
2021.02.23Vol.484 『短いお話』を補って余りあるかもしれないお話
一昨日の日曜日、長男と中学受験まで家庭教師をお願いしていた先生と3人で舞鶴へ船釣りに行ってきた。私のものは30cm前後だったが、2人は40cmサイズの甘鯛を釣り上げたこともあり、それなりに楽しい釣行になった。釣りする人あるあるなのだが、スーパーに行くとつい魚の値段を調べてしまう。元を取れたかどうかではなく、釣果にどれほどの価値があったのかを知りたくなるのだ。その日は、同船していたおじさんがその大きな甘鯛を見て「これなら、京都の錦市場やと2,500円から3,000円はするでぇ」と教えてくれた。
高槻校を出すことを知った彼のお父様が「何か手伝えることがあれば」と言ってくださっているというのを2, 3週間前にお母様伝えで聞いた。しかも無給で構わないとのこと。年齢が私より5つ以上は上で、頭も良くて(学歴は私より断然上で、話していても賢いのが伝わってくる)、しかも人間的な部分も優れている。私は面談でそのお父様と話すのが好きなのだが、仕事となると話は別だ。私は自分の信じたことを誰に遠慮することなくやり抜かなくてはならない。「誰に遠慮することなくやり抜く」という表現だけを切り取ると、人の意見などに耳を傾けずに、と誤解されるかもしれないがそうではない。「自分の信じていること」は果たして正しいのだろうか、本当に人の役に立っていると言えるのだろうか、ということは常に問い続けている。その問いの中には、他人からの評価も含まれている。そして、「正しい」と判断すれば、それは「自分の信じたこと」に変わり、実行に移されることになる。自問自答して、行動に移しての繰り返しである。結局、話をしていただいた時点ではどのように対応するのが良いかが分からず、「お父様に、あれしてください、これしてください、とお願いできないですぅ」と返信してそのままになっていた。
話はそれる。上で「学歴は私より断然上で、話していても賢いのが伝わってくる」と表現した。話していても賢いというのは地頭が良いと意味である。そうなると、あれ、両方負けちゃってる、となる。私に限らず、学歴など客観的な指標で劣っていても、その他の部分では自分の方が優れている、と思い込もうとする人は多いのでないだろうか。大学生の頃、勉強をやらなくてもできてしまう灘出身の同級生に向かって「ペーパーは断然お前の方ができるけど、社会に出て成功するのは俺やな」というようなことを何の根拠もなく言い放っていた。野球に例えればこうである。自らは4打席連続空振り三振で、ライバルは同じく4回バッターボックスに立ってファールで粘った結果のファーボール1つに、ヒット1本だったとする。俺は、全打席ホームランを狙いに行った結果で、あいつはせこく四球で塁に出ようとしたり、ちょこんとバットに当てたりしているだけだから将来的には自分の方が良いバッターになる、と納得させることはできる。しかし、もしライバルも同じように力いっぱい振っていて、結果も自分より出していたら困ってしまう。溜飲が下がらなくなるからだ。このように書くと、勝った負けたということを常に考えていると誤解されるかもしれないがそんなことはない。「勝った」、「勝っている」となることほぼない。そんなことに興味はないからだ。だから、基本的には「負けた」、「負けている」しかないのだが、それは負の感情でなく、「もっと頑張ろ」というエネルギーになる。例のごとく、前置きが長くなった。ポッドキャストで聞いている『コテンラジオ』の番外編にボーダレスジャパンの田口一成が登場した。ビジネスでどれだけ成功している人であっても、その中身自体が自分のやりたいことでなければ「すごいな」止まりなのだが、彼に対しては「かっこえーなー」となった。ボーダレスジャパンのHPを見ていただければ、私の気持ちをきっと理解していただけることだろう。以前にアマゾンで検索してみたときに彼の著書は見つからなかったのだが、今調べてみたら4月に出版予定のとのことだったので予約しておいた。間違いなく面白いはずである。
