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2023.03.21Vol.584 何を伸ばすのか

 週1回トレーニングを行っている整骨院で昨年末、元生徒のお母様に出くわした。先週、それ以来3か月ぶりに顔を合わせると、「先生のところに女の先生はいますか?」と尋ねられた。末っ子である長女が中学に入学するタイミングで入塾させることを考えてくださっているのだが、「あそこの塾長は怖いらしい」と本人が二の足を踏んでいるのだ。上3人の男の子たちが、「鍛えられて来い」と声を掛けてくれていることを教えてくださった。3人とも中学生の頃に数学だけを教えていた。なお、算数、数学の生徒が増えたため、1, 2年前から国語を取っていない生徒の募集は行っていない。先日、数学単科での問い合わせをいただいたがお断りした。ただ、このお母様に頼まれたら受け入れるだろう。若干の余裕を持たせているのに加え、新しい人に良い顔をしたくなるからこそ昔からの人を大事にする、というのが自分の中での決め事としてあるからだ。
 三男については、ここか内部配布の『志高く』で一度話題にした。彼が高2の頃に全国大会に出場していたのをテレビ観戦した。ちなみに、長男は、「ぐじぐじいじけたことを言うな。情けない。そんなんだったら辞めちまえ」といった感じで私に何度か叱り飛ばされたこともあり、実際に中3の途中で辞めた。それでもお母様は下2人の子を預けてくださったし、その長男も含め、「理不尽に怒られるから行かせない方が良い」、「(高校の部活と比べたら)甘っちょろいから、役に立たない」となっていないのは嬉しい限りである。その長男、三男と同じ高校の同じ部活に入ると聞いたときは、「根性ないから、すぐに辞めるやろ」との私の予測に反して、レギュラーにはなれなかったが、強豪校の厳しい練習に音を上げることなく3年間続けて引退した。それを知ったときは、立派やな、と見直したものである。
 何がきっかけだったかは忘れてしまったのだが、最近、「長所を伸ばす」って言葉は無責任だよな、ということを考えていた。もちろん、どのような文脈でそれが使われるかによる。自信が無い子供に対して、「あれもできてない」、「これもできていない」と指摘すると余計にやる気が無くなるので、少しでもできそうなことから手を付けるのは理解できる。ただ、少しでも得意な部分を成長させた挙句、それが周りの子供と比較して全く通用しないとなったら、その子はどうなるのだろうか。あくまでも「から手を付ける」のであり、その先にどのように手を打って行くかまで考えておいてあげなければいけない。上の3兄弟は、家でほとんど勉強をしなかった。成績を上げて少しでも良い学校に、というのはお母様にも本人たちにも無かった。長男は中学生の頃に陸上の短距離で全国大会に出場していたし、三男は早くからスポーツ推薦でその高校に行くことは明らかだった。二人とも相当運動ができたが、それだけで生きて行けるわけではない。当たり前の話である。「これしか宿題を出していなんだから、それぐらいはちゃんとやって来い」、「ここにいる2時間は他のことはできなんだから、せめてその間だけはしっかり頭を使え」ということを3人にはよく伝えていた気がする。
 前回の筆者の声の続き。池井戸潤著『半沢直樹 アルルカンと道化師』より。以下は、全国の支店長など幹部を集めた会議の場面である。なお、岸本は東京中央銀行の頭取である。

 半沢の発言が続いた。「田沼社長はおっしゃてましたよ。結局、客のためだといいつつ、自分のことしか考えない。そんな銀行員に騙された自分が情けないとね」
「本当か、宝田」
厳格な岸本の問いが発せられ、宝田は唇を噛んで顔を伏せた。
「宝田部長」
その宝田に、壇上から半沢は語りかける。「あなたは先ほど、ここは理想を語る場ではなく、現実を語る場だとおっしゃいました。これがあなたの現実です。理想を語ってばかりでは確かに実績はついてこないかも知れない。ですが、理想のない仕事に、ろくな現実はない。これがあなたの仕事ぶりを見ての率直な感想です。ご清聴、ありがとうございました。」

