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2022.07.26Vol.552 ドレッシングの作り方(続編)

 安倍元首相の「私は頼まれたら断らない。これが基本ですから、引き受けました。」から。その言葉を受けて、「分かる、分かる。俺と同じや」となるはずだった。先週の話である。しかし、村上春樹の盗み聞き事件のことが飲み会の席で話題に上っていたので、「今度は元首相と肩を並べる気か」となりかねなかったため、誤解を与えぬようできる限り丁寧な説明を心掛けたらあんなことになった。
 誰に何と言われようと、私に言わせれば同じなのだ。ほぼ同じ、としておこう。その「同じ」は、「基本」という抽象的な表現が使われていることで成立する。「基本」の先頭に来て、かつそのほとんどを占めるのが、「時間が許せば」という条件である。幸か不幸か、私の場合は兎にも角にも時間が許す。それゆえ、親御様からのメールにある「お忙しいところ申し訳ございません」を目にする度に、「いや、それが全然忙しくないんです」と心の中で返事をする羽目になる。ただ、1年の中で夏期講習の日程を組む1週間ぐらいだけは様相がまったく異なる。100人近い生徒の時間割をゼロから組み直すからだ。その際に意識するのは、一にも二にもバランスである。生徒自身、講師自身という個人単位はもちろんのこと、生徒と生徒、生徒と講師、講師と講師の組み合わせに配慮する必要がある。たとえば、日頃同じコマに入らない講師同士を一緒にする方が、刺激を与え合えるし、コミュニケーションを取る機会にもなる。また、受験生はマンツーマンに近い形になり手が掛かるので、あまり固めない。1つ具体例を挙げる。中学受験生で、進学塾に通いながら1週間で国語2コマ、算数1コマを受ける生徒がいる。事前に希望の曜日、時間を提出してもらっているのだが、とりあえずそのどこかに3コマを詰め込めば良い訳ではない。その日、進学塾が何時から始まって授業時間はどれぐらいか、教科は何かなどを踏まえる必要がある。好きな算数が連続する分には良いが、苦手意識のある国語が重なればその日は朝から気分が重たくなるかもしれない。結果的に、2日間は志高塾の授業の後、昼を挟んで午後一からの進学塾に直接行くことになり、残りの1日は午前に志高塾に来て、進学塾は夕方からなのでいったん帰宅することになった。家からは片道30分は掛かるが、午後から授業をして直接進学塾に向かうことよりそっちを選択した。もし、30分ではなく、10分、15分のことであれば、その判断はもっと簡単であった。時間にすると大したことは無いのだろうが、時間割の作成に心と頭のエネルギーはそれなりにつぎこんでいる。だから、この時期だけは「そうなんです、ほんまに今は大変なんです。分かってもらえます?」とかまってちゃんならぬ分かってちゃんに変身する。
 「時間」という第一関門を突破したからと言って、すべての依頼を受けるわけではない。当たり前である。そして、ここからは道が分かれる。想像の域を出ないが、旧統一教会のことが連日報道されているように政治家としては、「票につながるか」というのが2番目に来るのかもしれない。私の場合は、「相手のためになるか」である。依頼されているのだから、応じるだけでその条件を満たすのかと言えば、そうではない。正確には「相手の成長のためになるか(成長につながるか)」だからだ。山口周著『自由になるための技術 リベラルアーツ』の中で、矢野和男は著者との対談の中で次のように述べている。ちなみに、彼のプロフィール欄には「現在、AIや社会におけるデータ活用の研究に従事」とあり、近著は『予測不能の時代 データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ』である。

 2019年に、あるAIのプログラムを書いたのですが、一年間にわたって試行錯誤を繰り返し、最初のバージョンから1000回近くも改良したので、正味60日分ぐらいの時間がかかりました。(中略)ただ、もしいまそのソースコードが消えてしまい、もう一度書いてみろと言われたら、おそらく3日程度で書けるでしょう。中身は隅から隅まで頭に入っていますし、どこが肝なのかもよくわかっているからです。
