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2021.09.28Vol.512 人との約束、自分との約束

 先週の木曜の祝日に三男とパン屋で列の後方に並んでいると、お札を忘れていた人が店の外から慌ててレジに取りに戻って来たのだが、それがどうやら担任の女の先生だったらしい。私は、名前はおろか性別すら知らなかった。その後の車内で、「明日学校に行ったら『昨日、先生パン屋さんに行ってましたか?』って確認してから『お金忘れてましたか?』と聞こう」と嬉しそうに話していたので、「それじゃあ面白くないからやめた方が良い。いきなり『先生、レジにお金忘れちゃダメだよ』の方がドキッとするはずだよ。話すときというのは、どういう順番にした方が良いかをよく考えないといけない」というアドバイスをした。その晩、国語の宿題で出されていた「赤パジャマ青パジャマ黄パジャマ・・・」という早口言葉の合間に、途中何度か「先生、レジにお金忘れちゃダメだよ」も口に出して練習をしていた。翌日「どうだった?」と聞くと、「見られてたのね、恥ずかしい」という言葉を引き出せたらしく、うまく行ったことを喜んでいた。そのことをこのブログの中でどのように扱おうかと考えていたら、幼稚園の頃、スイミングスクールの帰りのバスで一人揺られていたときのことを思い出した。進級テストで合格したことを母にどのように伝えるかで頭を悩ませていたのだ。習い始めの頃は無邪気に報告していたのだが、途中からは無い知恵を絞るようになっていた。正に肩を落としてものすごく落ち込んだ風で帰って行き、後から洗濯カゴの中のキャップを見た母が新しいバッジが増えていることに気づいて驚かせる、というのが初めて実行した作戦だったような気がする。同じことを繰り返しても仕方がないので、その後は家に入る直前にスイミングキャップを被るなど、何かしら趣向を凝らそうとしたことは覚えているのだが、実際に何をしたかの記憶は定かではない。書く場合は順番、話す場合はそれに加えてタイミング、口調などに気を配ることがとても重要になってくる。これは何もふざけた話をするときだけではなく真剣な話のときも同様である。3分から5分程度の世間話のようなレベルのものでも、後から「話す順番を間違えたな」と反省することは少なくない。
 話は変わる。プロゴルファーの松山英樹が昨シーズンを終えたときのインタビューで次のように答えている。
―4月にマスターズで優勝し、日本人として初めてメジャーを制した  
「でも、今年に入ってトップ10はほかにもう1試合だけ。思うようなシーズンを送れたわけではない。ただ、今週の最終戦までプレーできたことはすごく大きい」
―新型コロナウイルスに感染したり、東京五輪に出場したりと、激動のシーズンだった
「みんなそう言うが、いつもとあまり変わらないスケジュールでやっている。まあ、その中でマスターズはよかったので、そこだけは自分をほめたい」
―今季を自己評価すると
「いい成績で終われたらよかったなと思うが、この内容じゃあちょっと…」  ―達成感、安堵(あんど)感のようなものは  
「悪かったことのほうが多い」  
―来季の目標は
「上位に行く回数が圧倒的に少ないので、たくさん増やしていければ優勝するチャンスも増えてくる。ゴルファーとしての目標は僕の中にあるものなので、人に言う必要はない」
 さらに話は変わる。夏期講習だけ英語の授業を受けていた中一の女の子が授業後の単語テストを何度か行っても合格せず「先生、もうすぐクラブ始まるんですがどうすれば良いですか?」と明らかに形式的なお伺いを立てて来た。その瞬間イラっとして、「あのさぁ、『合格するまでやれ。クラブ行くな』って俺が言われへの分かってるやん。しょうもないこと聞くなよ」と言葉をぶつけた。ちなみに、お腹がすいたぐらいなら「そんなん知らん。合格せえへんのが悪いねんからぐちゃぐちゃ言うな」で済ませる。いつもお母様が車で送り迎えをされているので、翌朝授業の前に三者で10分ほど話すことにした。彼女についての前提を少し話す必要がある。中学受験で第1志望に合格できず、第2志望の学校に入学金まで入れたものの結果的に公立の学校に行くことにした。小学生でも最低限持っておくべき主体性がないことをご両親が危惧し、そのまま中高一貫校に行くとそこが改善されないままになると考えてのことであった。それを踏まえての私の説教は次のようなものであった。
「私立に行かなかったのも運動部の中でもしんどいクラブに入るって決めたのも確かによく決断したな、ってなるけど、今のままやったらただ決断しただけやん。それだけやったら価値はない。(毎日提出を義務付けられている)クラブノートも書いてるところを目にしただけで読んだことないけど、それも練習の前にちょこちょこっとやっているだけでうまくなるはずないやん。そんなんやから勉強もいい加減でへぼい点数しか取られへんねん」
へぼい点数とへぼくない点数の間に客観的な境界があるわけではない。9割取れる子が適当に取り組んだ8割よりも、ある程度のことをやって7割の子の方が意味はある。それは、勉強を通して頑張ること工夫をすることの経験値を上げているからだ。ただ、7割は7割でしかないので、次はどうすれば8割になるかを考えないといけない。そして、私は続けた。「あのな、人との約束はもちろん守らなあかんねんけど、それ以上に自分との約束が大事やねん。人に言われるからじゃなくて、自分で決めたからやらなアカンねん。俺もできてへんことたくさんあって自分の中で言い訳もするけど、ちゃんと向き合おうとはしてる」
 松山英樹のようにずばぬけた才能があって、かつストイックになれる人など中々いない。そのどちらも持ち合わせていない私にもできることはある。それは、ものすごく高くは無理だとしても、自分との約束を人との約束よりも少しでも上に置くことである。そうすれば、人との約束を守れたことをエネルギーにしながら、少しずつでも成長して行けるはずなのだ。
 今回、2週間空いたこともあり、生徒の話と松山英樹の話をどのように絡めながら展開して行けば良いのかと文章の構成をいつもより時間を掛けて頭の中で練っていた。「構成」という観点から冒頭の段落の話を持って来たのだが、正直無くても良い気がしている。ただ折角書いたのでそのまま残すことにした。まとまりがないのはそのせいである。悪しからず。

