志高塾

志高塾について
志高塾とは
代表挨拶
通塾基本情報
アクセス
お問い合わせ
志高塾の教え方
指導方法
志高塾の作文
志高塾の添削
読解問題の教え方
使用教材と進め方
志高く
志同く
お知らせ
志高く

2021.11.30Vol.521 楽しいと嬉しい

 「Vol.519 The 作文」の彼女のデジタル署名の数は、先週の時点で1,300人を超えた。一つの目安が100人だったのでかなりの数字である。ご協力いただきありがとうございました。私のブログを読んでくださる方は50人もいないのに、といじけたくもなるが、まずはその貴重な人たちに楽しんでいただけるように頑張らねば。
 と言いつつも、早くも宗旨替え。彼女の文章に味を占めてこれから毎月度の1週目は中高生の意見作文を掲載しようかと考えている自分がここにいる。少し補足すると、志高塾では毎月が4週になるように設定しているため暦の「月」とずれているので「月度」という表現を用いている。その1週目は月間報告に追われてそれなりに忙しい。そこで考え出されたのが上の一石三鳥のアイデアである。1つ目は、私が楽をできる。2つ目は、中高生になったらどのようなことするのかを親御様に感じていただける。3つ目は、『志高く』に新鮮さが注ぎ込まれる。
 善は急げ。1月度の1週目に当たる12月14日(火)に向けて、数週間前に中3の男の子を指名した。彼は学校の文化祭で「一人語り」というイベントに自ら手を挙げて参加し、そこで自分が開発したいアプリについてプレゼンを行った。その準備段階で、どのような内容を話すかを何回かの授業を費やして一緒に考えた。その発表で使用した原稿を文章だけで理解していただけるように手直ししている最中なのだが、想像しているよりも手間が掛かる。『コボちゃん』や『ロダンのココロ』を文字に起こすのに似ていて、相当情報を補わなければならないからだ。
 さて、そのアプリ。彼が、ネットニュースなどのコメント欄で言い合いをしているのを見るのが好き、というところから始まった。それを口論から討論に昇華させるための仕掛けを作ろうという試みである。ちなみに、意見作文を添削するときは、「こういうことが言いたいんやろ?」ということを1つ1つ確認しながら、生徒たちの中に存在しているものの、まだぼんやりとした状態のものに輪郭を与えて行くのが我々の役割である。まかり間違っても、「そんな意見は捨てて、こういう結論にしなさい」などという導き方はしない。もちろん、考える方向性が明らかに良くないこともある。そういうときは、どこが悪いのかを本人が認識できるようにしてあげなければいけない。それを踏まえて、新たにどこに向かって行くかを決めるのもやはり彼ら自身である。それが定まった段階で、それについてまた一緒に考察して行く。その繰り返しである。輪郭を与える、の一例を示す。彼が何をしたいのかを聞いた上で、マイク・タイソンをイメージしながら、そこら変で不良同士がやっているのは単なる喧嘩だが、彼らをボクシングのリングに上げれば立派な格闘技になる。そのアプリは言わばリングを提供するようなものだ、という話をした。その詳しい内容は彼の文章に委ねる。前回の授業で、冒頭400字ほど書いたものに目を通したのだが、ネガティブな要素が強すぎた。誹謗中傷などが問題になっているので、負の側面があるのは分かる。しかし、文章の書き出しがそれでは読み手は面白くない。「そもそも、アプリ開発というのはもっとワクワクするもんじゃないのか。当の本人が楽しんでないのに、人は集まって来ないよ。文章も楽しいことから始めないといけない」という指摘をした。要は、「俺は、こんな楽しいことをしたい、それによって現在のこういう問題も解決される」という順番にした方が良い、というアドバイスをした。マイク・タイソンの例で言えば、彼はこれまでにこういう卑劣な犯罪を重ねて来て、ということではなく、彼がもしプロのボクサーになったらそのパンチ力がいかに魅力的か、ということから始めなさい、ということである。
