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2022.11.29Vol.569 言葉が示してくれる道

 最新の内部向けの『志高く』で次のように述べた。

中学受験において、「成功体験」という言葉が安易に用いられることに違和感を覚えることは少なくないです。第一志望の学校に合格できてもそのように言えるわけではありません。あえて言葉を当てるのであればそれは単なる「成功結果」です。(中略)では、私の考える成功体験とは何か。それは、ある結果が出たときに次に生かせるようなプロセスを手に入れることです。

余談ではあるが、このブログも一時期「です・ます調」にしたことがあった。だが、しっくりこなくてほどなくして「だ・である調」に戻した。どちらが良いとか悪いとかではなく、文体を使い分けていることに意味があるような気がしている。その意味について説得力のある説明などできないが、生徒が入試の際に提出する志願理由書などを添削する場合に少しぐらい役立っているのではないだろうか。文体はどちらでも構わないので、生徒が書きやすい方を選ぶ。「です・ます調」であれば、単調なリズムにならないようにかつ意見が弱められずにきちんと伝わるようにし、一方「だ・である調」であれば何かを主張できているような錯覚に陥りやすいので中身を詰め、かつその調子でも最低限の丁寧さはにじみ出るように留意しなければならない。私自身が日頃から両方の練習をしていると、「俺は、こっちで書くことはほとんど無いからなぁ」とはならずに済む。
 わずか1週間前の文章のテーマ自体を忘れることさえ日常茶飯事なのだが、随分前のことなのに記憶に残っていることもある。たとえば、次のようなもの。「志高塾の親御様に『教育熱心』というのはそぐわない。『子育て熱心』というのがぴったりである」。これは、15年ぐらい前のもののはずだ。ツイッター担当の志賀にその文章の発掘をまたお願いしようかな。補足しておくと、「教育熱心」がただ勉強のこと、もっと言うと受験のことしか考えないのに対して、「子育て熱心」というのは子供を一人前にすることに重きが置かれており、勉強はその一環である、という違いである。
 「成功結果」と「子育て熱心」は似ている。「成功体験」、「教育熱心」が適切に言い表せていないと感じているものに対して私自身でネーミングをしたからだ。それにより、私の中でくっきりと区別ができるようになる。「『子育て熱心』な親御様に納得していただけるような塾にしたい」、「単なる『成功結果』では意味が無い。その後にもつながる真の『成功体験』を積ませてあげるにはどのようにしたら良いのか」といった感じである。ネーミング以外のパターンもある。確か、漬物屋を例にして、「『伝統を守る』というのは、味を守るのであって、作り方ではない。地球温暖化によって、気温も上がっているため、以前と同じように同じ時間ぬか床に付けていても同じ味を再現できるわけではない」というようなことを述べた。これがどこにつながるか。講師には、志高塾の教え方は身に付けてもらうが、それは単なる方法論、手段に過ぎない。それ以上に、我々が何を大事にしているのかを理解して欲しい。それに関して、次のようなことを文章で述べたこともあった。「志高塾にお子様を通わせている親御様は欲張りだ。受験につながる力はもちろんのこと、将来に役立つ力も身に付けて欲しいと願っているからだ。」我々の役割は、欲張りで「子育て熱心」な親御様の期待に応えることであって、それっぽい作文を書けるようにすることではない。
 文体に話を戻す。両方の書き方を練習しておくことが肝要なので、内部向けが「だ・である調」、ブログが「です・ます調」でも構わないのだが、やはり今の方が理想である。ブログは、志高塾に興味を持ってくださった入塾前の方も読まれるからだ。先日、体験受験に同席されたお母様から、その時の様子を伝え聞いたお父様が「塾長は、いつもそんなにずけずけものを言うのか」と電話をしてこられた。私はその場におらず直接受けたわけでは無いので、どれぐらい厳しい口調であったのかは分かってない。こんな私でも反省ぐらいはするので、自分の発言を思い起こしてみたが、失言はしていないとの結論に至った。確かに、取り組み方が良くないと指摘はしたが、能力に関しては一切否定していないからだ。日頃から講師たちに「能力を否定してはいけない」と伝えている。入塾するまでは物腰柔らかく丁寧で、その後掌を返したのではないから、まあ良いか、と一人納得している。もちろん、ずっと丁寧なのがベストだが、私にそんな芸当はできない。私の大好きな作家、城山三郎の小説に石田禮助(いしだれいすけ)の生涯を描いた『粗にして野だが卑ではない』がある。「お前は迷わずそっちに進んで行けば良い」と城山三郎が教えてくれた。

