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2020.11.24Vol.472 ミニチュア版AとB

 前回このタイトルにする予定だったのが、書き進めているうちに違う方向へ突き進んだ。私にとってのあるあるだ。昨日の授業中、「それ、なしなしやな」と生徒に声を掛けてみた。造語の対義語である。一瞬その場が水を打ったように静まり返った後、中学生の女子達から「JK語を使おうとしたけど、失敗した哀しいおっさん」といったようなひどい評価を受けた。めげずにその後も何度か“適切”な使い方をしたもののその度に静寂が訪れた。騒がしいときにこれは使えるな、となった。発見とはこういうものである。
 プレテストの結果を受けて、算数の問題の分析を中学受験生の親御様より依頼された。まず、取れる問題(A)と取るのが難しい問題(B)に大別され、さらにBは、時間を掛ければ解ける(正解させられる)問題(a)と時間を掛けて答えを出しても間違える可能性がそれなりにある問題(b)に分類される、とお伝えした。それを頭に叩き込むべく移動中に車内でお母様からそれを暗唱させられ「エーが・・・で、ビーは~、さらにビーはスモールエーの」といった感じになったため、「エーとビーだらけでややこしかった」と私に漏らしていた。「まさかそんなことさせられるとは思ってないし、パーとかプーじゃふざけてるようになるからなぁ」と返した。大手塾は、過去問やこういうテストを振り返るための説明会で、「これに手を付けた人は落ちました(良い点数を取れませんでした)」などと言うのだが、「結果論ではなく、テスト中に判断できるようにするためにどうしたらいいのか」ということには基本的に言及しない。ある程度の人が見たら、問題に目を通しただけでその判別はできる。もちろん、実際に手を動かしてみたらAではなくBだった、となることはあるが、それはあくまでも例外である。そのセンサーの感度を上げるためには、練習のときに実際に解き切るしかない。その中でaを確実に取れるような正確性を身に着けながら、bの正答率を少しでも上げて行くのだ。それにも関わらず、受験が迫るにつれて一問に時間を掛けすぎないように指導される。なお、国語に関しても、何をすればいいのかの具体策を提示している。我々は批評家ではないので、分析はゴールではなく、改善策を講じるためのファーストステップに過ぎない。ありがたいことにそのお母様から信頼していただき、お子様に私の教えをきちんと守るようにと伝えていただけている。それを分かったうえで、「俺の言っていること、実はほとんど間違えでした、ってなったらえらいことなるな」と本人と話していた。上のようなやり取りがあった後に今回のタイトルを見返してみて「俺、よほどAとBが好きなんだなぁ」となった。
 さて本題。前回、冒頭の段落で触れた「「週2回授業をしていても成果があまり見られないので1回に減らしたいのですが、そのような提案をしてもいいですか?」という社員からの提案とダイヤモンドオンラインの記事「ワークマン式 対面販売しない、閉店後にレジを締めない、ノルマもない」と絡めるはずだったのだがそこまで行かなった。その中でしないこととして以下のことが挙げられていた。

◎社員のストレスになることはしない
 残業しない
 仕事の期限を設けない
 ノルマと短期目標を設定しない
◎ワークマンらしくないことはしない
 他社と競争しない
 値引をしない
 デザインを変えない
 顧客管理をしない
 取引先を変えない
 加盟店は、対面販売をしない、閉店後にレジを締めない、ノルマもない
◎価値を生まない無駄なことはしない
 社内行事をしない
 会議を極力しない
 経営幹部は極力出社しない
 幹部は思いつきでアイデアを口にしない
 
