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2020.12.22Vol.476 人

 巨人は、日本シリーズで2年連続ソフトバンクに一度も勝てずに4連敗した。4戦先勝制(全7試合のうち4試合先に勝った方の勝ち)のような短期決戦では勢いが影響し実力以上の差がつくことは珍しくないが、2回続けてとなるとさすがにそれを理由にすることはできない。サイコロは振った回数が少なければ目の出方に偏りは出る可能性はあるが、100回、1000回とするにしたがって理論上は均されていく。余談ではあるが、それを習った小学生か中学生の頃に考えたのは、穴が開いている数が違うため重さが均等ではなく、それによって意外とある目だけ多く出たりするのではないか、ということ。私の考えが正しければ、各面にマジックで数字を書き込んだものを使えば、よりきれいに分散されるはずである。話を戻す。この2年はソフトバンクの8勝0敗なのだが、さすがに100試合もするとある程度巨人は勝つのだろう。しかし、それでも小さくない差は付くはずだ。それには選手層の厚さが関係している。
 野球に詳しくない人でも、あの清原和博が巨人に移籍したことぐらいは知っているのではないだろうか。FA(フリーエージェント)制を利用してのものであった。細かい説明は省くが、ある一定以上の成績を残せばFA権というものを得られ(プロ野球界に入ってから少なくとも7年はかかる)、FA宣言をすれば各チームにはその選手を獲得できるチャンスが生まれる。選手がFA宣言をするメリットの1つとして、自分を高く評価してくれるチームに移り、その結果年俸が上がるということが挙げられる。
 巨人とソフトバンクが2011~2020年(ただし、今年に関してはまだ両チームとも新たな選手を獲得する可能性は残されているのであくまでも現時点でのものである)の10年間でFA宣言した選手を獲った人数は15人と4人で、圧倒的に巨人が上回っている。さらに、2014年以降で見ると11人と0人となり、姿勢の差がより顕著に現れる。前の段落で「年俸が上がる」と述べたが、ソフトバンクは4人すべて前年と同じ金額で獲得しているのに対して、巨人の15人の平均上昇率は実に150%にもなる。今年も、前チームで年俸7,400万円であった選手に2億円を提示したので実に前年比270%である。このデータから分かるのは、巨人は良さそうな選手がいればとにかくたくさんお金を払って獲りに行くのに対して、ソフトバンクは適正な金額を提示しているということである。調べてはいないので分からないが、ソフトバンクは興味を持った選手がいても金額が高騰した時点で手を引くということが何度かあったのではないだろうか。
 最近、ポッドキャストの『歴史を面白く学ぶコテンラジオ』でユリウス・カエサルのシリーズ(10回で約5時間)を聞いている。その中で古代ローマとギリシャの比較が出てきたのだが、ローマは人に頼らないシステムを構築したのに対してギリシャは属人的であり、それが成否を分けた、ということが述べられていた。これはそのままソフトバンクと巨人に置き換えられる。2020年の平均年俸は12球団中ソフトバンクが1位で7131万円、巨人が2位で6107万円となっている。ちなみに、今シーズン、パ・リーグのチームの中で唯一ソフトバンクに勝ち越したのがロッテ(12勝11敗)であり、平均年俸は何と最下位の3035万円で、実にソフトバンクの半分以下である。この事実を持ってして、平均年俸とチーム力には因果関係がないと結論付けるのは少々乱暴ではあるが、ソフトバンクと巨人のチーム力の差が、年俸の差によって生まれているわけではない、と言える材料には少なくともなりうる。
 ソフトバンクは練習施設に投資するなど、とにかく育成にお金をかけている。また結果を残せばどの球団よりも高い給与がもらえる可能性があるため選手はやる気が出るが、巨人の場合は外から来る選手に法外な給与を払うので生え抜きの選手はしらけてしまう。今年、巨人は既に獲得した2人とは比べものにならないほど欲しい選手が2人いた。しかし、2人ともFA宣言せずにチームに残留してしまったため叶わなかったのだ。属人的なチーム作りをしているがゆえの落とし穴である。
 野球に詳しくない方や数字が苦手な方にとっては、ここまで読む進めていただくのにそれなりのエネルギーを要したかもしれない。だが、私にとっては、「きっとデータ上はこうなっているはず」と予想しながらいろいろなものを集めて、予想とのずれを踏まえてそこから何が言えるかを考えることは中々楽しい作業であった。この2球団の比較から言えることは非常に示唆的である。志高塾の教育の質を上げるために、優秀な人(そのように見えるだけで、実際に期待通りの働きを見せてくれる可能性は決して高くはない)に高い給与を条件に外から連れてくるのではなく、ある一定以上のレベルにある人を採用し、働きやすい環境の中でやりがいを感じられる仕事を任せる。そして、仕事の質に見合った給与を払う。何を持ってやりがいというのかは人それぞれだが、志高塾で働く人には、仕事を通して人の役に立つこと、自分が成長できることの2つは必ずそこに含めておいて欲しい。また、ソフトバンクが育成に力を入れることで次々と良い選手を生み出す土台を作ったように、子供達にとって作文というのは人生の土台作りに間違いなく役立つはずである。ただし、作文を書かせさえすれば基礎が築かれるわけではない。子供達のために試行錯誤することにやりがいを感じられる講師がいて初めてそれは現実のものとなる。人が人を育てるのだ。
 今年はこれで最後となります。次回は1月5日です。ありがたいことに、この1年は「ブログを楽しみにしてます」という声をこれまでになく多くいただいたような気がしています。その数をさらに増やそうではなく、今楽しみにしていただいている方々に一年後にも同じように思っていただけるよう、来年もやりがいを感じながらこのブログと向き合って行きます。一年間お付き合いいただきありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

