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2020.02.25Vol.436 ちょびっと補足 about 十人十色

 一昨日の日曜日『十人十色』を開催した。中学受験を体験した親御様に話をしていただく場なのだが、「こういうことをして合格できました」というのではなく、まず子育てがあり、その中に教育があり、さらにその一部に受験がある、といったイメージで、広く話をしていただくことを目的としている。その目的を定めたのは私なのだが、上のようなことを口頭で簡単に説明して「大体そんな感じでお願いします。期待してます」と伝えて、当日を迎える。もちろん、原稿のチェックなどは行わない。今回は5人のお母様にその役を引き受けていただいたのだが、正に「五人五色」であった。当然のことである。子供が違えば、親も違う。その2色を混ぜ合わせたときに、同じような色になる確率は極めて低い。多くの人に当てはまる「こうすればうまく行きます」などというのはもともと存在しない。基準がなければ、どうしていいか分からないから、たとえば「中学受験するには4年生から進学塾に通った方が良い」という言葉などを頼りに、どのように準備をしていくかを考える。大事なことは、進学塾に入った時点で抱いていた道を踏み外すことが往々にして起こる、ということを想定しておくことである。うまく行かなかったとき、まず思いつくのが、いかに早く元の道に戻すか、ということなのだが、その前にやるべきはなぜそのようになってしまったのか、その原因について考えてみることである。この作業を怠る親は多い。それゆえ、強引な対策を施す。すぐに点数が上がることに結びつきそうな個別指導の塾に通わせたり、そのようなことも含めて睡眠時間を削って勉強量を増やしたりする。瞬間的に元の道に戻れても、今度は、その反動でより大きくそこからそれることになる。そういうことを2, 3度繰り返せば、もう子供の心は折れる。誰でも思いつくようなことをして結果が出るのであれば、苦労はしない。仮にうまく行ったとしても、それは偶然である可能性が高い。人と違った手を打つことが目的ではなく、その子をよく見つめてあげれば、自ずと人と違った手を打つ結果になるはずなのだ。
 多くのお母様たちを前にして、私は無謀にも「お母さんたちの間で交わされる会話というのは、間違えていることが多い」という話をした。意味もなくカタカナ語を用いると馬鹿みたいなので極力避けるようにしているのだが、あえて使うとエビデンスがない。伝聞に過ぎない「~らしい」がいつの間にか「~だ」という断定に変わっているのだ。私は教育に関わる仕事をしているから当然なのだが、親御様にある考えを示したときに「何でですか?」と問われれば、「それはこういう理由です」と具体的に示せるものを持っている。中には、示した瞬間には感覚的な域を出ていないこともあるが、大抵は外れていないはずである。調べた結果、私の根拠に間違いがあれば「Aだと思っていたのですが、実はBでした」と訂正をすればいいだけのことである。
 1つ具体例を挙げる。新5年生の親御様が、志望校の1つにA校を挙げられた。即座に私はやめておいた方が良い、と伝えた。偏差値は高いとされているが、実際はそんなに高くはない。何よりもあほみたいに管理して、めちゃくちゃ勉強させるのだ。そのような話をして「大学への進学実績も悪いはずですよ」ということを伝えて電話を切った。この状態ではそのお母様にとっては、正にエビデンスがない状態なので、もう1つの候補として出されていたB校と比較することにした。塾の偏差値表では、5以上AはBより上である。両校のHPのデータから、生徒数に対する東大、京大、阪大、神大への合計の進学割合を出すと、共に20%前後なのだ。もし、入学時点での偏差値が低いB校の生徒がたくさん勉強をさせられて大学受験でA校と同等程度の結果を出すのであればまだ分かる。まあ、実際は管理するからそんな結果しか出せないのだが。もう1点断っておくと、4つの大学への進学の内訳にも大差はない。つまり、東大、京大で比べるとAがBを凌駕しているわけではないということである。進学実績に加えて、説明会に行かれた親御様の感想、実際に通っていた生徒の話、国語の過去問などを元に判断している。国語の問題は、その学校の質を如実に表す。老舗の難関校で国語の問題の質が低いところは1つもない。スパイの情報源は、誰でも手に入れられるデータが9割である、というのを思い出した。
