
2020.08.25Vol.460 人、人、そして人
今こういうことを書くと、周りの不幸を喜んでいるようで不謹慎な感じがするが、3月初旬に、遅くとも3月15日の時点では確実に「今年は志高塾にチャンスが来る」というのが自分の中にあった。良い人を採れる確率が高まるな、と。当時、騒いではいたものの日本ではコロナの問題がまだそこまで大きくはなっていなかった。ただ、消費増税による景気悪化にコロナが多少なりとも追い打ちをかけるので、企業は採用を絞る方向に出るのは明らかであった。我々のような小さなところは、周りと波長を合わせていてはうまく行かない。時には無理してでも逆に張りに行かなければならないのだ。3月の時点では先は見通せなかったが、売上が下がろうが人件費が増えることをいとわずに突き進む、と心に決めていた。現時点で講師は完全に充足しているが手を緩めない。こういう満たされた状態で採用活動を続けると、採用基準をさらに上げられるという大きなメリットがある。通常であれば採用になるだけの人物であるのに不採用になるというのは応募してくださった方には申し訳ないが、誰にでも良い顔をすることはできない。それは誰にとっても良い顔ではないから。
元英首相のトニー・ブレアが就任した際に、「3つの大事なことがある。それは、教育、教育、そして教育だ」というようなことを語ったのを鮮明に覚えている。あれはいつのことだったのか調べてみたら、1997年で私がちょうど20歳の頃であった。当時、イギリスの景気は相当落ち込んでいたのだが、その場しのぎではなく先を見据えて、国の基礎となる人材育成に力を入れることを宣言した。今の私ならぴったりの言葉を教えてあげられる。「ソレ、サイタンノトオマワリ、ッテイウンデスヨォ」って。在任期間は長かったのだが、彼が教育のことを含め成果を出した印象はない。政治と言えば、これだけ安倍内閣の支持率が下がっているにもかかわらず、一向に支持率が上がってこない野党第一党の立憲民主党が相変わらず与党批判を繰り返すのを見ながら、「自分が党首だったらどうするだろう?」と考えることしばしば。3年でも5年でもかけて人を育てるだろうな、というのがまずある。それが長いのか短いのかは分からないが、少なくとも今のやり方では5年以内に政権を取れることはないので、長すぎることはない。そして、もう1つ、国会の場でどうでもいいことの追及は一切やめさせる。重要議案の審議をストップしてまで扱う話題でないことを持ち出すと自分たちにとってマイナスでしかない。例のごとく分かってもないのに恋愛に例えると、密かに心を寄せていた女の子が彼氏とうまく行っていないときに、その子に彼氏の悪口を一生懸命言い続けても自分が付き合える可能性はない。振り向いて欲しければ自分の魅力をアピールするしかないのだ。そう言えば、浪人生の頃、真夏の夜に小中時代の同級生の女の子から相談に乗って欲しいと言われ、心優しい私は勉強をしたい気持ちを押さえて近くの公園まで話を聞きに行った。彼氏の愚痴を散々言うので、「そうやな、それは彼氏ひどいなぁ」と賛同すると、「あんたに言われたないわ」という言葉が飛んで来た。ちなみに、私は彼女に何の興味もなかった。この流れで話をした上で「俺、勉強していたのに呼び出されて、蚊にたくさん刺されて、挙句の果てに文句言われて帰って来たわ」とまとめると鉄板ネタの完成である。話を戻そう。たとえば、アベノマスクのことについて延々攻め立ててもしょうがないのだ。最終的にいくらかかったのかは分からないが、仮に400億円としよう。その金額だけ聞くと大きく感じるが、国民1人当たりに換算すると400円にしかならない。だからと言って無駄にして良いとはならないが、あくまでも規模間的にはその程度なのだ。他に有効な使い道はないかと私なりに考えてみた。コロナ禍で看護士は大変な思いをしているのにボーナスも出ない、というニュースがあった。現在就業中の看護士は約120万人。コロナ関連の仕事をしている人を15%と見積もると約20万人である。手当として配ると1人20万円となる。その他、日本はワクチン開発の予算が少ないと言われている。現状500億ぐらいなので、そこに400億を上乗せすると約2倍になる。こういう代替案をいくつも出すことが重要なのだ。首相夫人の旅行の話などどうでもいいことは、マスコミの囲み取材のときにでも「そういうことは国民の皆様の判断に委ねます。我々は国民のために何ができるかを真剣に考え、行動することに尽力します」とでも語っておけば、ワイドショーなどが嬉しそうに扱ってくれるのでそれで十分なのだ。
