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2020.06.30Vol.452 天秤のもう一方に何を載せるか

 昨日とても嬉しいことが。小3の頃から通い続けてくれている高1の男の子に「楽しそうやん」と声を掛けると、「(読解問題)解くのは楽しいんすよ。別に解けるわけではないんですけど」と返ってきた。「できるかどうかの前に、楽しめるかどうかが大事」と伝えると、それを聞いていた小6の女の子が「えっ、先生、できんでもいいの?」と聞くので、「アホっ。誰もそんなことは言ってへん。ちゃんと考えてできるようになれ」と注意した。その子は読解問題を解いていて、その発言の直前の丸付けでも、選択肢の消去の仕方が甘いことを私に指摘されていたのだ。選択問題は消去法で解き、消去する選択肢のどこがおかしいかを説明できればなければ正解したところで意味はない。「当てはまらないものを選べ」であれば話は別だが、「本文の内容に合致しているものを選べ」であれば、正解は「合っています」の外に余地がほとんど残されていない。一方で削れる方には、「本文とこれこれこういう風に違う」という説明が可能なのだ。ちなみに、「『できるかどうかの前に、楽しめるかどうかが大事』に込められた真意を述べたものを選びなさい」で「できる必要はない」を答えにしたら、もちろん不正解である。これに関して、理想的な順番に並べると、次のようになる。
 1 好きかつできる
 2 できないけど好き
 3 できるけど好きでない
 4 できないから好きでない
ついでに、「私が全然勉強分かってないから教えれないんです」という親御様の発言に関することも同様に順位付けをすると、
 1 教えられるけど教えない
 2 教えられないから教えない
 3 教えられるから教える
 4 教えられないのに教える
いずれの場合も4に関しては納得いただけるはずだ。2と3に関しては、逆ではないか、という反論が予想される。教えることに関して補足すると以下の通りである。
 1 教えられるけど教え過ぎない
 2 教えられないからまったく教えない
 3 教えられるから教え過ぎる
 4 教えられないのに教えまくる
3が2に優先されるという考えは「そのときそのことだけに限れば」という条件付きである。
 スポーツを例に取る。学生のうちはスバ抜けた才能で活躍していたもののプロでは結果を残せない、ということはよくある。他にちゃんとやりたいことがあり、あえてプロの世界に進まなければそのようになるのは当たり前なので、期待されてプロ入りしたにも関わらず能力を活かせずに終わってしまうことを指している。大リーグでも活躍した野茂英雄や上原浩治を「できないけど好き」に当てはめてしまうのは違和感があるので、彼らの場合は「できない」ではなく「高校時代にそこまで目立った活躍はしていなかった」とするのが適切であろう。2のタイプの選手はプロでの活躍の期間も長く、引退後も充実しているような気がする。プロに入る前の下積み期間で、目標の持ち方、それを達成するための方法論などを身に付けているのだ。親子の2も同様である。勉強を直接教えないだけで、教育に関与しないわけではない。ゼロからに近い状態で、どうやったらできるようになるか、などを親子で一緒に考えながら進めて行くので、それなりにうまく行かないことを経験しながら、工夫の仕方を身に付けていくのだ。遠回りのようで、その先の道は広がりを持ち明るさを増す。最短の遠回り。どこかで聞いたような。
 最後にタイトルに関する話をして終わる。文中で説明するのも何だかなぁと思うので、基本的に触れることはない。読み手に分かるか分からないかギリギリのところを攻めたいんだ、などとうそぶいてみるものの、実の所、良いアイデアが浮かばず適当に付けて「誰もタイトルなんて気にしないからこんなんでええよな。俺も読む側のときそうやし」と自分を慰めていることの方が断然多い。ただ、HPに並んだ直近5つのタイトルが似通っているとため息が出そうになる。もちろん、過去の4回を踏まえればそのようなことは回避できるのだが、それではだめなのだ。思うままに付けたにも関わらずバラエティに富んでいるようにしたい、というよく分からないこだわり。
 前回の「たまには」に関して、社員の1人に「あれの意味分かった?」と尋ねると、首を横に振っていた。珍しく国語のことを扱ったのでそのようにした。今回は誰にも理解していただけないだろうか補足を。3日ぐらい前までに「天秤のもう一方に何を載せるか」というテーマで500字ぐらい書き、その後の展開も明確に見えていたのだが、昨日のことを受けて今朝書きたいことが完全に変わってしまったのだ。でも、タイトルはそのまま。こそっとHPを確認すると、過去の4つとは異なるものになっていたから。次回それについて書いた場合、過去の経験上「今度こそ」というようなものになる。それでは理想に近づけない。来週はタイトルもちゃんと考えよ。