2020.12.15Vol.475 将来の夢

 灘でも開成でもいいのだが中学受験に合格した子供がテレビのインタビューで将来の夢を尋ねられ、「困っている人を助けたいから医者になりたいです」と答える。それに対して出演者が「この歳で、立派な夢があってすごいですね。私が同じぐらいの頃は・・・」とコメントする。この手あかのついた一連のやり取り。少年野球でも少年サッカーでもいいのだが、そこで同じ質問をすると、かなりの確率で「プロ野球選手」、「Jリーガー」などと返ってくる。確か、私も小学校の卒業アルバムに「プロ野球選手」と書いた。そこに深い考えなどない。同じように語る子供100人のうち2人か3人はその目標に向かって日々努力を重ねているのだろうが、その他大勢はそうではない。
 今回は中1の女の子が、新聞に投書する文章を書くという課題を学校で出され、教室で取り組んだのでそれを紹介する。なお、テーマは自由であった。文章を掲載することは本人の、それにまつわる情報について触れることはお母様の許可をいただいている。ちなみに本人は、「載せるのはいいけど、松蔭先生を楽させることにつながるのが嫌や~」と意味不明なことをつぶやいていた。

 2020年9月アメリカ最高裁判所裁判官のルース・ベイダー・ギンズバーグ氏が他界した。
 私が彼女のことを知ったのは、彼女が亡くなってから、とあるテレビ番組で取り上げられているのを見てからだ。彼女は女性差別だけでなく男性差別や人種差別についても関心を向け、誰もが不利にならない平等を目指し、アメリカ社会に大きな影響を与えた。
 彼女の考えは私にとってとても新鮮だった。何改なら、今まで「女性は男性に比べ悪い待遇を受けている」と、まるで女性だけが酷い扱いであるような事しか聞いたことが無かったからだ。私は彼女に尊敬の念を抱くと共に、こうも思った。「彼女のような人が再び現れるのだろうか。また、日本にはこのような人がいるのだろうか」と。多分、答えはどちらもNOだ。居たとしても周囲に潰されて終わるだろう。
 社会には、平等は実現できないから諦めようという空気が流れているように感じる。確かに、平等な社会には絶対にならない。しかし、それで放っておくのは違うのではないか。
 無理だから何もしないのではなく、少しでもやってみたほうが良いのではないか。従来の偽善的な平等ではなくギンズバーグ氏のように真の平等へ力を尽くすような人になりたい。