そうそう、お伝えしないといけないことがあるのを忘れていた。親御様から「夏期講習&父塾もあと1週間ですね」とコメントをいただいたのだが、な、な、なんと、父塾の延長決定。思いの他長男が勉強できないことに加え、二男の算数はこれまで西宮北口校で他の講師に教えてもらっていたのだが我が子のために席を確保している場合ではない状況になり、三男にとっては毎朝1時間が貴重な読書の時間になっている。そして何よりも、塾長教えるのがそんなに下手ではないのだ。これまで勉強以外でたくさん話しをしてきたが、勉強を通して伝えられることもある。誰かが「もうお父さんと勉強するの嫌」と言い出したら、父塾たたもうかな。
ブレアが首相になったのは43歳で今の私と同じ年齢なのだ。だから、私も。「(志高塾にとって)3つの大事なことがある。それは、人、人、そして人だ」。
2020.08.18Vol.459 正しさの証明
高校生の男の子(A君とする)が電話してきて「相談したいことがあるのですが、今度の僕の授業のときに先生はおられますか?」といつになく改まった口調で聞いてくるので、「生徒たちのために、教室が開いている限りそこにいるのが俺の役目やろ。しょうもないことを聞くなっ!」と一喝しそうになったのだが、実際に口をついて出たのは「じゃあ、その時間まで頑張っておるようにするわ」という言葉だった。あら不思議。
許可なく詳細をオープンにするのは憚られるので、ぼかしながら話を展開して行く。「大学入学後にビジネスをしたくて、そのためにはお金が必要。友人と2人でブログを書いて、その広告収入で稼ごうと考えているのですが、どう思われますか?」というのがその骨子であった。お母様に「松蔭先生に相談してみたら」とアドバイスされて、私のところに話を持ってきた。こういう風に誰かが自分を頼ってくれるというのは嬉しいことである。
まず「何でわざわざ、A君の文章を読まなあかんねん」とぶつけた。それに対しては、「高校生が、~のテーマで文章を書くのって珍しいので、読んでもらえると思うんです」と返って来た。「~」としているため伝わりづらくて申し訳ないのだが、私に言わせれば、特段珍しいものではない。珍しいと仮定したところで、その「珍しさ」の効力はすぐに失われる。情報があふれている現在、中身がないものを継続的に読もう、とは間違いなくならない。パンケーキがブームになった頃、いくつかの店を訪れたが「また来よう」とはならなかった。おいしくなかったからだ。その他、A君が目標としている短期間でお金を稼ぐことに対して、ブログが最適の選択肢の1つであるとも思えない、ことも付け加えた。
2人でやろうとしていることにも疑問を投げかけた。昔で言えば、ソニーやホンダは共同経営でうまく行った。それはお互いの得意分野が異なり、「営業と技術」と「技術と経理」と言ったように補完し合えたからだ。グーグルの2人の創業者の関係がどのようなものであったかを私は知らない。マイクロソフトに関しても同様である。友人と組んだのかもしれないが、友人でなくても「こいつと一緒にやりたい」、「こいつとならうまく行きそうだ」と思わせるだけの能力を双方が持っていたのではないだろうか。私が伝えたのは、「1人でやる勇気がないから、話に乗ってくれそうな友人を誘った、というのであればうまく行かへん可能性は高いで」ということ。
また、A君が大学入学後に始めたいと考えているビジネスのイニシャルコストはあまりかからない。しかも、文章を書くことと何ら関係が無い。それであれば、ビジネスに直接つながる技術を磨いた方が良い。そうすれば、今の時代クラウドファンディングなどでお金を集めることができる。その他、お金を稼ぐことに関しては「生涯年収」に関する話をした。成果をその都度ちょこちょことお金に変換しようとするのではなく、実力をつけて後から稼げるようになった方がトータルは大きくなるかもしれない、と。
