
2020.05.26Vol.447 これ、代わりにならないかな?
中高生が取り組む意見作文用の教材の1つに『毎月新聞』がある。著者の佐藤雅彦が日々の生活の中で感じたことを毎月1回文章にし、それらをまとめて1冊の本にしたものである。全部で50話弱ある。つまり、その数だけ生徒は作文をすることになる。胸を張って言おう。この教材の作文のテーマはすべて私が一人で決めた。それを前に頭を抱えている生徒を時々見かける。理由を尋ねると、十中八九「何を書いていいか分かりません」と返ってくる。「どれや、見せてみ」と自作の課題を眺めてみて、「ほんまやな。どうしたらええんやろな。作った俺にも分からんわ。でも、それって当たり前やねん。だって、これって俺が文章読んで、2, 3分でパッと思い付いたのを問題にしているだけやから。そらそんなんも混じってるわな。まあ頑張れ」と励ましの言葉を掛けて、私はその場を去って行く。
10年ぐらい前になるだろうか。環境問題に興味を持って欲しくて、手塚治虫著の『ガラスの地球を救え』を教材として使おうと、かなりの時間を掛けて何人かで記述問題などを作った。しかし、期待したような効果が見られずに結局半年から1年ぐらいでカリキュラムから外した。今回文章を書くに当たって、「時間を掛けたのに使わなくなったものもあるのに、その逆もある。その違いは何だろうか?」と考えた。出した結論はこうである。「『ガラスの地球を救え』はテーマに対する手塚治虫の意見がしっかりと書かれているが、一方、『毎月新聞』はそういう結論めいたものがない。それだけに本文に縛られずに発想を広げやすいのではないだろうか」。ちなみに佐藤雅彦は教育テレビで放送されている『ピタゴラスイッチ』の監修をしている。
前置きが長くなったが、今回はそのうちの1つ「勝手な約束」というタイトルの話を読んで、中3の男の子が書いたものを紹介する。本文では次のようなことが述べられていた。「筆者が会社の先輩と外を歩いていると、向こうから同じ会社のバッジを付けた見知らぬ人が歩いてきた。2人は言葉を交わすこともなくじゃんけんをした。そして、敗者が勝者に1000円を渡してすぐに別れた。実は2人は仲の良い同期で、新入社員のときに『これから一生、会った時には必ずじゃんけんをして負けたらその場で千円払う』という約束をしていたのだ」。筆者はその約束のことを「プロトコル」と言い換えていた。なお、辞書に「プロトコルとは、コンピュータ同士が通信をする際の手順や規約などの約束事」とある。それに対して私が用意したのが「既に自らが他者との間に築いている独特のプロトコルに関して、もしくは、このようなプロトコルがあれば面白いのではないか、という想像に関して、四百字程度で作文をしなさい」である。どうぞ。
僕の家族は四人構成だ。いつも母と弟が話し続けている。僕と父は指名で聞かれた時しか基本的に喋らない。だから、この二人だけになると沈黙になる。そして、喋っても盛り上がらないことは明白だ。こういう場合は一度喋って沈黙になると気まずくなるケースが多い。よって僕と父の間のプロトコルは二人のときは沈黙である。つまり、気まずい沈黙を防止するために黙るのである。さて、このプロトコルは話し合いで決まったものではない。というのも、どちらも用がない限り口を開かないので自然発生した。よって、このプロトコルは僕が勝手に認識している。だから、父は二人きりで沈黙で気まずいと思っているのかもしれない。しかし、その線は薄いと思われる。なぜなら、用があって話しかけても反応が遅いことが多いからだ。それは、相手に意識がいっていれば起こらないはずだ。沈黙は喋る内容を考える必要がないので双方の性にあっており最適だといえる。
