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2020.10.27Vol.468 “better than”でなく“much better than”でもなく

 人は「自分ならこうするのに」、その反対に「自分ならそうはしないのに」といようなことを考える。基準になっているのは「自分」である。子育てにおいて、その「自分」はより強く意識される。
 トップアスリートなど一部の限られた人を除けば、自分と同じような道でより良い人生を歩んで欲しいと願う親は少なくないはずだ。日本人メジャーリーガーのパイオニアとなった野茂英雄の長男は通訳をしていたり、日本プロ野球界で大活躍した落合博満の息子は声優をやったりしている。ピッチャーとバッターの違いはあれ2人ともフォームが独特であり、いわゆるエリートコースを歩んでプロの道に進んだわけではない。自らの才能が傑出していたため子供が自分と同じようになれる可能性はほぼないこと、また、我が道を行ったことが成功につながった(人の意見に素直に耳を傾ける選手であれば、独特のフォームにはならなかったであろう)ことの2点から、子供に野球を押し付けずに自分なりの道を見つけさせて自らの足で歩ませようとしたのではないか。スポーツ以外の例として、プロ棋士について調べてみた。親子でプロになったのは過去にたったの6組しかいない。目指させたもののうまく行かなかったというのもあるだろうがそれ自体少ないだろう、というのが私の見立て。
 「自分と同じような道でより良い人生」というのは、いわゆる「親を超える」というものである。その最たるものが学歴に関するものだ。これは私がよく話すことなのだが、父が阪大卒であり、小さい頃に偉そうに言われるのに納得が行かず、小学生のどこかのタイミングで東大、京大、阪大という並びを知って、自分の方が賢いところを証明してみせるために東大か京大しか行かない、とその時に決めた。当然のことながら、その時点で学部によって偏差値が異なることなどは知る由もない。良く言えばそれを貫いたとなるし、大学受験までの過程でその分かりやすい物差ししか持てていないことに何の疑問も持たなかったところに自らの未熟さが現れている。東大、京大以外に自分にとってより良い選択肢があったかもしれないのだが、その可能性を探ることすらなかった。
 何でこんなことを書こうとなったかと言えば、長男の中学受験に対して「失敗して公立に行くのは全然構わないが、その後につながる明確な気付きは得て欲しい」と考えている自分に気づいたから。私の頃は基本4教科受験であったが、国語、理科、社会は塾で与えられたものを最低限こなすだけで、できるようになるために何か工夫をした覚えはまったくない(算数も得意であっただけで、こちらも特別何もしていなかった)。それが失敗の原因であり、公立高校のトップ校に行くためには全教科良い点数を取らないといけないらしいというのを入学時に知ったので、中1の1学期の中間テストから暗記教科もきちんと勉強した。私が長男に求めている「明確な気付き」というのは、中学受験を通して私が感じたそれで、それ以上でもそれ以下でもない。もし、私が中学受験でうまく行っていればそれが親を超える上での必要条件だと考え、息子をどうにかして第一志望に合格させようとしただろうし、逆に私が高校時代に大きな変化を経験したことがその後につながったのであれば、何も焦る必要はないと中学受験前後の出来事をそれほど重視しなかったはずである。中学受験時の気づきに拘っているのは自分と重ねているからに他ならない。しかし、それは“better than myself”の思考なのだ。
 子供がまだ小さい頃、“much better than myself”となることを願っていた。”better”であれば、同じ道の上を少し早く進ませる手を打つことが肝要になるが、”much better”であれば、人間の根っこの部分を育ててあげることに注力しないといけない。そして、後はどういう花を咲かせるのかを楽しみにして待つ。何を持って良い悪いの判断をするのか、ということになるので、私が求めているのは”much better”ではなく”much more interesting”なのかもしれない。締めに入る前に、Vol.466「原点回帰するとき」を読み返して「私という小さな枠なんかにはめずに面白い人になって欲しい、と願っていたのだ」という一文を見つけた。「おっ、同じこと考えてる」となったのだが、つい先日のことなので当たり前か。2週間前と似たようなテーマを扱ったのだが、それはまだそのことについて考え続けているから。休校中であった父塾は廃校にした。家庭教師の先生には、週2回、各2時間半ずつ算数を教えていただいていたが30分ずつ増やして3時間に変更をお願いした。やれる範囲で手を打って、長男の勉強に全く関与しない状況を整備した。
 この前の日曜日、二男と2人で和歌山県の加太に太刀魚釣りに行った。午後からの乗船だったため、その前にシラス丼で有名な店で腹ごしらえをすることに。駐車場に停めに行く間に先に並ぶようにと降ろした。紙に名前を書くシステムだったにも関わらず、ただ突っ立っていただけなので何組かに抜かされていた。それに対してどう対処しようかと少し考えて、きつめに怒ることにした。「お父さんは、何のために早く降ろしたのか?」、「なぜ、お店の人にどうすればいいのか聞かなかったのか?」、「せっかく来たのに、別の店で食べないといけないかもしれなくなった」などなど。4年生にとって簡単なことではないことを理解した上で、聞く勇気を持てなかったことをなじった。さらに「次は、ちゃんと聞くんだよ」と何度か念押しした。元々、勉強を介してではなく、こういうことを通してメッセージを伝え続けて来た。忘れかけていた子育てに関する自分のフォームを取り戻しつつある心地良さを感じている。