「Vol.455 借り借り」で、「『まだ若いから君には分かんないよ』みたいなことを言われて、腹を立てたのを鮮明に覚えている。」と述べた。「まだ高校生だから君には分かんないよ」と言いたいのではない。A君の発言に対して、私は「なんで?」、「ほんまか?」ということを繰り返した。そのすべてに、とは言わなくても、ある程度は説得力のある返答ができなければならない。それは、今すぐ私に、ということではない。「分かったような顔で偉そうなことをいいやがって」と思ってもらって全然構わない。ただ、自分には嘘をつかないことである。自分自身の中できちんとした答えを持てなければきっとうまく行かない。
私が願うことは、今のその気持ちを忘れずに持ち続けて欲しいということ。大学生のうちではなく5年後でも10年後でも良いのだが、今思っているものと全然違っても彼が何らかの形でビジネスを始めてくれることを期待している。
自分が考えていることに周りの人が自分が望むタイミングで諸手を挙げて賛意を表してくれるわけではない。私が、親御様に何らかの提案をしても受け入れられないことは普通に起こる。当たり前の話である。その場合、結果を出して認めてもらうしかない。そして、それにはそれなりの時間がかかることが少なくない。「正しさの証明」と題した。正しいどうかは分からないので、「間違えていなかったことの証明」ぐらいがちょうどいいのかもしれない。なぜパンケーキがおいしくなかったかと言うと、彼らの中に「おいしいパンケーキを食べて欲しい」という気持ちが元々なかったからだ。「どうやって稼ぐか」を考える前に「自分と関わる人のことを本当に思っているか」の問いに自信を持って「はい」と答えられるのであれば、そのビジネスはそれなりにうまく行のではないだろうか。
2020.08.11Vol.458 もう1つのちょうどいい
前回、もう1つの、それでいて最も重要な「ちょうどいい」に触れるのを忘れていた。それは、私が長時間勉強できなかったことと関係している。こういう話をすれば「要領が良かったんですね」という言葉をいただくことがあるが、生来そんな能力が備わっていたわけではない。
結果と過程における「質×量」の相関関係は強い。両方の値が大きいに越したことはないが、私の場合「量」はどうにもならなかったので、「質」を上げるための手を打つ以外に方法がなかった。それゆえ悪くない程度に要領が良くなった、それだけのことである。これに関してもう1つポイントとなるのは、目標設定である。目標を達成するには、「質×量」の最低ラインを決めなければならない。それを100とした場合、10×10が一番バランスが良いのだが、私は量が8程度であったので必然的に質を12.5以上にしなければならなかった。ちなみに、この質や量の「10」という値は、相対的なものではなく絶対的なもの、つまり各人にとってのものだとイメージしていただきたい。設定さえ間違えなければ誰でもその積を100以上にすることは可能なのだが、残念ながら世の中の少なくない人がスタートの時点でつまずいている。意味も無く高く設定していたり、逆に必要以上に低く見積もっていたりする。なぜそういうことが起こるかと言えば、我々のような子供を指導する立場にありながら「その子をどうにかしてあげたい」という気持ちが無いからである。私の場合、期待の分を上乗せして100より心持ち高めにする。
「それぐらいできるやろ」、「それぐらいやれ」と怒ることは少なくない。言い過ぎたかな、と後から反省することがないわけではないが、大抵は「俺はきちんと見極めたうえで、どれぐらいできるかを判断しているのでこれでいいんだ」と自己弁護する。でも、念のために「本当に、ちゃんと見極められてるのか?」ともう1回ぐらい確認する。結局正解なんて分からないので、大抵は「俺は間違えていない」で終わる。何がきっかけか、先日「自己満足、ってなんでマイナスの意味でばかりで使われるのだろう?」と考えていた。先の「自己弁護」も同様である。「自己満足」も「自己弁護」も最低限の「自己反省」とセットになった上で、それが誰かのために、我々で言えば、生徒たちのためになっていれば大いに結構である。という、これまた自己弁護。
