寿命が延びたというだけの価値しか認めるものがない、とても残念な文筆生活に堕してしまう。
羽ばたける成鳥になるまで才能を育て得るのは、編集者でもなければ、読者でもなく、ましてや評論家でもない。書き手自身が目覚め、没頭と継続というひたむきな歳月を本気で送ろうとしない限りは、まずもって不可能だろう。そうするには、おのれの実力を他人の評価によって判断するのではなく、あくまで当人の眼力によって正確に冷静に把握することが肝心。その上で、少し無理をすれば手が届きそうな高さに次の作品の目標を設定し、そこへ肉薄するためのより具体的な計画を立て、果敢に挑んでゆく習慣をしっかりと身に付けなくてはならない。
大学受験用のテキストに載っていた丸山健二『尽きない文学の天空』からの引用である。
豊かな感性を持った親にこそ興味を持っていただきたいと願い、それに関しては、開校前の予想をはるかに超えたレベルにある。生徒が増えないときも、そういう親御様に支えられているということが自分の背中を押してくれた。一方で、冷静かどうかは分からないが、常に「自分は本当に価値あるものを提供しようとしているのだろうか?提供できているのだろうか?」という自問を繰り返してきた。生徒が増えている今、その頻度は増している。その問いに胸を張って「提供できている」と答えられたことはない。そう答えられるようにするために、どうすべきかを考えて来たし、これからも考え続けていく。
もう1つ引用を。米澤穂信の『王とサーカス』から。小説ゆえ、簡単に概要を説明する。
新聞社を辞めたばかりの太刀洗万智(たちあらいまち)が、海外旅行特集の仕事でネパールを訪れていた際、偶然にも王宮で国王を始めるとする王族殺害事件が勃発する。以下は、そのスクープ記事を書くために、国王を守るべき立場にあった軍隊所属のラジェスワル准尉に極秘で接触している場面でのやり取りである。
「わたしは……わたしはこの仕事を信じています。それは裏切れない」
その言葉を聞き、准尉の声はたちどころに冷厳なものへと戻った。
「それがお前の信念か」
「確かに信念を持つ者は美しい。信じた道に殉じる者の生き方は凄みを帯びる。だが泥棒には泥棒の信念が、詐欺師には詐欺師の信念がある。信念を持つこととそれが正しいことの間には関係がない。」
わたしはまた、自らを恥じなくてはならなかった。その通りだ。信念を持ち、自らの信条が正しいと思うからこそ吐かれる嘘は、わたしは何度も聞いてきたはずだったのに。
「お前の信念の中身はなんだ。お前が真実を伝えるものだというのなら、なんのために伝えようとしているのか教えてくれ」
ナラヤンヒティ王宮事件の報道ではBBCが一歩先んじた。日本の新聞社も既に現地入りしている。わたしは現地にいたという有利な立場にありながら後れを取ることに、本能的な危機感を覚えている。ラジェスワルという最有力の情報源に接する機会を持ち、最高の記事を書けるかもしれない期待に昂奮している。
それが自分の信念の、プロフェッショナリズムの中身なのか。
わたしはこれまで、なぜ伝えるのかを深くは考えずにいた。あえて、そうしてきたのだ。考えるよりも先に手を、足を動かすことがプロだと信じていた。けれどいま、問われた。考えるよりも先にすべきことがあるという理由で、考えていなかったことを問われている。
いま言える言葉は、一つしか思い当たらなかった。
「……わたしはここにいるからです。黙って傍観することは許されません。伝える仕事をしているのだから、伝えなければならない」
すぐに厳しい声が飛ぶ。
「誰が許さないというのだ。神か?」
神ではない。月刊深層編集部でもない。別の理由があるはずだ。あるはずなのに、それを見出すことができない。
ラジェスワルは、一つ息をついた。うんざりとした溜め息ではなく、自分を落ち着かせようとしているように見えた。
「もう一度言うが、私はお前を責めようとしているのではない。お前の後ろにいる、刺激的な情報を待っている人々の望みを叶えたくないだけだ」
20ページほど飛んで、次のように続く。
けれど、わたしはそのためにカトマンズに残るのだろうか?既にナラヤンヒティ王宮での事件は広く報じられ、日本の大手マスメディアも次々に現地入りしている。おおよそのことは、もう伝わっている。そもそも情報だけならBBCの受け売りで充分ではないか。
それなのに、わたしはまだここにいる。取材を続けようとしている。なぜか?
「誰かのためじゃない」
薄暗い二〇二号室で、わたしは自分に向けてそう言う。
認めがたい結論は、最初から見えている。
やはりここに行き着かざるを得ないのか。
「わたしが、知りたいから」
(中略)
わたしが、知りたい。知らずにはいられない。だからわたしはここにいる。目の前の死に怯えながら、危険を見極めて留まろうとしている。なぜ訊くのかと自らに問えば、答えはエゴイズムに行き着いてしまうのだ。知りたいという衝動がわたしを突き動かし、わたしに問いを発させている。それが覗き屋根性だというのなら違うとは言えない。どう罵られても、やはり知りたい。知らねばならないとさえ思っている。
わたしは、知は尊いと考えてきた。言葉を一つ補うべきだ。わたしは、わたしにとって、知は尊いと考えている。他人もそう考えていることを期待してはらなかったのだ。
……けれど、これではまだ答えの半分に過ぎない。
なぜ志高塾を始めたのか、と問われれば、手っ取り早かったから、と答える。そこに美談などは存在しない。だからと言って、何でも良かったわけではない。好きな算数、数学ではなく、国語に関わること、それも単なる受験対策のためではなく、社会に出てから通用する人間に育てるためになることをしたかった。しなければならなかった。なぜか。それをするためには、自分自身が成長する必要があったから。社会で通用する人間になりたかったから。昔から私を知っている人は、私が作文を教えていることを不思議がる。国語ができなかったから。だが、問題なのは、国語ができなかったことではなく、おかしな表現になるが、言葉ができなかったことであり、そのせいで、人間としてあまりにも未熟であったこと。今現在、同じ年代の人と比べて相対的にどうかは分からないし、そんなことはどうでもいい。ただ、10年前の自分と比べて、着実に成長はしてきた。そして、それほど悪くない伸びだと自負している。
私は自分のためになるかを最優先にする。ただ、人と関わる限り、その人のためになるかは絶対に外さない。人の役に立てないのであれば、それはすべきではない。でも、私にとってはその「人の役に立つ」ということすら、自分のためなのだ。不純物の混じっていない100%のエゴイズム。それを貫くことで私は成長する。それは私と接する生徒が、将来社会で通用する人間になる可能性を間違いなく高めてくれるはずである。