 このことは、問題の捉え方がよくわからなかった未熟な私が、一年かけて、複雑で汎用的な問題解決法であるプログラムをつくることのできる私自身に成長したことを意味しています。これを投資と見れば、プログラムというモノの生産に投資したのではなく、私という人間の一年間の実験と学習に投資したのだと言えます。その結果、私が成長したことが生産であるということです。生産とは形のあるモノを外に生み出すということだけではなく、人の能力を高め、成長させることだという見方もできると思います。

 内部生の親御様向けに、ひと月に1回配布している『志高く』のVol.184「劇的ビフォーアフター」の中で、医学部6回生の元生徒から、卒業後に研修医として勤務を希望する病院へ提出する文章を見て欲しいとお願いされたことを話題として取り上げた。そして、彼女自身が最初に書いたものと、私とのやり取りとを重ねた結果完成させたものをビフォー、アフターという形で提示した。個人的なものなので、ここでお見せできないのにその話をするのは申し訳ないのだが、5分、10分の電話を繰り返して、そこまでこぎつけた。ビフォーのものに私自身が直接手を入れて、「こんな感じでどう?」とチェックをしてもらえば私が費やす時間は最小限にできた。目の前にある目標は、彼女がその病院で研修を受けられるようにすることだが、私は自分の時間を彼女の文章それ自体というモノではなく、彼女を医者の卵として少しでも成長させることに投資したのだ。ここで、ビフォー中の一つの表現を取り上げる。「幅広い視野をもった医師になるための基盤を築きたいです」とあった。これを読むと、「そりゃそうだよね、視野は広い方が良いよね」で終わる。そこで、「何で視野を広げる必要があるのか?」という問いを投げかけると、「並存疾患を持った患者さんが予想以上に多く、ある患者さんが実習を行っていた内科ではなく、精神科対診によって適切な医療が行われ、回復に向かうことがあったから」と返って来た。そういう風に少しでも具体的にイメージすることで、「自分の専門の診療科だけの範囲で捉えていないか?」というチェックが入りやすくなる。それを日頃から意識することで、その結果として視野が広がっていくのだ。
 これだけ読むと、卒業生の相談にも親身に乗ってあげる良い先生っぽく映るかもしれないがそんなことはない。きっと20歳ぐらいまでは、子供の「この前俺がおごったから、今日はおまえがおごってや」よろしく、テイクを期待してギブをしていた気がする。そして、ギブをテイクと切り離して考えられるようになった。いつの頃からか、ギブした瞬間にテイクしていることに気づいた。そのテイクとは、相手からするものではない。今回のことで言えば、医療のことに関して少し知識が得られた。「自分自身が成長できるか」が3つ目の条件としてあるのかもしれない。
 子供のおごり合いは、単にお金の貸し借りをしているに過ぎない。おごった時点で物理的にはマイナスで、おごってもらってようやくプラマイゼロになる。一方で、私が頼みごとに応じる場合は、人間的に成長でき、少しは役に立てたかもしれないということで精神的にもプラスである。
 頭と心のエネルギーが回復してない中で、どうにか3,000字までこぎつけた。文章がいつも以上にだらだらとしてしまったが悪しからず。分かってちゃんは今日までとし、明日からまた謙虚ちゃんに戻ります。

2022.07.19Vol.551 ドレッシングの作り方

 凶弾に倒れた安倍元首相が、「私は頼まれたら断らない。これが基本ですから、引き受けました。」と近畿大学の卒業式のスピーチの中で語っていた。「ジャパン・スピリットコンサート2021」での、東日本大震災復興支援ソング『花は咲く』のピアノ演奏を依頼されたことについて触れていたのだ。