 別の話題へ。お母様たちの話に出てきたことの中で特に嬉しかったのは「困ったことがあれば、志高塾に相談すればいい」と異口同音におっしゃっていただけたことである。決して「困ったことがあれば、志高塾の授業で補えばいい」ではない。相談無料の保険ショップは、自分にあったものを勧めてくれるわけではない。「たくさんある中から、一番ぴったりのものを選びました」風を醸し出しながら提案されたものは、保険会社からのキックバックが大きい商品である。表向きの形態が違うだけで、保険会社が自社のものをどうにかして買わせようとするのと大差はない。そう考えると、保険ショップの方が良い人を装っているだけにたちが悪い。子供たちが問題を抱えた場合、それは授業中の集中力の低下という形で現れることがほとんどである。大抵、それは塾での授業、宿題の量が過多であることよって引き起こされる。それに気づいた時点で親御様に連絡を差し上げ、「何かを削った方が良いです」ということを伝える。その結果、我々の授業がその対象となり、退塾するということがないわけではない。だからと言って、先の連絡が藪蛇ということにはならない。我々が関わりながらその子の成長に貢献できることに越したことはないが、志高塾に来なくなったことで負担が減り、健康的な生活を送れるようになった結果、勉強の質が上がったのであれば、それはやはり喜ぶべきことである。
 『十人十色』のあった一昨日の晩に早速ある相談をいただいた。そして、昨日、昼休みの間に、中学生の生徒とお母様と面談を行った。それは、学校の先生から提出を課されている反省文に関するものであった。事前に書いて来たものを読むと、先生にけんかを売っているとしか思えないようなものになっていた。そのことを指摘すると、「先生が自分の気持ちを正直に書きなさい、と言ったから」と返してきたので、「ばかか。お母さんの『怒らないから正直に言いなさい』を信じて、正直に言ったら怒られるやろ。それと同じや」と説明すると、お母様を横目に見ながら「ほんまや、それで何度も失敗したわ」と納得していた。「俺も、反発する方やったからよく分かる、でも、そういう部分が磨かれないまま社会に出たから苦労した。その先生が何を求めているのかを推測して、その先生が気持ち良くなるぐらいの対応をするんや。それはごまをするのとは違う。喧嘩別れして、その学校をすぐにでもやめるんやったらいいけど、そうでないんやったら、自分のためにならん。自分の求める快適な環境を得られるようにするための練習の機会にしなさい」というようなことを説明した。「もし国語教えていなかったら、こんな相談に乗っただろうか?」とふと考えた。国語を教えていることで、人間的に成長させてあげるのが自分たちの役割、という力が強く働いているように感じる。
 相談していただけるというのは、ありがたいことである。

2020.02.18Vol.435 採用の極意

 この春に志高塾を去って行く3人と飲みに行った。送別会は別途行うのだが、偶然その3人が同じ日に出勤していたので声を掛けた。単に私が名残惜しさを感じているだけなのかもしれない。2人は大学生なので卒業のタイミングで、もう1人は大学生の頃から、大学院を経て社会に出てからも副業として8年に渡って働き続けてくれた。調べてみたら、3人の合計の勤務時間は4,000時間に上る。
 お酒が運ばれてくるのを待っている間「最近、良い人が採れた」という話をしたら、最も付き合いの長い彼が「松蔭さん、お言葉ですけど毎回それ言ってますよ」と突っ込まれてしまった。指摘されて初めて気づいたので、一瞬それについて考えて「でもええことやん。『最近採用した人、大丈夫かなぁ。心配。』じゃないわけやから」と返した。
 ブログを読んでくださっている方に、日頃の感謝を込めて特別にただで教えちゃいます。その極意はすばり、「良い人がいれば採る。そうでなければ採らない」。
