
2017.03.21Vol.294 第1弾「わたし、嘘つきじゃないでしょ?」
第2弾「わたし、嘘つきじゃないでしょ?」が予想通り好評だったため、早くも第1弾。「あれっ」という疑問はさておき、私が好評と考える理由を挙げる。1つ目は、高校生の女の子が「いい内容やから、これ読んでみ」とお母さんから勧められた、と私に報告してくれたこと。そして、もう1つは、今日、別の親御様から「あの文章は良かったですね」と評価していただいたこと。わざわざ私の方から「どうでした?」と聞いたわけではなく、自然と私に届いたものが2つもあれば十分。
なぜ、前回が第2弾で今回が第1弾なのか。それは、今回のものが先に提出されていたから。レポートして提出されたものを読んで「これは面白い」となり、電子データをメールで送ってもらったのだが、それが前後した結果、それに伴い順番もひっくり返った。すごくどうでもいいことに拘りタイトルを付けた結果、すごくどうでもいい説明を読んでいただくことに。今回の講師は、内容からも分かるようにそれなりに社会人経験を積んでいる。では、お楽しみにください。
志高塾の理念は「よりよい教育をより多くの人に」だが、このよりよいという言葉の背景には今に満足することなく常に一つ上を目指していこうとする向上心がうかがえる。だからこそ今目の前にあること、取り組むことを大切にして全力で向かうという思いが強く感じられる。
これは顧客に何かを提供する側にとってあたり前のことのようだが実は継続していくのは非常に難しい。物づくり産業であれば物の質と量、コストを追求する直接的な努力で利益につながることも多いが、教育というのは目に見えにくく、間接的な働きかけによって成果を求められる。その中で教育内容の品質を管理しながらよりよいものを提供し続けていこうという並々ならぬ覚悟が含まれる理念なのである。
私は現在大人を対象とした小さな教室を運用しているが、継続していく中で上記の理念と共通している考えが多くあると感じている。これでいい、と止まった時にすべてが終わること。目まぐるしく変化する環境の中だからこそ、人としての在り方からぶれない軸を持ち続けることの重要性に目をむけていることなどである。将来期待する人材像を考えるにあたり、まず私が企業で経験し感じてきたことから述べたい。
企業戦士だったころ、私は一流大学出身で出世街道を歩くエリート社員を多く見てきた。上司や部下になることもあった。表面上はスマートに振る舞い、いかにも難しい言葉で演説する上司もいた。世間の認識通り、ある程度までは学歴で皆から一目置かれるのだ。しかし徐々に周囲の期待からはずれ組織コミュニケーションがとれないまま異動・退職していく元エリート社員の背中を見送るうちに、学歴と仕事の出来とは関係ないということを実感した。
むしろ、高学歴というフィルタを通してしか接することのない周囲からの期待は無意識に本人への無言の圧力となることが多い。コミュニケーションに苦手意識が強い場合は更にストレスになっていく。テクニカルサポートのコールセンターでCS指導していた頃、入社当初一流大学出身と一目置かれていたコミュニケーターが緊張のあまり自分の知識を一方的に伝え続けるという極端なやりとりをして、顧客からクレームの嵐を一手にもらっていた。しかも頑固に自分は悪くないと主張するので応対品質が全く改善しないのだ。
組織内の役割に関しても同様である。管理職は文字通り管理する役割であるが、一方でリーダーという部下育成の役割も期待される。勤怠や業務管理、評価の他に部下の特性について興味を持って見出し、個別に成長を促す。自組織の目標を明確に掲げて一人ひとりにわかるように落とし込み、それがかなう言動が見られた場合は速やかに認め、周知して組織の共通認識を深めていくことが求められる。
これまで周囲からの人望が厚く確実に出世していく上司の共通点を見ていると上記のことができているのだ。成果も継続して上がっている。(管理中心の組織は成果が徐々に低迷しやがて失墜していった)高学歴は社会の入り口付近では効き目があるかもしれないがそれだけに頼っても生き抜けない。
つまり学歴が高い人物が組織にいるから成果が上がるのではなく、成果を上げ続け向上し続ける組織には「よりよい仕事の進め方(情報共有力)」を意識できる人材がいるのだ。今何に取り組んでいるのか、その意味はどんなことか。それをすることによって何を得ようとしているのか。この共通認識を折に触れ時に触れて諦めることなく伝え続ける力。これは組織のどこにいるからという役割の違いではなく基本的にその人のベースに備わっている力である。
現代社会の中では常に「自分の考えを他者にわかるように伝える」ことが求められている。しかし、簡単そうでこれ程難しいことはない。なぜなら、まず「自分のことや考え」がよくわからないからだ。人のことは見えるが自分のことはわかっているようでとらえるのが難しい。
しかしその伝える力はAIの社会進出を受け入れざるを得ない人間社会において、これから最も望まれ必要な力である。直近のロボット社会を目前にして生き残るためには、人にしか生み出せない発想や豊かなイメージ力をもって自分の軸がぶれることなく他者に伝え続けられる力が必要であると思う。
そして私はそのベースを育むためのトレーニングが志高塾の教育に含まれていると感じたのだ。すぐに明確な成果が表れたり大きな行動変容がみられるわけではないかもしれない。しかし、時間をかけて積み重ねたものは簡単に失われることはない。まして成長期というスポンジのようにあらゆることを吸収できる子どもたちが対象なのだ。
作文を書くためには言葉を選ぶ必要がある。その言葉はどこから生まれるのか、それは本人の内側からである。どうやって生み出すのか、本人の内側の対話から取捨選択して生み出すのである。選択するためには言葉の数を豊かにする必要性があるが、それは知らなかったことを知る喜び、好奇心を満たしていく学びの楽しさにつながる。自分で言葉を選択できるということは、自由であるということだ。自由に選べる状態でいられることは本人自身のぶれない軸を作り続ける原動力なのだ。
ここを素通りして逃げたり人の言葉を借りたりし続けるとやがてその力は弱まり、流行や人の評価に大きく振り回されることにつながる。志高塾に子どもさんを送り出して下さる保護者の方は作文指導を通してこの辛抱強いやりとりを託し、学びを喜びとしつつ強固なベースを作り上げることを期待されていると考える。
将来どのような道を選ぶにしても、それは自分の目で見て。自分の耳で聞いて、体感し納得して選ぶ人になって欲しい。学びを楽しみ好奇心を持ち続ける人でいて欲しい。生きていることを実感し、自分の居場所を作れる人になっていけば自然と人が集まり大きなことも成し遂げられる人材になると強く信じる。