閑話休題。お父様から声を掛けていただいたにも関わらずそのままにしておくのも失礼だし、かと言って妙案も思い浮かばなかったので、どうしたものかとしばらく考えていた。そして、「新しいことをやろう」という結論にたどり着いた。志高塾で行っていることにそのお父様の力をプラスしようとするのではなく、2人の持っているものを掛け合わせた方が面白いではないだろうか、と考えたからである。現時点で考えていることは2つである。1つは、オンライン授業。今の時代なのでオンラインでそれなりに質の高い授業は受けられるが、それはあくまでも一方通行の受身のものである。そうではなくて、地方や海外在住の人に志高塾でやっているようなインタラクティブな授業を提供することを目的とする。これは教室でやっていることの延長線上にあって、特段目新しいものではないが、ある程度の生徒数を集めようとすれば片手間ではやれない。また、これによって志高塾で働くことに興味を持ってもらっても子供が小さいため夕方の時間の都合がつかないという方に仲間に加わってもらえる可能性も高まる。在宅でできるので講師自体も全国、全世界から募ることもできる。そして、もう1つが質の高い家庭教師の派遣業である。家庭教師の仲介業をしている大手の会社は、とりあえず教師の頭数を揃えて送り込み、授業料の半分ぐらいを仲介手数料としてふんだくる。その結果、お客様と家庭教師がその会社を通さずに個人契約を結ぶことになる。もちろん、そのようなことは契約上禁止されているがあくまでも表向きの話である。具体的にどのように実現するのか。京大生や阪大生を派遣することをイメージしているのだが、キャンパスのすぐに近くに事務所を借りる。そして、教師は大学の授業後に一度そこに寄って、事務所の人間と今日することの確認をしてから、各家庭に向かう。そのためには、事務所に的確なアドバイスをできる人員を置いておく必要がある。もちろん、それ自体をオンラインですることも可能だが、何でもかんでもそのようにするのではなく、ある一定以上は実際にひざを突き合わせてやった方が良い。それ以外には「先月はこういうことをしました」という形式的な報告ではなく、志高塾における月間報告のように、心を込めて中身のあるものを作成して、お渡しする。私の考える仲介業とは、マッチングさせて終わりではなく、良い関係を継続するために間に入るというものである。もちろん、手数料は極力低くする。1時間三、四千円も取らずに、千円ぐらいでできるようにする。近江商人の「三方よし」は、「売り手」、「買い手」、「世間」であるが、この場合は「お子様と親御様」、「家庭教師」、「仲介業者」の三つになる。ここで書いたすべてではないが、大体このようなことを、舞鶴に向かう車の中でかいつまんで伝えて「お父さんにうまく説明しておいて」とお願いした。近々会ってお話をする。何かをすることが前提ではないので、上の2つが実現する可能性は5%にも満たないだろうし、場合によっては、全然違うことをするかもしれない。
高槻校のことも先のお父様との話もそうだが、別にビジネスを拡大することを目的にはしていない。そんなことより、自分の器を少しでも大きくしたい。そうなれば、生徒たちにとって、少しはかっこえー存在になれるかもしれない。自分が成長すれば意見作文の添削の際のやり取りにも深みが出るだろうし、「この人の言うこと聞いといたら自分の将来にプラスになるかも」と思ってもらえるかもしれない。そうすれば、授業の中で生徒たちの得るものが豊かになる。
先週は、まったくまとまらず途中で投げ出すような形になってしまい、あれではさすがに読者に失礼だし、何か対策をせねばと考えていた。その1つに、更新するのを土曜日に変更しようか、というのがあった。その他の仕事との兼ね合いなどを考慮すると何かしら改善されるだろうが、火曜日のままでも自分次第でいくらでもどうにかできる余地はあるので、とりあえずこのままで行くことにした。「この前は遅かった」という指摘を受けることもあるので、夕方ぐらいには最低限の読み応えのあるものを準備することをここに宣言します。時には遅れることもあるかもしれませんが、そのときには大目に見てやってください。
2021.02.16Vol.483 短いお話
「『十人十色』番外編」ファンの皆様大変申し訳ございません。今回は小休止です。
