
2017.03.07Vol.292 第2弾「わたし、嘘つきじゃないでしょ?」
私は前回最後の段落で次のように述べた。
「両校ともで質、量ともに私が求める以上の人材が集まった。今いるメンバーに、新たに加わった彼らが3ヶ月、半年と経験を積めばかなりの質の、これまで以上の教育を提供できる。そういった確実な手応えを感じている。」
我々は新しい講師に20コマの授業研修を設けている。最初の8コマに教えるという行為はない。その間は、とにかく授業の中で起こっていることをつぶさに観察してもらう。その後、『コボちゃん』の作文前の口頭での内容確認を行ってもらうなどして少しずつできることを増やしていく。また、授業とは別にレポート課題がある。随分と前に一度紹介した気がするが、その1つに「志高塾に通う生徒に将来どのような人材になって欲しいか」というテーマがある。今回は、最近新たに加わった講師から実際に提出されたものを紹介させていただく。本編を自分で書いて、それとは別に楽しんでいただこうかとも考えたのだが、分量的に2つも読むのは大変で、そうなるとしっかりと味わっていただけない気がしてこのような形を取ることにした。なお、志高塾はブラックではないので、このレポートに2時間分の給与を支払っているのだが、出てきたものはとても2時間で書き上がるようものではなかった。すると「サービス残業をさせている」ということになり、やはりブラックということになってしまう。前置きが長くなってしまったが、期待してお読みください。その上で「優秀な人材が集まった」という私の言葉が嘘かどうかの判断をしてください。
志高塾に通う子どもたちに、将来の夢は何か、どのような大人になりたいのか、ぜひ聞いてみたいです。どんな答えが返ってくるのか想像が膨らみますが、いずれにしてもそれは言葉という形となって、こちらに届くのだろうと思います。饒舌ではなくても、論理的ではなくても、説明になっていなくても、心からそのまま取り出されたかのような言葉の数々はとても面白く、予想外のところへ弾んでいきます。それを一つひとつ拾い上げて、じっくり耳を傾けるのが、大人の仕事ではないかと感じています。
しかし、子どもたちが進学や就職などを経て、より広い世界に飛び込んでいけば、大人が自分の気持ちをくみ取ってくれることはもう期待できなくなる一方、今度は自分が相手の意思をきちんとすくい上げようと努めなければならなくなります。そのような世界で、志高塾で学ぶ子どもたちには、周囲に求められる人材であるとともに、自分自身が求めている人間になってほしいです。
求められる人材と言っても、学問、医療、政治、芸術など様々な分野を挙げれば、それぞれ全く異なる知識や技能を習得しなければならないし、その中で自分の考えを発信する形態も、論文、交渉、企画、通信等、多様なことと推されます。ですが、どのような道に進んでも、他者との関わりは確実に存在し、そこには必ず言葉のやり取りが付随します。難解な教材よりももっと形が曖昧で目に見えにくい情報や、逆に真実を覆い隠す大量の空言が溢れているかと思います。丁寧な意思の疎通を心がけても、誤解や無理解に打ち当ることは免れません。何のヒントも与えられないまま、ひたすら新しい発想や創造を求められることもきっとあります。その時、目の前の難題から目を逸らさず、何が重要なのか、どこの表現を変えれば人に伝わるのか、どんなアイディアならば現状を打破できるのかを、自分で考えることのできる人が、どこに行っても求められるはずです。自分で考えるということが、決して自然にできるような当たり前の行為ではないという事実を、志高塾での訓練を通して心得ている子どもたちには、その自力が今まさに蓄えられていると思います。
人間同士の結びつきは、日本語や自国の文化の枠を越えることもあるかもしれません。今日、様々なバックグランドを持つ人々、異なる言語、文化、宗教などと触れる機会が増えています。では、交通や通信技術が発達すれば、英語や世界史を勉強すれば、あらゆる垣根を容易に越えることができるのかと言うと、やはりそうではないと思います。単語や文法を覚えること、正しい知識を身に付けることは必要ですが、それらを整然と並べたところで、決して自分の言葉や理解にはなりません。言葉の奥行きを知り、頭の底から考え続けた上で、目の前の人や物事の、外皮ではなく内実を見極めようとする努力が必要です。そして、生身の対象についてどんなに考えたところで、たった一つの正解に辿り着くことは、ほとんどないということも、心に留めてほしいと思います。正解するゴールではなく、理解に近づく道程を大切にし、相手の事をわかったつもりで終わることがない人であってほしいのです。そのように自分が伝えたい気持ち、相手を知りたいという思いを、自分なりの言葉に置き換え、何度でも送り届けようと試みる人こそ、本当の意味で「言葉が通じる」、心のやり取りができます。相手が縦横どの位置にいるのか、地域や国がどこであるかはわかりませんが、その姿勢は必ず求められ、信頼に足ると認められるはずです。
他者から求められるということは、社会で活躍するために重要ですが、求められようとするだけでは、どこか「自分」が足りないようにも感じられます。そこで、自分自身が求めている人間になれる人、というもう一つの希望を、志高塾の子どもたちに抱きたいと思います。これは、自分が思い描く夢や未来を、キャンバスの上にきれいに塗りつけるだけでなく、現実で立体的な形に作り上げていくことを期待してのことです。
自分がなりたい人になる、やりたいことをやるということは、意外と難しいことです。まず、自分の頭や心の中にどのような考えや理想があるのかを、きちんと見つけなければいけませんし、実現に向けての具体的な方法、必要な道具や進路についても、吟味する必要があります。更にその後、家族や先生、社会人になれば上司や顧客などに、自分の内側にしかなかった設計図を、言葉に換えて伝えなければならない事もあります。自分の人生なのだから、大人になったら自由にさせてほしいと、特に身内に対してはそんな風に思うかもしれません。しかし、本当に大人になったなら、自分をそこまで育ててくれた人たちに、自分の言葉でこうありたいという意志や展望を示さなければならないと思います。その日を、その言葉を待ちながら、その人たちはずっと見守ってきてくれたからです。また、もしもそのプランが個人ではなく、周囲の人と協力して達成するべき仕事ならば、それがうまくいくための根拠、計画、ヴィジョンを、仲間にわかりやすく説明する必要があります。自分の言葉を声にのせ、紙の上に記し、相手がどこまで理解しているのかも、読み取らなければなりません。そしてこれらの行動は最初から最後まで、自分の頭と心を総動員して考えることを根源としていると思います。
どんなに成長しても、夢が叶っても叶わなくても、決して自分自身から離れることはできません。たとえ自分の事を信じられなくても、嫌いになっても、自分は他の人になれないし、代わってもらうこともできません。それならば、なるべく自分自身が求めている人間に近づいてほしい、多少は信じられる自分、好きでいられる自分であってほしいと思います。誰かに否定されれば自分を疑いたくなりますし、自分の全てが間違いだと感じることもあります。自分が間違っているなら考え直さなければならない、信じたいならば相手を説得することが必要です。その苦しく終わりの見えない作業の中で、確かな答えを与えられることのない世界で、他者と自分の両方から求められる人になってほしいです。
作文の好きな子、嫌いな子、特に興味のない子、様々だと思います。ですがどの子も、頭や心の中に、何か面白いものを持っています。そして、周りや自分自身がそれに気づくための、良いきっかけをくれるのは、やはり言葉です。うまい文章、というよりも、彼らの生き生きとした心の素材がそのまま表されたような、そして相手の芯にしっかりと到達するような、自分だけの言葉を探し続ける人でいてくれることを、次の世代の子どもたちが、そんな大人をかっこいいなと思い真似してくれることを、最後に願います。