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2017.05.30Vol.303 卒業作文

 前回お伝えした通り、彼の文章を紹介する。理想を言えば、初めに書いたものをそのまま掲載するのが良かったのだが、一度添削をした。でも、それはこれまで同様、私の役目は「具体例をもう1つ付け加えた方が説得力が増す」、「これでは真意が伝わらない」といったように、修正箇所を指摘するだけ。これに関する私の感想は次回綴る予定である。では、お楽しみください。

題;『人生を”書く”』

「白は、完成度というものに対する人間の意識に影響を与え続けた。(中略)白い紙に黒いインクで文字を印刷するという行為は、不可逆な定着をおのずと成立させてしまうので、未成熟なもの、吟味の足らないものはその上に発露されてはならないという、暗黙の了解をいざなう。」原研哉の『白』という本の一節である。
 これは東京大学の2009年度の国語の第一問の題材として使われており、過去問を解いた際に目にしたのだが、やけにすっと内容が理解できた。小学4年から高校3年までの約9年にわたって志高塾で作文を書いてきたが、インクではなく鉛筆を用いるという違いこそあれ、作文も同様の意識を抱かせるからなのだろう。
 といっても、志高塾に入る前の僕の作文は小4らしく、単なる備忘録としか言えない代物だった。そんな僕が、まずは『コボちゃん』、『ロダンのココロ』を通して、与えられた内容を自分の言葉に書き換えることを学んで表現力を伸ばし、その後は、新聞などを読んでの意見作文をしていく中で、その表現力を活かしつつ自分で文章の内容を構築する練習を積んだ。そして、その過程で様々な思考をめぐらした結果、僕は多くのものを得た。
 第一に、自分の考えに対して客観的な目線に立ったあら探しができるようになったことが挙げられる。ここで、このことに関連して、1年以上たった今でも未だに記憶に鮮やかな出来事について述べておきたい。僕は高校生になったころから漠然と、医療の側面から社会貢献したいと考えており、その一案として、老人ホームのあり方を変えようと考えていた。つまり、都会のコンクリート造りの建物に押し込めるのではなく、自然に囲まれた土地で、老人たちがもっと自由に生活を送れるようにした方が彼らの活性化や彼らを知的財産として見る文化の普及に貢献できると考えたのだ。そしてある時、この夢について書くことになり、僕は「どこか都会から離れた田舎の町や離島に老人ホームを建て…」と息巻いたのだが、松蔭先生に「都会から離れすぎてたら、肝心の都会に住む老人が来てくれへんで。まずは東京郊外の自然豊かな場所などで試してみないと。」と指摘された。このときは目から鱗で衝撃が走ったものだったが、このように端から見ると半ば明らかな欠陥にも、その考えに誰よりも心酔している考案者自身が気がつかないというのはよくあることである。その点、一旦ひいて物事を考えられるというのは、今後の人生で様々な計画の立案をするときなどに役に立つのであろうと考えている。
 ところで、松蔭先生から勉強方法などについても紹介して欲しいと頼まれたため、それらの根幹をなす、僕が大事にしてきた考えを一つ述べておきたい。それは、自らの個性を育み、他人の個性を受け入れることである。この考えは、日本有数の個性派ぞろいの環境で中高の多感な時期を過ごしたことに由来するのかもしれないが、僕はとにかく個性的であることの重要性をひしひしと感じてきた。群衆の中にまぎれていては大きなことは成し遂げられない。良い意味で人と違っており、オリジナリティのある発想ができて初めて大物になれる。ただし、ここでいう「良い意味で個性的」とは悪目立ちしたり、諸手を挙げて大衆に迎合するのではなく、”普通のやり方”が自分にとって有効かどうかを常に疑い、あまり自分に合っていないと気づいた時にはすぐに独自の方法に切り替えることができるような状態を指している。
