
2017.12.19Vol.331 思い通りにはいかないけれど
思い通りにいくこともあるが、残念ながらそうならないこともある。後者の場合も「短期的には」ということで「長期的には」どうにかしようと対策をしては実践していく。「思い通り」のスタートラインはどこか。それは、もちろん「思い」があることである。そして、それは「思いを込めた思い」でなければならない。
先週の水曜日、6年生の男の子が願書とともに提出する志望動機をチェックして欲しいと持ってきた。その内容を要約すると「海外で3年間生活した。そのときに文化の違いを肌で感じた。だから、中学校ではそのようなことを学びたい」となる。英語に力を入れている学校を受験するのだ。
「いつ海外にいたん?」
「幼稚園のころです」
「書き直し」
どこの幼稚園児が文化の違いを感じるのか。白色人種の中に黄色人種が1人だけであったためにいじめにあった、であれば分かる。そのような経験があったわけではない。また、いじめにあったから文化を学びたい、とは通常ならない。いずれにしてもおかしいのだ。「誰も小学6年生がすごいことを考えてるなんて思ってないんだから、背伸びせずに素直に書きなさい」と伝えた。
その2日後の金曜日、別の男の子の文章をチェックした。それは、前日に「先生、一度確認してもらえませんか」とお願いされてのことだった。その子が受ける学校を専門にしている塾があり、2ヶ月ほど前からそこにも通い始めた。余談だが、専門にしているのが最難関校であれ、ある学校だけをターゲットにするのは好ましくない。価値観が固定化されるからだ。話を戻す。依頼のきっかけは、子供自身がそこでの国語の授業を「意味がない」と言っていたから。子供の「意味がない」ほど意味がないものはない。大抵の場合、子供はそれを判断するに十分な材料など持ち合わせていない。さて、その肝心の作文のテーマは「国際交流のために、英語などの外国語を習得すべきか否か。立場を明らかにした上で意見を述べなさい」というものであった。それは次のように締められていた。「ぼくは、英語の勉強をして全体損しないといいきれる。なぜならもしいきなり、日本で外国人に道を聞かれたらすぐ答えれて気持ちいいからだ。」これに対して「よく書けた」という言葉とともに、まったく修正が入らず丸をもらえていた。誤字脱字で言えば、「全体」は「絶対」であり、「答えれて」はら抜き言葉になっているので「答えられて」としなければならない。我々も見落とすことがあるので、人のミスを偉そうに指摘するのはどうかとは思うが、これが入試に向けた対策であることを考慮すると、やはり慎重さに欠けるし、そもそも「ら抜き言葉」、「い抜き言葉」というのを知らないのではないだろうか。それ以上に問題なのは結論である。これであれば、道を聞かれたときに答えるために英語を勉強するということになってしまう。彼は小さい頃から英語を学んでいるのに、それではあまりにも貧相ではないか。私が、その作文を見て簡単にアドバイスをしたのは、海外旅行に行ったときの具体的な経験、意思疎通ができて嬉しかったこと、逆にまだ自分の力が不十分で悔しかったことなどを説明する必要がある、ということ。
彼が「意味がない」と感じていたのは、「こんなので丸をもらえるような勉強は意味がない」ということだったのだ。もしかすると、読んでいてある疑問が浮かんでいるかもしれない。「志高塾で作文を勉強してきたのではないのか?」という。そう、彼は約2年間学んでいる。ただ、それは、基本的に要約作文と読解問題である。要約作文の書き方を身に付けただけで、意見作文が上手に書けるようになる子供もいれば、その2つが結びつくように指導してあげないといけない子供もいる。後者の方が明らかに多い。意見作文は基本的に中学生になってからする場合が多い。理由は2つ。1つ目は、意見を述べるに十分な下地がないから。2つ目は、中学受験の対策として読解問題に割く時間が多くなるから。でも、彼のように受験でそれが必要な場合は、少し前倒ししてその対策を我々が行う。
自分たちにもできていないことはあるのに、人の揚げ足を取るような批判はするべきではない。でも、冒頭で触れたように「思い」がないのだ。そういうのを目の当たりにすると怒りがこみ上げてくる。