2022.11.22Vol.568 人の評価と自分の評価

 先日、あるお母様とのやり取りの中で、「私は子供の頃から、人に評価されても、自分が納得できなければ嬉しくは無かったです。そう思いながらどうにかやってきました。」というようなことを伝えた。さらっと読むとかっこいいことを言っているように感じられるが全然そんなことはない。別に、自分が納得できるまで頑張った、ということではないからだ。人の評価の基準より、自分のそれをある程度高く保っておかなければならない。少しぐらい上に設定しているだけではダメなのだ。それは、多くの人は率直な意見を述べずに、幾重にもオブラートに包んでしまうからだ。その分を差し引いても、余りが出るようにバーの位置を決めるのだ。そう言えば、もう5年ぐらいの付き合いになるお母様、初回か2回目ぐらいかの面談で少し遅刻をされた。車で何度となく来ている西宮北口なのに、道を間違えてしまったのがその原因。この前の面談で次のようなことをおっしゃられた。「もうだいぶ慣れましたけど、昔はめっちゃ緊張しながら来ていました。そして、ずたずたになって帰って行く、といった感じでした。だから面談の日はぐったりと疲れていました」。ついでに、「先生は目が怖いです」とも付け加えられていた。それを否定する要素は残念ながら見当たらない。この夏、東京の友達の新居で就職活動中に知り合った仲間と3年ぶりぐらいに集まったのだが、引っ越し祝いに持って行く赤ワインをそのお母様にお願いして選んでいただいた。私は全然詳しくないからだ。ちなみに、ワイン通のお母様を少なくとも3人は知っている。もちろん、「ワインに詳しいですか?」「はい、そうです。私は毎晩浴びるように飲んでいます」「ということは、お母様の血液は赤ワインでできているのでしょうか?」「そんなわけありません」というような英語の例文にでもなりそうな堅苦しい質疑応答をするわけではない。いつどのようなことがきっかけだったかは覚えていないが、とにかく私はその事実を知っているのだ。私の楽観的な推測に過ぎないが、どなたに頼んでも引き受けてくださったはずである。
 この前、ある生徒が「面談って、先生がどうでも良いことを好き勝手に話しているだけやろ」とアホなことを言い、周りの生徒が共感していた。入塾したてであったり受験が近づいてきたりであれば勉強の話が中心になるが、そうでなければ普通の世間話程度のことで終わることも少なくない。特に、付き合いが長くなれば基本的な情報は共有できているので、必然的に話題は広がっていく。「特別話すこともないんですけど来ました」ということもある。ありがたいことだ。面談は半年に1回なので、その時にタイミング良くというか悪くというか、どうしても相談したい重大なことを親御様が抱えているわけではない。大事なのは、勉強でもそれ以外のことでも良いので、何か困ったことがあったときに、私なり志高塾の誰かに話してみよう、と思っていただけることなのだ。何気ない会話の中にその人の本性が出ることは少なくない。それゆえ、どうでも良いことをぺちゃくちゃと話して、親御様に本当の私を見せることはそれなりに意味があることなのだ。
 そう言えば、「緊張して来て、ずたずたになりながら帰って行く」話を他のお母様に笑いながら伝えたら、「めっちゃ分かります」と返ってきた。ただ、「思い当たることを指摘されるから痛いんです」とのことであった。的外れで意味も無く傷つけているわけではないのなら良いか、と私の中で一件落着した。ずけずけ言う私でもルールはある。「能力ではなく取り組み方」を評価の対象にすることである。たとえば、生徒達にも次のような声掛けをすることは少なくない。「理解をするのが遅くて俺は怒ることは無い。ただ、人より時間が掛かったのなら、苦労して手にしたものを簡単に手放すな。忘れないような工夫をしなくてどうするんや」。
 最後に、前回触れそびれたツイッターにまつわる話を少々。担当の志賀が、私のことを持ち上げすぎるので気持ち悪くて仕方がない。たとえば、先週のブログに関するものであれば「代表な貴重なつぶやきが」というのがそれに当たる。ただ、それはオブラートに包んだものではなく、彼女の本音なのだ。彼女が講師として生徒と接していた頃、手の掛かる生徒達の良いところを見つけてどうにかして伸ばそうと誰よりもしていたのが彼女である。私としては、みこしにかつがれてグワングワン揺らされている気分だが、ツイッターを彼女に任せている以上、その評価も素直に受け取ることにする。その志賀には、以前にブログか内部配布で載せた文章の中から、「ななつ星in九州」や九州新幹線「つばめ」のデザインを手掛けた水戸岡鋭治(みとおかえいじ)が『情熱大陸』か『仕事の流儀』に出演したときのコメントを頑張って探して欲しいとお願いしている。正確ではないが、「世の中って意外とフェアーだよ。頑張っている奴のことは誰かがちゃんと見てくれているから」というようなものだった。自分の評価軸をきちんと持って、自分自身が納得行くように進んで行けば、日が当たらないときが続いても、いつか人の評価というのは付いてくるのだ。本当に良い言葉だ。