 もうすぐ社員が2人増えて5人になる。私を除いての話である。一人は新卒、もう一人は中途である。先の大学生2人が働き始めた頃というのは、社員はゼロで、私を含めて講師自体が10人弱しかいなかった。その間、豊中校を出して、今春高槻校を出す予定であったということも関係しているが、今では40人弱にまでなった。10年以上前に何かの本で、経営においては3という数字がキーになる、というのを読んだ。3人、30人、300人。詳しい内容は覚えていないが、30人までは自分一人でどうにか意思伝達ができる、ということだったような気がする。
 話を戻す。新卒の女の子に内定を出す際、「我々に余裕があるわけではありません。申し訳ないですが、2か月間ぐらいアルバイトとして働いてもらい、我々の方が大丈夫だ、となれば、また、『ここで働きたい』となれば社員として採用、というようにしてもらえないでしょうか?もちろん、途中で『ここをもっとこうして欲しい』という部分があれば伝えますし、逆に疑問などがあればぶつけてください」という提案をした。それゆえ、正確には「内定(仮)」ということである。ちなみに、1つ約束したことがある。それは、誰かと天秤にかけることは絶対にしない、ということだ。要は、「あなたが優秀かどうかで判断します」ということである。そして、この1か月間の働きを見て、4月からお願いします、と伝えた。そこにもう1人、期せずして中途採用に対する応募があった。その彼については、面接のその場で採用を伝えた。本人にも、1年後に高槻校を出すことを含め、今後の展望を説明して、「私は、借金をしてでもあなたを採用する」という話をした。このことをあるお母様に話したら「またまたぁ、余裕ですよね」と返されたのだが、余裕なんてこれっぽっちもない。2人の人件費だけで売り上げの10%以上を占めることになるからだ。2人がいなくても時間割は回る。この「時間割が回る」という表現は好きではない。一般的には「質の高い授業を提供できる」ではなく、「講師の人数の条件(我々の場合で言えば、生徒2人に講師1人)を満たしている」という消極的な意味で使われるからだ。ちなみに、先週は、水、木で1人ずつ、今週は今日と明日で1人ずつそれぞれ体調不良で講師が休みになったが、他の講師に臨時で出勤してもらうことはない。その4日間とも元々講師に余裕があったということである。
 ただ、その余裕にも注意が必要である。その分生徒を手厚く見ることにつながるようにする必要がある。たとえば、3人でやれていたことを4人でやる、では、それこそ余分な人件費、ということになる。そのゆるみが伝播すると、その先でもっと大きなマイナス要因になる。特に社員が増えたことでできた余裕は、テキストの充実に費やす。また、これで来春の高槻校は九分九厘確定なので、3校になっても、もっと言えば、4校、5校となっても質を落とさないのはもちろんのこと、私がいつも言うところの、少しずつでも質を上げて行けるようにするための体制づくりを1年かけて行う。
 上のことに加えて「将来、うちで(社員として)働きませんか」と軽く声を掛けている方がいる。今後話を詰めることになるので、現時点ではどうなるかまったく分からない。訳あって、今すぐにではないものの、その方は半年後、1年後に転職を考えておられる。現在、教育関係のお仕事をされているのだが、仕事の内容に満足をされていない。上のものに照らせば、4人でぎりぎり回っていた、もしくはそれですら回っていなかったのに、退職者が出ると、補充をせずに3人にその仕事をやらせているのだ。その状況で、どうやって生徒のことを考えてあげられるのだろうか。
 「良い人がいれば採る。そうでなければ採らない」。私にとってはすごく当たり前のことである。誰かの役に立つことよりも、数字を優先させるから打ち手を誤る。最高のタイミングで、最良の人が現れるのであれば、誰も苦労はしない。2つが揃わないのであれば、どちらかを取るしかない。答えを出すのは簡単である。

2020.02.11Vol.434 良い人めーっけ

 その名は百里奚(ひゃくりけい)。この続きは後程。ちなみに、この数か月は文章を書いてもしっくり来ることがほとんどなかったのだが、今回は納得の行くものにできそうな予感。乞うご期待。
 