 通常の会社では、社員は8時間労働に1時間の休憩を挟むので9時間拘束されることになるが、志高塾の場合は授業終了時刻の6時間半前に出社となっている。1年ぐらい前までは6時間前であった。「9時間ちゃんといました」なんて言われたらたまらないからだ。タイムカードがあるわけではなく、特に豊中校に私は行かないのでいつ出社しているかも知らない。性善説、性悪説の話ではない。人に見られていなければ手を抜こうとする奴にいい仕事なんてできないから、管理してやらせたところで意味は無いのだ。30分早めたのは、自由な時間を与えたらその分クリエイティブな仕事をすると期待していたのだが、思ったように行かなかったからだ。これに関しては、淡い期待を抱いた私が悪かっただけの話である。なぜクリエイティブな仕事をする必要があるのかと言えば、ルーチンワークしかできない人に勉強を教わる生徒がかわいそうだからだ。仕事の期限に関しては、月1回の月間報告以外は基本的になく、それに関しても遅れたからと言って罰があるわけでもない。
他社との競争。誰も我々のことなんて意識していないので、そもそも戦う相手がいない。顧客管理に関しては、問い合わせの電話があっても、名乗っていただかない方にこちらから名前を聞くことすらない。ナンバーディスプレイになっているため電話番号は把握できるが、それを何らかの形で残しておいてこちらから連絡することもしない。その方にとって我々が魅力的に映れば、いつか連絡をいただけるはずなので。取引先については、ホームページのデザインをお願いしている方の話を1, 2か月前にここでした。開校当初から変わらず、相見積もりを取ったことすらない。
 社内行事と言えば、夏と年末に飲み会をすることぐらいだが参加は強制ではない。会議は少なくともこの1年まったくしていないし、直近の10年で5回もしていないはずだ。ただ、数日前、一度社員を集めて話をしようかなと考えていた。きちんと情報共有しておきたいことがあったからだ。会議に限らず、やる必要のないことはやらない。やる必要がないのだから当たり前の話である。会議形式の方が適していると判断した場合のみ、人を集めるべきである。ご存知の通りすぐに帰ろうとはするものの、毎日出社はしている。今回の記事がきっかけで、出社自体を見直す必要があるのではないだろうか、自分はまだまだ甘かったのではなかろうか、という自責の念が私を支配しつつある。思い付きを口にすることはある。1年ぐらい前に始まった図書委員の制度などはまさに好例である。「息子に学校で図書委員をして欲しかったのですけど」という話を面談で親御様からお聞きして、その場で「じゃあ、志高塾の図書委員にします」と約束した。その時点でそんなものは存在していなかった。思い付きは口にするが、口にしたことは本気でやる。逆に言えば、やる気のないのであれば口にはしない。自分一人だけのことでは済まず誰かを巻き込むのであれば、それは当然の心構えである。
 思いのほか長くなってしまった。ミニチュア版には2種類がある。自分なりに考えて行動したら偶然似通ったものになった場合(A)と、自分で考えることを放棄して安易に真似ごとをした場合(B)。志高塾とワークマンでは規模が違うので、ミニチュア版であることは間違いない。ただ、Aは類似版、Bは縮小版と言い換えることができる。Bを一概に否定しようとは思わないが、楽な方法を探ればどこまでもダウンサイジングする。私の中で、結果としてAになることはあってもBの手段を取ることはなしなしである。

2020.11.17Vol.471 そのようにしたのは一体誰なんだっ!