この前に、宝田は次のように半沢に噛みついている。「競合他行は、そんな甘っちょろい理想論なんか口にしてませんよ。もっとがむしゃらにやってくる。我々だけが特別じゃない。ここは理想を語る場ではなく、現実を語る場なんだ。聖人君子ぶって綺麗事をいう者はすぐさま去れ!わかったか、半沢。」
 そう、私は甘っちょろい「子供の長所を伸ばす」が好きではないのだ。大谷翔平はめちゃくちゃハードなトレーニングを積んでいるはずだが、間違いなくがむしゃらではない。どこを伸ばすかを冷静に判断した上で鍛えているのだ。ある程度の量をこなすことで「あっ、そういうことか」とこつが掴めることもある。その喜びが得られるように、そこには時間を掛けさせてあげないといけない。一方で、どれだけやっても成長が見込めないやり方もある。結果が出ないことは傍から見れば明らかなのだが、「こんなに頑張ったのに」と本人の心は折れる。それは防いであげなければいけない。
 得意なこと、好きなことだけで生きて行ける人などほとんどいない。それと、得意を少しでも生かそうとすること、好きなことに少しでも関わって生きられるようにすることを諦めるのとは別の話である。人間を伸ばすことでその可能性は高まる。
 来週は、教室が1週間休みなのに伴い、このブログもお休みです。

2023.03.14Vol.583 筆者の声を聴き、始まる自分との対話

 橋本愛喜著『トラックドライバーにも言わせて』より

 過去に元工場長らによる突然の独立騒動があって以降、技術や経営のノウハウを外に漏らさぬようにと、工具を注文する店や、各取引先の受注担当者、技術を売る上で絶対に必要になる見積もりの基準などを、父親はある場所に隠していた。「頭の中」である。いわゆる完全な“ワンマン経営”だったのだが、こうした父なりの「会社を守る対策」が、今回は逆に仇となった。筆者と母は、社長室の書類やメモを頼りに何とか社長業を引き継ごうとするが、そもそも何が分からないのかが分からない。それらを見出す唯一の方法は、問題がそれぞれ深刻化し、表面化してくるのを待つことだけだった。

 父が急病で倒れ、当時20代で、大学卒業を間近に控えた筆者が急遽その代わりを務めることになった頃の話である。志高塾の経営で言えば、私の頭の中だけに存在しているものなどほとんどゼロに等しい。開校当初から、自分たちなりのやり方を秘匿しようという考えを持ち続けているが、何年かして、そもそも「自分たちなりのやり方」自体が無いことに気づいた。他国のスパイは、9割以上の情報を誰でも手に入るようなメディアから仕入れると言われている。このブログを遡れば、志高塾の9割5分以上のことは分かる。志高塾の教育の質を一定以上に保てている一番の要因は月間報告にある。誰でも取り入れられるものだが、きっと誰もそんなことはしない。講師の質が低いと嘆いている塾の経営者であったとしても。精神的なエネルギーをそれなりに注ぎ込む必要があるからだ。手抜きの性格なので、できる限り楽をしたい。実際、生徒たちから、「先生、全然仕事せえへんやん」としょっちゅう指摘される。サンテレビで阪神の試合を見ていると、ある建設会社の「釘は抜いても手は抜きません!」と実にべたなCMが流れる。それに倣えば、「手は抜いても心は抜きません!」となる。自分なりに線は引いているつもりである。
 次に、最後の一文に関することについて。半年ほど前に、大手進学塾に通っている4年生の生徒のお母様が、算数にも興味を持ってくださり体験授業を行った。全然考えようとせず、完全に思考停止の状態に陥っていたので、「この先、量が増えればもっと考え無くなりますよ」ということをその日の取り組みを具体例として挙げながらお伝えしたのだが、大手塾を辞めさせる踏ん切りが付かなかったこともあり、それきりになった。そして、新5年生を迎えたこのタイミングで、「やはり算数もお願いします」と声を掛けていただいた。問題が表面化しているのであれば、当然のことながら早く手を打った方が良い。しかし、物事はそれほど単純ではない。頭では分かっていても、心が付いてこないことも往々にしてあるからだ。我々にできるのは生徒、親御様のことを思って、できる限り理解していただけるような説明を心掛けること。そして、それでも納得していただけない場合は、ひとまず静観する。そして、今回のように改めてお願いされたときに、その期待に応えるべく手を打つ。穴は間違いなく大きくなっているが、まずは更地を目標に少しずつでも埋めて行き、その後、積み増せるようにする。間違えても穴を表面的に塞ぎに行ってはいけない。そんなことをすれば、遠くない未来で、正にそれが落とし穴となってしまうからだ。
 次のようなこともあった。体験授業を行った高校生のお母様より、メールにて入塾を前向きに検討していることを伝えていただいた。その中で、次のように述べられていた。「一点確認なのですが、本人の感想でもあり私も感じたことなのですが、教室内の雰囲気と言いましょうか、個々が会話をしたい時にできる状況というのはどの曜日も同じでしょうか。貴塾の方針としていずれの曜日も昨日のような雰囲気であればもう一度本人と相談したいと思います。」それに対して、私は次のように回答した。

