
2019.05.28Vol.399 社会人経験者バージョン
これまで、研修期間中の大学生のレポートをここで何度か紹介してきた。それは、体験授業などで「教えているのは大学生ですか?」という質問を時々受けるから。裏側には「大学生=いい加減」という図式がある。志高塾の学生は違う、ということを分かりやすく伝えるためにそのようにしてきた。一方で「社会人経験者=信用できる」というのも事実ではない。他の塾のことを言うのもどうかとは思うが「学生講師はいません」みたいなものをHPで謳っているのを目にしたりすると、「受験産業にどっぷりとつかって、私は分かってる、みたいな顔して偉そうに勉強教えられてもなぁ」などと突っ込みたくなる。ただ、社会人経験があればある程度の文章を書けてしかるべき、というのがあるので対象外にしてきた。今週は月間報告に追われていること、また、半年に一度の面談も始まったこともあり解禁とした。
では、「志高塾に通う生徒にどのような人材になってほしいか」というテーマに関するものをどうぞ。
新卒で入った金融機関を退職してライターに、つまり「文章で収入を得る仕事」に就いてから、20年以上になる。小学生の頃から国語は好きだったし、とりわけ作文や感想文は得意だった。だが、その能力を商売道具にするという発想は、大学生の私になかった。いくら野球やサッカーが好きでも、プロ選手になれる人が一握りであるのと同じように、「好き」という動機で子どもが頑張った程度の文章力など、社会に晒されてしまえば人並みの評価に収まってしまうものだと決め込んでいたのだ。
ところが、会社員になってみると、私の固定概念は少しずつ崩されていった。野球やサッカーをしなくても仕事はできたが、日本語を使わないで過ごせる日など一日たりともない。ことさらに「文章を書くぞ!」と意気込んで紙に向かうことは稀だったが、訪問先に礼状をしたためたり、上司への報告書を作ったり、会議用のプレゼンテーションを準備したりといった日常業務の中に、文章は必ず含まれていた。そうした作業を苦にする先輩や同僚を後目に、私は淡々とデスクワークをこなすことができた。国語が得意であることは、英語が話せるほど華のある能力ではないけれど、決して無駄にならない能力だった。
そしてある日、秘書の女性が放った言葉が、私の概念を覆す決定打となった。
「Aさん、もっと外交に行ってよ。報告書が面白いから、読むのを楽しみにしているの」。
ノンフィクション小説を書いていたわけではない。ただ、商談の場に同席していない人が読んだとき、その場の様子がよくわかるように努めていただけのこと。ところが、本来いるはずのない「読者」がいたのだと知って、私の意識はガラリと変わった。文章が、情報伝達に便利なツールである領域を超えて、人の気持ちを動かすコミュニケーションツールにもなるのなら、その可能性を試してみようじゃないか、と。報告書作りに熱を入れたのはもちろん、プレゼンをするときは敢えて配布資料に書かない部分を残しておいて口頭説明のキラーワードに使うといった演出もほどこした。役員や上司たちの受けは上々。顧客の反応もよくなり、人事査定も最高ランクに上がった。
そのまま会社に留まって、文章力を活かしながら出世する道もあったかもしれない。しかし私は、小さい頃から学習へのモチベーションを支えてくれた「文を書くのが好き」という気持ちと、もっと文章を使って色々なことを切り拓いていきたいという欲に従って、文筆業の道へ進むことを決めた。当時、27歳。もっと早くに気づけなかったものだろうかという後悔が、未来ある子どもたちに文章を教えたいという思いにつながっている。
プロの物書きになり、同業者が「ペンは剣よりも強し」と口にするのを何度か聞いた。書く力を研ぎ澄ませていけば、剣より切れ味の鋭い武器になり、大きな力を敵に回してもやりあえるという意味だ。ライター業を長く続けてきた私が、志高塾の生徒にこの言葉を教えるとしたら、「武器どころか凶器にもなる」という怖さや、「誰かと一緒に使えば楽器にもなる」という楽しさについてもセットにして伝えたい。なぜなら、彼らが生まれた平成という時代には、失言を繰り返した大臣が辞任したり、クラスメイトの心無い一言の積み重ねが若い人を自殺に追ったりといった悲しい出来事もあれば、TwitterなどのSNSを通じて善意の寄付が集ったり、勇気あるカミングアウトが多くの人に勇気を与えたりといった明るいニュースもたくさんあったからだ。これから令和の主役となる生徒たちには、言葉を交わす労を惜しまず、他人の心に寄り添って共感出来る人に。自分の本意を理解してもらえるよう言葉を選び、楽しい会話も厳しい議論もできるような人になってほしいと切に願う。
そのために、私が講師として出来ることは何か?
いま、受験国語を教える塾はあまたある。語彙を増やし、漢字を覚え、長文読解力をつけるだけが目的ならば、作文より効率の良い方法だってあるはずだ。私の実家は学習塾を経営していたが、やはり試験の点数を上げるテクニックの伝授に力を入れていた。大学生の頃にアルバイト講師をしていたにも関わらず家業を継がなかったのは、受験対策に特化した技ほど、その後の長い人生での耐用年数が短いことを感じていたからかもしれない。実際、社会に出てから役に立った「国語力」は大きくわけて2つだ。1つ目は、行間を読む力。すなわち、言葉にならない心情や状況を理解する力だ。これは、「いつ、誰に対して、何の目的で、何を伝えるのか」というTPOをわきまえる洞察力や観察力にもつながる。もうひとつは、他人の視点や見解を疑似体験することで得た多様性を受け入れる力だ。求人広告をきっかけに志高塾のウェブにアクセスし、初級レベルでマンガを題材に作文を書かせると知ったとき、この2つ力を培うのに有効なメソッドだという予感があった。そして、8コマの研修で生徒たちの様子を見て、その予感は間違っていなかったと確信している。
また、中学生くらいになると、小論文の素材選びに苦戦する姿も見受けられる。国語学習の一環として取り組んでいる生徒にしてみれば、「誰に何を伝えるかを決めること」は義務なのかもしれないが、ビジネスの世界では、立場のある人にしか与えられない権利である。言い換えれば、「志高く」の、志の部分を表明するようなものだ。もしも将来、起業家になったら、エンジェルとエレベーターに相乗りした1分間に見事なプレゼンテーションを披露して何億円もの投資を得るかもしれない。企業の広報担当者になったら、200文字足らずの「つぶやき」を発信して、全社が力を結集して開発した新商品を爆発的なヒットへと導くかもしれない。オリンピックに出てメダルを取るような選手になったら、表彰台に立つまでの努力や応援してくれた人たちへの感謝を表し、世界中の人を感動させるかもしれない。
生徒たちの人生は、卒業しても受験が終わっても長く続く。その途中で、自分が望む道を切り拓くにも、仲間を増やすにも、成果を広く知らしめるにも、国語の力はきっと役に立つ。人を動かす文章は、「正確」で「巧い」だけではなく、相手が必要な情報を含み、相手が受け取りやすい切り口で書かれているということを体験的に覚えること。そして、そのコツを若いうちに体得し、思いを文章で伝えることの醍醐味を知ってから社会に出れば、いかにAIが台頭しようと仕事を奪われる心配は少ないだろう。
せっかく志高塾で国語の魅力を覚えたなら、卒業してからも日々の暮らしの中で言葉という器に知識と感性を詰めていく努力を怠らず、一生使える武器として磨き続けてほしい。そして、大切な家族や信頼できる仲間の気持ちを受け入れながら、幸せなハーモニーを奏でる楽器として言葉を使いこなせる大人になった彼らと再会するのが、今から楽しみだ。