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2021.06.22Vol.499 開けてビックリ玉手箱々々々・・・

 さて、どこから話を始めようか。
 冒頭で触れておかなければそのままになりそうなので、タイトルにある「々々々・・・」から。もちろん、「開けてビックリ玉手箱」は中間テストの成績が返ってきて驚いたことを意味している。玉手箱の中は入れ子構造になっていて、その中にまた箱が入っている。親の私としては、それが美しいのか面白い形をしているのか、どのようなものであれば納得できるのかはよく分からないのだが、我が子らしいと思えるものに出会うまでひたすら開け続ける。ずっと「うそやろ?おっかしいな、こんなはずじゃないのに」というビックリの連続で途中めげそうになりながらも、最後だけは「おっ、あれっ、やっぱそうやんな」というビックリで終わる。そして、その箱の中には、箱ではなく我が子らしい輝きを放つ何かが入っているはずなのだが、その中身はその場で確認せずに後の楽しみにとして取っておく。ここで「何でその中は箱ではないのか?」、「何で開けても無いのに中身を予想できるのか?」と言ったような正しい疑問を間違えても持たないでいただきたい。可能性は無限大、と言う耳障りの良いことではなく、その反対を表現したかった。箱がどんどん小さくなっていき、さすがにもうアカンか、と焦りながらも「まだあるやんな」と期待を抱く。ここでの箱の大小は価値を表しているわけではない。ただ、既に述べたように、小さくなっていくにしたがって、その中に箱が入っている可能性自体が下がって行ってしまうのだ。こうやって説明しながら、「きっと読んでる人に俺の言いたいこと理解できへんよな」となっている自分がいる。「分かってもらえなくて良い」という開き直りなんて許されるはずもないのだが、私自身としてはものすごくしっくりと来ている。みなさん、意味不明でごめんなさい。
 成績が悪かったことが勉強を教えよう、となった直接的なきっかけではあるのだが、それ以上に心配だったのは、生活のリズムがものすごく悪かったこと。睡眠不足になっていたからだ。しかも、まだクラブが始まっていなかったにも関わらず。さすがにこれではまずい、ということで、宿題が終わっていなければ早起きしてやっていたのだがそれを止めさせることにした。早起きしてえらい、という評価も改めた。6時10分に起きれば学校に間に合うので、それより前に起きることを禁止にして、夜も23時には寝ることを義務付けた。中学生になってからは自分で起きなさい、とたとえ寝坊しても放っておくというルールに変えた。実際、遅刻しそうになることが何度かあった。それ自体は良かったのだが、入学と共に購入したデジタル時計が5時とか変な時間にしょっちゅう鳴って、隣の部屋で寝ている私もよく起こされた。それも睡眠不足の原因になっていた。アホみたいな話なのだが、一度その時間にセットしたのは良いが、消し方をよく分かっていなかったのだ。説明書を読ませて使い方を覚えさせるという方法や携帯のアラームを使うというのもあったのだが、少なからず似たようなことが起こりそうだったのでアナログ時計を一緒に買いに行った。きれいな音楽がおかしな時間に流れることが無くなった代わりに、適切な時間に昔ながらのベルを叩くジリジリジリが鳴ることになった。それで大抵は私の目も覚めるのだが、その音は予想していたより不快ではなく、それどころか一種の懐かしさも手伝って心地良さを感じてさえいるぐらいである。
 上位4分の1ぐらいには余裕で入れるだろうと考えたのには理由がある。背伸びして入った学校でないことと、中学受験で全然疲れていないことの2つだ。目標だけ設定すれば、自ずとクリアするだろう、と考えていたのだが完全に甘かった。そして、「あれ、もしかして、俺、我が子が所属している(超ウルトラ弱小)サッカーチームのコーチと同じやん」となった。念のために断っておくと、私はそのコーチのキャラクターは好きではある。ただ、ルールすら分かっていない低学年の子供たちに向かって「考えることが大事や。自分達で作戦を立てろ」と指示しているのを聞くたびに、「引き出しも無いのに、そんなん絶対無理やーん」と心の中で突っ込み続けて来た。「こういう風に工夫しなさい」と教えられてやったものは工夫でも何でもないという考えに基づいて、勉強だけでなくそういう方法論も意図的に教え込んでこなかったせいで、長男は工夫の仕方をまったく分かっていなかったのだ。また、それに関することとして、効率的にやりなさい、ということもこれまで伝えてこなかった。小手先のテクニックでうまくやることよりも、興味の幅を広げて欲しかったからだ。大人になっても手際が悪い人というのはいるが、そういうものは一度手に入れれば、後は少しずつそのレベルを上げたり、他の事柄にも応用できるようにしたりすれば良いだけのことなので、早い段階から無理に身に付けさせる必要はない。たとえば、音読の宿題はやってもやらなくてもばれないのだが、いつもきちんとやっていた。先生に言われたことをきちんとやる真面目な子に育てたかったのではなく、早い段階で意味が有る、無いという判断をさせたくなかったので、「偉いなぁ、俺やった絶対やらへんよなぁ」と思いながら眺めていた。小学生の頃、月に1回、放課後に地域の人が主催する希望者だけが参加するプログラムがあった。高学年になっても、花壇の種まきか何かに申し込んでいたので、「同級生の男の子なんて誰もおらんかったちゃう?」、「うん、いなかった」、「楽しかったの?」、「うん、楽しかった」、「人の目なんて気にせずに自分がやりたいことをやったらええからな」というやり取りをしたことを覚えている。その流れを汲んで、生活がぐちゃぐちゃになっているさなか、先日、学校で紹介された理科に関する何かの検定試験を受ける、と言い出したので、「あのな、意欲はいいんやけど、勉強せずに受けてもしょうがないし、今は英語や数学のできてないことを優先せなアカン」と初めて堰き止めた。今なら、そのメッセージも適切に受け取ってくれる気がしている。
 一時期ぱったりと無くなってしまっていたのだが、部屋を覗くと以前のように読書をしている姿を見かけるようになった。非常に良い兆候である。本人が考える余地をできる限り残した上で、しばらくは週に1回2時間ほどは息子の勉強に関わって行く予定にしている。目下3週間継続中である。もちろん、ゴルフとサッカーと釣りなどの自分の時間を削る気はさらさらない。そう言えば、最近美術館に行ってないな。

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