 半年に1回の面談を終えた。前回はコロナの影響で希望者が少なかったため、1年ぶりに多くの親御様とお会いできた。あるお母様との面談に際して、同席する社員が「週2回授業をしていても成果があまり見られないので1回に減らしたいのですが、そのような提案をしてもいいですか?」と尋ねて来たので、理由を聞いた上で「いいよ」と返した。親御様に受け入れていただきそのような運びになった。背景はこうである。中学受験が直前に迫っているため、秋になってコマ数を増やしたものの本人にやる気が見られず、授業時間が増えただけの状況に陥っていた。ひとまず1回に戻して、質が上がったのを確認できた時点で改めて増やすことを前提とした一時的な変更であった。余談だが、「指示語の指す内容は前にある」と断定的に教える人がいるが、上のような場合もあるので「95%ぐらいは前を指すけど例外もある」と伝えてあげなければいけない。この指示語のこと自体は些細なことであり、わざわざ説明しなくても子供たちは経験的に理解している場合がほとんどなのだが、だから厳密でなくても良いということにはならない。1つ1つの事柄をどのように伝えてあげれば子供たちの中に浸透して行くのか、ということに神経を使う必要があるということを言いたいのだ。小さなことをゆるがせにしないことで、より重要なことにおいて適切なメッセージを発することができるのだ。閑話休題。社員が上のような判断をできたこと、そしてそれを私に伝えてきたことが嬉しかった。そして、それ以上に私を喜ばせたことがあったのだが、それに関しては後述する。
 開校当初、正確には自分でやると決めた時点からどのような塾にしていくかということに頭を悩ませていた。何をどのように教えるかについて考えるのは当然のことなので、直接勉強に関わること以外の部分、どのような組織にしていくか、などの方に意識を向けていた気がする、たとえば、「アルバイト」という名称に関して。マクドナルドがクルーと呼ぶように、何か良いものはないかとアイデアをひねり出そうとしたものの途中で断念。どのような経緯で諦めるに至ったのかは忘れてしまったが、呼び名をそれっぽくしたところで、というところに落ち着いた気がする。「人材部門」を「人財部門」と看板の書き換えを行えば、人を大切にするようになるわけではないのと同様である。『志高塾』も、この『志高く』も気に入っている。名は体を表すと言う。私の場合、体が少しでも名に近づくようにしなければ、という思いが働いていることに少なからず価値を感じている。名付けただけで何かが変わることがないことだけは紛れもない事実である。
 当時流行っていたこともあり『リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間』というのを読んだ。「サービスを超える瞬間」とあるが、私はこの「サービス」という言葉が好きではない。何気なく使っていることはゼロではないだろうが、少なくとも「家族サービス」は一度もないはずだ。男の人が何かをした場合だけ、その言葉が使われるのは明らかにおかしい。何もお母様たちのポイント稼ぎをしたくて、このようなことを述べているのではない。ただ、結果的にそうなったのであれば、それはありがたく受け取らせていただく。”service”というのは、「仕える」という意味の動詞”serve“の名詞形である。一見、下手に出ているようで、「家族サービスしてる俺」というのは明らかに上から目線なのだ。このちぐはぐなところが、私がこの言葉を好まない理由である。そういうわけで、勝手に私がお父さんを代表して、お母さん達へ感謝の意を述べたいと思います。いつもありがとうございます。現時点で、どれぐらいポイントが増えたのか誰か集計してくれないかな。本日2度目の閑話休題。その本の中でも紹介されていたが、各スタッフが上司の承認なく自由に使える予算がある。それが5万だったのか10万だったのかは忘れてしまった。各人の裁量でお客様のために使うことができるのだ。お客様同士の会話に耳を傾けていると実は記念日だということが分かり、サプライズで花束を急遽用意してプレゼントする、などというのがそれに当たる。当時まったくお金が無かったにも関わらず、物は試しと言うことで泊まりに行ってみたが、特段の快適さを感じることはなかった。私の期待度が高すぎたからなのか、それともスタッフが「良いサービスをしよう」としているのが前面に出ていたからなのか。その後、割安のバナメイエビを芝エビと偽って供していたことが発覚して、そんな程度か、となった。それで言うと、今も通い続けている小さな焼鳥屋の方が私は感動した。初めて行ったときに領収書をいただいたのだが、2度目に訪れたときに、会計時に私が何も伝えることもなく、私の名前の入ったものをスッと渡されたのだ。私は人見知りの性格ゆえ、その時点ではまったく会話などしていなかった。これの何がすごいかと言えば、私が再訪するとは限らないにも関わらず、そのような準備をしていたことである。もし、私が一度きりの客であれば、それは誰知ることもなく捨てられるものだったのだ。こういうものに「サービス」という言葉はそぐわない。「気遣い」、「心配り」などの方が断然しっくりくる。
 我々が果たすべきは、子供達を成長させることで彼らの未来を明るくすることであり、親御様に通わせて良かった、と心から思っていただくことである。それゆえ、売上を増やすことなど目的にしていない。冒頭の社員の話は、大事なことが何かを考えたからこそ出てきた意見であった。それに喜びながらも、待てよ、となった。一体誰がそのような環境を作り出しているのか、という問いが私の中で湧き起ったからだ。そして、すぐさま「それ俺やん」となった。と言う、とてもとても良いお話でしたとさ。