本題に入る前に。高槻校の開校に伴い、HPの変更も必要になる。このブログでも紹介した開校以来の付き合いである広告会社の方から、作業が2段階に分かれるため、それぞれが終わり次第といった形で分割払いにするのと、それとも一括にするのとどちらが良いかをメールにて尋ねられた。「自転車操業ですが、頑張ってまとめてお支払いいたします。」と一文で送ったら、「自転車の性能が相当高いので、今後ともよろしくお願いします。」とこれまた一文で返って来た。出会って14年経つが、こういうしょうもないやり取りをできるだけ長く続けられるようにお互い発展していきたいものである。
さて、「話が長い」と聞いて、真っ先に思い浮かべるのは誰だろうか。私の中でぶっちぎりの1位は「校長先生」である。実際の問題は、「話が長いこと」ではなく「話が長く感じられること」だ。その理由の1つに何度も同じことを聞かされる、というのがある。もちろん、重要なメッセージであれば繰り返す必要はあるが、今回のコロナの自粛要請からも明らかなように回数を重ねるほどその効力は薄れる。それゆえ、本来であれば伝え方に工夫が求められるのだが、それが皆無であるがために退屈する。後ろ向きで聞いたことに効果などあろうはずがない。ある生徒が「うちの校長、めっちゃアホやねん」とぼやくので、「何でなん?」と尋ねると「この前、全校集会で君たちに伝えたいことが3つあります、とか言いながら、どう考えても2つしかしてへんかった」と返ってきた。中身のない話をするのであれば、せめてこれぐらいの話題提供をして欲しいものである。
もう7, 8年ぐらい前のことになるだろうか、人材系の会社を経営されている生徒の親御様から依頼され、大学3回生向けに就活関連のセミナーを受け持ったことがある。1コマ90分で2コマ、確か、最初の2, 30分で私の体験談などを話した後に課題を与えて、グループディスカッションに移るという流れであった。その2コマで生徒は完全に入れ替わるので、冒頭でまったく同じ話をしても良かったのだが、大学の就職支援課の方などはそのまま居続けるので彼らに申し訳ないのと、そもそも自分のためにならないと考えて別のエピソードを用意した。日頃からそういうことを意識して訓練しておかないと、親御様に何かしらの相談を受けたときに、いつも同じようなことを伝えるばかりで適切な返答ができない気がしている。そのように考える私なのでこのブログでも、できる限り同じ話をしないように気を付けている。ただ、訴えたいことがたくさんあるわけでない。代表的なものに「自分で考えることの大切さ」がある。読んでくださっている親御様に「ああ、なるほど」と思っていただけるようなものでなければならない。そのためには、多様な具体例を用いながら、それを繰り返し訴えることになる。それによって、その考えが少しずつ浸透して行き、子供への働きかけが変わるのだ。私の話に最低限の説得力があれば、「分からないものをいくら考えてもどうせ解けないんだから、そんな効率の悪いことをせずにさっさと解説を読んで理解して、次に似たような問題が出たら解けるようにしなさい」と否定的な言葉掛けをしていたのが、「解き切れなかったけど、惜しいところまで行けたね。前よりも諦めずに粘り強く考えられるようになって来ているから、それを続けてたら自然と解ける問題も増えてくるよ」と肯定的なものに変わる可能性がある。
森喜朗の女性蔑視発言について話を展開して行く予定が、まったく違った方向に行ってしまった。長くても中身が詰まっていれば何の問題も無いのだが、その自信がないのでいつもより随分と短いが今日はこれにて終わりにする。
2021.02.09Vol.482 『十人十色』番外編③ ~進学塾と中学受験~
前回、受験直前の3学期もいつも通り学校に行かせようとしていたことについて触れた。それと関わることとして習い事がある。サッカーは8月まで週2回で9月からは1回に減らし、さすがに1月は休ませた。生け花に関しては隔週と言うこともあり、そのまま続けた。それゆえ、例年通り年末には3, 4時間掛けて正月花を生けていた。