 話は変わる。先週末、高1の男の子が進路のことで悩んでいたので、立ち話程度の話をした。正確には、座りながら30分ほど意見交換をしていたのだが、改まってのものではなかったということである。半年から1年ぐらい前に、急に「医者になりたい」と言い出したのだが、それを聞いたときには随分と違和感があった。言下に否定せずにそのままにしていたのだが、理系、文系を決める時期がいよいよ迫って来て本人の中で迷いが生じ始めた。そこで、「もし、お父さんが医者じゃなかったら、医者を目指すの?」というシンプルな質問をした。「それは絶対にないです」と返って来た。ここでもよく述べるが、私は理系、文系という分け方は好きではない。ただ、あえて分類すると彼は間違いなく文系である。そのようなことなどを踏まえて、「人間的に面白いから、きっと良い医者になれると思うよ。でも、その要素は医者以外でも生かせるからな。強引になりたい職業を決めるんじゃなくて、自分が学んで楽しいことを見つけることから初めても良いんじゃない。持っている英語力からしたら海外の大学に行くことも可能だし、彼らは大学は文系、大学院は理系みたいなことも普通にあるから、大学で勉強しながらもっと楽しいことを探すのも1つの方法やで」と伝えた。
 そもそも医者と言うのは最も分かりやすい職業である。もちろん、医者になることを反対しているわけではない。志高塾の生徒で医者になりたい、と言っている生徒は過去にもたくさんいたが、将来半導体の技術開発をしたい、古典文学をとことん研究したい、楽器作りの職人になりたい、といった類のことを聞いたことは記憶にない。職業選択に限らず、分かりやすいものほど本当に自分の頭で考えているかを疑ってかかる必要があるということを訴えたいのだ。彼とそんな話をしていると、偶然にも元生徒の親御様から以下のようなメールをいただいた。
「松蔭先生、こんにちは!親類が、東大で教授をしているんですが、早期退職することになり最終講義をzoomで配信するそうです。文化人類学。インドが専門です。文系のお話しですが、東大にも生徒さんを送り出してらっしゃる松蔭先生には、ご興味をもっていただけるかも?と。」
彼に早速その内容を伝えると、すぐに参加登録を済ませていた。彼は医者になっているより、それこそインド人と現地で楽しそうに仕事をしている方がしっくりくる。あくまでも私の勝手な考えであるが。ここで、その案内を告知しようかと考え、念のためにお母様に確認するとあまり広げ過ぎない方が良いとのことだった。それは1月10日に行われます。もし、ご興味があれば私に直接ご連絡ください。申し込み用のURLを個別にお伝えいたします。
 奇しくも私は2人に「楽しい」という言葉を使った。志高塾では、1つの作文において重複表現を禁止している。すると、『コボちゃん』や『ロダンのココロ』に取り組んでいる小学生は、「楽しそう」を使ったら、それを繰り返さないように今度は「嬉しそう」に変える。そのようなこともあり、その2つを同様なものだと捉えていた。しかし、「楽しいことをしたら」とは言うが、「嬉しいことをしたら」とは言わない。宝くじが当たったら嬉しいけど、楽しくはない。難しい問題をどうにかして解いてやる、と悪戦苦闘しているのは楽しいけど、嬉しくはない。要は、楽しいは過程との、嬉しいは結果との結び付きが強いのだ。だから何だという話なのだが、こういうことを考えるのは楽しく、たとえそれが小さな発見であっても嬉しいものである。
 この1, 2か月、偶然にも何人かの元生徒が連絡をくれた。それも嬉しいことである。昨日も、医学部に通う5回生の女の子が3年ぶりぐらいに電話をしてきたので、「どうした?」と聞くと、「偏った意見が聞きたくて」と返って来た。私ほどバランス感覚に優れた人はいないのに。ちなみに相談内容は、中学受験を終えるまで志高塾に通っていた高3の二男が急に医学部に行くと言い出し、その理由が「かっこいいから」なんですがどう思いますか、というものであった。話を聞き、俺は別に良いと思うけど、と返しておいた。ダブルスタンダードではない。これに関しては、気が向けばブログのテーマとして扱う予定である。
 「いつでも教室に顔出してや」と伝え、切ろうとしたのだが、突然訪ねてくるのも気を遣うか、となり、「じゃあ、今度飲みに行こう」という話になった。これまでにも何人かと行ったが、小3の頃から知っている元生徒と飲みに行く日が来るというのは不思議な感じがしてならない。

