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2020.01.28Vol.432 それであれば

 中2の生徒のお父様からお電話をいただいた。
「先生は、1点足りなくても、とおっしゃっていましたが、それよりも全然下なんですけど、そのまま通わせます」
「私もそれがいいと思います。わざわざご連絡いただきありがとうございます。」
学校の先生から、このまま高校に上がってもしんどいので高校受験を勧められている、という話を秋の面談の際にお父様より受けて「次のテストで、数学、英語の合計点が、学年平均の合計より1点でも下回れば、公立中学に転校して、高校受験に備える、というようにしてはどうでしょうか?」という提案をしていたからだ。その時点で、ほぼ全教科において平均点を20点前後下回っていた。親の言うことは聞かないので、先生の方から話して欲しい、とお願いされ、「お任せください」と引き受けた。お願いされなくても必要だと考えれば「私の方からも話そうと思うのですが、いかがでしょうか?」と許可を取ったうえでそのようにしたであろう。その生徒が授業に来た際に、お父様とどのような話し合いをしたのかを伝えた上で「本気でその学校に残りたいんやったら、結果を出さなあかんぞ。2教科に絞ればできるはずや。できるか?」と問うと、「自信がない」と返って来た。「何のや?」、「やれる自信が、です」、「せやろ。やって結果が出ないんやったらまだ分かる。やらへんのにその学校に残りたい、はおかしい。来週、もう1回話をするから、それまでに目標設定をどうするか、自分で考えて俺に報告しな」というやり取りをした。結局、どこに落ち着いたかは忘れてしまったが、それなりに現実的で、かつ低くないものであった気がする。お父様にすべて伝えた上で、結果を待ちましょう、となった。少なからず改善されたため、学校の先生もその話を引っ込めて、さらに頑張れ、という声掛けに変わったとのこと。
 もう一人似たような状況に置かれた生徒がいる。学校のことを追いかけていても、現状のレベルと離れすぎているからいつまで経ってもできるようにならないよ、と言い続けて来たのだが、本人がそれでも残ることを希望するので、「分かった。じゃあ、志高塾の授業数も、自習に来る日も減らして、クラブなどをしたらいい。授業料ももったいないし。将来、中高6年間を振り返ったときに、なんか知らんけど志高塾にずっと通ってたなぁ、では寂しすぎるから、もっと楽しみな」と声を掛けて、実際に翌月から授業数を減らした。本当は『コボちゃん』の要約作文から始めて基本的な力を付ける必要があるのに、進学塾で出された難解な読解問題の宿題のフォローを我々がするようなものである。きちんと理解するのであれば無意味ではないが(それであっても効果的な勉強方法ではない)、それが単に宿題を終わらせることや復習テストで点数を取るためであれば、時間の無駄以外の何ものでもないし、国語がどんどん嫌いになっていってしまう。ちなみに、その子が先日、自習中に、学校の英語の宿題をスマホを使いながらしていたので、教室の中では出さないように、と注意した。遊びで使っているかどうかの判断ができないからだ。「どうしたらいいん?」と聞くので、「紙の辞書使ったらええやん。貸してあげるから」と伝えると、「調べ方が分からん」と返ってきた。最初、言っていることの意味がまったく理解できなかった。恐ろしいことに、一文丸ごと打ち込んで翻訳機能を使っていたのだ。こういうのを「想定外」というのであろう。それで英語ができるようになったら驚きである。そんなことに時間を費やすのであれば、1つでも多く単語を多く覚えるべきなのだ。一体、デジタルネイティブって何?となってしまう。カタカナつながりで言えば、ウーバーイーツの配達員を目にするたびに、蟹工船を思い出し、「見かけはいいけど、搾取されてるだけじゃないんか。でも、こんなん思うのは俺だけ?」となる。人にはいろいろな事情があるので一概に否定しようとは思わない。ただ、隙間時間の有効活用と言うのは、時間を換金することではないはずである。
 閑話休題。傍から見れば、私は好き放題言っているように見えるのだろうが、決してそんなことはない、おそらく。親御様から意見を求められる前から、こうしたらいいのに、というのはそれなりに持っている。今すぐに手を打つべきことであれば、もちろん積極的に提案するが、そうでなければ機が熟すのを待つ。あくまでも親御様から相談をいただき、意向を伺った上で「それであれば」ということで、私の考えを伝えさせていただく。その際、次のことを自問自答する。「自分が得するためではなく、子供や親御様のためになるか?」、「責任を持とうとしているか?」。ここ数日、特に新6年生の親御様がいろいろと相談を持ち掛けてくださる。ありがたいことに「それであれば(先生がそうするのが良いと言うのであれば)」と受け入れていただけることは少なくない。もちろん、受け入れていただけなくても、否定的な感情を持つことはない。相談していただけるだけで十分にありがたいことなのだから。