2022.11.15Vol.567 ツイッターにまつわるエトセトラ

 最近ツイッターのことをよく考えている。そのようなことはこれまで皆無であった。何かしらの情報を発信するということはそこに意味を持たせなければならない。唯一やってきたSNSはフェイスブックであり、それは完全にプライベートなものなのでその限りではない。要は、志高塾の代表として始めることを意識しているのだ。
たった140字で、自分に有益な情報提供ができるとは思っていなかった。可能かどうかではなくその必要性を感じていなかった、というのが正確なところである。字数に関しては、500字であろうが1,000字であろうが、いくつかに分ければ良いだけなので、そう考えれば字数の縛りは実質無いに等しいのだが、それではわざわざツイッターを使う意味自体が無くなってしまう。他の人のツイッター自体をほとんど見たことが無いので、研究というと大げさだが、まずはそれをした方が良い気もするがその気が起きないので、始めるとなったらぶっつけ本番みたいな形になるのであろう。
つぶやく場合、その内容はどのようなものになるか。現在考えているのは、ネット記事のURLを貼り付けて、そのどこが気になったかについて簡単に私の意見を添えるといった形式になる。その際の情報源は専らヤフーニュースになるはずである。ちょうど私が大学入学した頃ぐらいにインターネットが普及し始め、その時に圧倒的に強かったのがヤフーである。「ググる」という言葉が使われるようになるのは、その何年か後である。当時の名残で私は今もヤフーニュースのヘビーユーザーなのだが、その良さは玉石混交であることだ。正確には、石ころだらけである。仕組みは詳しく分かっていないが、アマゾンの「おすすめ」のようにフィルターが掛かっていない、もしくは掛かっていたとしてもほとんど感じられないほどなので偏っていないのが良いのだ。それゆえに、考える余地が多いに残されている。一方、このブログで時々紹介するポッドキャストは、専門家がかなりまとまった形で情報提供をしている。つまり、磨かれた玉の状態になっているので、頭の中に入れ込む際に、どこの棚に片づけるかだけがポイントになるのだが、それはほぼ無意識的に行われる。このように書くと瞬間でそれが適切に行えるような印象を与えるが、そんな優れた能力を持ち合わせているわけではない。生徒の、特に意見作文を添削する際に、頭にある引き出しの中から情報をいくつか引っ張り出すのだが、そのプロセスを通して、「ああ、あれとこれがこういう風につながっていたんだな」ということに気付いたり、あいまいなまま(服であれば畳まれていないまま)押し込まれていたのを調べ直したりすることで、整理整頓が行われるのだ。インプットとアウトプットをバランス良く行うことが大事なのだ。
折角なので、つぶやく練習をしてみる。

https://number.bunshun.jp/articles/-/855315
プロ野球日本ハムファイターズの新球場。バックネットまでの距離が約18m以上必要、と決まっているにも関わらず15mしかないことが問題に。「たった3m」と表現する人がいるが、あくまでも割合で考えないといけない。18mに対して、約17%もずれているのだ。(137字)

https://number.bunshun.jp/articles/-/855315
18m以上というルールそのものが良くないと批判する人がいる。しかし、ルールは守らなければいけない。だからこそ、ルールをより良いものにしようという力が働くのだ。(99字)