2021.11.23Vol.520 たゆたう

 一カ月前ぐらいから構想を温めていた。と言いたいところなのだが、ゆで卵を作るため、水を張った鍋に卵を入れただけで火にかけていなかった、といった感じである。
 コロナが流行り始めた1年半ぐらい前からめっきり読書量が減った。その要因は主に2つである。1つ目は、車通勤になったこと。読書時間を確保するため、あえて職住近接にならないにように電車を利用するようにしていたので当然の帰結かもしれない。2つ目も、車通勤になったこと。以前は、豊中か西宮北口のどちらかの駅にあるブックファーストでまとめ買いをしていたのだが、その機会が失われてしまった。読んでいないものが手元にたくさんあれば早く読まなきゃ、という力が働きやすく、読み終えて次の本を探すときにも選択肢が多いのでそのときの気分にあったものが見つかりやすい。それと同じ理由で、かばんには小説とそれ以外(ビジネス系のものなど)を入れていて、その瞬間気乗りする方を読み進めるようにしている。
 子供の頃に本を読まなかったので本屋に行く習慣が無かった。だから、今もわざわざ行こうとはならない。西宮ガーデンズの中に大きなブックファーストが入っていて、教室から歩いて10分も掛からないのだが足が伸びないのだ。三つ子の魂百まで、とはよく言ったものである。
 ネット注文すれば済む話なのだが、特に小説に関しては実店舗で興味を持ったものを買ってみて、面白ければその作家のものを片っ端からネットで注文する場合が多い。そのプロセスにこだわりがあるわけではないのだが、なぜだかそうなのだ。新しい出会いはあるものの、城山三郎を超える人は出てこない。親が私に与えてくれたものは数多あるのだろうが、その中の1つに彼との出会いが挙げられる。性格が似ていたことから父とはよくぶつかっていたので、勧められて、素直に「分かった、読んでみる」とはならなかったはずである。大学生になってようやく空っぽの自分に気づいて、「もっとまともな人間にならないと。そのためにはまずは読書」という焦りの中で、父の書棚を物色して偶然に手に取ったのがきっかけのはずだが定かではない。「将来の目標は?」と尋ねられれば、以前であれば「『仕事の流儀』か『情熱大陸』に出ること」と冗談半分で答えたかもしれない。しかし、情熱がないどころか、そもそも仕事をしているのか、という疑いすらある。最近は「先生、ゴルフばっかしてるやん」と言われることしばしば。本当は、「いや、そんなことはない。トレーニングとヨガをそれぞれ週1回1時間ずつしているし、隔週でフルコートのサッカーもしてるで」と訂正しようとしたのだが、グッと言葉を飲みこんだ。しかし、生徒たちの指摘にも一理あるので、「これじゃあアカン」と先週の金曜日に半年ぶりぐらいでフットサル(ミニコートのサッカー)に顔を出し、今日は教室に行かないので3カ月ぶりぐらいに釣りに出かけようとした。福井までタラ釣りに行きたかったのだが、3日前に確認すると日本海の波は高そうだったので、鳥羽の鯛にしようとなった。しかし、往復で5時間、船で5時間となると文章が仕上がらないとなりあえなく断念した。ちなみに、タラの白子はその日のうちであれば生で食べられる。少し腹を開いて、船の上で塩水につけて食べるのも中々の美味。これは正に釣り人の特権である。
 「プロセスエデュケーション」というタイトルを付けて冒頭の段落を書き始めたのだが、本題まで行きつきそうになかったのでそのまま流れに身を任せることにした。話題をつなげていくがゆえに、「しりとり(作文)」でも「なりゆき」でも良かったのだが、「たゆたう」に落ち着いた次第である。
 そう、その将来の目標。今であれば「城山三郎の小説に取り上げられるようなかっこいい人になること」と冗談ぽく、でも真剣な目をして答えるかもしれない。「なること」ではなく「少しずつでも近づくこと」にすれば、諦めることなくいつまでも精進し続けられるかもしれない。最近は、ゴルフのことばかり調べているので、ネットニュースも自然それ関連のものが上がってくる。その1つとして「超名門クラブで城山三郎さんが口にした『あまり右に行くなよ』の戒め」というものがあった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/da102a65a697b8eac3a6120996c7eaa11450604d
