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2023.04.25Vol.588 それを活用するためには何が必要で、それをどのように鍛えるのか

 先に連絡から。本来、来週のブログはお休みなのですが、それは5月23日に取っておくことにしました。休日モード満開で、気が抜けて頭も働かなさそうですが、どうにかして言葉をひねり出します。
 私の現在の情報源は専ら、ポッドキャストのニュース番組『飯田浩司のOK!Cozy up』(月~金)、『辛坊治郎ズームそこまで言うか』(月~木)、『伊藤洋一のRound Up World Now』(金)である。このことはこれまでにも何度か述べて来た。1回当たりの放送時間が、それぞれの番組で約60分、60分、30分となっている。それらを足し合わせると1週間当たり9時間半となる。私の車での通勤時間が往復で80分前後なので週6日で8時間となり、行き帰りだけでほぼカバーできている計算になる。世の中で起こっていることを知るという目的もあるのだが、それ以上に、それぞれのコメンテーターがどのように情報を取っていて、それを元にしてどのような意見を組み立てているかということに興味がある。一人のときはもちろんだが、子供が乗っていても構わずずっと流し続けている。息子たちに、時々「今の話の意味分かる?」と質問をぶつけるのだが、ちゃんと答えられるときもあれば、そもそも聴いていないときもある。ただ、どんなときでも「分からん」、「そんなんどうでも良い」とはならないので、その部分に関しては、親としてうまく育てられているかな、と思う。小さい頃から、「知っているだけじゃだめで、その仕組みを理解していないといけない」という言葉掛けをしてきた。最近は、面白かった本を長男の机の上に置くようにしているのだが、それに関しても、「興味がないから読まない」とはならない。「基本的には自分が好きなものを読めば良いが、それだと偏るから、その間にお父さんが勧めたのも入れて行きな」と伝えている。昨日、朝ごはんを食べながら二男に「最近、アフリカでよくニュースになっている国がどこだか知ってる?」と尋ねたのだが答えられなかった。目の前にある、『読売中高生新聞』を指しながら、「週1回だから、これぐらいはちゃんと読みな。社会のテストで時事問題は出るはずだから。点を取るためだけに読むのは馬鹿みたいだけど、世の中で起こっていることを知ることにもつながるから」とその目的を伝えた。私は記事を読んだことがほとんどないのだが、毎日ではなく週1回なので、その出来事にまつわることをある程度まとまった状態で説明してくれているはずなのだ。「世の中で起こっていることを知る」の「知る」は、スーダンという国名やどこにあるかではなく、もちろん「なぜ起こっているか」ということについてである。
 ポッドキャストではある程度信用に足る情報を仕入れることを目的にしている。私の中でその対極にあるのが「ヤフーニュース」である。こちらは、玉石混交なのが良い。芸能関連のワイドショーネタのようなものもあれば、この前私がツイートした東大の入学式の祝辞が話題になったりもする。最近気になったのは、「堀江貴文氏 子供4人東大理三合格の佐藤ママに「こいつバカでしょ笑」高校生まではタブレット不必要主張に」。
https://news.yahoo.co.jp/articles/732bf4d2ae2464b5e9d64706dc38748794514684
言葉遣いはさておき、まっとうな発言をしていることは少なくない。以前、ホリエモンが「漫画から学べることは多いから、子供が読むのを禁止する必要は無い」ということをどこかで述べていて、その一例として『宇宙兄弟』を挙げていた。それはホリエモンが考えながら読むからであって、ほとんど絵だけを見ているような読み方とはまったく違うのだ。孫正義は「これからの時代は検索すれば何でも調べられるから、学校で暗記するような勉強は必要がなくなる」というようなことを語っていた。情報が増え続けているからこそ、選別する力がより求められるようになる。先日、高校生に「日本は、半導体に力を入れるために共同で出資して新しく会社(Rapidus)を作ったけど、うまく行かへんと思うねんな。有機ELでも失敗してるから」と説明して、その場で、「有機EL ソニー パナソニック」でググって、一番上に出てきた「ソニーとパナソニックの有機EL部門統合を統合したJOLEDが民事再生」の記事を見せた。ちなみに、今試してみたのだが、「有機EL ソニー」、「有機EL パナソニック」であれば、いずれもそれぞれのメーカーが販売しているテレビの情報がずらっと並ぶ。ただ、1ページ目の下の方に、関連キーワードとして「ソニー有機el撤退」と出てくるので、この場合はそれほど時間を掛けずにそこにたどり着けはするが、誰かが分かりやすくまとめていないものであれば、自分でいくつか調べて、それらをつなぎ合わせるしかない。
 林修が、東大の国語は本文の言葉をつなぎあわせるだけで記述の答案ができるという話をしていた。では、それを適切にできる人と、そうでない人の差はどこで生まれるのか。適切なワードを打ち込んで効率良く、有益な情報にアクセスできる人と、そうでない人の差はどこで付くのか。漫画から学びを得られる人と、ただ笑いながら読んで終わる人との差はなぜ発生するのか。Chat GPTのほとんど正しいものの中に紛れている偽りの情報を見抜ける人と、それも含めて信じて込んでしまう人との差は何なのか。こういうことを考えずして、何をすべきで何をすべきでないかを考えても意味はない。

