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2023.11.21Vol.616 (偽)円陣(後編)

 現時点で、タイトルを予定通り「円陣(後編)」としているのだが、どこかのタイミングで「円陣(後編の前編)」などとなるかもしれない。
 連載小説というものがあるが、あれは一体どのように書き進めているのだろうか、と疑問に思ったことがある。かれこれ10年ぐらい前のことになるだろうか。と言っても、私はそのような形態で読んだことはただの一度も無く、購入した本に「これは〇〇で連載されていたものに手を加えて」などと説明があるのを目にして、その事実を知る。その疑問に対して最初に思い浮かんだのが、「書き上がったものを、読者の興味を引き続けるために小出しにしているのだろう」というもの。クライマックスに向かって、きちんと話が組み上っていないと面白いものにならないはずだからだ。しかし、実際はほとんどの場合そうではないのだろう。村上春樹も、私が好きな作家の奥田英朗も、ゴールを決めずに思うに任せて筆を進める、とエッセイで語っていたからだ。一度世に出たものは修正できない。その条件下で話の筋を付けないといけないのは至難の業であるはずなので、なぜそのような依頼を受けるのだろうか、と長年不思議であった。利点が見えなかったからだ。よほど原稿料が高ければ話は分かるが、それも無さそうである。だが先週、「もしかして、こういうことか」となった。
 この『志高く』は、これまでにも前後編含め、複数回に渡るものはあったが、そのような場合でも、毎回ひとつのまとまりになるようにしてきた。前日までに2000字ぐらい書き上げていて、後は最後の仕上げをするだけなのにそこから2, 3時間掛かることも少なくない。これを追加してあれを削って、としているうちにそのようになってしまうのだ。裏の話をさらすと、授業が始まる17時ぐらいまでにアップできてないときはかなり焦っている。そのように文章と格闘し、劣勢に立たされている状態で、『志高く』のために授業が疎かになるのは本末転倒では無いか、でも、これを続けていることには意味があるはずだ、という自問自答まで始まるから中々大変である。そして、そんなときに生徒や親御様から、まだ上がっていないことを指摘され、「そうやって読んでもらえていることはありがたい」と暗くなりつつあった心が少し光で照らされるのだが、それも束の間に過ぎない。そこからさらに追い込まれて行き、結局、「これ以上やってもどうにもならん」と新規投稿のボタンを押す。そういう日の帰り道の足取りは重い。
 先週、「前後編でひとつになっていれば良いのだから、今回は話を閉じなくても良いか」と随分気楽に終えられた。これまでに無かった感覚である。そして、連載小説の良さはこれなのか、と納得した。大事なことは過去ときちんとつながっているかどうかであり、決まったゴールに向かって行く必要が無いのだ。そして、それは人生に似ている。未来ではなく、良くも悪くも過去に縛られているからだ。
 大学で建築を学んだのに現在塾を開いている、ということについて、その理由を尋ねられることがある。話せば長くなるがそれにはちゃんとストーリーはある。簡略化して、「人の言うことを聞けず、サラリーマンとしてうまく行かなかったからです」と答えることが多い。それは独立する由縁であって、その中で塾という業種を選んだ説明にはなっていない。それに対しては、「大学生の頃、自宅に同時に数名の高校生を呼んで数学を教えていました。家庭教師の延長上のようなものです。ある程度成果は出していたので、それから10年経って30を前にしたときにまた同じことをするのは嫌でした。自分が小さい頃にもっとこういう教育を受けておけば良かった、ということをやりたくて作文を中心の塾を始めました」と付け足すことができる。そう言えば、先週、授業の中で高校生たちに、「最近は何かと語尾に『イズム』、『ハラスメント』を付ける」という話をしていた。ここでもよく話題にするポッドキャストの番組で、コメンテーターがインドについて「ジャイアニズム」という言葉を大国主義という意で用いていた。それが英単語の”giant”から来ているのか、それともドラえもんのジャイアンからなのか分かっていないままに放っていたので、「どっちなんやろか」と彼らとそのことを話しながら調べてみると、私の予想に反し、後者であることが判明し、「剛田主義」とあった。ちなみに、上で述べた「人の言うことを聞けず」は、物心ついたときからジャイアニズムを通してきたことと関係している。
 私が連載小説の主人公であったのなら、50歳を前に一念発起して、人生最後の勝負をするために、海外に出て、何かしらの事業を始め、苦労を重ねながらも満足の行く最期を迎える、というストーリーを作家は描くのかもしれない。それはそのまま私が夢想していることである。そこまで思い切ったことはできないにしても、このまま終わるのは嫌だ、というのがある。正確には、最近その気持ちが自分の中で強くなってき始めた。良い傾向である。それもあり、手始めとして、古我知史著『いずれ起業したいな、と思っているきみに17歳からのスタートアップの授業』、成田修造著『14歳のときに教えてほしかった 起業家という冒険』、佐々木紀彦著『起業のすすめ』を購入してみた。読みかけのものが何冊かあるので、それが終われば手を付けるので、少なくとも年内には3冊とも読み終えられるはずである。面白ければ、特に前の2冊に関しては、生徒や息子に勧める予定にしている。今の自分に満足が行かないとき、「小説の主人公になりえるだろうか」という客観的な視点が持てたら、その先何をするべきかのヒントが少しぐらいは得られるような気がする。
 親御様に、「親には『不安だけど』と『不安だから』の2種類がいる」という話をすることがある。前者は、不安を言い訳にせず、それをきちんと受け止めた上で、忍耐強く子供をどのように導くかをその度毎に立ち止まって考えて、実践する。一方で、後者は思考停止に陥った状態で、それを全部子供にぶつけてしまう。それでは子供が本来持っている力が発揮されるはずはない。人生も同じで、過去に縛られることからは逃れられないものの、「これまでこうだったけど」と過去を踏み台にするか、「これまでこうだったから」と過去にがんじがらめにされたられたままで終わるかでは自身の満足度に大きな差が生まれる。
 今回、タイトルを付けるなら、「『円陣(後編)』にならなかった話」が適切かもしれない。次回はまったく別のテーマにすることを決めているので、「(真)円陣(後編)」は少なくとも再来週まで持ち越しである。
 今日はいつもより靴が軽く感じられるかもしれない。それもそのはず、朝の8時台にアップできたのだから。

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