 そして、このような考えに基づいた具体的な勉強方法を挙げるとすれば、たとえば英語では、文節ごとに区切って文法事項を逐一記す方法が、精読よりも多読を要求する東大の試験で点数を取るのに不適だと考え、まわりの友人が全く触れていないような大学の過去問にもあえて手を出してほぼ流し読みし、演習量を積むなどの一風変わった勉強方法をしてみたりもした。また、勉強方法だけでなく、塾の選択にもこの考えは一貫して現れている。僕は中1の初めに、正直周りに流されて大手学習塾の体験授業を受けに行ったのだが、遊ぶだけ遊んで最後の2年ほどで成績を急上昇させるというスタイルが自分に合っていると中学校受験を通して感じていたため、詰め込み型の塾に6年も通ったら自分が潰れてしまうと考え、同級生の大多数とは袂を分かち入塾しなかった。しかし、ただ周りの流れに意地でも抗おうとした訳ではなく、自分のやる気が高まり、その塾の高レベルの環境を最大限活かせると感じ始めた高2の初めになって入塾し、結果的にはその後成績は急上昇した。最終的にそのような手段が良い結果を招いた直接的な原因だったのかは正直不透明なところもあるが、とにかく必要とあれば皆と別の道を行くという選択肢を持ち続けてきたことは自負している。
 そして、僕にとって作文とは、「自分見つめの手段」でもあった。というのも、松蔭先生は常日頃から、「自分なりの意見を述べないことにはその論題についてしっかり考えたとは言えず、作文をする意義が無い」とよくおっしゃっていたものだが、これに留意して取り組むとなると、否が応でも自分との対話が必要となってくるのだ。まず、意見そのものを自分との対話の中で見つけ、文字におこすことが必要になるし、その意見を論理的に裏付けしようと思うと、自分のバックグラウンドについて考察し、その意見の出所を探ることも必要になる。これらの作業は確かに骨の折れるものではあったが、今から思えばこの過程こそが、自分という人間を理解することにつながり、ひいては自分の個性を伸ばすことにもつながっていった。
 ところで、これからの人生はまっさらな原稿用紙と同じである。そこには自分のアイデア次第で何でも書ける反面、そこに何かを書くとき、失敗をしまいとすると相当な吟味が必要となる。まさに作文。
 とはいえ、作文とは異なり、人生では消しゴムが使えない。これは一見、ミスが許されない厳しい条件のように思えるが、僕は最近これを好意的に捉えている。というのも、引き返せると思うと、何かの問題に直面した時にどうしても及び腰になるが、引き返しがつかないからこそ背水の陣を敷き、本気で覚悟を決め初志貫徹しようという決意を抱くことができる。そして、この固い決意さえあれば、どのような高い壁にぶちあたっても、それを突破でき、その先に非常に大きなものを得ることができるように思えるのだ。もちろん時には半ば無鉄砲な挑戦をし、惨めに敗れ去ることもあるだろう。だが、壁に突っ込んでいかない限り、その壁が破れる可能性はゼロなのだから、未知のことにも飛び込んでいく挑戦心だけは忘れずに生きていきたい。
 これまで述べてきたように、作文は僕という人間を形作る上で確実に大きな役割を担っており、大きな夢や理想の人生像をも見せてくれた。そんな夢を実現できていることを祈るとともに、一つの成功に満足せず、目標を達成する度にまた新たな目標を見いだし更なる高みへと上っていく人生を送りたい。作文は自分にとって達成しがいのある新たな目標を見いだすための頭のまわし方を教えてくれた。あとはそれをまわし続けるだけである。
 Success is like reaching an important birthday and finding you’re exactly the same. (Audrey Hepburn)*
最後にはなるが、十八歳の僕には深すぎるこの言葉を何十年後かの自分に贈っておく。いつか、この言葉の意味を真に理解し、さらりと言ってのけられるような日がやってくるならば、僕は願った通りの人生を歩んでいることだろう。

*成功は誕生日みたいなもの。
待ちに待った誕生日がきても、
自分はなにも変わらないでしょ。(オードリーヘップバーン)

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