「そろそろ(西北の駅に)着くよ」
「なんで分かるの?」
「そりゃ、13年も通ってたら(アナウンスが流れなくても、周りの景色とかで)分かるよ」
長男と一緒に西北まで電車で来た時のやり取りである。「それなりの年数やって来た」ということを、本当の意味で初めて実感した瞬間だったような気がする。体験授業の際に、「今年で〇年目です」という話をすることは少なくない。しかし、それは、少しは経験を積んできました、ということをアピールするために伝えているに過ぎない。教室までの道すがら銀行に寄ったのだが、ATMでお金を下ろしながら、「なんでもっと早い段階で、教室を増やそうとしなかったのだろう」という疑問が湧いてきた。
 遡ること数日、私はあるお母様との電話で「20代の頃は、本当に何も持っていませんでした」という発言をしていた。「何も持っていませんでした」というのを「先がまったく見えませんでした」という意味で私は使った。先を照らしてくれるものを持ち得ていなかったのだ。20代の頃、特に20代の後半は、自分はどこで間違ってしまったのだろうか、という後ろ向きの考えに支配されていた。そういう自分が嫌で、そこから抜け出すために考えたのが「90歳まで生きる」というものであった。このことは一度書いた気がする。あほみたいなアイデアだが、自分の中では真剣そのものであった。90歳を30年ずつ3つのブロックに分けたとき、「まだ1つ目のブロックの途中で、後2つが丸々残っているじゃないか。俺の人生はこれからだ」と前向きになれた。どのタイミングで知ったのかは覚えていないが、ケンタッキーのカーネル・サンダースも、マクドナルドのレイ・クロックも、フランチャイズ経営を始めたのは60代なのだ。
 20代の頃の私の焦りは、中学受験に向けて大手塾に入塾させたばかりの親の心境に似ている。うまく滑り出さなければ、未来がないかのように考えてしまうのだ。最初は良くても後から駄目になる子供もいれば、その逆もある。そして、いずれのパターンの子供も決して少なくない。私は、その先にある社会人人生に希望が持てなかったのだが、今なら分かる。希望が無かったのは、会社人人生だったのだ。私にとっては会社で評価されることよりも、自分が関係した人に意味のあることをする方が重要であった。1年ほど前、ディーラーの担当者からあまりに必死にお願いされて自動車保険に加入したことがあった。もちろん、ノルマがあるのも分かっていて「ネットの方が安いけど、お世話になっているから」という気持ちだったのだが、あまりの喜びように冷めてしまった。その様子を眺めながら「俺が同じ立場やったら、他社のコストパフォーマンスの良い保険をこっそり教えたやろなぁ」となっていた。何も、会社で昇進して行く人が客のことを考えていない、と言いたいのではない。ただ、私はそういうことに対しては潔癖なのだ。
 1年ぐらい前から豊中校の体験授業を完全に任せるようになった。入塾率が悪くても文句を言うことはないが、入塾後1年以内にやめる生徒が出た場合には、「何でなの?」と理由を聞くことはある。引き留めるように促すことはなく、むしろその逆で、あっさりと受け入れるように、と日頃から伝えている。話を切り出された時点で志高塾は信用を失ってしまっているからだ。1年以内にやめるということは、親御様の期待にまったく応えられていない。考えられる理由は2つ。1つ目は、親御様の求めるものと志高塾がやっていることが元々ずれていた場合。さらに入塾率を下げてでも、ずれが明らかになるように体験授業で説明して「志高塾には行かない方が良い」とその時点で思っていただく必要があったのだ。2つ目は、期待しているものがあるのに、教育の質が低かったことが原因となる場合である。ベクトルの向きは合っていたのに、長さが十分でなかったのだ。生徒が増えれば嬉しいが、「よっしゃあ!」とはならない。短くないある一定期間通ってくれた生徒がある区切りでやめるときに、それなりに期待に応えられたかな、と安堵する、というのが正直なところである。