2020.06.23Vol.451 たまには

 この1か月で膝から崩れ落ちそうになることが2度あった。もちろん、1つ目は阪神タイガースの開幕3連敗。「もちろん」という言葉を聞くと、「何がどうもちろんなんだ?」となることは少なくないが、この使い方は正しい。と言うことで、昨日、阪神ファンの生徒と「いよいよ明日開幕やな」とその3試合はなかったことにしておいた。
 その事件は、高校2年生の男の子に『最難関高校の国語』という過去問集を使って読解問題を教えているときに起こった。2つ目がそれ。なお、そのテキストには灘や東大寺などの過去問が収められている。語句の意味を問う3つすべて、そして、それに続く傍線部の内容に関するもの、私は選択問題を4連続で見事に間違えた。その後2, 3日は結構へこんでいた。あれから2週間ほど経ったが未だに引きずっている。今、こうやってそのことを思い返しているうちに、待てよ、となった。私ではなくその選択肢が悪かったのではないだろうか、という気がしてきた。きっとそうだ。
中学受験において最難関校を志望する生徒がそこの中学部を併願校にすることは少なくない。我々は、基本的に第一志望校の対策しかしないのだが、5年以上に前に、甲陽を目指している生徒に気分転換も兼ねて滑り止めのその学校の問題を解かせたことがある。今回と同様に私は間違えたのだが、正解を見てもまったく納得できないものが複数問あったのだ。そんな説明のつかない問題を解かせると悪い癖がつくので、その生徒にはもちろんのこと、それ以来その学校の問題を解かせたことは一度もない。今は改善されているのかもしれないが、わざわざそこのものを選ぶ必要はない。他に質の高い問題を解かせる学校があるのでそちらをやらせればいいからだ。ちなみに、灘、甲陽、神戸女学院などはものすごく選択肢がきれいに作られている。それゆえ、“The 正解”と言った感じなので、自分で解いたときに正解できなかったとしても納得が行く。と言うことは、生徒にもきちんと解説できるということである。
 数日前、付き合いの長いお母様が電話で「先生は(生徒の)親の言うことを聞きませんからね」というようなことをおっしゃられた。確かにその通りなのだが、何を求めているかは真剣に汲み取っているつもりである。現在、甲陽に通っている生徒のお父様から受験1週間を切った時点で結構ぼろっかすに言われたことがある。直前の甲陽模試でCかD判定が出て、かつ滑り止めの洛南の過去問を家で解かせても20点ほど足りなかったからだ。お父様から求められたのは、せめて洛南は合格できるように対策をして欲しい、ということだったのだが、私は甲陽一本に絞るべきだ、というのを曲げなかった。国語においては、甲陽は記述問題中心だが、洛南はそうではない。算数も直前1か月だけ頼まれたのだが、その子の抱えていた問題は理解をしているのにケアレスミスが多いことであった。甲陽は時間的に余裕があるが、洛南はすごいスピードで処理をしていくことを求められる。国語は記述の精度を高めること、算数はミスを減らすことが課題であったので、洛南の問題を解かせることはそれにまったく効果がないどころか、算数に至っては完全にマイナスに働く。そのことを説明した上で、洛南の問題を解かせないでください、とお願いした。結果、洛南は不合格で、それ以外に滑り止めとして受けた高槻は合格し、開示された点数では国語が一番良かったため「きちんと力がついていたのですね」というような言葉をいただいた。その彼は中学入学とともに志高塾を卒業したが、今は下の子を豊中校に通わせてくださっている。似たようなことを、これまた甲陽に合格したお母様から言われたことがある。最後の公開テストでも、国語の偏差値が甲陽を受ける子にしては低すぎたからだ。ただ、記述はきちんと仕上がることは間違いなかったので「大丈夫です」と伝えた。甲陽は合格した生徒には開示されないため、実際の点数は分からないが、確か2日間のうちどちらかは「完璧」といった手応えだったこともあり、少なくとも私の言っていることが間違いではない、と思っていただけた。中3になった彼は今も通い続け、下の子も預けていただいている。
 そのお父様やお母様が志高塾にいら立ちを覚えるのも当然である。ここでの「当然」も「もちろん」同様に適切である。ただ、受験前に留飲を下げてもらうのではなく、受験後にそうなってもらわなければならない。親御様と一緒になって焦るのではなく、そういう時こそ本当に大事なことを何なのかを考え、我々は軸をぶらすことなく最善の手を打って行かなければいけない。これまた甲陽を第一志望にしていた生徒の話になるのだが、その子は残念ながら不合格で現在高槻に通っている。高校生になった今も志高塾で学び続けている。合格に導けなかった責任は感じているが、我々がやったことに一定の満足感を得ていただいているので今がある。
 私が間違え倒した、ということに関して、言い訳を並べ立てて話を展開して行く予定だったのだが、例のごとく全然違った方向に話が進んだ。もし、ネットで「志高塾の代表は、国語の問題で間違いを連発するのに我が物顔で教えているらしい」というタレコミを見つけたら「フェイクニュース」と言いたいところだが、このブログのURLを貼られたらおしまいだ。でも、悪いのは私ではなく、選択肢の方なんですよ、もちろん。