 話は変わる。最近また感染者数が増加傾向にあるものの、ずっと騒ぎ続けていた政府のコロナ分科会のあの尾身会長ですら「行動制限はありえない」と表明しているように、生活自体は戻りつつある。私自身、大学の同級生との同窓会、就活時代の友人たちとのホームパーティ、幼馴染たちのゴルフと飲み会、があるため、この8月は2回に分けて東京に行くことになっている。いずれも、この2年間は自粛していたことである。不思議なもので、多くの日本人の頭の中で4人と5人の間に見えない線が太く濃く引かれていたのであろう。その数字にどれほどの合理性があるかはさておき、5人以上=悪という図式ができあがっていたために、私を含め、何となく人数が多くなりそうな集まりを避けていた人は多かったのではないだろうか。久しぶりに志高塾の飲み会も各校室ごとに行っていて、豊中校と高槻校の講師たちとのものは既に終えた。その席上、「Vol.545意見作文の要諦」の中で、村上春樹が私の話を盗み聞きして、それを本の中でまるで自分で考えたかのように書いているのではないか、と私が述べていたことが話題に上がった。そんなあほなことを平気で口にする人は中々いないらしい。それを否定する気は無いのだが、自分の頭を使いもせずに、偉人なり有名人なりの言葉の中からそれっぽいものを探してきて、「みなさんもこれに学びましょう」と披露する方が数段馬鹿げている、というのが私の考えだ。校長先生や会社の朝礼で上役の人がやっていそうなイメージである。そんな言葉は響かない。お笑いコンビかまいたちに「クソ野郎」というネタがある。その中で、山内が「恋愛で悩んでる方にこのメッセージを届けます。コブクロで『サクラ』。なんじゃそら。それ、あんさんのメッセージちゃうから。それ、コブクロはんからのメッセージやから」と路上ライブでコピーをしている奴を馬鹿にする。コピーすることを否定しているのではない。メッセージを届けたいのであれば、自分で歌詞を書けよ、ということが言いたいのだ。「私の大好きな歌を歌います。聴いてください」ならまったく問題はない。
 アイデアというのはゼロから作るのではなく、既存のものの組み合わせだ、ということがよく言われる。上の村上春樹の話はきっとこうなのだ。当の村上春樹初め、私が好きな人の考え方をいくつかボールに入れて、泡立て器を使って一生懸命に混ぜながら、味が行き過ぎないよう調味料を少しずつ少しずつ慎重に混ぜて行く。そうやってできたドレッシングに「フレンチ」、「イタリアン」などの代わりに、「うまく行かないときの物事との向き合い方」、「発想の広げ方」、「気持ちのコントロールの仕方」などとラベリングしておく。それぞれでいくつかの種類を蓄えておく必要があるのだが、ある「物事の眺め方」の材料自体が、意図せずすべて村上春樹だったかもしれない。そうやって作っておきながら、「真似されちゃいましたぁ」と喜んでいるのだ。でも、そのような勘違いをするということは、裏を返せば、原材料が跡形もなくなるぐらいまで細かくなっていることの証左なのだ。ミキサーでもなく、電動の泡立て器でもなく、時間を掛けながら自分の腕を使って混ぜる。それも、クックパッドのレシピ通りに作って、はい終わり、ではなく、途中に何度も何度も味見をしているからこそ、どの料理にそのドレッシングが合うかが分かるのだ。新しくドレッシングを作ることもあれば、既存のものに新たな材料を混ぜることもある。ただ、たくさんの種類があれば良いというものでも無い。山口県の岩国城の前に、100種類以上の味を揃えたソフトクリーム屋があるのだが、とてもではないが自分に合うものなど見つけられない。5つぐらい用意したバニラ、チョコなどの中から1つを選んでもらい、お客様の好みを聞いた上で、トッピングをアレンジするのが提供する側の本来の役割のはずである。もちろん、教育の話をしているのだ。