2023.04.18Vol.587 時間の有効利用

 中3になった。「それにしてもうまく行かないことが多いなぁ」というのが、これまで長男に抱き続けてきた親としての印象である。友達付き合いも勉強もスポーツも。家では2人の弟から一目置かれることはなく、外ではリーダー的な存在になりたいもののそれだけの力はなく、誰も付いて来てくれないことにイライラしていた。幼稚園の頃からずっと。たとえば、遊びに誘い、自ら作ったルールを説明しても守ってくれなかったり、最初は仲間になってくれるもののすぐに抜けられてしまったりといった感じで。「力はなく」というのは、リーダーシップが取れるわけではなく、勉強やスポーツが特別できるわけではないということである。3人の息子たちに「リーダーになりなさい」と命じてはいないが、「批判するよりされる側に回った方が断然学ぶことは多い」ということは常日頃から話している。二男は、小学生の頃まではそんなことは無かったのに、どういう風の吹き回しか学級委員に立候補した。入学間もないこともあり、選挙に備えて、顔を覚えてもらうために全クラスメイトに話し掛けたことを教えてくれた。結局、じゃんけんで決めることになり、見事に負けた。事前に、「選挙にしてください」と先生にお願いしたが、「まだ、みんなよく(立候補者を)知らないから」という理由で却下されたらしい。それもまた勉強である。ちなみに、対抗馬の子は「内申を上げるため」が手を挙げた理由とのこと。それが本気なのか冗談なのかは分からないが、「その子のことはどうでも良いけど、そんなしょうもない理由でやるならしない方がましだ」ということは伝えた。ありのままの自分で勝負をして、期待したような評価が得られないのであれば、自分に何かが足りないのだ。それときちんと正対して、また前に進んで行く。それを繰り返して行くことで、少しずつでも人として成長して行くことができる。
 私が独立をした理由の一つは、自分に対する人の評価に納得が行かなかったからだ。上で述べたことと矛盾しているようだが、正反対ではない。「もっと評価されても良いはず」よりも「もっと人の役に立てるはず」の方が強かった気がする。訳の分からん上司に訳の分からん評価をされるせいで、力が発揮できないことにいら立ちを覚えていた。一方で、その環境に身を置いているのは自分の責任なので、その評価を受け止めざるを得ないことは頭のどこかでは最低限理解していたはずである。志高塾を始めて、思い描いたように生徒が集まらず、「他のところより良い教育をしているはずなのに」と不満を覚えはしたものの「これが今の自分への評価だな」と納得はしやすかった。そこに訳の分からん上司は介在しなくなったからだ。一方で、私は評価する立場にもなった。できる限り公平性を保てるように気を配っているつもりである。社員は3人しかいないこともあり、現在はその3人の前でそれぞれどのような理由でどれだけ給与を上げるかを伝えるようにしている。一方、社会人講師、大学生講師の給与はパフォーマンスではなく、300時間入ることに時給が100円ずつ上がって行く仕組みなので、評価と給与が直結しているわけではない。