2020.10.20Vol.467 心のゆらゆら

 遡ること約半年、翌日からのGW期間の1週間の休みを控えた土曜日の午後、突如としてオットマン付きのリクライニングチェアが欲しくなった。読書をする際、いつもはちゃんと座るか完全に寝転がるかのどちらかであるため、長時間集中するためにその中間の姿勢がいいだろうと考えてのことである。家具屋を2、3巡ったものの高かったり在庫がなかったり、で諦めることに。結果的にコーナンで安価な座椅子を手に入れて、それをベッドの上に置いて使うことにした。当時は外出自粛期間中であり、近くの公園で子供と体を動かすことぐらいしかできなかったので、それならば、と気合を入れて長編に挑むことにした。春休みに真田家ゆかりの群馬県の岩櫃(いわびつ)城や沼田城を訪れたこともあり、池波正太郎著『真田太平記』を選んだ。文庫本で12冊。その1週間で5冊程度読めれば遅くとも7月中には読破できるな、となった。情けないことに、その期間に2冊と少しぐらいしか読めず、つい先日ようやく7冊目に入ったので遅れに遅れている。
 話は変わる。開校1年目から10年以上のお付き合いのお母様がおられる。人としても親としても先輩であり、今も勉強させていただいている。文章も上手なため、ここでも過去に2度ほど原文のまま紹介させていただいた。前回「起き上がりこぼし」の話をしたが、私の立ち位置は、そのようなお母様たちとのやり取りを通して微調整しながら「よし、ここにしよう」と決められた。私の良い部分も悪い部分もよくご存じのそのお母様から最近いただいた手紙に次のように書かれていた。
「先生は、エスケープをよくしていました、とおっしゃっていましたが、それは先生の潜在意識がご自身を守るために、そしていつか、持って生まれた役割を果たす力をたくわえるために命じたことかもしれないです」
 小学校時代、保健室の先生の目を盗んで水銀体温計をズボンでこすり、上がりすぎた温度を下げるために振って37.3度ぐらいまで落とし、しんどそうな顔を作りながら早退していたのも、中学校時代、「先生、目が痛いので目薬さしてきます」と言って教室を飛び出し、そのまま保健室の先生と話し込んで授業が終わるまで帰らなかったのも、高校時代、天気の良い日に淀川の河川敷まで行って一人優雅にお昼を楽しんでいたのも、誰がどう見ても単なるさぼりである。ただ、それを上のように評価していただけると、少しは頑張らないとな、という前向きな気分になれる。
 1年を通して事務作業が一番多くなるのは夏期講習の時間割を組むときである。正確にはその時だけでそれ以外は大したことはない。夏期講習直前は、複数の親御様から「そろそろ決まりましたでしょうか?」とつつかれながらも「もう少し待ってください」を繰り返し、ぎりぎりになって確定させるということが恒例になっている。ただ、今年はコロナの影響で6月にもっと大きな波が来た。学校や進学塾は翌週の予定すら決まらない状態であったため、それに伴い生徒の時間が何度も変更になった。密を避けるために、ただ空いているところに入れれば良いということでもなかったため、あの1, 2か月はずっと時間割とにらめっこをしていた気がする。もちろん、教室内でコロナが出たときにはどのように対処するのか、というのもずっと考え続けていた。先が見えない中で「自分だけではなくみんな大変なんだ」ということは頭では分かっていたものの、自分の心に潤いが無くなってきている、というのがあった。
 手抜きの性分なので、常に全力投球することはできない。その代わりに、セーブしたエネルギーを勝負所につぎ込み望むべく結果を出せるような人でありたい、というのは10代の頃には意識していたような気がする。そのためには、勝負所を見極める力とそこで実力を発揮する力の両方が必要になる。そして、そのためには心がきちんと動く状態になっている必要があるのだ。心は「がちがち」になっていても、反対に「ぐらぐら」していてもだめなのだ。
 私の場合、本が一つのバロメーターになる。ペースが落ちているとき、推理小説などを欲するときは余裕がなくなっている。あるお母様から春先に『13歳からのアート思考』を薦めていただきお借りしたのだが、『真田太平記』を読み終えてからと意固地になっていたせいで、ずっと手付かずのままになっていた。このままだと1年経っても返せそうにない、となり1か月ほど前に手を付けると、面白くて一気に読み終えた。その1冊を挟んだおかげで、肝心の『真田太平記』のペースも少し上がり、積んであったままの小説も同時並行で読もうという気になった。拘ることと他の方法を探ることの見極めはこの歳になっても難しい。
 先のお母様の手紙にあった「持って生まれた役割」。自分の心を甘やかし続けて来た私だからできること。それは、生徒たちの心が大事なときにちゃんと動くように、動きが悪くなったときにそれを鋭く感知し、親御様と話し合いしかるべき手を打つこと。傍から見ると大したことではないが、悪くない程度に重要なことだと思う。そして、もし、その役割をそれなりに果たせたのであれば、私自身、悪くない程度に満足できるはずである。