原文のままである。授業の際にもまったく加筆修正をしなかった。100回に1回あるかないかの話である。もちろん、より良い内容にするためにできることはある。でも、その時の私は、それをしたくなくなった。途中「よって、このプロトコルは僕が勝手に認識している」という一文を読んだとき、「これじゃあ、プロトコルとは言えへんやん」と心の中で突っ込んだのだが、その後に説得力のある根拠が述べられていた。それに感動して手を入れたくなくなった。
彼は新4年生になるタイミングで入塾したので、5年以上の付き合いになる。毎週話す機会はあるのだが、実は先週、あえてこの場を通して彼にメッセージを伝えようかと思ったのだが、入れ込むところが無くてやめた。その数日前にお母様から、彼自らこの『志高く』をブックマークして、毎週読んでいる、という嬉しい報告を受けていたからだ。思わせぶりなことを書いたが、その内容は大したものではない。「マッチポンプ」や「ベンチマーク」という言葉に関して、具体例を挙げながら説明しようかな、と考えてみただけの話である。彼がまだ小学生の頃、「先生にあこがれているんです(そこまでの褒め言葉だったかは忘れたが)」と教えていただき、「私なんかじゃなくて、もっともっと上を目指してください」というような返答をした記憶がある。過去に、お母様から何度か次のような話をいただいている。「今日も、松蔭先生から授業と関係ない話をたくさん聞いた、と満足そうに帰って来ました。ありがとうございます」。普通であれば「ありがとうございます」ではなく「ちゃんと授業をしてください」となる。ちなみに、下の子が入塾するとき、「志高塾に求めること」の欄に「松蔭先生の雑談」とあった。雑談のうち3割ぐらいは、単に笑いが取りたいだけの本当にくだらない話なのだが、それ以外は何かを伝えたくて話しているつもりである。もしかすると、これまでの雑談が今回の作文に生きたのではないだろうか。きっと、そうだ。
彼の授業は明日あるのだが、これから月間報告を作成しなければならない。「ブログを参照いただきますようお願いいたします」ではさすがにまずいか。
2020.05.19Vol.446 引き算から始めよう
「自粛疲れ」が叫ばれているが、「調整疲れ」も相当なものではないだろうか。
私は名目上「経営者」ということになるが、経営しているという感覚はほとんどない。売上や利益のことをほとんど考えないからかもしれない。個人的な話で言えば、物欲がないわけではない。プロのスポーツ選手や芸能人などが、あえて身の丈以上の家に引っ越したり高級車を購入したりすることで自分にプレッシャーをかけるということがあるが、私には当てはまらない。彼らは結果を出すことで報酬が増えるわけだが、私の場合、志高塾で結果を出さなくてもそれが可能になるからだ。少なくとも一時的には。親御様を不安にさせて、必要でない授業をどんどん勧めればいいだけの話なのだ。その上で、講師もぎりぎりで回せば当然のことながら利益は増える。志高塾において、結果を出す、というのは生徒の考える力を伸ばして(もちろん、それによって成績も上がる)、親御様に満足感を得ていただくことに尽きる。そのためには、働いている人たちがやりがいを感じられるようにしなければならない。私にとって数字と言うのは、そういうことをどれだけ実践できたかの結果でしかない。一般的な人より数字に強いだろうし、データを効率良く管理している自負もある。実際、データ作成のための入力作業は毎月1時間も必要ないし、出て来た数字を5分も眺めはしない。数字よりも自分の感覚が大事だ。