 件のソフトクリーム屋は、観光客相手だからそれで良い。実際、何でもすぐに忘れる私が5年以上も前のことを覚えているぐらいだから、旅の思い出にはなっているのだ。先週の土曜に中1の男の子の体験授業を行ったのだが、お母様が大手塾の受験直前の志望校別特訓で、志望校と形式がまったく異なる問題ばかりをやらされて困った、という話をされていた。偏差値で輪切りにしているだけなのでそのようなことが往々にして起こる。正確には、偏差値別特訓なのだ。同じようなレベルの学校だからと言って、問題が似ているわけではない。だから、志望校ごとに細かく分かれていても(品数は多くても)中身は無いのだ。それゆえ、A判定や、Aに近いB判定を取っている子であれば良いのだが、そうで無ければ志望校別を受けることを私は勧めない。過去問を解かせるぐらいで、特別な対策をしてくれるわけではないのだから。
 昨日から内部生に配布している『志高く』の「劇的ビフォーアフター」を「紙幅の都合上、かなり中途半端な状態で終わってしまったので続きは7月19日(火)のブログでお楽しみください。もちろん、気が変わって別のテーマにしなければの話ですが。」と締めくくった。冒頭の段落はそのための「起」となっていたのだが、2段落目の「話は変わる」で、本題から転げ落ちてしまった。「承」以降は次回に持ち越しである。

2022.07.12Vol.550 晴れ時々受験

 5月に行った半年に1回の面談で、中2の生徒のお母様が次のようなことをおっしゃられた。「中学受験の直前は不安になって、先生のブログを遡ってかなり読んで、『言うことは一貫している。最後まで信じよう』となりました」。受験後1年経って初めて聞いた話であった。
 「言葉自体が適切であることは当たり前で、それを誰が発したのか大事。この人の言うことなら聞こう、とならなければその言葉は意味を持たない」ということを社員によく話す。「言葉自体が適切であることは当たり前」と表現したが、実際は確信を持てるわけではない。また、初めからそれなりに正しいことが保障されているのであれば、その言葉自体にさしたる価値は無い。単なる一般論に過ぎず、「それなり」は「それなり」の域を出ないからだ。たとえば、「受験に備えて朝型に切り替えた方が良い」と言われても、聞いた方は「そりゃそうですよね」となって終わりである。先日、低血圧の高校3年の生徒の起床について、お母様と話していた。まだ先のことなので具体策を提示したわけではないのだが、もし、その子が余裕で合格する状態であれば、少なくとも1か月前ぐらいから体を慣らして行けば良い。コンディションを整えることが合格率を上げることにつながるからだ。一方で、受験直前まで少しでも実力の上積みをする必要があり、無理に早起きすることで一日の勉強の効率が下がるようであれば、あえて1週間前まで体に負担の掛からないそれまでの生活リズムを守らせる。頭が働いていない状態で試験当日のタイムスケジュールで過去問を解かせても結果が付いてこない。すると、「この時期でも合格点に達しない」と心にもダメージを負うことになる。その切り替えをさせるは、場合によっては3日前かも知れない。3日前なのか、1週間前なのか、それとも10日前なのか。そんなものに正解は無いのだが、「このやり方があの子には合っている」と一定以上の自信が持って伝えられるように、その生徒のことをきちんとイメージして最適解を探る。いろいろな生徒に対して頭の中でそういうシミュレーションを積み重ねることで、「この人の言うことなら聞こう」の「この人」に近づいて行けるはずなのだ。
 冒頭の段落の話題は、前回のブログで触れたオシントに関する一例である。先週アップデートした後に、「そう言えば」と思い出した。そのお母様が不安になったのは、私の提示した対策は直感的にそれなりに正しいと感じられるものの一般的ではなかったからだ。そして、その確度を探るためにブログの読み直しをされたのだ。それを周りの受験を控えるお母さん達に話したところで、「そんなんで大丈夫?」と返ってくるのが関の山だ。実際、「周りのお母さん達に心配されるんですけど、大丈夫ですよね」という相談を受けることは少なくない。その時にはできるだけ丁寧に説明することを心掛けている。私の提案は一般的でないがゆえに奇抜な印象を与えるが、私に言わせれば、一般的な処方が誰にでも効果があると疑わずに押し付ける方が乱暴である。そして、結果が出なければ「あれでうまく行った子は多いんですけどね」と生徒に責任を負わせる。