超名門クラブとは、ゴルフ場のことである。タイトルを目にして、「城山三郎も心の中でそう唱えながら打ってたんか。俺は左に曲がりがちやから反対やな」と思ったら、ゴルフのショットとはまったく関係の無い話だった。タイトルにだまされた、ということはよくあるのだが、これほど心地良いものは中々無い。
それはさておき、あの城山三郎も好きだったことを知り、さらにゴルフを頑張らねば、と決意を新たにした次第である。ここで締めても良いのだが、あと少しだけ。  
 私が城山三郎を好きなことを持ってして、「やっぱり昔の作家の方が」などという気はない。だがやはり、推理小説なら東野圭吾より断然松本清張なのだ。作家のこととは関係なく、少し前に何がきっかけか分からないが「古き良き」ということについて、正確には、「新しき良き」とは言わないよな、ということについて考えていた。どうしても人と言うのは、失ったものに目が行きがちで、それもあり年を重ねるほど若者の意見との距離が生まれる。それに対して、無理に理解しようとしたり受け入れようとしたりするのはきっと難しくて、自分なりに「新しき良き」に思いを馳せることが大事なのではないだろうか、という結論に行き着いた。頭で理解できれば、心がそれに従うはずなのだ。このことをどこかで書きたかったので強引に放り込んでみた。
 休日の昼下がりのような実にしまりのない文章に仕上がった。今週は、木、金、日とゴルフのラウンドである。それに向けて、少しでも真っ直ぐ打てるように今から打ちっぱなしへ。城山先生、見ていてくださいね。

2021.11.16Vol.519 The 作文

 コンクールで賞を取るためではなく、人生に役立ってこそ作文である。
 今回は中3の生徒のものを紹介する。彼女の活動に賛同していただける方は署名をお願いいたします。なお、私は文章にほとんど手を入れていない。先週の土曜の授業の際に書き上げたものを持って来てくれたので、それに対して「ここにもう少し具体的な体験談が欲しい」などの指摘をした程度である。帰り際、「来週の火曜日はゴルフで文章を書けへんから、修正したものを送ってな。頼むで」と念押しをした。日曜日の夜になってもメールが来なかったのでやきもきしていたら、日をまたいだ0時半過ぎに次のようなコメントと共に送られてきた。
「文章を書くのは果てが無いということが分かりました。明日学校がなければ、まだまだ手を加えたいですが、時間も時間なので送ります。」
では、どうぞ。

「飲食店における原材料開示の義務化を願って」奥村ちひろ

 私は西宮市在住の中学3年です。そして食物アレルギーを持っています。そんな私から問題提起したいことがあります。
 それは、「原材料を聞かれたら誠実に答えること」を義務付ける法令を定めていただきたいということです。
 食物アレルギー患者は、乳児は約10%、幼児は約5%と珍しくないですが、小中高生になると約4.5%と成長と共にだんだんと減ってきて、全人口では約1%~2%です。ですので、子供の疾患だと思われていることがあります。また、私のようにアナフィラキシーショックの既往があるような比較的症状の重い小中高生は約0.5%と少ないです。
(https://www.mhlw.go.jp/seisaku/2009/01/05.html,https://www.jstage.jst.go.jp/article/arerugi/67/6/67_767/_pdf,https://www.yakuji.co.jp/entry34061.html)。そのためか、普段話題に上ることもほとんどありません。しかし、当事者にとっては、命に関わる大問題であり、私も困ることがよくあります。