最近、なぜだか生徒と一対一で話すことが多い。めちゃくちゃ説教することもあれば、ただただ諭すだけのこともある。大抵は「〇〇君(〇〇さん)、ちょっと来て、話があるから。あっ、そこ閉めといてね」から始まる。生徒からしたら、閉じられた空間で私と向き合うことになるのだ。中学生以上であれば何とも思わないが、小学生だと「俺に呼びつけられて2人で話をさせられるって辛いやろなぁ」と心から同情してしまう。夏期講習の直前、5年生の男の子がそのような憂き目にあわされた。進学塾の宿題をこなす上で、お母様が勉強を教えられるのだが一緒にするのを嫌がり、かつ自分でやるわけでもないので、「夏期講習中だけ、算数を見て欲しい」と志高塾にお鉢が回ってきた。しかし、それすらも本人が敬遠したので密室行きに。まず、中学入試をするかどうかの意思確認から行った。ちなみに、「意思」と「意志」は、意味はさほど変わらないのだが、後者の方がより強い思いが込められている。「中学入試をする意思がある」であれば「中学入試をしようと考えている」となり、「意志」であれば「絶対に中学入試をする」となる。5年生なので、何もそこまで強く思っている必要はないので「意思確認」とした。
「あの子が自ら~って言ったのに」。特に小学生であれば親の希望を大いに汲み取って発せられた場合が多いにも関わらず、言質として取られていることが往々にしてある。かなりきつい表現を用いたが、親御様を否定しているわけではなく、親子ってそういうものなのだろう。小学生が一人で判断できるだけの材料など持ち得ていないので、親がある程度は導いてあげないといけない。私の役割は、その間に入って親子のベクトルの向きが揃うようにすることである。親御様の意に添うように、子供の首を縦に振らせるだけではなく、必要であれば、親御様に生徒の方に少し寄せて欲しいとお願いすることもある。そうすることが良い結果に結びつくと考えてのことだ。先の5年生からは中学入試をしようという意思は感じ取れたので、「入試をするのであれば、お母さんとの勉強は嫌、自分でもしません、ではお母さんは納得しない。この夏は志高塾でやって、その上で、その後自分にとってどれが良いかを選びなさい」と伝えた。「質×量」の話題のときにこの話を持ってきたのは、何かを選ぶ点において共通しているからだ。ある目標を設定したとき、あれも嫌、これも嫌は通用しない。この件には後日談がある。スケジュールを一度立てた後に、再度3回分の授業の追加を依頼された。彼の志高塾での授業、その他の習い事を考慮した上で、挙げられた3日の候補のうち私の方で勝手に1日削った。そして、「お母さんから3日分の追加の話が来たけど、大変そうなので1日減らして、俺はこの2日間だけ追加してはどうかと考えてる。このことに関して、お母さんにあなたの口からどうするかを伝えなさい。ただ、こういうときに『ぜんぶ嫌』とするのではなく、『こっちはやるけど、こっちはなしでいい?』という風に話を進めないとうまくいかないよ」とアドバイスをした。結果的に2日共に来ることになった。これが「ちょうどいい」と関係している。
中学受験生と大学受験生の勉強時間は中身、その意味するところが異なる。仮に夏休み中のそれを1日8時間とする。まず睡眠時間に差があるので、起きている時間に対する割合が違う。また、小学生の場合はそのほとんどが進学塾の授業と宿題で占められているのに対して、高校生の場合は自習の割合が高い。与えられたものをこなすだけで物事ができるようになるには、プログラムが綿密に組まれている必要がある。たとえば、オリンピックの水泳で金メダルを目指すようなレベルの選手であれば、専属コーチが付き、栄養管理などもしてもらえるが、集団授業でそのようなことは期待できるはずがない。それにも関わらず、「苦しくても与えられたものをこなしていればそのうちにできるようになる」ということを信じ込まされる。こういうときこそ、量をこなせなかった「ちょうどいい」私の出番である。まず、やらされる勉強を6時間に削り2時間余らせる。そして、そのうちの1時間は弱点補強に活用するように促し、浮いた1時間は睡眠時間に充てようが、体を動かそうが何でもいい。同じ8時間でも6時間に自主的な2時間を積み上げる場合、6時間の密度自体が濃くなり、2時間は当然のことながら充実したものになる。そういう時間の使い方をさせてあげたい。
前回短かった分、今回はよく頑張った。さっ、次もやるぞー。ねっ、自己満足も捨てたもんじゃないでしょ?