2020.01.21Vol.431 結果は出る

 この前の土曜日、3年生の二男が志高塾(豊中校)での授業から帰って来て、「90分間、テストもせずに漢字の勉強を頑張った」と誇らしげに伝えて来たので、「でも駄目だったんでしょ」と返した。先に帰宅していた長男から不合格であったことを聞いていたからだ。その漢字テストとは20問あり、8割の16問以上で合格となる。合格した場合、間違い直しが終わったら終了。不合格であれば、間違い直しの後、少なくとも30分は自習して再テストとなる。後は、その繰り返しである。その前の週に、用事があるから(実際、サッカーの練習があった)、と合格していないにも関わらず勝手に帰って来たので(早く帰りたいのであれば、一発で合格できるように準備をしておけばいいだけの話である)、その日は、合格するまでやってきなさい、と伝えていた。結果、13時から14時半まで授業をし、その後、18時まで居残りとなった。1回で合格していれば15時には教室を出られた。90分間勉強したのは30分では足りなかっただけのことである。私の言葉に「ちがう、頑張った」と反応したので「日頃やってないからそんなことになる。もし、お父さんが頑張ったことを認めたら、漢字テストの勉強を一生懸命しても合格できないバカです、となるけど、それでもいいのか?お父さんなら、絶対に人からそんな風に思われたくない」と返して、用事をするために2階に上がった。30分後ぐらいに1階に戻ると、歯を食いしばって嗚咽をもらしながら何かをしていたので、「そんなに認めて欲しいなら、頑張ったね、って言ってあげようか?」と声を掛けると、「違う。悔しいから泣いてるだけ!」と言い返してきた。結果が出ないときに、その原因を能力にではなく、やり方に求めるというのは非常に大事なことだと私は考えている。このような考え方を誰かに直接的に教わったのではなく、学生時代に結果が出ずに「俺はアホなんだろうか?」となったとき、自分を守るために「いや、やり方が良くないだけや」と思い込むことを繰り返しているうちにできあがっていったものである、おそらく。
 中2の女の子が「お母さんが、ブログで(私の)悪口書かれていないか、いつも冷や冷やしながらチェックしている」とよく言っているので、久々に登場させてあげよう。念のために断っておくと、誰かの悪口をここで書いたことはない。その子が昨日「センター試験見たけど、あんなん絶対に無理やわ」と漏らしていた。その言葉に深い意味はないのかもしれないが、そのように位置付けてしまうと、少しうまく行かないことがあると「やっぱりだめだ」となってしまう。「(4年後に)あのレベルまでできるようにならなアカンねんから、もっとちゃんとやらな」と考えるべきである。明日か明後日ぐらいに「先生、ほんまやめてぇ」と文句を言ってくること間違いなしである。
 上杉鷹山の有名な言葉がある。「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」。意味は「できそうもないどんなことであっても、強い意志を持ってやり通せば必ず実現できる。結果が得られないのは成し遂げようと思って行動しないからだ。」となるのだが、「できそうもないこと」に本気でチャレンジする人は世の中にどれだけ多く見積もっても10%もいないだろうから、裏を返せば90%の人の目標は達成されるはずなのだ。なお、大手塾で長期にわたり下の方のクラスにいるのに、親がトップ校を目指させて、様々な個別などに通わせて勉強漬けにしているのは、当然のことながらその10%には含まれない。
 土曜日に二男と上のようなやり取りをした翌日の日曜日、10人弱の中学受験の合格発表があった。最終的な結果が出そろった時点でHP上でお知らせさせていただくが、散々であった。1年以上前から今回の受験生はこれまでで一番大変であることが分かっていたため、結果を出すために募集人数も押さえて準備をしてきた。受験1か月前の時点でC判定が出ていても、過去の経験上、そのような生徒3人中2人は合格していたのだが、日曜日に限って言えばボーダーライン上にいた6人中2人しか合格できなかった。こういうのは割合の問題ではないので、6人中6人でなければ喜べないものである。内部生向けの『志高く』でも書いたので、ここでは詳しく述べないが「受験専門」でないからこそ、受験で結果を残す必要があると考えている。もう少し書き続けようかとも思ったのだが、言い訳をしてしまいそうなのでここで終わりにする。