 どういうことかというと、食物アレルギー患者は、口に入れるものの原材料を必ず確認します。アレルギーを起こさない為には、原材料を確認して原因となっている物(アレルゲン)を摂らないことが一番だからです。アレルゲンを摂取しなければアレルギーは起きません。ですので、買い物をする時や料理をする時、市販のお菓子などを食べる時は、外装の裏などにある原材料表示を必ず確認します。また、外食する場合は、そのお店にお願いして原材料を教えていただかなくてはなりません。しかし困ったことに、それを教えていただけないことが割とあります。
 例えば、ある国立大学の学生食堂に繁忙時間を避けて入店しカレーライスの原材料を聞いた時は、小1時間たらい回しにされ、情報をなかなかいただけませんでした。私が気持ちを抑えきれなくなり泣いてしまったので、最終的にはレトルトの裏の表示を見せてくださりすぐに解決しました。カレーライスはお店にとって原材料を比較的教えやすい場合が多いメニューではないかと想像していますが、客が諦めるのを待たれていたのかな、と思います。このように、やんわりと退店を促されることや、どれを尋ねても「アレルゲンが入っている」と言われることや、分かりやすく「アレルギー患者の注文は受けない」と入店を断られることが時々あります。アレルギーがあると伝えると、たとえ問題なく食べられるとしても1種類のソルベしか注文を受け付けないアイスクリーム屋さんは、患者間では知られていました。
 なぜこういうことが起きているかというと、飲食店などでは原材料を客に教える義務がないからです(https://www.caa.go.jp/policies/policy/food_labeling/food_labeling_act/assets/food_labeling_cms101_210317_10.pdf 67ページ)しかし、チェーン店のファーストフード店やファミリーレストランなどでは、企業努力でアレルゲンを表示してくださっており、とても助かっています。例えば、QRコードを読み取ってアレルゲンを確認できるなど、提供者だけでなく顧客にも便利な方法などです。また、上級なレストランやホテルでは、話を聞いて丁寧に対応してくださるので、特別に嬉しいイベントになります。しかし、そのような対応をなされていないところが多いため、丁寧な対応までは望みませんが、最低限の情報提供については足並みが揃うような指針を国が提示してくださった方が、よりありがたいです。
 とは言え、飲食店側の事情も理解できます。レシピは企業の財産ですので、原材料開示となると企業秘密に関わります。仕入れなどの都合で、メニューや原材料が日によって変わることもあります。ごく一部の客へのボランティアとして多大な労力は割けないでしょう。そのことは、私達も重々承知しています。ただ、だからと言って原材料を聞かれた場合、偽ったり入店を拒否したりしないでいただきたいです。
 そういえば、飲食店が禁煙になった時のことを思い出すと、飲食店が「喫煙客が減る」ことを心配して反対する中、国が主導して禁煙と分煙を進めました。結果、客足が遠のくことなく、今では飲食店での禁煙と分煙は定着しています。このように、アレルギーの場合も、国が主導すると良い結果が得られるのではないかと考えています。
 また、原材料を確認したいのはアレルギー患者だけではありません。持病により食事療法を取ったり、服用している薬の兼ね合いで特定の食物を避けたりしながら、元気に過ごしている人は大勢いますので、アレルギー患者に限ったことではないと思っています。
 しかし、飲食店を経営していない私では想像できないような原材料表示のご苦労があるはずです。ですので、これに関するご意見を、飲食店組合やInstagramで「いいね!」をくださった飲食店さんなどから伺えたら良いなと思っています。それをもとに、容易に原材料表示ができるシステムを、プログラミングスクールで指導を受けながら構築します。対応してくださるならアレルギーサービス料として上乗せしていただくのも良いと思います。また、好意的な飲食店さんを積極的にSNSで情報拡散したいと思います。例えば、ハンバーガー店でも、「アレルギー対応はしていません」と言われ、注文を受けないA店と、アレルギー表示が義務化されていないころからネットで公開し、聞くと丁寧に教えてくれるB店がありました。平等や差別に関心が高まっている今、この2つのお店では、評価が違ってくるのではないでしょうか。