 クラスの雰囲気に関しては、好みと慣れの部分が大きいように感じます。他の曜日も決して静かではありません。
 中高生がメインのクラス(平日の18:20~)であれば、自然発生的にディスカッションのようなものが始まることもあります。たとえば、昨日のあの時間帯のコマで、数週間前に中3の生徒が作文のテーマとは関係なく、「フェアトレードというのはフェアではない。先進国が自分たちの都合の良いように発展途上国から搾取しているだけだ」という意見を私にぶつけてきて、そこに中2の2人も加わりました。「名前がきれいなものとか、既得権を持っている側が口にしているものとかは、実態とずれている場合が多い」ということを私から伝え、その後、しばらくそれについての会話が続きました。そういう話にはそれなりの価値があると考えています。もちろん、単なる無駄話もあります。

 返信する上で、以下のことに気を付けた。お母様にとってネガティブな情報を、包み隠さずにきちんと伝わるようにすること。そして、もう1つ、「慣れ」という言葉に思いを込めた。慣れて欲しい、という願いである。目の前のことにできる限り集中するということももちろん大事なのだが、身の回りで起こっていることに興味を持つこともそれと同様に、場合によってはそれ以上に重要である。そうすれば、「自分とは関係ない」で済ますことなく、いろいろなことを吸収できるようになるからだ。一方で、中身のない話であれば、自分の周りで外国人が知らない言語で話しているかの如く、単なる音として聞き流せば良いのだ。より良い環境を求めることと、そのような環境で無ければ力を発揮できないこととは別の話である。数日して入塾の連絡をいただいた。
 いずれの例もこの2週間ぐらいの出来事である。池井戸潤含め、他に2人の筆者の話にも耳を傾けたのだが、私、どうやら聞くことよりも話す方が随分と好きなようである。一を聞いて十を話す。