2020.01.14Vol.430 勝負の一年

 5年生のお母様から年明けに嬉しいメールをいただいた。その子は4年生の秋から通ってくれている。塾での成績は当時も今も良いのだが、深く考えようとしていなかったため、その力を付けることを我々に求められての入塾であった。そのメールの内容は「(志高塾に)入塾後半年ぐらいで取り組み方に変化は見られましたが、最近さらに良くなりました。志高塾に出会っていなかったら、と思うとゾッとします」というものであった。最大限の賛辞である。合わせて、月間報告のことも評価していただいた。本人もそれに目を通しているとのこと。それに対して「子供は成長するものなので、我々がどれだけ貢献できたかどうかは定かでありませんが、そのように思っていただけていること、また月間報告をそのように活用していただけていることが嬉しいです」というような返信をした。
 4月になれば志高塾は14年目を迎える。これまでも勝負でなかった年などない。仮に前年と全く同じ生徒、全く同じ講師陣であったとしても、同じことをすればいいわけではない。子供は成長するものなので。それでもやはり今年は特別である。
 来年の6年生は両校ともに15人ずついて、おそらく8割ぐらいが受験をする予定である。正確には、西宮北口校の方は15人を超えている。昨秋、5年生の女の子と2年生の男の子のお母様から体験の問い合わせをいただき、「5年生は受け入れていませんので、下の子だけであれば体験をさせていただきますが、それでもよろしいでしょうか」と伝えたところ、「それでも構いません」ということだったのだが、体験授業の際に「姉の方もどうにかなりませんか?」と改めて面と向かってお願いされ、私は断り切れなかった。顔を見てしまうとどうもいけない。
 話を戻す。3年目を迎える豊中校の中学受験生はこれまで同様5名前後なので、今回に関してもある程度西宮北口校の方でまとめて授業を行えている。しかし1年後はそういうわけにはいかない。両校でそれぞれ最後の仕上げをする必要がある。今後は(今の4年生以下は)1学年を12人に絞り、最終的には10人まで持って行きたい。いずれにしても1校当たりの平均の受験生が多いのは、次が最初で最後ということになる。
 この時期に毎年のように思うことがある。1つ目は授業料を一律にしていて良かったな、ということ。中学受験のことばかり書いて来たが、高校、大学受験の生徒もいる。そして、何よりもそれ以外の生徒の方が圧倒的に多い。受験生だけ高い料金をいただくと、それは受験生にも特別なことをせず、その他の生徒への授業の質が下がることにつながるだけではないだろうか。「特別料金をいただいていないのだからしょうがないですよね」という言い訳の材料になりかねない。一律でいただいているからには、すべての生徒に等しく質の高い授業を提供しなければならない。
 10月末の面談で、ある男の子の受験生のお母様に、志望校一本に絞って欲しい、とお願いした。要は、滑り止めを受けずにだめであれば公立に行く、ということである。その時点で偏差値5以上の開きがあった。その学校は新6年生になった時の本人の志望校であり、やることをやりさえすれば間違いなく合格できるレベルであり、彼に適した学校であった。ちなみに、どれぐらいやらないかと言うと、志高塾が休みの日曜日に1時間も勉強しないのだ。やらなくても行けるところに行ければいいや、というのがありありと見えていた。それでは受験から得られるものがなくなってしまう。その際には、「残り3か月、心を入れ替えてやれば間違いなく合格できます」と伝えた。本心からの言葉である。志望校以外に願書を出したのかどうか私は知らない。私の役割は、どのような受験を経験させてあげることが必要かを私なりに考えて、理解していただけるように伝えることであり、最後は親御様の判断にゆだねるしかない。上のような結論を私が勝手に出しているわけではなく、あくまでも話し合いを進める中で導き出したものである。もう1人、12月の時点で偏差値が10以上の学校に行きたい、と言っている女の子がいた。ちなみに、彼女も日曜日にほとんど勉強しない。行動が伴っていないのだが、それ以上に万が一(お母様には合格率は1%もありません、と伝えた)合格できたしても、入学後、全くついて行けないのは目に見えている。無試験で入学させてあげますよ、と言われても、私は絶対にやめた方が良い、と全力で止める。そう、もう1つが「受験専門ではありません」と謳っていた良かったな、ということである。少しでも偏差値の高い学校に合格させることが、志高塾の目指すことではない。大人になったとき、中学受験の時にあのような選択をしたおかげで今があるな、と思えるようにしてあげることこそが大事なのだ。そのように振り返れる、ということはそれなりに満足の行く道を歩んでいることの証でもある。そのときに、志高塾が忘れ去られていても私は一向に構わない。
 約1年後、今年の12月20日前後から中学受験までの1か月間、教室全体として教育の質を落とさないような準備ができていれば、志高塾はその先数年は良い教育を提供し続けられるはずである。もちろん、私自身が調子に乗らなければ、という条件付きであるが。成り行き任せで大抵のことはどうにかなる、という適当な考えの持ち主の私でも、この1年は計画的に手を打って行く。