それは生徒の成績に関しても同様である。もし、私自身が生徒の成長を実感できていれば思い通りに成績が上がってこなくても「俺の感覚がおかしいのか?」とはならない。そのうちに間違いなく結果が出るようになるからだ。その逆もある。手応えがないにも関わらず結果が上向き、親御様から「志高塾に通わせて良かったです」と感謝の言葉をいただいてもまったく喜べない。すぐに落ちるのが分かっているからだ。その上下動で本人も親御様も精神的なダメージを被り、前進するエネルギーが奪われてしまうだけに厄介である。一喜一憂が一概にいけないわけではない。私の場合、自分の感覚と生徒の成績UPにずれが無ければ素直に喜ぶ。それは私の心の中だけの話であって、生徒に対してどう表現するかは別である。「ちゃんとやったから結果が出てん」とさらなるやる気を引き出そうとすることもあれば、「1回ぐらいで調子に乗るなよ」と油断を戒めることもある。
「コロナ疲れ」は「将来の不安疲れ」を除けば、ほぼ「自粛疲れ」と「調整疲れ」で占められている。そして「調整疲れ」は、「物理的なもの」と「精神的なもの」に大別される。似たような規模、形態の塾の中で、3月以降の売上減少率の大きさでかなり上位に食い込める自信がある。逆説的な表現になるが、売上をそれなりに減らしたことで、ここ数か月間は「経営している」という実感がある。もし、私が売上を維持することに拘泥していれば、「調整疲れ」は今とは比べものにならなかったはずだ。学校の先生は大変である。休校の期限が延長されるたびに、スケジュール調整しなければならないからだ。本来は引き算から始めないといけないのに、やるべきことを残りの期間で割りに行くから夏休み返上や7時間授業などという話が出てくる。寝だめができないように、子供たちは休みだめなどできないのだ。今、先生達は夏休みにどのように授業をするかを考えているのに、その期間に予定通り授業が行われることはない。そうなると、また割り算のし直しである。ひと月ほど前に、中学受験生の親御様に「5年生で成績が下がったのに、6年生もこれまで通り塾のペースに合わせてうまく行くはずがないです」という話をした。6年生の分量はどれだけ少なく見積もっても5年生の20%増しにはなる。それに加えて、5年生のマイナス分も埋めないといけないのだ。進学塾は無意味に量をやらせるので、その余計な部分を引いてあげれば、相対的な順位は間違いなく上がっていく。
引き算から始めて良かったとつくづく感じている。それによって、精神的な調整疲れはほぼゼロだからだ。プラスの要素の方が圧倒的に大きい。学校が休みなので授業を増やしたいという要望やオンライン授業の要望をいただき、それに応えることができているからだ。もし、通塾できない生徒すべてにオンライン授業を勧めていたら、めちゃくちゃになっていた。今回のことがきっかけで、新たに何人かのお母様がこのブログを楽しみにしてくれていることを知ることができたのも私にとって大変嬉しいことである。そのような数少ない親御様だけは何としてでも引き算されないようにしなければならない。
あきられないように頑張りますので、温かく見守ってやってあげてください。
2020.05.12Vol.445 俺、政治家いけるかも
あるお母様が、府知事の力強い目を見ていると先生のことを思い出します、とおっしゃったので、「私の場合、単に目付きが悪いだけです」と返した。いいえ、眼力があるんです、とのことだったので、真に受けて喜んだ。今、メッセージのやり取りを見直してみると、私の、目付き悪い発言の直後のコメントが「それだけではないですよ」となっていた。ん?