 ATMで湧き出た「なぜもっと早く増やさなかったのだろう」という疑問の答えは、その日の夜か翌日ぐらいに自然と浮かんで来た。30代の10年間は、自分の中にぽっかり空いた穴を埋めるのに必要な期間だったのだ。それは1つ目の30年間でできたものであり、言葉の力が足りなかったせいでできたものだったのだ。子供の頃に自分がやっておけば良かったはずのことを、志高塾で今、実践している。教えながら私は自分自身の穴を埋めていて、ある程度埋めるにはそれだけの期間が必要だったのだ。仕事が忙しくなかったおかげで、自分と向き合う時間も多かったし、幼稚園で4年、小学校で1年PTAの会長を務めることができた。それだけ子供のことに関わっていたのだ。幼稚園を訪れた際には、教室や園庭で我が子の姿を探しては、目を細めていた。現状、そのような役を引き受ける余裕はなくなってしまった。
 さて、百里奚。中国の歴史上の人物である。昨年末に、ポッドキャストで歴史系のラジオを聞いていて、その存在を知った。ある程度の地位にいたものの捕虜となってしまい、秦のある役人の召使にさせられてしまう。60歳を超えてからの話である。秦はまだ一小国に過ぎず身分に関係なく優秀な人材を求めていたところ、その役人が「うちの召使は優秀だ」ということで推挙する。それがきっかけとなり、70歳を過ぎて重要なポストに就き、90代で宰相となる。日本における総理大臣のようなものである。秦の始皇帝が中国を統一できたのも百里奚がその基盤を作ったから、と言われている。詳しいことを知っているわけではないので、情報に誤りがあっても悪しからず。歴史小説家で有名な宮城谷昌光が『侠骨記』という短編小説の中の1つで百里奚を扱っていることを知り、注文したので届き次第読む。
 本を読んだりして、目標、理想とする人物が見つけられればそれはそれでいいが、もっと大事なのは、いろいろな生き方(生き方だけに限らず、やり方などにも当てはまる)があるということを知ることなのだと思う。私の20代の頃の焦りは「こうじゃなきゃだめだ」という固定観念が生んだものである。穴はそれなり埋まったので40代から、と考えていたけど、もっともっと自分と向き合って、最後の30年で勝負をしようかな。20年後に私は輝きます。だいぶお待ちください。

2020.02.04Vol.433 働き方改革 in 志高塾

 宿に逗留しながら、原稿に手を付け始めた。日本三景の天橋立はすぐそばである。
 3か月ほど前に、タイトルを決め、格好をつけて冒頭の2文だけ書いてそのままになっていたテーマが、日の目を見るときが来た。何のことはない、宿泊していたのは早朝の釣りに備えてのことであり1泊だけなので「逗留」というのは適切ではないのだが。
 この仕事をしていて「(受験生の頃)あまり勉強をする方じゃなくて良かった」と思うことがある。浪人生の頃、河合と駿台の京大模試をそれぞれ2回ずつ受けて、確かA判定が1回、B判定が3回であった。もしかすると、Bが4回だったかもしれない。いずれにせよC以下は取らなかった。普通であれば、Aを目指して努力するのであろうが、「間違いなく合格できる」という自信があったのでそのままのペースを維持していた。人生を通して、1日8時間、いやおそらく7時間以上自習したのはどれだけ多く見積もっても10日もない。6時間としても大差はないだろう。こういうことを話すと「集中力があったのですね」と言われることがあるのだが、単に長時間勉強できなかっただけの話である。ただ、目標とするところに到達するためにはやるべきことはあったので、学んだことの吸収率をあげるための工夫は最低限していた。自分でやるべきことを設定してそれをこなしていく、というのは中1の時点で悪くない程度にできていたはずである。
