
2017.06.06Vol.304 編集後記
彼の文章を受けて、今回はそれに関する感想を。先に謝らなければいけない。『人生を”書く”』と素晴らしいタイトルをつけてくれていたにも関わらず、それを入れ忘れてしまっていたのだ。アップした翌日ぐらいに気づいて修正したため、今はちゃんと見てもらえるようになっている。前回述べたように、本当は最初に提出されたものをそのまま載せたかったのだが、一度やり取りをして修正をしてもらった。不思議なことに、完成版を受け取り、日に日に喜びが私の中で増してきた。
新しくお子様を入塾させていただいた親御様より「帰ってから清書させた方がいいですか」と尋ねられることがある。削ったり挿入したりした結果、時に原稿用紙がぐちゃぐちゃで、どことどこがつながっているかが分からないことなどがあるからだ。また、そのような部分について、子供に何と書いているのか、と質問しても答えられないが、それで大丈夫なのか、と聞かれることもある。一方、新しく入った講師には、1本の作文に時間を掛けすぎてはいけないと伝えるようにしている。時間を要する理由は主に2つ。1つ目は、単純に慣れていないから。ものは考えようで、新人の講師が簡単にできるようなことであれば、そもそも志高塾で行っていることにさしたる価値はないのだ。生徒と講師の成長をバランスよく促していくことが私の果たすべき役割の1つである。2つ目は、その作文を完成させようという心が働きすぎるから。仮に10個指摘する箇所があるとする。それに対して、全部同じように扱ってはならない。少なくとも、3箇所ぐらいをじっくりと考えさせ、4箇所はさらっと修正、場合によっては後の3箇所はあえてそのままにしておく。これはあくまでも例え話である。大事なのは、1回の授業で子供たちがより多くのものを得られるように導いてあげることなのだ。そのようなことを積み重ねていけば、3ヶ月もすれば間違いなく生活のどこかで成長が目に見えるような形で現れてくる。逆に、何も身につけさせてあげられず、親御様から「一向に変化が見られないのですが」と伝えられ、毎回ばっちり添削した作文を並べて見せながら「授業では、あれもこれも、そしてこんなことまでやっているのにおかしいですね」といったような答え方をしているようでは無責任極まりない。
少々脱線はしたが、話はつながっている。彼とは作文を通して、それに付随することも含め実に様々な話をしてきた。ただ、先にも書いた通り、目の前のものを完成させることを目的に授業を行ってきたわけではないので、清書された作文を初めて目にしたような錯覚を覚えた。きっとそんなことはないのだろうが。自分自身の喜びは何に起因しているのだろうか、としばし考えた。作文そのものに対して、というのもあるのだろが、それよりも、たくさん指摘をして、大きく書き換えたにも関わらず、それがすごくまとまったものになって返ってきた、ということに対してなのだろう。いかにも後から増築しました、という感じではなく、一部分は壊し、後から付け加えた部分も含めてまるでそれが元々1つの家であったような感じを与える。たった、一度のやり取りでこんなにも変わるのかと。この一事がこれまでこの教室で積み重ねた時間の価値を証明してくれているような気がした。
本当は、全然違う内容になるはずだったのだが、気づいたら当初の行き先と違うところにたどり着いた。よって、次回もこれについて書くかもしれない。