中学受験をさせる気も無かったので、進学塾に通わせようとならなかった。もしかすると進学塾に通わせたくなかったから、中学受験をさせる気が無かったのかもしれない。卵が先か鶏が先か、今となってはよく分からない。誤解されないように伝えておくと、進学塾に通うことが良くないと言いたいのではない。ただ、勉強面においては考えない癖がつく恐れがあり、物事の考え方の面においては誤った価値観を植え付けられる恐れがある。後者に関しては、生徒からか我が子だったからかは忘れたが、試験会場で休憩時間になるたびに「めっちゃ簡単やったな」という会話を同じ塾生同士でして、他の生徒を不安にさせるということをしたりする。今年はコロナの影響で禁止されていたらしいのだが、朝にグラウンドかどこかに集まって大手塾の生徒たちが先生と大きな声を上げる。それが自分たちを鼓舞するためであるのなら分かる。だが、同時に他の受験生を委縮させることを兼ねているのであれば、その一石二鳥は間違えている。仮に、委縮させることが副次的なものであったとしても、悪影響を与えるのであればそれを理由にやるべきではない。私が浪人生の頃、センター試験を自己採点し、その結果を提出して二次試験の合格可能性を探るというシステムがあった。実際より高い点数を書くことで、怖気づいたライバルに志望校を変えさせる。自己申告なのでどうにでもなる。私が通っていた予備校のチューターがそれを勧めたのか、そういうことをする予備校があるということを聞いたのか。たとえ軽い気持ちであっても姑息な手段に魂を売るべきではない。ちなみに、予備校のクラスメイトがそれを元に志望校の変更をしようとしていたのだが、なぜ当てにならないデータを当てにしていたのだろうか。
先の段落で、進学塾に通うことについての2つの恐れについて触れた。逆に言えば、それらを取り除いてあげれば何ら問題が無いのだ。フグの毒のようなものか。そのように不要な部分を除去すると考えてもいいのだが、その場合は否定的な意味合いが濃くなる。それよりは中和するという方が感覚的に近い。進学塾で塩酸(水酸化ナトリウムにしても良かったのだが、塩酸の方が危険な感じが出るので良い)を与えられる。志高塾でそれを中和するための水酸化ナトリウムを混ぜる。その結果、食塩ができる。もし、塩酸を捨ててしまえば新たに調達する必要があるので、そんなことをせずに有効活用してあげればいいのだ。息子に対してはそのような中和の仕方が難しい。他の生徒がいる中で講師たちに我が子を優先してもらうわけにいかないのはもちろんのこと、後回しにするように伝えているからだ。息子達にも「お父さんの子供だから後回しになるので、ちゃんと待っておきなさい」と言い聞かせている。だから、我が子に対してはそのような化学的な製法を諦めて、別の方法を考えざるを得なかった。海水を利用してのそれである。効率は良くないが、その分おいしいものができると思い込むしかない。グツグツ、コトコト。
その中和、別に他人の手を借りなくても自らできる子もいる。たとえば、勉強面に関しては分かりやすい。できる子であれば、先生の話など適当に聞き流していても理解できるのだ。悲惨なのはそうでない子である。誤解を防ぐために、ここで説明を挟む。あれは4年生の頃だっただろうか。長男の算数を見て「できないな」となった。この「できない」、正確には「できることはない(できるわけではない)」なのだ。「できない」であればマイナスなのだが、「できることはない」は大きなプラスではないということである。「できる」と言っても抽象的なので、イメージしやすいように中学受験をする子のうちのトップ10%とする。それでもかなり多く見積もっているので、実際は90%以上がそうでない子である。だから、何ら問題ではないのだ。「悲惨なのはそうでない子である」に話を戻そう。これまた、正確には「そうでない子が悲惨」なのではない。そうでない子が、進学塾で言われたことを鵜呑みにして、ただただそれをこなそうとすることが悲惨なのだ。もちろん、中にはそれで成績が上がり、中学受験で良い結果を残せる子もいるだろう。しかし、その成功体験にも注意が必要だ。言われたことをちゃんとやることこそが大事だ、となってしまいかねないからだ。
そうでない子に何ができるのか。そこで生徒の、親御様の役に立って、志高塾は存在する意義があると言えるのだ。できる子は、できるからと調子に乗らせていては宝の持ち腐れである。答えのある問題で優秀な子なのであれば、答えのない問題でも飛び切り優秀な人になるように育ててあげないといけない。やることは多い。きっと、それを「やりがい」と呼ぶのだろう。作詞依頼来たりしないかな。