 亡くなった年月やギンズバーグ氏のフルネームが正確ではなかったので、それに関しては今回掲載するにあたって手を加えた。「社会には、平等は実現できないから諦めようという空気が流れているように感じる」の部分は、初めに書き上げたときには「繰り返し同じことを言い続けていれば、そのうちに社会は変わると思っている人が多い」と現実社会で起こっていることとは真逆のことを述べていたので「それは反対や。言っても変わらないからあきらめてしまってる」と指摘し、それを踏まえて彼女自身が修正を加えた。それ以外にも、どこか一か所指摘したが忘れてしまった。授業時間をオーバーしていたこと、また、私と一緒に細かく修正を加えて掲載されても嬉しさもないだろうと考え、書き直したものにはまったく手を付けなかった。
 月間報告のやり取りを通して「娘に将来の目標ができました」ということをお母様から教えていただいた。その中で「本人自ら、そのために東大の文Ⅰに行って海外に留学するという道筋まで考えた」ということにも触れられていた。「この先、目標は変わるでしょうが」とも書かれていたので、それに対して「もちろん、この先変わるかもしれません。でも、その新たな目標は、今のものよりも素晴らしいものになっているはずです」というように返した気がする。
 ご両親は共に医者なのだが、子供を医者にさせる気はないと以前からおっしゃられていた。当たり前の話なのだが、医者になることを禁止しているわけではない。それを前提にしていないだけの話である。彼女にとって最も身近な職業であることは紛れもない事実である。もし、いろいろ考えた結果、やはり親と同じ仕事がしたい、となれば、そのときはとても良い医者になる気がしている。そんなことを考えていると、パウロ・コエーリョの『アルケミスト』が思い浮かんだ。
 「ワークマン式『しない経営』」の中で紹介されていた『両利きの経営』を読み始めた。余談だが、「この本の装丁、これまで見てきた中で一番かっこいいやん」となった。まだ10ページぐらい読んだだけなので中身に関しては詳しいことは何も分かっていないのだが、両利きというのは「知の探索」と「知の深化」の両方という意味である。要は、経営者は未知の領域を探索し、ただ探しているばかりでもダメなので、これだというものを掘り下げなければならず、それをバランス良く行う必要がある、ということなのだ、きっと。
 自らの足で探索をしようとしても、そこらへんをウロチョロしているだけで終わりそうである。志高塾を巣立った生徒たちが私にいろいろな景色を見せてくれることを願うばかりである。臨場感たっぷりのVRといったところであろうか。もう、生徒たちの夢を獏って食べながら成長して行くしかないな。お後がよろしいようで。