ただ、コマを各講師に機械的に割り振っているわけではなく、高く評価している講師ほど、難しいことをお願いするようにしているし、なぜそれを任せるかをできる限り説明するようにしている。私自身がそうであったように、人からの評価を受け入れることは難しい。ただ、各講師の満足度を少しでも上げるようにするのが私の役割である。それが生徒により良い授業を提供することに繋がるからだ。
 さて、その長男、クラスメイトにアメリカの現地校から編入してきた男の子がいて、その子が自分と同じサッカー部に入り、しかもうまいらしいということを私に話してくれた。男親の多くはそんなもんだと思っているのだが、子供の担任の先生の名前はおろか、大抵は性別すら知らないままクラス替えが行われる。話に出てくる友達の名前も、何度聞いても覚えられない。それゆえ、「その子何クラブの子?」、「どこから来てる子やったけ?」と同じような質問を繰り返すことになる。ただ、今回、その子の名前を聞いているうちに「待てよ」となった。それが先週金曜のことである。苗字がそこまで珍しくは無かったものの、よくあるものでも無かったからだ。今、検索してみたら、その苗字の人は全国に2,400人いると出てきた。「明日、その子に、お父さん北野のサッカー部じゃなかったか聞いてみて」と伝えた。ビンゴであった。私の一年後輩だったのだ。それが土曜のことである。そして、翌日の日曜に、仲間内でやるフットサルにその親子を呼んだ。社会人になって間もない頃に一度会っているのでおよそ20年の月日が流れたことになる。車でピックアップしたのだが、乗ってわずか数分でまたもや飛び出した。「松蔭さん、全然変わってないじゃないですかぁ」。そして、今回は「髪型も」というおまけ付きであった。今週土曜の夜、もう一人の後輩も呼んで、フットサルに行くことになった。これまた数十年ぶりの再会である。その彼には、人の内面を見抜ける力があること期待している。その力が備わっていれば、「ほんとにあの松蔭さんですか」ぐらいの言葉が自然と出ちゃうはずなのだ。
 長男、いろいろな面でようやく少し上向き始めた。親なので順調に行ってくれることを望んでいたが、気づいたらヨーイドンの合図と共に転んでしまっていた。特別スポーツができたり勉強ができたりしたらもっと英才教育をしたかもしれないが、そうではかった。当然のことながら注意したり怒ったりはするものの、自分にも子供にも「今はこれで良い」と言い聞かせながら育ててきたように思う。
 大人になってから、「あの時は、なんであんなにも焦ってたんだろう」と振り返ることがある。子供は概して先のことまで見えない。先頭で、先頭集団で、走れるに越したことはないが、遅れを取ったのであれば無理に差を縮めに行かないことである。周りで慌てている他の子供よりも長い期間を使って、徐々に詰めて行ければ、気づいたらそれなりのポジションにはいるはずなのだ。時間を味方につけて子供をじっくりと育ててあげること。それは、大人だからこそ務まる、大事な、とても大事な役割である。