前々回の、二男の「まぶたが重い」を受けて、中学受験生の女の子が「それを読んで、私は舌を巻きました」と伝えてくれた。面白半分であっても、そういう風に実際に使ってみることはとても良いことだ。私も新しく仕入れた言葉や情報をこのブログなどで積極的に用いている。それによって自分のものになるのだ。後日、その子が「松蔭先生は、非の打ちどころがない」と実に適切な人物評価をしていたので「よう分かっとる」と褒めて遣わしたのだが、入試本番で意味を問われ「魅力がまったくない」を自信満々に選んで帰ってきたらどうしましょ。一応、次回意味を確認してみようかな、一応。
その子と同級生の私の長男も受験生である、一応。これまでにも何度か書いて来たが、元々受験をさせる気はなかった。その理由を3つ挙げると次のようになる。
①生徒を放り出して、自分の子を優先しないか心配だったから
②勉強を嫌いになって欲しくなかったから
③考えるのを嫌いになって欲しくなかったから
家から遠くもなく、授業料も安く、学校のレベル的に我が子に適しているということで、池附を第一志望にしていたのだが今は大阪星光に変わっている。自らの意志でそのようにしたのではなく、他の多くの子供同様、親の私がそのように導いたのだ。池附は問題自体が簡単なので、同じ勉強をするのであればもう少し難しいものにチャレンジした方がいい、との判断からである。家庭教師の先生に(算数の)過去問を試しに解いてみたらどうか、と勧められていたようで、いつの間にか時間を計ってやっていた。なお、志望校の過去問は夏休み前に1回、夏休み後に1回、その後10月ぐらいからある程度コンスタントに、というのが私の推奨するやり方である。夏休みの勉強の方向性を定め、その成果を確認し、追い込みをする、という流れである。解き終えた長男が、私に何点か当てて欲しい(予想点数の±5点以内であれば私の勝ち)というので、問題も答案も見ずに(120点満点中)15点と予測し、私は負けた。7点だったから。結果を聞き、「もうちょっと頑張らなアカンで」と伝えて終わり。やり直しをしたのかどうかも知らない。その後数日、我が子のひどい点数に関してなぜ自分の心が動かないのかについて考えを巡らせていた。そして分かった。私にとっては、親御様との約束を守ることや親御様の期待に応えることこそが大事なのだ。我が子を中学受験に合格させることなど誰とも約束はしていないし、合格させることを誰からも期待されていない。だから、合格するかどうかは私にとって特別重要なことではないのだ。もちろん、親としての責務はある。それは、大人になったとき、社会で通用する人間、必要とされる人間、人の役に立つような人間に育てることである。今朝、長男と教室に向かう車の中で、例のごとく『飯田浩司のOK! Cozy up!』を聞いていた。すると、その中で自民党の国会議員が「大阪府の自粛解除基準は感染者ゼロの岩手県や3人の鳥取県に当てはまらないから全国一律の基準は設けられない」というようなコメントをしていたので、「やらない言い訳をしているだけで、こんなアホな意見はない。そんなのは当たり前の話なのだから、各都道府県が参考にできるように、都市、都市近郊、その他の地域など3つぐらいの基準を国が作ることが必要。お父さんの言っている意味分かる?」と問いかけた。過去問の点数が悪くても特段何も感じはしないが、上のような話をした際に「そんなこと考えて何の意味があるの?」などと返すようなら、間違いなくブチ切れる。ちなみに、細かい勉強の話はしないが、「うまくできないことがあったとき(点数が悪かったときなど)に、何がダメだったのか?次に同じことが起こらないようにするにはどうしたらいいのか?を考えて、行動することが大事」、「(朝から夕方までずっと遊んでいるのを見て)自分のやりたいことだけをやっていればいいのではない。そういう気持ちを押さえる練習をすることに受験勉強の意味はある」というような話はする。今日の帰り道、学校の先生が以前けがをした話を私にした後に、「仕事中のけがということは労災がおりるの?」と尋ねてきた。なぜそんな言葉を知っているのか不思議に思い聞いてみると「Z会で勉強したから」とのことだった。こういうことにとても満足してしまう自分がいる。
上で、私が②と③を挙げているということは、裏を返せばそういう子供を私は少なからず見ているということである。もちろん、受験勉強を通して、知識が広がり思考の柔軟性が増している子もいるが少数派である。我々の役割は、合格に導くという親御様の期待に応えるだけではなく、勉強を通して考える楽しさを少しでも感じさせて、それをエネルギーとして考える力をつけてあげることである。
生徒のことを後回しにしないだろうか、という心配は杞憂に終わった。と言うことは、政治家になったら間違いなく賄賂をもらう、というのも同様かもしれない。だが、私はもっと大きな問題を抱えている。上の人の言うことを聞けない、という。そうなると、小さな政党のトップを目指すしかない。今であれば、れいわ新選組の山本太郎か、NHKから国民を守る党の立花孝志と言ったところか。しばらくは、小さな塾のトップとしてがんばろうかな。