2021.09.14Vol.511 柔よく剛を制す(補足編)

 文章を書き上げて、「うまく行った」とある程度の満足感が得られるのが5回に1回、「会心のでき」となるのはおそらく10回に1回ぐらいしかない。以前にもこのこと触れた気がするが、そのときはもしかすると前者を3回に1回ぐらいとしていたかもしれない。いずれにしても感覚的な部分での割合は下がっているのだが、数を重ねるほど「『また同じような内容やん』と思われないだろうか」という不安と「もっとうまくなりたい」という願望が共に少しずつ少しずつ強くなっていくからなのだろう、きっと。意見作文に取り組んでいる生徒が時々「作文って難しいわ」と漏らすことがあるのだが、そのようなときは「そりゃそうや。俺なんてな、10年以上に渡ってブログを週1回、内部配布用に月1回書いてきても未だにどうやったらうまくまとめられるのか分からへんねんから」とまるで自らを擁護するかのようにたたみかける。私がうまく書けないからといって生徒もそれで良いとはならないし、むしろ、教えている身としては成長して行ってもらわないと責任問題になるのだが、一人の人間としては「もう少しもがき苦しみたまえ」となる。中高生の期間を下積み時代と捉え、そこで学んだことが大学生以降で花開けば良いのだ。それであれば、少なくとも私が教えている間は「君、まだまだだなぁ」とあれこれ偉そうに指摘しながら、「まっ、俺ならこういう風に表現するけどな」、「さすが先生」というやり取りを継続することができる。その花開く、それなりの質のレポートをすらすらまとめられるということでなければ、読みやすいビジネス文書を作成できるということでもない。壁にぶち当たったときなどに打開策を見つけ出すことやアイデアを生み出すときにこそ役立つものであって欲しい。「見つけ出す」、「生み出す」といずれもアウトプットの話になっているのだが、そのためには自分や物事と真正面から向き合う必要がある。それができれば自ずとそれなりのアウトプットが得られるはずなのだ。生徒に「つまらん」と書き直しを指示することがあるのだが、ほとんどの場合、向き合い方が不十分であることが原因である。上辺をさらさらと撫でたようなもので読み手の心を動かせることなどあろうはずがない。
 さて、昨日から配布している今回の内部向けの『志高く』はそれなりにうまく行った。「柔よく剛を制す」というタイトルも気に入っている。一つの文章としてまとまりのあるものにできたのだが、紙幅の都合上、書き切れなかったこともあるのでここで補足することにした。以下は、その第2段落以降である。なお、第2, 3段落の不要な部分は削った。
 