 なぜ「良かった」と思うのか。進学塾では、5年生になれば他の習い事もせず、旅行などにも行かず、受験勉強に集中しろ、6年生になれば読書の時間も無駄だ、などと言われたりする。「習い事を続けたいのですが、甘いのでしょうか」、「旅行に行きたいのですが、この時期にそんなことをしていたら合格できないのでしょうか」というような相談を受けることがしばしばある。もし、私がすべてを犠牲にして勉強をしていたタイプであれば「すぐにやめてください」、「旅行は合格してから行けばいいじゃないですか」となっていたかもしれない。そのままでは合格できないレベルにある場合、単に勉強時間を増やして解決することはほとんどない。大抵は、勉強における最も大事な「考える」ということの質が低いからだ。その状態で時間を増やすというのは、フルマラソンに向けて変てこなフォームで長距離を走る練習を積み重ねるようなもので、必ずけがにつながる。我々の役割は良いフォームにしてあげることであり、それによって走ることが楽しくなればいくらでも風を感じながら走ればいい。本人が走りたいとなっているのを止めはしない。オーバートレーニングになっていないかは見守ってあげる必要はあるが。大学受験までのことで唯一後悔していることと言えば、読書をしなかったことである。受験のために本を読むわけではないのだが、もしそれをしていたら、2次試験の英語で苦しまずに済んだはずなので、もっと少ない勉強時間でA判定が取れたような気がする。繰り返すが、そんなことのために読書をするのではない。読書をしなかったことの弊害は、その後いろいろなところで出てくるのだから。
 「働き方が改革」が叫ばれている。結論から述べると、志高塾のそれは世間のものに逆行している。私とやり取りをすることが少なくない親御様は、私が「人に任せずに、全部自分でやろうとする人間」ではないことはよくご存知である。ちなみに、志高塾の社員は、授業の1時間前に来て、終われば帰っていいことになっている。もし、平日の授業開始が16:40で終了が19:50であった場合、15:40に来ればよく、20:30に帰ることは可能なので、その場合の拘束時間は5時間程度である。仮に終了が21:30だとして22:00に出れば7時間弱である。もちろん、仕事を適当にしてもいい、ということでそのようにしたのではない。8時間労働であれば1時間の休憩を含めて9時間拘束することになる。9時間いました、では意味がないのだ。6時間しかいなくても9, 10時間分の仕事をしてくれればいい。
 放任主義から考えをかえるきっかけになった契機は生徒が増えたことである。2年ぐらい前までは、塾で起こることのすべてが、ほぼ私の手の届くところにあったが、それが難しくなった。その時点で、社員を積極的に育てる必要性が出て来た。手を打つタイミングが遅れたのだが、それは、生徒の増加の勢いが私の予測を大きく上回っていたからだ。もちろん、それは嬉しい悲鳴である。ただ、それはその時点での我々自身にとってであり、期待に見合った価値を提供できなければ、遅かれ早かれ子供や親御様の痛切な悲鳴に変わってしまう恐れのあるものであった。必要に迫られての方進転換であったのだが、そのとき、私は社員に対して役割を果たしていないのではないだろうか、という疑問が湧いてきた。そして、やりがいを与えること、仕事を通して成長させることができていない、という結論に至った。正確にはやりがいのある仕事自体は与えられていた。しかし、そこで成果を発揮できる状態にしていなければやりがいは感じられないのだ。例えるとこうである。すごい球を投げるピッチャーと対戦できる機会を与えて私は満足していたのだ。それを打てるようにしてあげて初めて本当の意味での喜びを感じることができるのだ。勉強と同じく、私はサラリーマン時代長時間労働をしなかった。自分が嫌ことは人にはさせない、という考えのもと、長時間の労働を押し付けなかったのは良かったとは思う。ただ、私は新入社員の頃から誰に言われるでもなく、いろいろと提案をしていた。私の中では長時間働かないのと同様にそれは当たり前のことであった。何かを生み出すのが仕事だと考えていたからだ。その創意工夫が自身を成長させ、今で言えば、生徒たちを成長させることにつながっていくのだ。
 これからも、時間で仕事の成果を計ることはない。良い授業をすることがすべての評価の基準である、そのためにはそれ以外の時間を充実させる必要がある。今後半年、これまでになく、改変も含め、新たな教材を生み出していけるはずである。その過程で培われた力は間違いなく生徒に還元される。

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