2020.11.10Vol.470 United

 2007年の開校以来、2008年を皮切りに都合4回のアメリカ大統領選挙を迎えたことになる。生徒たちが「今どうなってる?」と、その行方を尋ねてきたのは今回が初めてである。勝者が確定するまでに時間が掛かっていることも影響しているのだろうが、単純に注目度が高いのだ。メディアで十分すぎるぐらい取り上げられているので、専門家でもない私がここで何かを述べることはないが、州政府の力が強いことを実感した。日本において県政府などとは言わないので、ネーミングにもそれが現れている気がする。なるほど、そういう州の集まりだから“United States of America”なのだと妙に納得した。でも、「合州国」ではなく「合衆国」なのはなぜなのだろうか。今回争点になった郵便投票に関しては、州によって消印有効の日付が違うことに少々驚いた。私の感覚を持ってして日本人の感覚と呼ぶのはどうかとも思うが、国全体に関わること、しかも大統領を決める選挙なので日本人であれば統一されてしかるべきだと考えるのではないだろう。仮に県政府が存在していたとしたら、きっとそのようになるはずなのだ。
 これまでに「全米50州」というのを何度も耳にしているが、今回初めて「あれ、待てよ」となった。47都道府県と数字が近似していたからだ。そして、このことに自ら気づいた日本人は意外と少ないのではないだろうか、と決めつけて、自分が何だかすごい発見をしたような気分になった。そして、「もしや」となったのだが、運転中だったので赤信号で止まったときに慌てて調べた。中国についてである。残念ながら期待通りの数字ではなかった。省の数は23なのだが、新疆ウイグルやチベットなどの自治区を含めると34の一級行政区が存在するとのこと。一級行政区は都道府県と同じようなものだと考えて問題はないはずだ。40から50の間であれば、私はかなり喜んだことだろう。人口、国土面積に関わらずそのぐらいが管理をしやすい数字なのだ、となったからだ。
 上のようなことを考えているうちに、以前から議論されている道州制に及んだ。アメリカの人口、国土面積は、それぞれ日本の約2.5倍、約25倍である。それらを踏まえると、理論上、日本において管轄の範囲を広げることは可能なのだ。なぜそのようなことを考えるのかと言えば、生徒の意見作文の課題として災害対策を扱うことが少なくないからだ。支援物資の問題は毎回のように起こる。都道府県単位ではなく地方単位で備蓄する倉庫などをいくつか確保しておけば、輸送などもスムーズに行われるのではないだろうか。仮に、兵庫県が災害に見舞われた場合、当該自治体である兵庫県は現場の対応に追われる。隣接する大阪府や京都府に支援する体制が整っていれば、災害の度にどのような対応をするかを一々話し合わなくても済む。私は子供時代社宅に住んでいたのだが、マヨネーズや醤油などの調味料が無くなれば、同じ階段の人に借りに行っていたことを思い出した。しかし、今の時代のように近所付き合いが希薄になれば、各家庭で十分なストックをしていなければならない。今は、コンビニがその役割を果たしているのかもしれないが。点ではなく面で対処できるシステムを構築した方が効率的だということを言いたのだ。
 数字に敏感に反応したのは、志高塾の講師が最近30人を超えたことと無関係ではない。過去に読んだ経営に関する本に、1人の人間が管理できるのはせいぜい30人まで、というようなことが書かれていた。以前は採用してからじっくり時間を掛けて育てるという方針であったが、今は、初めからある程度優秀な人を雇うというように変わっている。採用にそれなりのお金をかけるようになったこともあり、応募人数は格段に増え、そのようなことが可能になったのだ。部分最適の総和が全体最適にならないように、個の能力の集合体が志高塾の教育の質を表すわけではない。個が有機的に結びつくような仕組みがあって相乗効果は生まれる。それを “United ~ of Shikojuku”という形で表現するのであれば、「~」に何を入れるべきだろうか。一番分かりやすいのは”Teachers“。だが、採用する際に「良い先生」を採ろうと思ったことなど一度もなく、常に「良い人」を、である。上手に教えられる先生より、魅力的な人に働いて欲しいからだ。”Persons”だと、単なる「人」になってしまう。”Individuals”とすることで「個」という意味は出せるが、まだ不十分。そしてたどり着いた。“Individualities”。辞書に「個性」とある。