調べてみて知ったのだが、URLはどのような長さでも22字でカウントされるとのこと。上の字数は、その22字を含めてのものである。最近の生徒とのやり取りに関するものだと次のようになる。

文系の高2の男の子に、社会を倫理政経ともう1つ何を取れば良いかを問われ、断然世界史を勧めた。俺は、覚えることが少ないという理由で地理を選択したが、大人になった今、世界史に関する軸が無いせいで本を読んでも頭に入ってきづらい。まとめて勉強するには絶好の機会である。(130字)

医学部志望の高1の女の子に、理科を化学ともう1つ何を取れば良いかを問われ、物理を勧めた。物理だと基本理系のすべての学部を受けられる。単に選択肢を広げるということではなく、数学が得意でないから物理を敬遠しているのが良くない。そもそも、数学ができないと勝負にならない。(132字)
 
上記2つに関してはもう少し補足が必要である。ここでは字数を無視する。社会に関しては、日本史、世界史は地理に比べて覚える量が多い。一方で、暗記すればするほど満点に近づける。実際、私は浪人生のときでも、センター試験の地理で88点しか取れなかった。そこまでは持って行けても、そこから上積みするのは知識などに裏打ちされたセンスが必要なのだ。当時の私は読書もほとんどしておらず、物を知らなさ過ぎた。また、なぜ日本史ではなく世界史かというと、日本史は小学校の頃からそれなりに勉強をして来ているので、最低限のことは頭に入っているが、世界史はそうではない。大人になってからいろいろな本を読んでも大きな流れが頭に描けていないので、仕入れた情報をうまく消化することができていない。私が高校生なら間違いなく世界史を選択する。
 また、物理に関しては、数学ができないことが前提になっているのだが、その状態で彼女が目指すところには合格できない。数学が求めるレベルに達すれば、物理の計算なんて大したことがない、ということを私は伝えたかったのだ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/0d18059203187bd3243a28db26229a8de0db45af
タッキー、私の後を追うようにアカウントを開設した。「俺はもう動いてたし」となったのだが、「一夜にしてフォロワー数が150万人を突破」のニュースに触れ、「たった1人の俺が教えてやれることはもう何もないな」ということで、温かく見守ることにした。(140字)