2020.12.08Vol.474 ミクロとマクロ

 コロナが流行り始めた春先の時点で今年は採用のチャンスだと考えた。そのことは以前に述べた。少なくとも今年と来年はそうだ。データは取っていないため感覚的ではあるが、学生アルバイトの応募は去年の倍以上になっている。特に豊中校には下宿している阪大生が飲食業から我々の方に流れてくるはず、と具体的にイメージしていた。学生向けの採用は『バイトネット』というサイトだけを利用して行っている。最近まで『学生アルバイト情報ネットワーク』という名称だったのだが、「ネットワーク」という名の通り日本全国のほとんどの大学を網羅している。2、3年前にそこの担当者に阪大生がどのような業種を選んでいるかを尋ねたときに、「飲食業が多い」と返ってきたのが上のように考えた理由である。得意のA, Bの話にあえて持って行くと、飲食(A)から塾(B)に直接ではなく、途中に別のPやQを挟んで玉突きのような形で塾にたどり着いたのかもしれない。正社員に関しては、通常10、11月ぐらいに一通り就職活動を終えた数名の学生が志高塾という小さなところに興味を持ってくれ、その中から採るといった感じである。ただ、こちらの方は優秀な人がいなければゼロでも構わない。2校だけであれば現状の社員数で十分であり、拡大することが先にあるわけではないからだ。現時点で社員の応募に関しては動きが無い。例年より遅いのだが、公務員試験が後ろ倒しになったこともあり、全体的に時期がずれているのが要因なのであろう。おそらく。
 毎度のことながら前置きが長くなった。「(志高塾にとって)今年は採用のチャンスだ」というのはミクロ的な視点である。日本全体の景気が悪くなるというマクロ的な要因が作用している。よって、私の考えは「自分さえ良ければいい」という身勝手なものに映るかもしれないがそうではない。もちろん、誰かの不幸を喜んでいるわけでもない。日本の景気悪化という前提条件があり、その中でどのようなポジショニングを取るのか、というのを考えた結果である。
 これと同じようなことが中学受験でも起こる。大手進学塾は残り1か月、ラストスパートだからと闇雲に量だけをこなさせようとする(夏を制するものは受験を制す、と何だかよく分からないことを言いながら、夏期講習でもほとんど同じようなことをさせているのだが)。そのようになる要因の1つにすべてを網羅しようとすることが挙げられる。国語で言えば、物語文は得意だが論説文が苦手という子がいる。その場合、物語文の状態を維持しつつ論説文を底上げすることになる。それもただたくさん解かせれば良いわけではなく、できていない原因を掴んで具体的に手を打って行かなければならない。論説文はそもそも小学生が読むようなレベルの文章でないことが多く、記述問題でも抜き出しに近い形で答えようとする生徒は少なくない。それを改善するためには、ほぼ引用できるものであってもあえて自分の言葉で書かせることが有効である。それをしようとすれば、本文を消化するというプロセスが自ずと入るからだ。理解した上で本文の言葉を組み込むのと、よく分からないから本文の言葉を組み合わせるのでは内容に大きな差が出て当然である。逆に、論説文の方が得意という子もいる。それゆえ、大手塾は受験生全員に対して漏れがないように、と物語文も論説文も同じ分量を課すことになる。しかも、それは問題をたくさん解かせているだけで対策でも何でもないことが悲しいところである。算数は代数と幾何、理科は計算分野と暗記分野と言ったように大別できる。仮に各教科で両方とも苦手である場合でも、どちらから手を付けた方が良いかを考え、軸足の位置を決めてあげなければならない。大手塾がそのように全体に網をかけようとしてくれるおかげで、志高塾の生徒は合格する確率が高くなる。より重要なことに焦点を絞ることで、心も体も健康になりその結果頭も冴えるからだ。正に最後の1か月が追い込みの期間になる。
 人には得手不得手がある。私の場合で言えば、マクロ的な視点で物事を捉えることの方が得意である。上の2つの例においても、日本全体の採用状況、大手塾の受験対策を踏まえて、自分たちがどのポジションを取るべきかを決めている。ミクロとマクロは、時間の場合であれば短期と長期になる。マクロ的、長期的に眺める、と言えば格好はいいのだが、単に無駄なことをしたくないだけなのだ。高校時代、定期テストにおいて数学の勉強をやり切らずに(1回は解いたものの、分からなかったものを2回、3回とやり直してすべての問題を完全に理解できたというレベルに達しないままに)当日を迎えたことが何度かあった。同じような状況の同級生が、試験が終わると同時に、次は頑張ろ、と切り替えていることが不思議でならなかった。数学は、単元同士のつながりが強いため、不十分なところがあるときちんと積み上がらないのだ。それゆえ、私はやり残した部分をきれいにしてから次に行くようにしていた。一度の定期テストぐらいであればごまかしはきくが、大学入試レベルでは対応できないからだ。そんな私も受験直前一カ月はさすがにミクロ的な対応をする。よく分かっていないのに飛行機の操縦に例えると次のようになる。これまで目的地を目指して飛んで来て、着陸態勢に入るのがこの時期である。途中で手前の空港に行き先を変更した生徒もいる。いずれにしても、どうにかこうにか着陸させればいいわけではない。できる限りソフトランディングさせてあげる必要があるのだ。それによって、スムーズに次のテイクオフに移行できるのだ。
 2週間ぐらい前から「ミクロとマクロ」について書こうと思っていたので、それがずっと頭の中にあった。書きたいことはもっとあったのだが、最後に1つの話題に触れて終わる。数日前に、イチローが初めて高校生相手に指導を行った。その際、次のようなコメントをした。「緊迫したときは全体を見る。筋肉が緊張するとパフォーマンスが下がるのでそれを避けたい。打撃でもリリースポイントだけを見ると緊張する。全体を見ようとすること」。なお、「リリースポイント」というのは、ピッチャーがボールを放す場所のことだ。おそらく、その瞬間だけに意識を持って行くのではなく、ピッチャーが足を上げて投球動作に入ったときからゆっくりとタイミングを取ることの重要性を伝えたかったのでないだろうか。それはさておき、この記事に巡り合ったとき、ザ・カラーバス効果やん、となった。ちなみに、カラーバス効果とは次の通りである。「ある一つのことを意識することで、それに関する情報が無意識に自分の手元にたくさん集まるようになる現象のこと。 カラーバスは『color(色)』を『bath(浴びる)』、つまり色の認知に由来するが、色に限らず、言葉やイメージ、モノなど、意識するあらゆる事象に対して起きるとされる」。
 上手な意見作文を書けるようにするなんていうのはミクロ的な目標でしかない。目の前のテーマと真剣に向き合うことで、添削を終えた瞬間それが頭の中にきちんとしまわれる。そういうものがたくさんあればあるほど、カラーバス効果が起きる可能性が高くなる。そうなれば、元々もあった情報が肉付けされ分厚くなる。これからも、そういうマクロ的な視点を大事にしながら生徒達とのやり取りを楽しんでいきたい。