 こうしてハードルを下げ、メリットを増やした上で、最終的には「原材料を聞かれたら誠実に答えること」を義務付ける法令を定めていただきたいと願っています。
 このことに賛同していただける方は、下記のサイトにデジタル署名をしてくださるとありがたいです。
https://chng.it/kc6JnqFZHr
 また、協力して一緒に活動してくださる方は下記のメールアドレスに連絡をくださると助かります。
 連絡先:okumura_c&outlook.jp (&を@に変えて送ってください。)
 最後に、私がこの文章を書くことで新たに知ったことがあります。それは、飲食店のアレルギー対応がここ数年でアップデートされているということです。今回、松蔭先生の「志高く」に掲載していただけるということで、正確な情報を書かなくてはいけないと思い、飲食店のウェブサイトを確認したり、電話で問い合わせたりしました。すると、以前はアレルギー対応をされていなかったハンバーガー店Aが、アレルゲン表示をネットで公開されていました。一方、1種類しか注文できなかったアイスクリーム店は、アレルギーがあると言うと、やはり食べられるものでも実際には注文できないことが分かりました。しかし、数種類の中から選べるようになっていました。企業も変わっていこうとしていることが分かり、今度、どちらのお店にも行ってみたいなと楽しみになりました。
 これから長く活動をしたいと考えていますので、よろしくお願いします。

2021.11.09Vol.518 「あぁ、おんなじだな」って

「(時には、始発もしくは終電もあるぐらい)仕事が忙しくて、家事もちゃんとやられて、週末には子供に勉強まで教えてるからほんとすごいですよね」
「代表も、忙しくされてるじゃないですか」
「私の場合、仕事以外のことに精を出しているだけですので」
「そこが代表の魅力です」
「魅力です」とまで言われてしまうと、もうそっちを頑張るしかないな、となる。ちなみに、私のことを「代表」と呼ぶのはおそらくこのお母様だけである。私に対する家庭内での呼称は、最も一般的なのが「松蔭先生」で、その次に来るのが「まっちゃん」、後はすべて少数派に属するのだろうが「まつかげっち(なぜかあだ名の方が長い)」、「ボス」などがある。私のことを「まつかげ」と呼び捨てにする強者の生徒の存在も確認されているが(最低限の敬意はあるらしい)、せめて「あいつ」やそれに類するものが含まれていないことを願うのみである。
 さて、その仕事以外のこと。現在の筆頭は、何と言っても今年の5月から始めたゴルフである。球技大好きな私がこれまであえて距離を置いて来たのは、父がそれに多くの時間を割いているのを子供の頃に見ていたからである。どうせやるなら真剣にやりたい、でも、そうなると他のことができなくなってしまう、というのがあった。「他のこと」とは、とりもなおさず仕事である。4月に高校のクラブの友達と久しぶりに会い、「おまえもゴルフやらへん?」と誘われて「やる」と二つ返事で答えた。そこに一片の迷いも無かったのは、機が熟していたからなのだろう。30代であればそうはならなかったはずである。仕事があまりにも未熟であったからだ。独立をすることに関しては25歳ぐらいからずっと考えていて、「リスクは取れるか?」、「覚悟があるか?」と自問しては答えに窮していたのだが、29歳で決心したときには、そんな問いは自分の中から消え失せ、「あっ、今や」となり、その瞬間から「やっぱりサラリーマンを続けた方が良いかな」などと考えたことはただの一度も無かった。人によってタイミングの捉え方は違うのだろうが、私の場合は、一通り考えた後に一度意識の下に潜って、それがある瞬間パッと浮かび上がって来たときがそれである。