2020.11.03Vol.469 頭を垂れようとする必要なんてない

 ビートたけしと辛坊治郎が好きだ。最近はほとんどテレビを見ないのでビートたけしの近況は知らないが、辛坊治郎に関しては、この夏から始まった『辛坊治郎ズーム そこまで言うか!』を放送がある月から木までの4日間、毎日ポッドキャストで聞いている。2人に共通しているのは、しょっちゅうくだらない話をする、ということ。世間一般でどうかは知らないが、私の中では「くだらない」と「つまらない」は似て非なるもだ。だが、「どっちだったけ?」となる。確か「くだらない」の方を肯定的な意味で用いてきた気はするのだが、もしかして逆だったか、となることがあるからだ。この文章をきっかけにして、今後はその使い分けを明確にする。作文にはこのような効用がある。言語化することで、自分の中にあったあいまいなものが明瞭になり、それが頭や心に刻まれる。それ以外にも、私はこのブログで勝手にいろいろと宣言し、「言ったからにはやらないと」と意志の弱い自分を叱咤することにも利用している。生徒の意見作文も同様である。彼らの頭の整理に役立つことはもちろんのこと、内容によっては「書いて終わりじゃなくて、ちゃんと実践しいや」と声掛けをする。自分で書いてるとき、生徒のものを添削しているとき、ふとした瞬間にしみじみと「やっぱ、作文っていいよな」となる。夏ぐらいに言及したダイエット。4kg落とす予定(あれ5kgだったかな)で一度は4kgぐらいまで行ったのに2kgぐらいに逆戻りして、その辺りをうろちょろしてる。あのとき成績に例えた気がするのだが、正しくそれと同じ。頑張れば4, 5kgぐらいなら行けるが、努力するのも大変だからこれぐらいでいいいか、となっている自分がいる。結果は出せていないのだが、毎朝体重計に乗りながら「言ったからには」となっていること、ファイティングポーズを今なお取り続けていることだけは報告しておく。
 話を戻す。「くだらない話」と「つまらない話」。いずれもどうでもいい内容なのだが、前者にはユーモアがある。「くだらねぇ」と突っ込みながら笑っている記憶はあるが、一方「つまらねぇ」でそういうことは一度もない。無意識レベルで使い分けていたことに今気づいた。2人を好きなのは、私も同様にくだらない話を好んでするからに他ならない。真にくだらないものは、聞き手も話し手も楽しい気分になる。また、私がくだらない話をするのは、それをしようと思えば、それと同等に、それ以上にきちんとした話ができなければいけないからと言うのもある。くだらない話をしても許される人でありたいのだ。子供の頃は空気も読めず、ずっとふざけていたのでよく怒られた。大人になるにしたがってそういうことは自ずと減っていくのだが、悪あがきしてそれに抵抗したせいで他の人よりもそういう部分が残された。それが、いつまでたっても子供だと言われる所以かもしれない。
 先週、海外にいる高3の元生徒から「先生と久しぶりに話がしたいです」とラインが来た。連絡すると、今考えていること、そのための将来の大学選びなどに関する相談であった。細かい内容はオープンにしないが、若者にありがちな「海外は良い、日本はダメ」という考え方に陥っていた。日本の良くない部分を変えたい、ということだったので「それであれば日本を全否定するところから始めるのではなく、今の日本を受け入れた上で、海外の良さをどうしたら加味できるか、という方向性で考えた方がいいんじゃない」というアドバイスをした。それに対しては「確かにそうですね」と納得していた。壮大な夢を語っていたので「そういうことを考えられるのは若者の特権なので、誰かに否定されようが気にすることはない。今思い描いていることを必ずしもやり続けなくてもいいが、現実を知って明らかにスケールダウンした、と思われないようにしいや。俺に刺激を与えるためにも頑張れ」と付け加えた。そして、もう少し具体的になったらまた教えてくれ、と伝えて電話を切った。こういう風に連絡をしてくれるのは私にとってとても嬉しいことである。18歳が43歳に相談するというのは中々無いのではないだろうか。そして、それは先の2つのことと無関係ではないはずだ。くだらない話をすることと、それなりにきちんと返答することの2つだ。前者だけであれば相談したところで何も得られないし、後者だけだと声を掛けるのに躊躇するはずなのだ。
 初めて面談を行ったのは2007年の秋なので13年前になる。そのときは、私と話すためにわざわざ時間を作ってまで来てくださる親御様はいるのだろうか、と思いながら、生徒のファイルに挟まった個人面談の希望調査票を確認していた気がする。あのとき、希望してくださる方がいることのありがたみをいつまでも忘れないようにしよう、と心に誓った。元来が傲慢な性格だからだ。今になって、そんな誓いなどどうでもいいよな、となっている自分がいる。当時と比べて、希望される方も増え、それなりに大事なことの相談も受けるようになった。実った稲穂は頭を垂れようとはしない。自然とそうなるのだ。誰かに頼られる喜びが増した分だけ私の頭の位置は少しずつ少しずつ低くなっていっている。

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