2020.10.13Vol.466 原点回帰するとき

 父塾。平日週4日開校予定が、2週目から5日になった。早起きの問題が無さそうなことと起きる時間は一定の方が生活のリズムは良くなるということから早々の変更になった。長男は勉強、二男は途中から本人の意思で週2日外に走りに行くようになり、三男はほとんどの時間を読書に費やしている。こう見えても私は決めたことはやらないと嫌な方である。5日にして子供が起きられなくて4日しかできないということがないように1日分余裕を持たせていた。金曜日を予備日にしていたのだ。5日と決めての4日であれば3日で3日の方が良い。そして4日、5日と増やしていく。「決めたことはやらないと嫌な方である」には「全然ちゃんとやらないじゃないか」という反論が予想されるが、それは私がやると決めていないことなのだ。私は毎日のように「えっ、先生、もう帰んの」という生徒達の大声援を背に教室を去って行く。「遅くまで仕事します」とは一度も誰とも約束していない。さて、件の父塾。誰一人欠けることなく毎日続けてきたものの、先週の月曜日から目下休校中である。
 きっかけは長男が外部テストで例のごとくたくさん計算間違いをしてきたこと。そして、そのことに対して本人が前から何とも思っていないこと。日頃からミスをしているので驚きはない。その一事は引き金というよりかは、その一滴によって満杯になっていた容器から水があふれたといったイメージである。速さと正確性の2つを同時に求められると難しいかもしれない。家では時間を計るわけではなく、テストでも応用問題は解けないので他の生徒より計算問題に充てる時間はあるのだ。確実に点数を取れるところで落としたことを責めたかったのではなく、「計算ぐらいどうにかしよう」と思えないことに私は腹を立てた。もし、計算以外の何かでそういう向き合い方が私に見えれば、計算のことには目をつむったはずである。その何かは勉強以外の何かでももちろんいい。私は親御様からお願いをされたとき、能力的に、もしくは時間的に明らかに難しいということ以外は基本的に引き受ける。その際に経験の有無は判断材料にならない。そもそも親御様自体が、私に経験が無いことを承知の上で相談されることも少なくない。そういうとき、できるかできないかではなく「こんなレベルの期待に応えられない人でありたくはない」という気持ちが働く。ここぐらいまで書いて文章を寝かせておいたら、偶然、読解問題の文章で次のようなものを見つけた。「よくいわれることですが、ユーモアとは自分に対して距離を置くことができるような態度と関係しています。深刻な問題であっても、少し距離を置いてみれば、たかだかこの程度の問題だということで、気持ちが少し軽くなる。それがユーモアでしょう。」これは私の考えていたことと似ているのだが、「ユーモア」という一語が入っていることで各段に力の抜けたものになっている。こういうものを吸収していくことで、私の思考は少しずつではあるが柔軟になっていく。
 休校にするかどうか迷っているときに、二男と三男だけは続けようかな、というのがあった。そちらは休む理由がなかったからだ。そして、長男が教えて欲しいと自らお願いして来たら、そのときにまたみんなでやればいいかな、と。結局そうしなかったのは、そうせざるを得ない状況に追い込んで言わせたところでその言葉に意味はないよな、となったから。弟2人が早起きしていて、受験生の自分が遅くまで寝ているのはまずいとなるに決まっているのだ。「好きな方を選びなさい、と言ったら、あの子自身がそっちを選んだんですよ」というような親御様の言葉には「子供は親が何を望んでいるか分かった上で答えるので、それが本心とは限りません」と伝える。「嫌だったら、受験しなくてもいいのよ」というのが典型的な例だ。「分かった。やめる」という話は聞いたことがない。
 順調なときに「原点回帰」の出番はない。ちょっとではなく、ものすごくうまく行かなくなったときに初めてその言葉は役割を与えられる。おそらく10年ぐらい前にこのブログ(もしかすると、内部生向けの『志高く』であったかもしれない)で、「起き上がりこぼし」を例に取って同じようなことを述べた。ぐらぐらすることはあっても、最後に元の位置でピタッと立つのであれば問題はない、と。元々中学受験をさせる気はなかった。自分が歩んできたのと同じ方向で、かつ私より少しでも先に進めるようにするためにはどうしたらいいのか、という考えで子育てをしてきたわけではない。私という小さな枠なんかにはめずに面白い人になって欲しい、と願っていたのだ。
 私は中学受験をしなくてもいいと考えているのだが、なぜだか私に代わって妻が勉強を教え始めた。教えるというよりかは管理するといった感じか。中学受験を経験したわけではなく、勉強自体をそれほどしてきた方ではないので、どこが大事なポイントかは分かっていない。私がレールを敷いてその上を効率良く走らせるよりかは、妻と二人三脚でやった方が、長男自身が気づけるようなことが多いような気がしている。
 テストの件で怒った後、長男が司馬遼太郎の本を集中して読んでいるのを眺めながら、そこまで心配して先手先手を打つ必要はないんじゃないか、となった。私は、いつの間にかテストの点数を通してでしか長男を見られなくなっていたのだ。元いたところに背筋を伸ばしてまっすぐ立って、これまでより少し高い視座から今しばらく長男を見守っていこうと考えている。