ゴルフの話に戻そう。初めに1年で100を切るという分かりやすい目標を立てた。18ホールを99打以内で回るということである。その後、何かのデータで「1年で100を切る人は14%」ということを知り、「14%に入ったところで嬉しくない」ということと、初めてラウンドした時が118だったので19ぐらい簡単に減らせるとなったことで、上方修正して期間を半年に短縮した。そのリミットが10月31日だったのだが、その間のベストスコアが111なので、情けないことに100は愚か110さえも切れなかった。
 私は、いつの間にか100という数字に縛られてしまっていた。その結果、スコアのことを気にし過ぎてミスをしないように縮こまってしまったり、出だしの数ホールで大きくつまずくと、「今日も達成できない」と半分以上のホールが残っているのに集中力を欠いてしまったりしていた。そのような消極的な姿勢なので、ビギナーゆえにたくさん課題があるにも関わらず何も掴めずに、その結果、次に向けての練習の質も上がってこない、という悪循環に陥っていた。そして、もっと根本的な問題は、ゴルフを楽しんでやっていなかったことである。それでうまくなるはずがないのだ。
 ゴルフにおいて1年で100を切るというのは、小4の頃に進学塾の公開テストで良い成績を取ることぐらいそれ自体としての価値がない。これは私がよく挙げる例だが、算数で、正答率の低い最後の大問は合わせたものの大問1の計算問題で2問ミスする子と、確実に点数を稼ぐために最後の問題を捨てる子では、たとえ同じ90点だとしても中学受験に向けては絶対に前者の方が伸びる。国語であれば、記述問題を捨ててそれ以外の抜き出しや選択問題を効率良くすべて解き切った子より、記述問題をどうにか書き切ろうと四苦八苦した結果、時間が足らずに後半にある程度の空欄ができてしまった子の未来の方が明るい。もちろん、程度の問題にもよるが。実力さえ付けば、時間配分なんて後からどうにでもなる。
 ゴルフと勉強の共通性について、いろいろな角度から語ることで「私のゴルフは仕事につながってるんです!」とその正当性を主張するはずだったのだが思いのほか膨らまず。それゆえ、そのつながりとは別のつながりについて触れて締めとする。私がゴルフを始めたことをお子様から聞いた親御様からお声掛けいただき、これまでにAご夫妻と2回、Bお父様と1回、そして、来週の火曜日はBお父様とCお父様と私の3人でラウンドさせていただく。お父様たちは上手な方たちばかりなので、勉強させていただくことばかりである。2, 3年後に「志高塾杯」というゴルフコンペを開催することを目論んでいる。それまでに主催者として恥をかかない程度には上達していたい。

2021.11.02Vol.517 親として

 中学受験を予定していた小6の男の子が、志高塾を急に辞めると言い出した。それは同時に、受験をせずに地元の公立中学に行くことを意味していた。そこまで明確な意思表示をしたのは突然ではあったのだが、6年生になった頃ぐらいから気持ちはぐらぐらしていて、お母様と本人との間では「受験を辞めるの?辞めないのを?」を繰り返し、悪化の一途を辿っていることは私に逐一報告が来ていたので驚きではなかった。その彼が、夏休みからでも気合を入れて取り組んでいれば志望している中堅校には合格できていたはずだ。進学塾は、「この○休みが勝負だ」と、少なくとも5年生の夏ぐらいから受験まで発破をかけ続ける。その言葉は、緊急事態宣言時の自粛のお願い同様に、加速度的に効果を失っていく。6年生の夏休み前に合格率20%ぐらいのところにいれば、夏期講習できちんと勉強する態勢を作って、秋から勝負をかければかなりの確率で合格に持って行ける。ただ、それには2つ条件があって、志望校が難関校(近畿圏で言えば、男女合わせて10校もない)以外であることと夏期講習前までに勉強に疲れていないことである。
 その発言があったのが先週の木曜で、結果的に土曜に挨拶に来ることになった。本人は、連れて来られることに中々首を縦に振らなかったのだが、最終的には受け入れた。その彼を翻意させるために「ここで辞めちゃったら、折角これまでやってきたことが無駄になるぞ。今から頑張れば間違いなく合格できるから、俺たちと一緒に最後まで頑張ろう」などという、何も考えて無さそうな人が言いそうな気持ち悪いことは絶対に口にしない。もし、上のものをベースにしてメッセージを伝えるのであれば、「これまで大してやってきてないのだから、最後ぐらい頑張ったら。合格はかなり厳しいけど可能性はゼロではない。真剣に取り組めば、たとえ不合格でも得られるものがある。やる気があるのなら、俺たちにやってあげられることはそれなりにある」となる。