少し変わった例えをすると、スーパーでの買い出しに関して、「普通のお母さんって、こういう風に買い物の仕方をするからそうした方が良いですよ」とアドバイスをされても「知らんがな」となるはずなのだ。小まめに買い出しに行くのが好きな人がいれば、まとめ買いを好む人もいる。一カ所で済ませる人もいれば、肉はここでフルールはあそこ、と食材ごとで場所を変える人もいる。予め何を買うかを決めておき、メモに書き出した通りに効率良く回る人もいれば、行ったり来たりを繰り返しながら、メインになる食材を選んでその日の献立を決める人もいるかもしれない。その行ったり来たりするお母さんがフルタイムで仕事をしているからと言って、「こういう風にすれば買い物の時間を半分にでき、少しでも時間の余裕が生まれますよ」というアドバイスが真に効果的かは分からない。家に帰るまでのその一人きりの時間が息抜きになっている場合もあるからだ。「時間の余裕=心の余裕」と決めつけるのは、あまりにも短絡的過ぎる。
 受験直前に親に迷いが出るのは、よくある。そして、受験に限らず、そういう時には原点に戻ることが大切になってくる。なぜ中学受験をすることにしたのか、どのようなスタイルの中学受験を望んでいたのか、という問いに対する答えを思い返してみることである。志高塾では、6年生になっても、これまで通りスポーツなり音楽なりに力を入れながら、受験に臨む生徒も少なくない。大抵の場合、入塾前にそのようなやり取りをしている。「大手の進学塾に行くと、これまで頑張って来た習い事を辞めないといけなくなります。志高塾だと、並行しながら受験にも合格できますか?」。どこを目指すのか、どれぐらい授業の時間が取れるのかを確認した上で、「十分に合格できます」、「それはさすがに難しいので、志望校を再考するか、勉強時間を増やす方法を考えるか、少なくともいずれかが必要です」とお答えする。「原点に戻る」としたが、その上で、原点からその時点までの線を辿るのだ。中学から灘に通っていた生徒が、高校のあるタイミングで急に成績が伸び、その子のお母様は教育熱心なお母さん達から「どうしたらあんな風になるのです?」と尋ねられたらしいのだが、「それまでの育て方が全然違うので、うちの子のやり方が他の子にも効果的なわけではない」という考えの元、何も答えなかったのとのこと。受験直前でやり方を変えるのというのもあるが、基本的には線は滑らかな方が良い。想定していた右肩上がりの曲線と実際のずれを確認しながら、その都度手を打って行く。最後までそれを粛々と続ける。受験と言うのは、そういうものだと私は思う。

2022.07.05Vol.549 リベラルアーツと聞いて思うこと考えたこと

 「リベラルアーツとは何か」というようなタイトルにしようとしたのだが、それだと正しいことを書き連ねながらきちんとまとめる必要が生じるので、逃げの手を打った。生徒が同じようなことをしようものなら、「あのさ、そういうずるいことをするために言葉の感覚を磨いてるんとちゃうで。目の前の事柄ときちんと正対せなアカン」と厳しく指導いたしますので、ご心配には及びません。
 高校の3年間を海外の現地校で過ごした生徒が、ICU(国際基督教大学)を帰国生枠で受験するに当たり、志願理由書の作成を一緒に行っている。「一緒に」と言いつつ、実際は「こう書けば良い」と具体的内容を指示するような指導を行うところは少なくないが、志高塾ではそのようなことはしない。主な理由は2つである。