2023.04.11Vol.586 ただ~なだけ

 おまえ、高校の頃もそんなんやったな。何に対してそう言われたのかは忘れてしまったが、卒業以来30年弱ぶりに会った高校の同級生の言葉である。どうやら、昔から変わっていないらしい。フェイスブックの投稿で、近所に引っ越してくることが分かり、じゃあ、ということで、先週末に2人で飲んだ。来月ゴルフにも行くことに。
 面白い奴だと思われたい、というのが物心ついたときから自分の中にずっとある。それ自体は不変なのだが、その裏側では変化が起こっていることに少し前に気づいた。小学生の頃は単純に目立ちたいだけであった。それに加えて、中学の途中ぐらいから、ただ勉強ができるだけのつまらない奴、と思われたくないというのが芽生えてきた。「勉強ができる」とか自分で言うなよ、という話なのだが、教育熱心でない地域の、地元の公立中学校では、私はそのポジションにいた。その時点で中学受験の失敗は経験していたし、そもそも進学塾に通っている頃から全然敵わない奴が身近に少なくない数いたので、「それなりにはできるけど、賢くはない」という自覚はちゃんと持っていた。時々、「先生は、できない人の気持ちは分からないでしょ?」などと言われることがあるのだが、痛いほど理解できる。京大医学部に合格した生徒ですら、高校生の頃「同級生に数学がばけもんみたいにできる奴がいて嫌になる」、大学入学後は「周りの暗記力が自分とは違い過ぎる」と漏らしていた。謙遜しているわけではなく、卑下しているわけでもない。事実を認識した上で、「じゃあ自分には何ができるか」をきちんと考えていた。そのような思考になるためには、できていることがそれなりになければならない。あれもこれもできないとなれば、「何やっても無理」と自分を見つめる気にはなれないからだ。そういう風に投げやりになっている生徒がいれば、まずは、糸口、突破口を見つけてあげなければない。0と1では全く違うのだ。私自身、うまく行かないことがあると、「ただやっていないだけ」、「ただやり方が良くないだけ」と自分に言い聞かせることにしている。自信のない生徒たちにもそういう言葉掛けをした上で、実際にできるように導く。そして、「ほれ見ろ、やったらできたやん。俺の言った通りやんけ」と畳みかける。もちろん、何でもできるようになるわけではない。その子ができること、できるようになってその子に将来に役立つことをきちんと見極めてあげなければいけない。
 話を戻す。大人になってから、特に志高塾を始めてからは、「ふざけていても許される奴でいたい」というのが自分の中で強くなっている。やることもやらずにふざけているばかりであれば、信頼は得られない。やることをやってふざけなければ良いやん、という意見が聞こえてきそうだが、そんなことは私にはできない。もし、そんなモデルチェンジをしてしまったら、親御様や生徒の内の何人かは「前の方が良かった」となってくれるはずなのだ。ちなみに、生徒に対してふざけるとは大抵の場合、私が体験したことなどを面白おかしく話して笑いを取ることである。実際に話すまでに、どのように話を始めて、どのように落とすかということを頭の中で何度かシュミレーションする。実は、それは意見作文の添削の際に生かされるのだ。「その始まり方じゃ読み手の興味は引けへんで」、「途中の重要でないところがダラダラしてしまってるからもう少しすっきりさせな」、「折角ここまでうまく話を展開して来てんから最後もっと工夫して」といった感じである。
 ここで少々宣伝を。わたくし、ツイッターを始めてみました。やろうやろうと思いながら、どのようなことをどれぐらいの頻度でつぶやくかを決めきれずに、そのままになっていた。ブログよりもカジュアルに、ライトに、の予定だったのに、1週間前の夜にかなりヘビーなものを投稿してしまった。その日のブログで、「発信者としては、『何を』を充実させる責務がある」と述べたことに自分自身が思い切り引っ張られてしまってのことである。これまでに2度、ネットの記事とそれに対する自分の意見をツイートしたが、当分の間はその形式でやって行く。お時間のある時にでも、覗いていただけると嬉しいです。
 冒頭の私の同級生は刑事をやっている。「お前がえらくなったら、俺が何かやらかしたときにもみ消したりできたりすんの?」と尋ねたら、「そんなん無理や」と即答された。「ただふざけただけ」では済まされない羽目の外し方だけはしないように気をつけよう。