2020.10.06Vol.465 チェック項目

 30直前で志高塾を始めたとき、40になったら新たに別のビジネスをする、と心に決めていた。結果的には、アイデアもお金もなく先延ばしにした。どちらかだけならまだしも、両方無いのは情けない話である。10年もやれば答えのある勉強なんてちゃんと教えられて当たり前で、そんなレベルの仕事をしているだけで子供に偉そうに言う人にはなりたくない。そうならないためには新しいことにチャレンジしなければいけない。29の私はそう考えていた。志高塾と並行しながら、あくまでも志高塾が中心なので、そこで得たものを生徒たちに還元したいというのが自分の中にあった。未だにちゃんと教えられないので偉そうになれるはずもなく、少しずつでも教育における自身の伸び代を減らそうと格闘中である。それが13年後の現在地である。
 40が見えていた頃なので4, 5年前の話になる。ある採用関連会社の経営者といわゆるサシ飲みをした。参加者(私)が2人分の飲食代を払えば、3, 4時間一緒に話ができるというプログラムに応募してのことである。そのときのことはブログに書いた。私は20代前半から、彼の10冊前後の著書はもちろんのこと毎週のメルマガも欠かさず読んでいた。新規事業のアイデアを見つけるきっかけが欲しくて東京まで会いに行った。アイデアを提供して欲しかったのではなく、やり取りする中で、自分の中に眠っている発想の種みたいなものを見つけたかったのだ。それなりに楽しかったのだが、期待していたようなものではなかった。当時のブログはもう少しポジティブなトーンのはずである。彼が大阪で関わっていたビジネスに加わらないかと声を掛けてもらい嬉しかったことなどが影響している。その1年後ぐらいにメルマガの登録を解除した。私の中での賞味期限が切れたのだ。私のことを知らないブログを読んでくださっている誰かと何かのきっかけで会うことがあれば、直接話した方が断然面白い、と思われるような人でありたい。話を戻す。会話の中で、本の活用の仕方の話になった。私は「エッセンスを吸収する」というようなことを伝えた。その「エッセンス」という言葉が「具体的な方法論」と受け取られてしまったのが私には理解できた。だが、当時の私はそれを訂正することをしなかった。誤解を解こうとしなかったことも、なぜあそこで「エッセンス」という言葉を選択したのかも不明である。辞書に「本質的なもの。最も大切な要素。精髄」とある。私は具体的な方法論の根底にある考え方、その底流にある価値観などに興味がある。さて、今回は私が言うところの「エッセンス」について、伊藤祐靖著『国のために死ねるか~自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動』を例に取って説明していきたい。小説『邦人奪還』が面白かったので2冊目に手を伸ばした。ここからは本文の内容を示して、それに対する自分の考えを述べて行く形式を取る。