2020.06.16Vol.450 オリジナリティに価値を置きすぎリティ

 ここ1か月ぐらいはコロナについて書くことを自粛していた。恥ずかしいので自分の文章を読み返すことはほとんどないのだが、何かのきっかけで目を通すと、2つ、3つと読み進めてしまい「誰や、こんなおもろいこと書くのは?俺や~ん」となる。つい数週間前に読み直していると、短期間のうちに都知事の批判を2回もしていることに気づいた。しかも内容がほとんど同じ。「こりゃアカン」となった。コロナをテーマにし続けると、露出度が高いので知らず知らずのうちにそのようなことが起こってしまうのだ。
 『プログリット』という会社がある。提供しているサービスの説明として、HPに次のようにある。「プログリットは、英会話スクールではありません。本気で英語力を伸ばしたい人のための英語コーチングサービスです。あなたの英語力を伸ばすために必要なこと。それは英会話レッスンではなく、良質な学習です。プログリットはあなたの目標に最短距離で到達するためのノウハウと成果が出るまで継続するためのノウハウを全てお伝えします」。
 興味を持ったきっかけは、彼らが「市販のテキストのみを使用する」と謳っていたから。短期集中型ということもあり料金が非常に高い。そのような意味では、ライザップの英語学習版といった感じである。「ライザップ プログリット」でググってみると、ライザップはライザップでも「ライザップイングリッシュ」と比較されていた。そう言えば、そんなサービスを始めた、というのを目にしたことがあったような。
 コーチングというのは一時期随分と流行った。一般社団法人日本コーチ連盟のトップページで、以下のようなことが述べられている。

 コーチング(Coaching)と聞くと、スポーツの分野などにおいて監督が選手を教え導く、すなわちティーチング(Teaching)をイメージされるかもしれません。しかし、コーチングとティーチングは異なる方法です。
 一般にティーチングは、親・先生・管理職などの立場にある者が、子・生徒・部下などを豊かな知識や経験に基づき、目標達成へと導くための指導方法です。そのため、指示・命令型の答えを与えるコミュニケーションに陥る傾向があるようです。
 一方で、コーチングでは「答えを与える」のではなく「答えを創り出す」サポートを行います。この考え方は「答えはその人の中にある」というコーチングの原則に基づいています。
 