2023.03.07Vol.582 厳格の置き場所

 子育てにおいて厳格に守って来たことがある。それは、にんじんをぶらさげないこと。そして、前言を撤回しないこと。それらに関しては、これまでも何度か書いてきた。
 まず、前者に関して。親はやらせたいが子供がその気にならないとき、伝家の宝刀として抜かれる。たとえば、「塾の次のクラス替えで、元のクラスに戻れたらゲームの時間を増やしてあげる」など。「伝家の宝刀」を辞書で引くと、「いざという大事な時以外めったに用いないもの、事柄、手段などをいう。奥の手。切り札。」とあった。もし、「第一志望の学校に合格出来たら、最新のiPhoneを買ってあげる」であれば、まだ良いのであろう。入試は、「いざという大事な時」に該当するからだ。それであっても私であれば、そういう釣り方はしない。そのようなことを全くしてこなかったか、と言えばそうでもない。ただ、「ご褒美」を言葉にすることはない。それを口にすることで、そのうちに「〇〇したら(できたら)、何してくれる?」と子供から要求するようになってしまうからだ。一例を挙げると、真夏に一緒に洗車をしたときは、その後スーパー銭湯に行って汗を流し、アイスも食べ、併設されたゲームセンターでいつもより少し多めにクレーンゲームをやらせてあげる、というぐらいの話である。そういうことを繰り返し経験して行くと、「お手伝いしたら、ちょっとだけ良いことあるな」となる。それぐらいがちょうど良い。
 話を戻す。クラスが落ちたぐらいで、ゲームをぶら下げるとろくなことはない。ゲームの時間が増えて、勉強時間が減れば元の木阿弥となる。私であれば、すぐに上がることを目標にせず、まずはきちんと立て直すことに焦点を当てる。一番良くないのは、エレベーターのように行ったり来たりすることである。よって、二度と落ちないような下地を作ることを優先しなければいけない。根本的な部分で問題を抱えていなければ、地に足を付けた対策をとっても自ずとすぐにクラスは上がる。
 中学生の頃、個人塾の先生が、主要5教科の平均点が93点以上であれば3千円分の音楽ギフトカードをくれた。確か、そこから平均点が1点上がるにしたがって千円ずつ上げてくれた。だから、当時、同級生よりたくさんのCDを持っていたはずである。当時の私は、そんなものが無くても同じようにやったはずだが、おまけとしてもらえる分には嬉しかった。このように見て行くと、にんじんが目的になるかおまけになるかでその良し悪しは決まるが、そもそもぶら下げる側が目的にしてしまっていることがほとんどであるような気がする。
 次に、後者に関して。これの代表例は、聞き分けの悪い子に向かって親が発する「言うこと聞かないなら、置いて行くからね!」だ。私はただの一度もその脅しを使わなかった。置いて行くことはできないからだ。初めの頃は、泣いて謝っていた子も、そのうちに「どうせ連れて帰ってもらえる」となる。許してもらうために、ウソ泣きぐらいはするのだろうが。そして、元々大した効力を発揮しなかったその決まり文句だけではなく、親の言葉自体に対する信頼性が損なわれてしまう。前回、「私の言葉を受け取った相手が、『これは社交辞令』、『これはちゃんとした約束』といった感じで区別できていれば問題ないのだが、ごちゃまぜにしているうちに当の私自身がよく分からなくなる気がする。そんな状態で共有認識は持てない。」と述べた。「私」を「親」に、「相手」を「子供」に、「社交辞令」を「脅し」にそれぞれ置き換えれば、そのまま意味が通じるものになる。
 その2つは我が子だけではなく、生徒たちに対しても同様に守り続けて来たことである。そんな私にも少しずつ変化が生まれている。完全なる撤回はしないが、緩和するようにはなったのだ。一か月ほど前、妻に暴言を吐いた二男に、「お母さんにそれだけ偉そうに言うのであれば、それぐらいしなさい」と1か月間の家族全員分の皿洗いを課した。朝、昼、夜のすべてにおいてである。「今は無理」、「後で」などは許さない。結果、2週間ぐらいに短縮した。一週間前にも似たようなことがあった。新6年生で甲陽を目指している子がいる。教えている私自身が油断することはないが、合格するのは間違いない。現時点で余裕の成績を取っているわけではないが、それと私が得ている手応えが一致しないことは往々にしてある。彼は、週に国語2コマ(作文と読解)、算数1コマを取っている。昔からとにかく、うつらうつらする。「寝たんだから、それ以上にやって行け」と伝えると、以前は泣いていたのだが、自分の責任だと受け止められるようになった。それは成長なのだが、決まった時間でやることをやって、さっさと帰るに越したことはない。そこで先週、「今週の作文と算数の授業で一度も寝なかったら、その後にある読解の授業では甲陽の過去問を初めてやらせてあげる」と条件を付けた。本人が早くやりたがっていたからだ。「過去問に慣れることが大事」と言われるが、それはあくまでも実力が一定以上あっての話である。そこに全然到達していない子がやったところで何の意味も無い。彼が解くことを私が許可したということは、そういうことなのだ。にんじんをぶら下げたにも関わらず、彼は目を閉じてしまった。それを受けて、「あーあ、今週は、甲陽はお預けやな」と伝えたのだが、その2日後に「やっぱ、1回だけやらしてあげる」と方針転換をした。1回甘い蜜を吸わせた方が「やりたい」という気持ちが強くなると判断したからだ。実際に解かせたらそれなりにできたので、甲陽の過去問を継続することにした。後は、彼のまぶたに心がどのような指令を下すかである。今週は、実力で権利を勝ち取れるのだろうか。それに関しては、ここで次回報告することにする。
 緩和するようになったのは、それをしたところで、息子や生徒たちの中で、「この人、どうせ緩めてくれるんでしょ」という風にならないことが分かったからだ。それは、私が先に厳格にしてきたからだ。さんざん甘やかしておいて、言うことを聞かなくなってから厳しくしても時すでに遅しである。もちろん、厳格と理不尽は違う。罰を与えることが目的では無いので、なぜそうするのかを大人は説明をしなければならない。いわゆる説明責任である。一方で、そんなものを省いて「理由なんてどうでも良い。つべこべ言わずにやれ」というのも時には必要である。無説明責任と呼んでも良いかもしれない。できる限り適切な判断を下し、修正が必要であれば手を加える。その心構えと実行力が大人の側にあれば、言葉は子供たちの心の中でちゃんと響く。

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