2020.12.01Vol.473 ゼロから考えるか、さもなくば、消化し再構築するか

 古本屋で買取査定をしてもらっている間、当てもなくふらふらしていると元サッカー日本代表で今年現役を引退した内田篤人の『僕は自分が見たことしか信じない』が目に留まった。さわやかなイケメンでありながら熱い男。それでいて論理的。それが、私が彼に抱いているイメージであり、彼を知っている多くの人も私と大差はないはずである。有名なエピソードの1つに、代表チームにおいて周囲が本田圭佑の意見を無批判に受け入れる中、後輩でありながらそれに疑問を呈したというものがある。
 買ったわけではないので、本の中身についてではなくタイトルに関する話をしたい。「そうだよな」となった。これも、やはりミニチュア版の話。もちろんタイプA。世の中には間違えた情報が氾濫している。受験に関するものも例外ではない。たとえば、「国語で差はつかない」と言われる。情報源は誰か。大手進学塾である。では、彼らは何ゆえにそのような主張をするのか。国語を伸ばせないからだ。そのような背景があるにも関わらず、お母さんたちの間ではそれが実しやかにささやかれる。ささやかれる程度あれば問題はないが、かなり大声であたかも真実のごとく語られる。お母さんたちを敵に回すと怖いので、これぐらいにしておこう。それがいかに間違えているかをこのブログでも何度か説明したので今回は割愛するが、裏を返せば国語で差をつけられればかなり有利になるということである。
 「自分が見たことしか信じない」と言うのと「人の言うことを信じない」というのはイコールではない。私にとってそれは順番の問題なのだ。自分で見て、聞いて、それらを元にして自分の頭で考える前に、外から情報を入れてしまうと適切な判断ができなくなりそうで怖い。軸がしっかりしている人は、順序を逆転させてもぶれることがないのであろうが、私にそんな芸当はできない。国語の記述問題の丸付けをするときも、まず生徒の答えを見て、自分の頭で考えたことを元に生徒と一通りやり取りし、最後に模範解答をチェックする。先に解答を見てしまうと、生徒の答えを丸ごと受け止めることなく、差異にばかり目が行ってしまうからだ。自己完結するのであれば問題はないが、私は少なからずメッセージを発する立場にある。上のような丸付けぐらいであれば大したことはないが、子供たちに何かを伝えるとき、大事なことになればなるほどより心の深い部分に響かせる必要がある。借り物の言葉でどうやってそのようなことができようか。心の奥の方まで届けたは良いが、実は伝えた内容自体間違えていました、では話にならない。立派な人の言葉だからと盲目的に信じるよりかは、自分の頭で考えたことの方が間違う可能性は下げられるはずである。彼らは私が想像できない領域で思考していることがあるが、私自身は自分の手の届く範囲でそれを行っているため意見を組み立てる過程のどこかに論理矛盾などがあれば気づけるのだ。
 先週のブログを書いた後、実際に読んでみたくなり「ワークマン式『しない』経営」を購入した。本日2度目の「そうだよな」。あまりにもたくさん共感するポイントがあったが、ここでは2つだけ紹介する。まず1つ目。