 東日本大震災の翌年の2012年末に第2次安倍内閣が発足し、その後、防災、減災を目的として「国土強靭化」というスローガンが発表されました。「強靭化」という言葉を耳にしたとき、「必要なのは『強さ』ではなく、『柔らかさ』だろう」という印象を持ったことを鮮明に覚えています。恥ずかしながら、「強靭」とは「しなやかで強いこと」であり、そこに「しなやか」という意味が含まれていることを知りませんでした。それでもなお自らの無知を棚に上げ、「『強靭な肉体』と聞いてボディービルダーのようなマッチョな体を思い浮かべる人は少ないないだろうから、言葉の選び方が良くない」と個人的な感想を抱いていました。
(中略)
 「学歴は高いけど仕事はできない」には、決まったことはできるけど、正解のないものに自らゴールを設定してそれに向かって試行錯誤しながら突き進んで行くことができない、という揶揄が込められています。コミュニケーション能力の無さを指してそのように言われることもあります。
(中略)
 柔よく剛を制す。読んで字のごとく、柔が剛を「制する(打ち負かす)」という意味なのですが、「制御する」と取ってみてはどうでしょうか。受験だけであれば強さだけでどうにかなりますが、それを社会に出てから生かすためには柔らかさが欠かせませんし、それは強さを身に付けるのと同時並行で、むしろ、そっちを優先させるべきだというのが私の考えです。

 「言葉の選び方が良くない」とある。否定をするのであれば「強靭」に取って代わるものを示さなければならないのだが、現時点では持っていない。ただ、私であれば「強」はもちろんのこと、それに類する字は使わない。東日本大震災を経験したわけでなく、防潮堤を見たことすら無い私が軽々に私見など披露するべきではないのだが、10メートルで防げなかったから15メートルに、では根本的な解決につながらないどころか、1.5倍になった安心感が油断を生むような気がしている。話の流れ上、防潮堤を例に取っているだけで、一般的な話をしているのだ。
 ここで、「ハードとソフト」で検索した一例を示す。「『ハード』とは、施設や設備、機器、道具といった形ある要素のことを指す言葉です。これに対し、人材や技術、意識、情報といった無形の要素のことを『ソフト』と言います。」余談ではあるが、2文目を「『ソフト』とは、~を指す言葉です」とせずに、少しでもリズムを付けに行っている。こういうちょっとしたこだわりはとても重要である。
 「ハード」という単語が当てられたのは、「物だから硬い」というところから来ているらしい。防災においても一人の人間としても「ソフト」の部分をどうするかが鍵になってくる。最終段落で「強さよりも柔らかさを身に付ける方が大事だ」というようなことを語っているが、「どのように」というが抜け落ちている。ありきたりになるのだが、そのために作文以上に効果的なものを私は知らない。成果物としての作文ではなく、その過程こそが重要なのだ。頭を悩ませながら言葉を紡ぎ意見をまとめあげたのに、添削で、全否定と感じるぐらいの指摘を受けることもある。時に受け入れ、納得の行かない部分に関しては講師に反論を試みる。この反論は、むかついて言い返す、というものではなく冷静で論理的なものでなければならない。このやり取りを積み重ねた生徒が、コミュニケーション能力が無い人になんてなるはずがないのだ。
 今回もまあまあうまく行ったかな。
 来週は、教室が1週間休みになるのに伴いブログもお休みとなります。2週間後にお会いしましょう。

