
2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。
2023年12月
2025.05.02Vol.56 わたしだけの先生(徳野)
「良い先生」とは何か。ここ数週間の頭の片隅にあるテーマである。
きっかけは西宮北口校のポストに投函されていた「子ども作文コンクール」の案内だ。こども教育支援財団が毎年開催しているらしい。チラシの類は基本的にすぐ捨てるのだが、やはりタイトルに惹かれて手に取ってみた。また、私が記憶する限りそういった催し事のお知らせが来たのは初めてである。そして肝心の、作文のお題が「わたしの先生、ぼくの先生」だったのだ。後に続く「自分にとって『先生』と呼べる人は何も学校の先生に限ったことではありません。その人から影響を受けたと思える、塾の先生、習い事の先生、お父さんやお母さんなど・・・みなさんにとって大切な『先生』への思いを原稿用紙に綴ってみませんか?」というキャプションから「大人を尊敬してほしい」という主催者側の願望が透けて見えるのが少々気にはなった。だが、昨年度の受賞作品19名分に軽く目を通してみたところ、私の予想以上に多彩な切り口の文章が掲載されていたので、こちらで手を加えれば、コンクールに応募せずとも生徒たちに取り組ませる意見作文の題材にできるのではないかと画策中だ。
受賞作品についてもう少し踏み込むと、祖父、弟、犬など対象は多岐に渡っていたものの、一人の例外を除いて「自分を成長に導いてくれる、目標とするべき存在」が栄えある「先生」に選ばれたのは共通している。私自身はと言うと、上記のお題を目にして最初に頭に浮かんだのが、RCサクセションの初期のシングル曲《僕の好きな先生》と夏目漱石の『こころ』だ。しかしながら、両方とも題名だけ知っていたような状態で、せいぜい『こころ』のほんの一部分に高校の現代国語の授業で触れた程度だったので、この機会に聴いたり読んだりしている。奇しくも両者とも、コンクールで取り上げられていたような立派な人物が活躍する作品ではない。だが、やはりというか、それぞれ違う「先生」像があるのが面白い。
RCサクセション、つまり忌野清志郎が描いたのは、ろくに仕事もせず一人で煙草をふかしてばかりいるだらしのない美術教師だ。だが、モデルとなった小林晴雄氏は、ミュージシャンを志して思い悩む若かりし忌野を応援してくれた数少ない大人であり、教え子のデビューに向けて保護者を説得してみせた優しく熱い心の持ち主でもあった。そんな唯一の理解者への親近感と感謝が歌詞には込められている。「自分のことを分かってくれている」という安心感をもたらし、夢に向かって背中を押してくれる存在。理想的な「先生」像の一つの定番だと言えるだろう。一方で、『こころ』に登場する、本名が不明の”先生”は異質だ。断わっておくと、私は本作を50ページほどしか読めていない。そんな私が思い浮かべている”先生”のイメージは、東京帝国大学を卒業した後も定職に就いてないのはさておき、無口で人付き合いを好まず、自分を慕ってくる語り手の青年に対しても素っ気ない態度で接する、これといった魅力の無い中年男性である。それなのに語り手は彼をやたらと尊敬している。なぜなのだろうか。
亀の歩みで進んでいる読書だが、”先生”が初登場した場面には手掛かりのようなものを感じ取った。
舞台は賑やかな鎌倉の海水浴場。一人の時間をもてあましていた語り手は、人でごった返す浜辺から離れた沖で悠々と泳ぐ男性に目を留める。その彼こそが”先生”である。そして、湧き上がる好奇心を抑えられなくなった語り手はその後数日間、偶然を装いながら相手の周辺をうろつくことになる。
恋愛小説並みに運命的な出会いが繰り広げられている。若い語り手にとっては、理由は分からずとも何としてでも付いて(尾いて)いきたい年長者を見つけ出したという事実が大きな意義を持っているように思えた。しかも、相手の真価を認識できているのは自分だけ、という特別感も重要な役割を果たしている。その体験と言葉少なな”先生”が醸し出す謎めいた雰囲気が結びつき、「この人の話をもっと聞いてみたい」「この人はなんでこんな性格なのだろう」という探求心が生まれたのだろう。大げさかもしれないが、『こころ』は青年の自己確立の物語でもあり、そのトリガーとして若者の知的好奇心を無意識であったとしても刺激する”先生”は確かに唯一無二の「先生」に位置づけられる。
世の中には色々な「先生」がいて、別に偉い人物でなくても構わない。それくらい柔軟に捉えられる存在なのだが、学生時代の私自身には「先生」がいなかった。周囲の人間にきちんと興味を向けられない、ある種の傲慢さゆえだ。ただ、幸いなことに志高塾には、現在の私に成長を求めたり寄り添ってくれたりする素敵な先達が沢山いる。では、漱石流の「先生」というと誰になるだろうか。高校1年次の国語教師は良い線を行っているかもしれない。地方の進学校に配属されているにも関わらず定期試験の直前しかまともな授業を行わず、生徒たちとクイズにばかり興じていた通称「マキちゃん」。教わった内容は何一つ覚えていないが、彼が妹さんに藁人形で呪いかけられたエピソードだけはいつまでも忘れない自信がある。今となっては、あの良くも悪くもいいかげんなマキちゃんがなぜ教頭の役職を任されていたのか、どのような経緯で辞書クイズという楽しすぎるゲームを導入するに至ったのか、など疑問が尽きず本人に取材を申し込みたいくらいだ。ちなみに、「子ども作文コンクール」にて海外賞をもらっていた女の子が紹介していた数学教師もヘンテコな人物である。変わり者なだけならまだしも教えるのが下手らしいのだ。しかしながら、教師としての致命的な欠点が教え子の思索に深みをもたらすのだから、結局のところ生徒から愛されるユーモアが「先生」の素質なのかもしれない。道のりは遠そうだ。
(以下が受賞作品)