2022.11.08Vol.566 こういう風にしたいんですけど

 「Vol.563種」で紹介した「学びラウンジTUMUGU」の宇宙に関して学ぶオンラインイベント。6年の二男と4年の三男、先週の土曜で全4回の講座を終えた。隣で見ていたわけではなく、内容について2人から詳しく教えてもらったわけでもないが良い機会になったはずだ。まず、宇宙の専門家の話を聞けることが珍しい。正確には、聞くことはできたり本で読んだりすることはできる。ただ、それはある程度の人数に向けてのものなので、自分のレベルに合ったものである可能性が高くない。しかし、参加者が15人前後、対象の範囲が狭く(今回であれば主に高学年)かつそこに自分が含まれていること、それに加えてインタラクティブなやり取り、この3つの条件が揃うことは中々ない。だからと言って、いろいろな分野において同じような経験をたくさん積めば良いかと言えば、それもまた違う。非日常のことであれば外的な刺激を得やすいが、あくまでも柱になるのは日常だ。大事なのは、勉強、スポーツ、音楽を問わず、自らがそれなりのエネルギーを注いでいることにおける日々の似たようなことの繰り返しの中に、少しでもやりがいや達成感を得られるように自ら働きかけて行くことである。志高塾で言えば、意見作文の教材をアップデートして行くことはその一例だ。現行のものをそのまま使い続けたとしても悪くはないが、社員が中心になって問題を作成し、古いものと少しずつでも良いので入れ替えて行く。どこかの小論文試験で出題されたものを取ってくるのではなくゼロから作る。既存のものであれば、過去の生徒の取り組みからどのように導けば良いかは大体分かるが、新しいものだと「こういうことを考えさせたい」という思いを込めて問題を準備していても、想定していた通りには行かない。予想していたものと違うアイデアが生徒から出てくるから、そこで教えている我々としてもいつも以上に頭を働かせる必要が出てくる。志高塾では、このテーマに対してはこういう風に書きなさい、という模範解答のようなものを教え込むことはしない。生徒が書いたものをスタート地点にして、それをより良くするためのやり取りを行うので、使い古したものでもある程度の新鮮さは担保される。しかし、新しいものだと鮮度が少し高まるのだ。その+αが、上で述べた「繰り返しの中に少しでもやりがいや達成感を得られるように」の「少しでも」に当たる。
 ここからは、先週、授業中に私が講師に注意したことについて述べる。『コボちゃん』に取り組んでいる生徒がタイトルを付けるのに10分以上使っていた。その生徒の課題は作文の方にあったにも関わらず。また、『コボちゃん』や『ロダンのココロ』の作文前の口頭での内容確認を1コマずつ細かく行い、15分ぐらい費やしていたこともあった。その一方で、「今日こそは(90分で)2本やろうね」という声掛けをしていた。確認でそれだけの時間を取ってしまえば、それはほぼ不可能である。我々の役割は、生徒に目標を伝えることではなく、生徒と目標を共有した上で達成できるように導いてあげることだ。
 そこで思い出したことがある。浪人時代も同じ予備校に通い、共に一浪で京大に行った高校時代のサッカー部の友人がいる。彼はそのまま博士課程まで終えて助手になり、30歳前後で地方の国立大学(A大学とする)の准教授になった。めでたいことに最近その大学でようやく教授になれたのだが、以前その彼に「京大とA大の生徒の一番の差って何?」と尋ねると、「京大の生徒は『これこれこういう実験をしたいんですけど良いですか?』とやりたいことがあって、それに対する許可を求めてくるが、A大の生徒は『何をしたら良いですか?』と指示を仰いでくること」と教えてくれた。
 生徒自らタイトルを付けること、講師がマンガの内容を1コマずつ確認することは志高塾において基本的な教え方である。しかし、決められたことをやっているだけではうまく行かないこともある。だからと言って、それぞれの講師がその場の思い付きだけで勝手なことをしていては、生徒が混乱してしまう。そこで、指導にあたる講師が、経験のある社員なり社会人講師なりに「こういう風にしたいんですけど」と自分なりのアイデアをぶつけてみれば良いのだ。時にはタイトルを飛ばしたり、5分ぐらいに収めるために内容確認をオチだけに留めたりしても良いのだ。実際、それを私はその場で伝えた。具体策を提示したのは、それぐらい自由に考えても良い、ということを伝えたかったからだ。講師が生徒の成長に責任を持って出した案がマイナスに働くことはほぼない。そもそも、「考えなさい」と生徒たちに伝えている我々が思考停止に陥っているようであれば説得力が無さすぎるではないか。

2022.11.01Vol.565 ツイッター始めました

 今日から開始で、まだ何もつぶやいていないので、「ツイッター始めます」が正確なところである。現在、教材作成を中心に事務的なことを任せている元講師の志賀が担当する。頻度やどのようなことを発信していくかなどを明確に決めているわけでは無いので、やりながらその方向性を私と一緒に探っていく予定である。