 ティーチングではなくコーチング。これ、怒るではなく叱る、と同じようなにおいがする。どちらも言いたいことは分かる。ただ、先のHPを眺めてみても、方法論のことばかりが並んでいた。どうにかしてあげたい、という思いが無ければそんなものは何の役にも立たない。どうせできない、とあきらめてしまっている子に「やりもせずに投げ出すなんてふざけてんのか。できるまでやれ!」と本気で怒ってあげないでどうする。寄り添ってあげる必要なんてない。どうも、コンジョウイング連盟理事長の松蔭です。くだらない話はさておき、心に響かせるためには、表情をよく見て、言葉を選んで、タイミングを見計らって、適切な強さで伝える。そして行動に変化が表れるまで、手を打ち続ける。もちろん、その子が自力でどこまでならできるかを見極めてあげなければいけない。そのギリギリのところを乗り越えたときに「できた」という手応えが得られるのだ。
 上記HPの文言について、少し触れておく。ティーチングをする立場の者は、実際に豊かな知識や経験を有しているのだろうか。適切な目標設定をしてあげられているのだろうか。コーチングの方では、本当に「答えはその人の中にある」のだろうか。無ければ「答えを持てるようにする」ところから始めてあげないといけないのではないだろうか。
 先日の面談で中学受験生の男の子(A君とする)のお母様が、「(同級生の)B君のお母さんとよくランチをするのですが、『松蔭先生に褒められるときが来るのかなぁ』と2人でよく話しているんです」と教えてくれた。偶然にも、今回2人とも初めて褒めた。ランチも自粛していたとのことなので「もうそろそろ大丈夫なはずです。せっかくだからおいしいご飯を食べて来てください」とお伝えした。B君は、私に何度も怒られ、その度に泣いていた。4年生の頃に進学塾で地獄を見て、新5年生のタイミングで入塾し、6年生になって志高塾一本に切り替わった。面談の際、B君のお母様が「先生、この前初めて習った算数の問題を自分から説明し始めたんですよ」と嬉しい報告をしてくださった。
 今回、「オリジナルという言葉は思いのほか厄介である」ということをメインテーマにする予定で、『プログリット』の話を持ち出した。彼らがオリジナルのテキストを作らないことを評価してのことである。それなのに、話がコーチングの方にそれ、その結果タイトルが行方不明になってしまった。どうにか探し出して、中身とはほとんど関係ないのに元の位置に据えてみた。
 東京アラートなどという、よく分からんオリジナリティを出そうとするから、、、やめとこ。