2020.01.07Vol.429 理想-現実

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 年末に小、中の幼馴染と2年ぶりぐらいに会った。彼は私の1学年下で、同じ社宅に住み、同じ少年野球チーム、地域の子供会のソフトボールチームに所属し、近所の公園で野球やサッカーをして遊んだので、毎日のように、という言葉が比喩にならないぐらいに多くの時間を過ごした。
 オフレコとのことなので、ここからの話は少々奥歯に物が挟まったようなものになってしまうが悪しからず。彼は、Jリーグのコーチを10年以上続けている。そして、最近初めて監督の話が舞い込んだ。最終候補の2人まで残ったものの、結果的に選手として日本代表経験があり、Jリーグでの監督経験もある人に競り負けた。多くの監督が守備的なサッカーを取り入れているのに対して、私の友人は攻撃的なサッカーを標榜している。単に理想を掲げているだけではなく、結果を出すためにはどのような選手にどのようなトレーニング積ませる必要があるのか、という方法論も持ち合わせている。そこが評価されてあるチームのフロントから声が掛かった。ただ、選考過程においてビジョンを共有するために話し合いを進めていく中で「まずは守備的なチームを作ってから、攻撃的に持って行ってはどうか?」、つまり「現実+理想でやってみないか?」と提案された。しかし、頑として譲らなかったのだ。それでは本当に目指しているチームにはならないからだ。それを聞いて「えーやん。絶対にそうすべきやったな」と返した。正直ちょっと感動した。いや、ちょっとどころではなかった。私であれば転がり込んできた話に飛びついていただろう。
 プロの世界では実績のある監督が複数年契約を結んでいてもわずか数か月で首を切られてしまう、ということは往々にして起こる。選手として輝かしい実績のない彼が、自分の信念を曲げた上に結果を残せなかったとき、まず間違いなく次はない。一方で、自分のやりたいことを貫けば、仮に1年で首になったとしても、爪痕を残せる。差別化することや爪痕を残すことが目的ではなく、それは理想を追い求めたことによる結果なのだ。
 ここで、2017~2019年の日本のJ1リーグにおける1位と6位の得点と失点を比べる。
2017年 
1位 得点;71 失点;32
6位 得点;50 失点;30
2018年 
1位 得点;57 失点;27
6位 得点;39 失点;34
2019年 
1位 得点;68 失点;38
6位 得点;45 失点;29
6位のチームを対象にしたのは、18チームで構成されているため上位3分の1という区切りの順位(悪くない順位)だからだ。2017年と2019年に関しては、6位のチームの方が失点は少なく、2018年にしても大差はない。一方で、得点は3年共に1位のチームは6位のチームの約1.5倍である。このデータだけで結論を導くのは乱暴ではあるが、それなりの結果を出すには守備を安定させればいい。ただ、攻撃のレベルを上げないことには優勝はないのだ。
 守備的というのは、我々に当てはめると10点の記述で3点しか取れない生徒に5点を目指させるようものである。そんな仕事は楽しくない。我々が楽しむことが目的ではないが、教えている我々自体がそうなのだから子供自身がワクワクするはずがない。受験の直前に数回指導するだけならそれでもいいが、そもそもそんな生徒の受け入れは行っていない。そんな仕事はしたくないから。中学受験までに2年、3年と付き合い、ありがたいことに最近ではその後も彼らと接し続けるチャンスをいただけている。「彼らを育てる」チャンスをふいにする権利は我々に与えられていない。
 「現実+理想」というのは現実的だ。「+理想」というのは実際には「+αの理想」でしかない。一方で「理想-現実」は理想的だ。どの世界でも現実はそれほど甘くはないので、さすがに「-α」では済まないだろうが、心を込めて真剣に理想を追い求めた「理想-現実」は「現実+理想」の圧倒的に凌駕するはずなのだ。先の例でいえば、3点は5点にしかならず(そこに到達する可能性もそこまで高くはない)、10点にならなくとも7,8点は取れるようになる、ということである。
 2019年、最後にパワーをもらった。2020年、「えーやん。絶対にそうすべきやったな」と偉そうに言い放った自分に恥じない自分でありたい。

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