
2018.10.30Vol.372 その質問が嫌なんじゃない
「Vol.359 研修レポート3部作」でも取り上げた研修課題のレポート「志高塾に通う生徒に将来どのような人材になって欲しいか」について、最近大学生が提出したものをここで紹介させていただく。
志高塾に通う生徒にどんな人材になって欲しいか。この問いに対する答えをすっきりと出すのは難しいことだった。なぜなら、これについて考え始めたとき、こういう人にはなって欲しくないという思いばかりが浮かんだからだ。読書をすることの豊かさを知らない人にはなって欲しくない、頭でっかちな人にはなって欲しくない、すぐにへこたれる人になって欲しくない。しかし、ここでもう一度問題を見直してみると、「将来どのような人材になって欲しいか」とある。人材という言葉から、この問いには社会との結びつきが前提にあるように感じた。そこで私は、志高塾に通う生徒に現代社会でどう役立って欲しいか、そしてどう生き抜いて欲しいか、を考えることで表題への答えを出すことにした。
まず、現代社会を生きる私たちにはどのような力が必要かを考えてみる。これはとても大きな問いだが、一番に私が思いつくことは、情報を選別し、自らの目的達成に役立てる力、だ。私は今まで、情報化社会に関することをよく耳にしてきた。小学校の頃から総合学習の時間などに聞かされ、ニュースや新聞で主張されているのもよく見かけた。これは、情報が溢れる時代になっていることを私たちが自覚しているからだろう。この力も情報リテラシーという言葉で表現され、一般的になってきている。しかし、つい最近、大学の授業で情報社会に関する新しい意見を聞いた。その授業の先生が言うことには、現在の社会では様々なものの移り変わりが速く、それに対応していくには学び続ける必要があるそうだ。例えば、ここ三十年ほどでパソコンが一気に普及した。それに合わせて仕事や勉強の場面でもパソコンを使えることが当たり前に求められるようになった。手書きからワープロ、そしてパソコンへと対応し、使いこなすことが社会での活躍につながった。これは当たり前のことだと思われるかもしれないが、社会の人々は案外このことを意識していない。意識的にこれを行うことに意味があると考える。
このように、次々と進化する技術や、めまぐるしく変化する状況に対応することがこの社会で生きるために重要だ。そしてそれができる人になるには、自分の課題を解決するために必要なものを見つけ、学び続ける必要がある。ここでの「学び」とは学校などで半強制的に行われる学習ではなく、自らの意思で自発的に行われる学習のことを指す。学校での教育がおおよそ、社会に出るための準備という目的で行われるのに対して、社会に出てからの「学び」はあくまで自主的で、個々人に任せられていると言える。そのため、このような、社会に出てからの学習は、無意識のうちに行なっている人と、できていない人とがいる。先述した例に結びつけると、パソコンを使いこなして自分の課題解決に活かしている人と、使いこなせず本来の力を発揮できていない人がそれぞれにあたる。その例は仕事や勉強の場面のみならず、生活の中にもある。高齢者の一人暮らしを例に挙げてみる。お年寄りの中には、重い荷物が持てないために、近隣の住民についでに買い物を頼む人がいる。しかし、それを申し訳なく思って十分な量を頼めないことや、自分は人の厄介になっていると気に病んでしまうことがあるという。このような場合、もしパソコンが使えたら、スーパーのインターネット注文サービスが利用できる。それができれば、人に遠慮せず買い物ができるのはもちろん、自分の力でできたと、自立性を取り戻すことができる。このようなことが豊かな人生につながるのだ。つまり、学校教育を終えても常に自分に今必要なものを考え、学習を続けられる人の方が充実した生活を送ることができ、ひいては社会での活躍につながると言える。
ここまで、情報社会に生きる私たちに必要な力について考えてきた。そして私はそれを、生涯学び続けられることだと結論づけた。これには、既述した通り、自発性が必要だ。私はこの、自発性を持っている人、を今回の問いの答えとする。このような人は豊かな人生を送れるのに加えて、自分の置かれた状況に応じてその場で役立つにはどう行動すべきかを考えられる。また、自分がやりたいことを見失わずに生きていける。私が冒頭で述べた、どう役立って欲しいか、どう生きて欲しいかという問いの答えを自分で見つけられる人になって欲しい。
そして、これは親御様がそれぞれのお子さんたちに対して抱く願いと一致するのではないか。私は、親が子に習い事をさせるのは、その子の可能性を広げるためではないかと考える。もちろん、具体的な成果を期待するのが当たり前だが、大きな意味では子どもの人生のためだと言えるのではないか。子に対して、こうなって欲しいという思いを抱くのは、その子のより豊かな人生、ひいては社会への貢献を願ってのことだと考えるからだ。それならば、私が今回出した答えを意識して、志高塾の講師として働くことは親御様の思いに応えることにつながると思う。
この作文で私が出した答えは、人生を通した壮大なものになってしまった。一介のアルバイターの力でそんな人材に導けるかはわからないが、その人を形作る経験の一部には確実になるだろう。そして私にとってもそれは同じである。そのことを意識して働きたいと思う。
体験授業に来られた親御様に「どんな先生が教えられているんですか?」と聞かれることは少なくない。それは至極真っ当な質問である。この場合の「どんな」というのは、大学生かそうでないのか、ということである。正直に告白すれば、この問いには瞬間的イラっとする。それは、その問い自体に対してではなく、尋ねられた親御様に対してでもない。では、何に対してか。他の塾に対してである。一緒にされることが嫌なのだ。志高塾の大学生とは違う、という自負が私にはある。その一つの証として、このような形で時々大学生の文章をお見せしている。
今、朝井まかての『眩(くらら)』を読んでいる。葛飾北斎の娘、絵師であるお栄が主人公の物語だ。「そうそう、そうやんな」と納得した一節を紹介して、この文章を締めることとする。
絵の世界は過酷だ。人となりが悪くても巧いものは巧いし、人が良くても一生、芽が出ないものもいる。ただ、五助がいつか筆を持つようになれば、悪達者にだけはならないだろうと、お栄は思う。小手先の巧さで満足して、適当に茶を濁すような絵だけはあの子は描くまい。