2020.06.09Vol.449 お片付け

 うまく行かないことが多い、と相談を受け、バシッと一言。「オセロじゃないんやから」。その相談者、できていることの方が断然多いのだが、そうでないことが少し重なっただけで悩みを抱えていた。黒に挟まれたからと言って、白が黒に変わるわけではない。その逆もしかりである。ちょっと良いことがあったからと言って、その他多くの悪いことがチャラになるわけではない。白が多くても黒があれば反省すべきで、黒が大半を占める中、白を手にしたのならそれをエネルギーにして1つずつ白に変えて行けばいい。もちろん、中には黒のままで良いこともあるので白で埋め尽くそうなどと考えないことである。我がことに関して言えば、「いやぁ、この黒がアクセントになってる」などと考えているから、成長の速度が鈍いのかも。結果的に30分ぐらい話しただろうか。9割は私が口を開いていた。最後の方になって「相談するときって、ただ単に聞いて欲しいだけってことあるけど、俺全然そうじゃないな。でも、あれか。黙って耳を傾けて欲しくて俺に相談する人もおらんやろうから、俺はこのままでいいんやろな。じゃ、また何かあったらいつでも言って」。安定の黒である。
 この文章のタイトルを「オセロ」にしてもいいんじゃないか、と思えるぐらいの会心の例えである。人生の中で3本の指に入ることは疑いようがない。ダントツの1位は浪人生の頃。これは随分前に一度書いた。同級生の女の子から「勉強できる人のやり方をいろいろと真似てみるけど、なんでうまくいかへんねやろ?」と理由を聞かれて、私は絵を例に説明した。「自分の左側に山をうまく描いている奴がいて、それを覗き込みながら自分の手元も見ずにそれを真似る。右側を見ると、海を上手に描いている奴がいる。そして、今度はそれを真似る。できあがった、と自分の画用紙を見ると、山と海が混ざったぐっちゃぐちゃなものになってる。それと同じやで」と。そして、「まずは自分が何を描きたいのかを決めて、その2人の絵がうまく見える理由、そのエッセンスのようなものを掴んで自分の絵に生かさなあかん」と続けた。よくよく考えたら、その子、私の絵には全然見向きもしていなかった。なんでやろ?20年以上たって、それが一番の原因のような気がしてきた。
 「ベンチマーク」の話は続いて行く。新入社員のとき、上司や先輩社員がその言葉を最もらしく使っているのを聞きながら、違和感を覚えていた。「ベンチマーク」の説明として、次のようなものを見つけた。「優良企業の優れた手法を分析・学習し、自社に取り入れること」。これって、浪人時代の同級生と同じである。「自社がどうありたいかを思い描いた上で、優良企業の・・・」であるべきなのだ。コロナ対策は、「ベンチマーク」を実践するいい機会である。過去に例がないことなので、うまく行っているところのものは参考になる。ただ、やはりまずは目的を持って(経済と健康のどちらを重視するのかなど)、その上でうまく行っている国、地域の要因分析をしていく必要がある。当時の私の違和感の原因は、「どうなりたいか」が欠如した話を聞かされていたからなのだろう。
 「マッチポンプ」の前に、「需要と供給と価格の関係」の話を挟もう。今回のマスク不足から余剰になるまでの価格の推移というのは小学生でも、実体験を伴って理解できる絶好の機会である。我が子に対しては、ガソリン価格の下落について説明した。工場が動かなくなり、飛行機や自動車での需要も減ったため、値段が下がっているのだ、と。長男には何年か前にみかんの話もした。豊作の年にあえて廃棄する理由を教えた。子供の感覚では、全部売った方が得、となるのだが、市場にたくさん出回ると値段が下がるため、廃棄したりジュースにしたりする。廃棄することで輸送コストも抑えられる、というような説明をした。
 さて、「マッチポンプ」。中国のマスク外交は正にそれである。「マッチポンプ」というのは、自分で火を付けて自分で消す、という意味で、いわゆる自作自演である。また、コロナワクチンを中国が初めに開発したとしたら、それもやはりそうである。数か月間情報を開示しなかったのだから。試験で言えば一人だけ先に問題を与えられたようなものである。
 今回、「Vol.438 ビミョーに大きな差」で話題にした「メディカルシップ構想」にも手を付ける予定であったが、字数が多くなったのでもうしばらくクローゼットの奥の、目に付かないところに押し込んでおく。
 最後に、最近あったすごく嬉しいことを紹介して終わる。7月1日よりコンビニ袋が有料化されることとなった。1年ほど前、環境ゴミをテーマに作文をさせた際に、スーパーの袋の話では当たり前すぎるので他に何かないかと考えさせたところ、生徒が出したものがそれである。添削の際には、一緒にいろいろ考えた。スーパーの袋はゴミ袋として再利用されたりするが、コンビニのそれは捨てられるだけのことの方が多いのではないか。スーパーでもマイバックに詰めてくれることはあるが、コンビニだと購入品数も少ないから「お願いします」と手渡せば、簡単にしてもらえて手間も余計にかからない。一方、箸やスプーンは従来通りいがいい。マイ箸だと洗う必要があるので、それはあまり現実的ではない。その生徒に、松蔭先生から白を1枚プレゼント。

2020.06.02Vol.448 蓋、置いてるとこ知りませんか?