2023.04.04Vol.585 「誰が」と「何を」

 私に向かって、「先生は変わっている」と誰かが口にし、周りの生徒が深く賛同する。それに対して、「俺は全然変わってない。仮に変わっているとしたら、そんな人のやっている塾に子供を通わせているあなたたちの親も変わってるってことになるで」と返す。そういうやり取りが時々行われる。
 「就活時代の友達に会うために東京に行く」という話をすると、不思議がられることは少ない。昨夏は私を含めて6人が集まった。今年は初めてゴルフに行くかもしれない。ちなみに、私以外は首都圏に住んでいる。就職して5年ぐらいは東京にいたので、しょっちゅう遊んでいたし、私が関西に移ってからは年に1回のペースで顔を合わせている。ふと「何者でも無かった頃からの友達って利害関係が無いから良いよな」となるのだが、冷静に考えてみると未だに何者でもない。「何者かになれた」と思える日がいつかやってくるのだろうか。
 就活を始めるに当たり、「ジョブウェブのメーリングリストから情報が得られる」というのを聞いて、とりあえず登録した。メーリングリストというのは、グループラインのメール版である。業界ごと、メーカー、商社、金融など、にグループが分かれていて、私はコンサルだけに所属していた。1,000人ぐらいはいたのではないだろうか。大して期待はしていなかったが、実際そこから流れてくるのは実にくだらないメールばかりであった。次第にいらいらが募って来て、初めて投稿をした。「こんなにたくさんの人が登録しているところに、『〇〇大学の□□です。よろしくお願いします』とだけ言われても、顔も見えないわけで、知らんがな、となる。その中で『東京大学の』が圧倒的に多い。それを書くのであれば、何かしら有益な情報を提供した上で、最後に名乗る。それを読んだ人が、『ああ、やっぱ東大の奴は違うな』となって初めてその署名に意味があるんじゃないのか」というようなことを述べた。最後に「京都大学 松蔭俊輔」というのは入れた。記憶は定かではないが、「ですます調」で、最低限の丁寧な言葉遣いはしたはずである。当時は、まだ紙の履歴書を送ることも少なくなかった。そんな時代に私はネット上で大炎上したのだ。時代の10年とは言わないまでも5年ぐらいは先に行っていたことになる。さすがに「死ね」までは無かったのだろうが、「とっとと消えろ」ぐらいのメールは飛んできた。元々そこに所属している意義も感じていなかったので、それを機に脱会した。「捨てる神あれば拾う神あり」で、数十人が「やり方は良くなかったけど、あなたの意見には賛成です」というような内容のメールを私の個人アドレスに送ってくれた。彼らに声を掛けて東京でオフ会を行い、その後、上京するたびに飲み会をしていた。多いときには30人ぐらいは集まったが、最終的には特に気の合う連中と自分たちでメーリングリストを作った。そして、そのグループを私が「めっちゃ」と名付けた。「中途半端ではなく、めっちゃ~しよう」と意味を込めてである。「めっちゃ出世しよう」でも、「めっちゃ楽しんで生きよう」でも何でも良かったのだが、とにかく「めっちゃ」なのだ。その「めっちゃ」のメンバーは今では10人弱になったが、今後もお互い刺激を与え合える仲でありたい。
 ここで、最近恒例の引用を。米原万理著『心臓に毛が生えている理由』より。

 多くのホームページには掲示板という訪問者が意見を書き込むサイトが設けられていて、自然に討論になっていく。感心したのは、書き込まれるメッセージに一切の権威付けが無いということ。どんな暴言を吐こうが悪態をつこうが、発言者の年齢も性差も地位も職業も見えない。では、某テレビキャスターが言ったように、「便所の落書き」になるかというと、必ずしもそうではない。一時荒れたとしても、最終的には、論理的で理性的な、しかも人間的暖かみのある発言が少しずつ皆の指示を得ていく。それは、内容そのものの力なのである。日常的には、われわれは「何を」しゃべったかよりも「誰が」しゃべったかに左右されるのが、その逆になる爽快感がある。人間って、結構信頼できる、希望が持てる、と思う瞬間だ。これは意外な発見であるが、革命的というほどのものではない。

 発信者としては、「何を」を充実させる責務がある。その頭をひねり、心を込めた言葉を受信者にきちんと受け取ってもらうためには、「誰が」も大事になってくる。社員には、「親御様にも生徒にも、この人の言うことなら耳を傾けよう、と思ってもらえるような人でないとアカンで」ということを折に触れて話す。もちろん、自戒の念を込めてである。
 聞き手、読み手の時間を浪費させてはいけない、という思いは今も持ち続けている。それに限らず、大事にしている考えはそれなりにある。そのような意味では、昔から変わっていない気がする。人と比べてどうかは分からない。ただ、高校生の頃、友人から「おまえみたいな奴が2人いたらほんまうっとうしいけど、1人やったらどうにか我慢できる」と言われたことがあったことを思い出した。

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