 1つ目は、その大学で自分はどのようなことを学びたいかを考える絶好のチャンスであるからだ。特にリベラルアーツに力を注ぎ、多様な学びができるICUではなおさらである。最初に、「HPをよく読みなさい。その際に、情報に飛びつかないようにしなさい」ということを伝えた。それは、「Vol.545意見作文の要諦」で紹介した、村上春樹の『職業としての小説家』の中の「『考えをめぐらせる』といっても、ものごとの是非や価値について早急に判断を下す必要はありません。結論みたいものはできるだけ留保し、先送りするように心がけます。大事なのは明瞭な結論を出すことではなく、そのものごとのありようを、素材=マテリアルとして、なるだけ現状に近い形で頭にありありと留めておくことです」に通ずる。志願理由書を書くという目的でHPを見ているのだが、「どれについて書こう」という考え方を捨てて、まずは全体をじっくりと見渡せば、そのうちに「あれが楽しそう」、「これは何か面白そうだ」というのが浮かび上がってくるはずなのだ。そうなった時点で、それ以外の可能性も残しつつ、「あれ」や「これ」を掘り下げて行けば良い。札幌で飲みに行った際、北海道の3つの産地の生牡蠣の食べ比べをしたのだが、結局どれもおいしかったのでまた同じものを頼んだ。何も考えずに口に運んでいたというのもあるが、それでもそれを繰り返していると、そのうちに「どれも良いけど、厚岸(あっけし)のやつが一番好みかも。じゃあ、次は盛り合わせではなくそれだけを3つにしよう」などとなったかもしれない。それが、「あれ」、「これ」、「それ」の中から1つを選ぶということである。甲乙つけがたいと思いつつ選択をしているので、仮に厚岸のものが売り切れていたら、「じゃあ、サロマ湖産にしよう」と前向きな切り替えができる。やりたいことを複数持っていれば、入学後、仮に自分の選んだ学部なり学科が合っていないとなっても積極的な変更をしやすくなる。もちろん、転部なり転科ができれば、の話ではあるが。事前の準備に時間を掛けていないと、外れる可能性も高くなり、やりたいと思い込んでいただけなのに「この大学でやりたいことは無くなった」となりかねない。大学受験のときや就職活動のとき、自分のやりたいことの見つけ方をまったく分かっていなかったので、「正しい道の選び方」ではなく、「いつか自分により合ったものを見つけられる道の選び方」なるものを少しでも生徒や大学生講師に伝えてあげられれば、と考えている。その他、オープンキャンパスの募集が定員に達して締め切られていたというのもあるが、情報はHPなど公開されているものから十分に取れる、という話をした。「テレビや映画だとスパイは有力な内通者を抱えている場合が多いが、実際は90%以上の情報を『オシント』(OSINT:Open source intelligence)と言って新聞やニュースなどの一般に公開されているものから入手しているらしい」と教えた。たとえば、今後のロシアの動きを推測するためには、プーチンの演説やロシア国営メディアの情報を参考にすることになる。これに関して、あるロシア研究家の「プーチンに重病説が流れているが、それは頭から消すようにしている。定かでないものを材料にすると、適切な判断ができなくなるからだ」という発言に「なるほど」となった。
 終盤に来てようやく2つ目の出番なのだが、我々が誘導すると面接で化けの皮が剝がれてしまうからだ。志高塾の採用面接において、「HPのどこをご覧になられましたか?また、それに関する感想を簡単で良いのでお聞かせください」という投げかけをすることは少なくないのだが、よく見ていない人ほど、具体的な点を1つ挙げ、「あそこに書かれていることに共感しました」などとそれっぽい発言をする。直後に、「他には?」と質問した時点で「実は、あまり見ていません」となる。逆に、時間を掛けた人は、全体を面で捉えていることが伝わってくる。アルバイトの面接でそこまでする必要があるのか、ということはこの際横に置いておく。前者のタイプの人は、それが有効な手段でないことに気付かないままに基本どこでも同じようなことをするはずである。もしかすると、先の生徒の志願理由書をこちら側で作成し、面接用の想定問答などを用意して、練習を行う方がトータルの時間は短縮できるかもしれない。しかし、多くの重要なことがそうであるように、時間の多寡ではなく、掛けた時間にどれだけの価値があるかが大事なのだ。
 「リベラルアーツが単なる点にしか見えないぐらいだいぶ遠くに見据えて」の方が良かったかも。

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