2020.08.04Vol.457 ちょうどいい
夏限定の父塾。体験授業の生徒も入塾となり、順調に2週目に突入した。前回「恐怖との闘い」というサブタイトルを付けた。これまで私は勉強を教えることを意識的に避けてきたのだが、一方で身の回りのことなどを題材にできる限りいろいろな話はしてきた。子供たちは嫌がることなく耳を傾け、逆に彼らは仕入れた知識を元に私にクイズなどを出してくる。もし、勉強を無理やりさせる父というイメージが我が子の中にできあがってしまえば、その貴重な機会が奪われてしまうかもしれない。そのことも私にとっては怖い。各々が自分なりの価値観を作り上げるための基礎は築いてあげたいからだ。視野を広くし、柔軟な思考ができるようになるためにたくさん話をしてあげる必要があるのだ。先週4日間、今週2日間の計6日間しか行っていないのでこの時点で評価を下すのは拙速ではあるが、親子でも意外と楽しくやれるもんだな、というのが現時点での感想である。
前回、書き始める前の段階で頭の中にあって、文章に入れ込もうとしたもののうまく収められず結果的に削ることになったことがある。今回はそれに焦点を当てて話を展開して行く。
漫才コンビ『相席スタート』の山﨑ケイが「ちょうどいいブス」を売りにしている。それになぞらえると私は2つの点において「ちょうどいい」。本来であれば「ブス」の置き換えとして、何かしらマイナスの言葉を充てなければならない。それゆえ、試行錯誤していた先週の時点では「ちょうどいいできの悪さ」などとしていたのだが、無理にそうするよりは何もない方が自然だと考え、1週間寝かせた結果このようになった。もし、生徒が作文で「ちょうどいい」で止めていたら、添削の際にはそこのところを確認することになる。私同様に意図的にしていたのであれば「それならオッケー」となるし、そうでなければ「感覚的に書くのではなく、もっと細かいところに気を配りなさい」という指摘をすることになる。作文において、そういう部分まで神経を使えない人が読み手を納得させる論理的な意見を述べられることはないからだ。
1点目の「ちょうどいい」について。勉強で苦労している生徒の気持ちが分からないほどに勉強ができることはなかったし、ある程度のことであればかみくだいて説明できないほどできないこともない。どこからどう見ても、教える者として「ちょうどいい」。できずに苦しんでいることには寄り添おうとはするが、その状況から抜け出そうと工夫しないのは理解しがたい。たとえそうであったとしても見捨てることはない。工夫することの意義を説明し、どのようにすればいいかのヒントなどを与えてあげるのが私の役割である。こういうとき決まって「これは勉強だけの話ではない」という言葉を添える。
話は変わる。先日、電話であるお母様から「夏期講習期間中、先生はどの時間帯教室におられますか?」と尋ねられ、「仕事人間なので朝から晩までいつでもおります」と答えてみたところ、お迎えに来られていたお母様がそれを聞いて玄関先でふきだしていた。嘘をついてしまったので「夕方ぐらいまで、いや、昼の早い時間帯の方が確実かもしれません」とすかさず訂正した。これが2つ目。私は雇い主として「ちょうどいい」。もし、私自身が猛烈に仕事をする人であれば社員にもそれを求めたような気がする。しかし、まったく持ってそんなことはないので、どうすれば拘束時間を短くしてあげられるか、ということを私はよく考える。当然のことながら仕事をしなくていいと言っているわけではない。それでは生徒たちの未来を明るくすることはできないし、親御様の期待に応えられないからだ。勉強も仕事も時間ではない。結果を出すために何をどのようにするかを考えることが大事なのだ。時間を短くしたいのであればその分工夫をするしかなく、工夫ができないのであればその分時間は長くなる。時間で仕事をする人は、やる前から「頑張ったけど結果は出ませんでした」という言い訳を用意しているような気がして嫌なのだ。
いつもより短いのでもう少し何か付け足そうとしたのだが、うまく頭が働かなかった。今回はこの長さが「ちょうどいい」ということなのだろう、きっと。