・この能力を発揮できるか否かは、教育・訓練で伸ばせる部分もあるが、最終的には素養だ。私は心理学に通じていないが、その素養とは、ありのままの自分を晒せるか晒せないかだと思っている。こう思われたら嫌だ、とか、こう思われないように何かをする、という姿勢ではなく、他人の目に映る自分を一切演じない姿勢がどうしても必要だ。(中略)実は、以前から薄々気づいていたのだが、素養のない者が何に弱いのかが判って来たのだ。彼らは自分が信じることができないのだ。

素の自分をさらけ出す勇気などない。すべては無理だが、負の面を少しでも見せられれば、これを露呈し続けるわけにはいかない、改善しよう、という力が働く。時に、私は自信家だと勘違いされる。親御様から意見を求められれた際、分からないことには「分かりません」と答えるが、そうでなければ最善の提案をできるように心がける。それで終わりではなく、きちんと結果が出るところまで責任を持つ。もし、私が自信を持てなければ、親御様や生徒の中に余計な迷いを生じさせる原因を作ることになってしまう。自分を信じられなければ人に迷惑をかけてしまうので、信じられるように考え、行動しなければならない。それによって、自信があるように映ることがあるのだろう。

・ある日、私が「寝技の訓練をバドミントンコートで行う」と言ったら、ラレインが猛反発してきた。
「何で、こんなところでグラウンド(寝技)をするの?日本人は、バドミントンコートで戦争するの?」
「そうじゃないけど」
「だったら戦う場所でやりましょう。あなたが戦うのは、船の上?ならば、もっと狭いところでしょ。海岸?砂も岩もあるわよ。市街地?ビンも棒も転がってるわよね」

(実力)×(実力発揮度)=(結果)
私は長時間勉強できなかったこともあり、足りない実力を本番の強さで補わなければいけなかった。浪人生の頃、いつもはふざけまくっていたが、京大模試のときだけは休憩時間に友達と話したりせずにあえて緊張状態に身を置くようにしていた。教室で生徒たちに過去問を解かせるとき、3分の時間を置かせている。50分のテストであれば、ストップウォッチを53分に設定して50分になったら開始させるのだ。その3分間で気持ちを落ち着け、何に気を付けるかなどを考えるように、と伝えている。小学生がその時間を有効に使うのは容易ではないが、そこに意味を持たせた分だけ、本番で力を発揮できるはずなのだ。

・「でもな、俺たち黒人は、権利をプラカードに書いてデモしたわけじゃない。バスケットだって、野球だって、『やらせてくれ』って言ったんじゃない。白人が、『やってみるか?』と言った時に凄い成績を残してきたんだ。『認めてくれ』なんて言ったんじゃなくて、認めざるを得ない結果を積み重ねてきたんだ。差別をひっくり返すにはこれしかない。主張じゃない、要求じゃない、認めざるを得ない結果なんだ」

この2, 3年は生徒が増えているが、最初の10年は思ったように行かなかった。生徒集めの何かうまい方法はないかな、という邪念が湧き起こるたびに「今いる生徒に良い授業をするんだ」と思い直していた気がする。細かい要因分析をしていないので確かなことは分からないのだが、中学生になってからも通い続けてくれる生徒が増えたことが大きく寄与していることは間違いない。実際、中高生の人数は5年前に比べて約60%増しである。生徒が増えているというのは、それだけ親御様から「やってみるか?」のチャンスをいただけているということである。

 まとめに入る。20代の頃の読書は、知識を増やそう、世界を広げよう、という目的意識が強かった。もちろん、今も分かった気にならずに新しいことを吸収しようとする姿勢は大事にしなければならないのだが、昔に比べると闇雲にそのようなものを追い求めることはなくなった。自分がやってきたこと、やっていることの是非を1つずつ点検しながら、未来のためにどのような微調整をする必要があるのかを考えるきっかけにしているような気がする。

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