 昨日、昼御飯のうどんに入れる天ぷらを買って帰ったのが、それを食べながらふと、「衣で大きく見せようとするって何なんだろう」となった。そのわずかばかりの具材もおいしく味わえなくなるし、がっかりもするので、二度とその店に行こうとはならない。意図はもちろん分かるのだが、それをしようとする気持ちはまったく理解できない。
 さて本題。この文章のタイトルを「おいおいおい」にしようかと考えた。中2の長男が、2学期の中間テストで数学の代数、幾何ともに30点台を取って来たからだ。「どないなってんねん」となり、入学後から今回の試験までの数学の点数の推移を確認すると、60点前後の平均点を何回かわずかに超えただけでほとんどが5点ぐらい下である。そんな長男なので、2教科とも平均点を超えるのが一つの目標となる。これまでにも何度か「数学を勉強せずに、社会などの点数を取るのはずるだよ」ということを伝えてきた。このように書くと、社会が大事ではないと誤解されるかもしれないがそうではない。たとえば、試験3日前に数学と社会、どちらも50点取れる状態だとする。そこから10点上げるには、社会は1時間で済むが、数学の場合その3~5倍ぐらいの時間が掛かる。実際、中高一貫に通う中学生が、これまでは社会の勉強をまったくして来ず前回も16点だったのだが、今回初めて前日に勉強したら88点になったとの報告を受けた。数学を勉強して取れないのだったらしょうがない部分もあるのだが、それをせずにその時間を社会に充てることがずるなのだ。社会は、点数を取れるに越したことはないが、単に丸暗記をするのではなく、授業を聞いたり教科書を読んだりして、地理であればなぜそこでその産業が発展しているのか歴史であれば流れを知っておくことが重要である。
 一昨日の日曜日、長男と三男を伴って和歌山市加太港に太刀魚釣りに出掛けた。太刀魚は歯が鋭いので気を付けないといけないことなど釣りを通して伝えたいこともあるのだが、行き帰りの時間も貴重である。助手席に座った4年生の三男に道路標識にある「阪和道」を指さしながら、「どことどこを結ぶ道だと思う」と尋ねたところ、悲しいことに和歌山の「和」だと分かっていなかった。その他、私の車のナビは都道府県境を超えると、「和歌山県に入りました」といったアナウンスとともに有名な観光地や名産品が絵で表示される。大阪はたこ焼きで、兵庫は姫路城である。「和歌山は何だと思う?」と聞いて、三男が何と答えたかは忘れてしまったが、私の予想通り梅であった。道路沿いの看板などにも「紀」という文字が何度か出てきたので、「元々『紀州』と呼ばれていたからだよ」、「和歌山の梅を『紀州梅』というんだよ」ということなども話した。徳川御三家の1つであることや、吉宗がそこの出であること、序列が低かったのに将軍になれたことなどを知っておいて欲しいが、それはもっと先で良い。間違いなく「紀州」ですら頭に残らないのだから。名産に関する話から、新潟は冬に雪が多く降り、それは季節風が山に当たるからであり、雪解け水を利用して米作りをしていることを三男が教えてくれた。「何で勉強したの?ただ暗記するだけではなく、そういう仕組みを知っていることが大事だから、お父さんは嬉しい」と伝えた。どうやらZ会の通信添削で学んだらしい。少し前に、公立に通う中1の女の子が、世界の山脈や山地の名前が覚えられないという話をしていたので、山の高低や産業なども一緒に頭に入れて置かなければいけないよ、というアドバイスをした。そのとき私が挙げたのはイギリスの例で、ペニン山脈、ヨークシャー地方、ランカシャー地方という名前はすべて忘れていたが、偏西風が山にぶつかり、西側で雨を降らすので、乾燥した東側ではその気候に適した羊毛工業が発達しているということを説明した。東側の羊に対して、西側は牛を育てて牧畜が盛んだと思い込んでいたが、綿工業であった。繊維工業において対になっていたのだ。そう言えば、炭田は名前だけではなく、良質な炭が採掘できるかどうかということもセットにして記憶していなければならない。私が学んだころと違い地球温暖化が深刻化していて、かつ直近ではロシアのウクライナ侵攻に端を発して天然ガスのヨーロッパへの供給が絞られているので、今の子供たちの方が環境問題、エネルギー問題と絡めて炭の質の良し悪しに関して興味深く学べる気がしている。
 本当は数学のことについて書きたかったのだが、今日から始まった面談がこの先一週間は続くので、自分をいたわって今日はここらへんで。

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