 話し合いの冒頭で、「ちゃんと来たことは偉い」と褒めた。そして、「『辞めます』ということとその理由を自分の口からちゃんと説明しなさい」と続けた。結局、それを聞くのに1時間半ぐらい要した。中学生か高校生の頃のどちらか、いや、いずれもという可能性が高そうだが、「5分だけで良いから静かにするように」というような注意を先生から受け、そんな長時間には耐えきれず「おまえは、そんだけも我慢できないのか」とよく怒られていたような気がする。だから、その間私が辛抱強くずっと黙っていたわけではない。
 「あのな、俺の長男はサッカーが下手なんだけど、小学生の頃、大雨の日でも自転車に乗って1人で片道30分ぐらい掛けて週2回通い続けた。5年生の二男は、昨日ちょうど一泊二日の林間学校から帰って来た。予め学校まで自転車と着替えを持って来て欲しいとお母さんにお願いしていて、その場で着替えてちゃんとサッカーに行った(もちろん片道30分掛けて)。二男も下手やから悲しいことにBチームやねんけど、同じクラスのAチームの子は疲れてるから休んだらしい。さっきまで、あなたと同じ6年生の受験生の男の子のお父さんとお母さんと面談をしてた。その中で、2人揃って『あの子は100%努力してる』というようなことをおっしゃってた。親が子供に対してそのような評価をすることは中々ない。結果が出るに越したことはないけど、親としては子供が頑張っている姿を見れたら『この子は、大丈夫だ』と思えるもんやねん。今のあなたには分からんやろうけど。」
 ぺちゃくちゃと話しては、「そろそろ言えるか?」と尋ね、機が熟して無いのを確認して、また私が口を開く、ということを小刻みに繰り返していた。ただ、来たときから背中を丸めてうつろな目をしていたので、そのことを指摘して「あのな、『いかにも、僕、被害者です』みたいな感じを出すな。せめて、背筋をぴしっと伸ばして、こっちをしっかり見ろ」と注意した。最終的に「辞めます。僕の勉強のやり方に合わないからです」という言葉を引っ張り出した。「あのな、一生懸命やってない奴に、自分のやり方もへったくれもない。できるようになろうと思っていろいろ試した奴だけが、自分に合っているかどうかの判断ができるねん」ということは指摘した。彼の高1になる兄は、小学生の頃から6年以上に渡り通い続けてくれていることもあり、お母様との距離も何ら変わらない。よって、少なくともしばらくは彼の成長を離れたところから見守って行くことになる。
 昨日、3年生の男の子のお母様から「随分前(2時間以上前)に学校を出たのですが、まだ帰ってきていないので振替をした方が良いでしょうか?」と聞かれたので、「(時間が遅くなったことで)送り迎えができないのであればそうしますが、そうでなければ連れて来てください。わざとそんなことをしているので、休みにしたらまた同じ手を使います」と返答した。本人が来た時には、「いつもより一本多く書いてから帰れよ」と伝えた。ズルをするのは構わないが、そんなことをしたらもっと痛い目に遭うことを教えてあげないといけない。世の中がそのような仕組みになっているからだ。この一件で彼は二つも得をしている。既に述べたズルをしたらどうなるかを経験し、かつ、いつもより作文をたくさん書くことで頭を鍛えられるチャンスを与えられたからだ。
 時に「情熱的だ」と評されることがある。自分自身のことだからよく分かるのだが、情熱なんてこれっぽっちも持ち合わせていない。だが、そのように誤解されるとしたら、上のような対応をするからなのかもしれない、とふと思った。煙草をポイ捨てしている人を見かけたら、嫌な気になって終わりである。仮に、そういうことを友人がしていたら、見て見ぬふりをせずに「みっともないからやめた方がええで」と注意する。そもそも、そんな人とは仲良くはならないが。仕事だからとかお金をもらっているからとかではなく、関わった人だから。それ以上でもそれ以下でもない。

PAGE TOP