2021.02.02Vol.481 『十人十色』番外編② ~受験と人育て~
中学受験させるつもりはないと、ということをきっと長男の就学前ぐらいからちょこちょことこのブログで書いてきた気がするが、正に気のせいなのかもしれない。有言、不言の別はさておき、長男の中学受験を実行する予定はなかった。
そこまで必死になって勉強しなくても東大か京大ぐらい(医学部を除く)には行ってくれるだろう、というのが私の中にはある。子育てをする際、親はまず自分を基準に考えるのでこれもその一例に過ぎない。高校でも大学でも、こいつにはどうやってもかなわない、というのは周りにそれほど多くはなかった。もちろん、自分より優秀なやつはそれなりにいたのだが、「まっ、俺が少し頑張れば追いつけるな」というのはあった。そう思い込んで自分を慰めていたというのもあるが、それが慰めになるほどの距離感であったということだ。灘に通う生徒から、飛び抜けてできる同級生の話を聞くと「なんじゃそれりゃ」となる。その彼に「次元が違い過ぎるやつを間近で見ると、そいつに勝ちたいとかじゃなくて、じゃあ自分には何ができるのか、という考えになれるからいいな」というようなことを伝えたことがある。自分を見つめることは、より高みに上るには欠かせないプロセスである。上のように勉強においてはどうにかなる、と強がっていた私も、就活に始まり社会に出てからは自分の小ささを実感することが非常に多かった。勉強はある程度自分でどうにかできるが、人間の器に関わる部分は親としてきちんと鍛えてあげないといけない、という意識が自分の中では強い。A日程の合格発表からB日程の間までにいろいろと伝えたのもその一環である。また、本人は受験前日まで学校に行きたがったので、それであればそうしなさい、とその考えに賛同した。周りの同級生は休んでいたので「合格すれば『あいつは、ちゃんと学校に来ていたのに合格してすごいな』となるけど、もし、不合格になれば『あいつ、余裕ないのに何で来てたんやろ。あほちゃうか』ってなるぞ」ということは伝えた。年が明けてからの過去問の点数もボーダーの辺り、どちらかと言えば不合格の方が多かった気がするが、私にとっては息子の意見を尊重することの方が重要だった。濃厚接触者は受験ができなくなるとのことで、結果的には始業式だけ行ってその後は休ませざるを得なかったことが残念である。
「東大か京大ぐらいには行ってくれるだろう」と言いながらも、実際には息子3人ともそのレベルに到達しない可能性の方が高い。ただ、少なくともそういうところに照準を合わせ、逆算して何かをさせ、予定通りに行かなくなったときにより強度を高めようなどという考えはまったくない。親として、人間も勉強も両方バランス良く成長させる自信は無かった。だから、人間を選択した。人間が育てば、勉強をやる意義も自分で見つけられるだろう。そうなれば自ずと学力も上がる。大学受験までの話で言えば、自分のやりたいことを見つけて、そこに進めるだけの力を身につけておいて欲しいというのはある。ただ、どこの中学、高校、大学に行ったかではなく、息子たちが35歳ぐらいになったときに「俺の子供って結構面白いことやっててな」と誰かに話したくなるような、そんな人になっていて欲しい。もちろん、誰かに自慢することが目的ではない。その頃には私も70歳前後になっている。世の中の多くの男性同様、友達もおらずに話し相手自体いないかもしれないが、とにかくそんな人に育っていれば、親として悪くない役割は果たせたかな、となれる気がしている。
数週間前、二男が「6時に起こして」とお願いしてきたので、「何するの?」と聞いたら「絵を描く」と返ってきた。誰に強制されたわけでもなく、自分で好きなことを見つけて、それを早起きしてまでやる。それが何の役に立つかなんてどうでもいい。ただ、我が子が何かしら作ることに熱中している姿を見ることは大好きだし、「今、そういう風になっているのは、俺が『いいぞ、いいぞ』と背中を押して来たのも関係しているかな」と勝手に思っていたりもする。