 人を大切にするという意味で「人材」を「人財」と表記する会社もある。気持ちはわかるが、根本的な改革にはつながらない。

奇しくも、私は2週間前に「『人材部門』を『人財部門』と看板の書き換えを行えば、人を大切にするようになるわけではないのと同様である。」と書いている。盗作疑惑を掛けられそうなぐらい類似している。今となっては、これが自分自身で考えたことなのか、それとも本か何かで読んで自分の頭の中にしまったものなのか定かではない。ただ、何かを改善する必要に迫られとき、自分の頭の中にあるいくつかの引き出しを開けるのだが、その1つがこれである。そして、「やっぱり表面的なものではアカンよな。抜本的な対策を打つにはどうする?」と自分へ真っ直ぐな質問を投げかける。次に2つ目。

 無理な期限を設定すると、締切を守ること自体が目的化し、仕事の質が下がる。期限までにできないとわかると、「達成しないと評価が下がる」「達成しないと恥をかく」など保身やメンツのために、仕事の質をおとしてやりとげたことにしてしまうケースが多い。

月間報告は各生徒の責任者が作成し、西宮北口校のものはすべて私がチェックし、必要であれば修正をお願いする。提出期限を設けているのだが、2年ぐらい前だっただろうか、それが守られないことが常態化していた。決して無理な期限設定ではなかったのだが、とにかくそのようになっていた。それに対してペナルティを課そうか、何字以上(元々字数が決まっているわけではなかった)という縛りを設けようかなど、どうでもいい考えが浮かんでは消えを繰り返したが、期限内に字数の条件だけ満たした適当なものを出されても意味がないのでその方向で考えるのを止めた。今、その問題はほぼ解決した。具体策を講じたわけではなく、優秀な人が増えた結果、余裕を持って仕上げる人が大勢を占めるようになったからだ。余裕を持っていい加減な仕事をする人は少ないので、質も向上している。上のような言葉に出会うと、あのときの自分の判断は間違えてなかったのだ、と安心できる。
 最後に、もう1つ紹介して終わりとする。上の本と並行して須賀しのぶ著『革命前夜』を読んでいる。ベルリンの壁があった時代に東ドイツに音楽留学したピアニストの話である。主人公が、教会で聴いたバッハを弾くある女性のオルガンの演奏に魅了され、真似をするもののうまく行かなかった後の場面である。

 失敗して当然だ、僕はただ彼女の音をトレースしようとしただけなのだから。そんなもの、似合わない洋服をむりやり身につけているようなものだ。僕はお気に入りの服を着て満足かもしれないが、外から見ればひどく滑稽に映るに決まっている。
(中略)
 ならば、あの銀の音を今度は自分のものにしなくては。消化して、再構築するのだ。

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