 長い自粛期間を経て、釣りを解禁した。受験生の長男をこの1週間で2回、片道車で2時間、船の上で6時間過ごす船釣りに連れて行った。一昨日、港に帰る船の中で空を見上げながら「今、何時?時間が分かれば、僕、月のある方角分かるよ」と言ってきたので「すごいな」と褒めた。月の形と時間からそれを割り出すのだ。月の満ち欠けを理屈で理解していれば小学生でも難しいことではない。昨日、ラーメン屋で一緒に昼ご飯を食べているとき、そのことを思い出して「勉強って勉強以外のことにも役立つんだね」と言うので、逆だ、という話をした。勉強にしか役立たないのであれば、そんな勉強に価値はない。理科や社会は特にそうである。嬉しいことに長男も二男も学んだ内容をご飯の最中に私にクイズ形式で出してくる。答えられたものはそれに付随することを追加で教えてあげたり、分からなかったものは「どうして?」と逆に質問をしたりする。昨日も長男が、温度の高い星が青白く見える理由を尋ねてきたので、知らなかった私が「教えて」というと太陽の黒点がなぜ黒く見えるか、ということを踏まえて話を始めたので「その2つは関係しているんだろうけど、温度が高いと青白く見えることの説明にはなっていない」と指摘すると、「あっ、そっか」となった。その話はそこで終わり。頭のどこかに置いておいてくれれば十分である。このやり取りに関しては、私の指摘した内容を理解できたことに意味がある。少し補足すると、長男のものは、プリズムに光を通したときの色の見え方を説明するのに虹と同じ、というようなものにとどまっていた。本来であれば「波長の長短によって色の見え方が変わってくる。虹も同じ仕組み」といったように、ある程度原理を説明した上で、身近な具体例を持ってくる必要があった。ちなみに、こんなことは本人には伝えていない。こと受験に関しては、煌々と輝く月もすっぽり覆い隠してしまうほどの暗雲が立ち込めているが、好奇心自体はきちんと育っているので将来的にはあまり心配していない。
 今、すごく強く思っていることがある。1年半後か2年後なのか定かではないが、コロナが終息したときに「元に戻っていてはいけない」ということ。現時点で大それたことを思い付いているわけではないし、今後もそのようなことを追い求めることはない。でも、結果として何か変わっていて、きっとコロナを経験しなければそうはなってなかったよな、と思える何か。傍から見たらちょっとしたもの、でも自分にとってはそこまで小さくないもの、そんな何かを手に入れられないような自分でありたくはない。3か月ぶりに訪れたラーメン屋、以前はカウンターだけだったのがデッドスペースを改修して小さなテーブルが3つ置かれていた。6席増えたというのが変化の内容ではない。それによって、これまであったものの見え方が変わる。そっちの方にこそ意味があるんだろうな、と勝手に思い込んでいる。
 既存の生徒向けにオンライン授業を始めるにあたって、おぼろげながら設定した目標がある。それは海外在住の生徒を10人にする、ということ。3年後にそのようになっていれば上出来である。それには2つの意味がある。オンライン授業の質を高める機会を持ち続けること。もう1つは、海外の教育事情を仕入れること。もちろん、上のことは我々が価値の高い授業を提供した上での話である。生徒が多すぎるとそれに時間が取られすぎるし、少なすぎると我々のオンライン授業は成熟して行かない。そして、そこで得たものを教室での授業にも還元していきたい。教室同様に一対二で授業をする場合、フィンランドとエジプト、アメリカ(東海岸)とコロンビアに住んでいる生徒が一緒に授業を受けている光景を想像してみるとちょっと楽しい。経度がほぼ同じ、つまり時差がほとんどないような地域の組み合わせになっている。現実的に考えれば、そもそも生徒が集まるのか、ということがまずあって、集まったとしても実際はアメリカ同士、中国同士、ということになる可能性が高い。アメリカでも東海岸と西海岸、中国でも沿岸部と内陸部であれば同じ国でも全然違うことが分かって、それはそれで面白い。そう考えると、国内も北海道と沖縄の生徒だけを対象に集めるのもいいかもしれない。オンライン限定の生徒はまだ1人もいないのにイメージだけが膨らんでいく。2, 3年前になるだろうか。私が帰ろうとすると、何人かの生徒たちが「えっ、先生もう帰るん?」と一斉に聞いてきたので、「コーナンに行くんや。はよ行かな閉まってまうから。『アイデアが溢れすぎて困るから、それを止める蓋ありませんか』と店員さんに聞いてみるわ」と答えながら家路についた。
 しょうもない話はさておき、半歩踏み出した。オンライン授業に切り替えていた高校受験生が6月から通塾を再開することになり、そのタイミングで受験対策のために週1コマ追加することになった。そして、その1コマ分はオンラインになった。2コマ通うのは時間的に厳しい、そうかと言って2コマともオンラインと言うのもどこか違う。間を取ったことになる。中間と言うのは、得てして中途半端であることが多いのだが、すごく効果を上げられる気がしている。3か月前にはなかった選択肢である。
 どうしよう。このブログを読んだ親御様から遠くない未来、「先生、ようやく蓋を手に入れられたんですね。」なんて言われちゃったら。意味を理解するのに一瞬の間があって、その後半泣きになりながら「んもう、こぉかばつぐ~ん!」と返して、やけくその笑いだけは取りたいな。なぜだか、そのセリフをIKKOっぽく言いたい自分がいる。

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