2021.09.07Vol.510 夏の終わりに彼について書こう(後編)

 なぜテストから1か月近くもの期間を要したのか。それは、学校から書留で送られてきた成績表を彼が受け取ったまま知らせずにいたからだ。お母様は3人の子供たちに何度もそのことを尋ねたものの皆「知らない」と言い続けるので、学校に電話をした。「間違いなく届いています」との返答を受け、「そんなわけはない」と今度は郵便局に確認しに行く羽目に。そこにはちゃんとサインがされていた、もちろん彼の筆跡で。その事実を突きつけてもさらに1週間ほど白を切り通して、挙句「しゃあないな、じゃあ言うか」と訳の分からぬセリフを吐きながらようやく認めたとのこと。振り上げた拳の行き場に困ったのであろう。そのようなことも踏まえての「あれ、嘘が顔に張り付いちゃってますよ。テレビで見る、犯罪者の顔と同じです」だったのだ。「嘘を付くのは良くない」という正しいところからではなく、「嘘を付くのはめんどくさい」から始めてもいいのではないだろうか。そのうちに、嘘を付かない方が自分を守れるということに気付くはずである。
 話は期末試験後に移る。お母様とのラインのやり取りを不要なものを削った上でほぼそのままの形で再現する。ぐちゃぐちゃと書くよりそちらの方が伝わりやすいのと私が頭を使わなくて済むので。始まり始まり。
「今日、代数が返って来て、前回の9点から29点に上がったそうです。早速、ゲームを持って帰って来てと言われましたが、松蔭先生との約束やから、先生に報告して!と伝えました。すみませんがよろしくお願いします」
「上がったことは良いのですが、さすがに29点でゲームできるはず無いです」
「やっぱ、そうですよね。私も家で伝えますが、先生から本人に伝えてもらえますか?お願いします」
「既に授業を始めていますが、何も言ってきません。さすがにその点数で言ってこれないはずです」
「ですね。テストの内容見てもらえませんか?」
「本人が出してきたり、言い出してくるのをとりあえず待ちます」
「本人からは言わないと思います」
「それでは話になりません」
「ですよね。すみません。ゲームを先生に預けてると言ってしまっていて、、、」
「29点でゲームするぐらいなら学校をやめた方が良いです。3倍になったことをアピールしていますが、9点自体ありえないので、何の意味も無いです。一定以上の点数を取るか、それができないならゲームをしない、というのが普通の考えです。~さん、甘すぎです。あんな点数でゲームオーケーになるはずがありません」
「甘くなりそうなので、先生に頼ってしまっています。すみません」
「訳の分からない判断するより、私に任せていただいた方が良いです」
(中略)
「前にも言いましたが、(附属の)小学校に入れたときに何を望んでいたのかをよく思い出してください。もし、今みたいな成績を取ることが分かっていたとしたら、それでも入れましたか?要はそう言うことです」
「入れてません。やればできると信じてたんで」
「信じたことは間違いではありません。やってないからできてないだけなので」

 子供は、親が自分のために「すみません」、「お願いします」と誰かに頭を下げ続けてくれていることにいつ気づくのだろうか。こう書きながら、さて、自分にそんな瞬間があっただろうか、と振り返ってみても思い当たる節がない。仮にあったとしても、改まって「ありがとう」とは照れくさくてとてもではないが言えない。今、自分がしてもらったことを親として我が子にしている。それも1つの恩返しの仕方だと勝手な解釈をしている。
 さて、次は本人とのラインのやり取り編に移る。
「頑張ったかいあったやん。英語がひどいのでしょうが、夏休み、毎日20時から22時といった感じで、絶対時間を守るという約束であれば夜にゲームをしても良いと思います。ただ、その約束を少しでも破った場合は中2のうちはまったくできないものと思ってください。具体的にどうするのかを報告してください」
「20時から23時で良いですか?」
「本当は2時間と言いたいところです。3時間したいなら、2学期の数学の合計点が、平均点の合計より下回ったら2年生の間はゲームをしない、という条件付きでどうですか?それぐらいの意気込みがあっての1時間プラスだと思っています」
「分かりました。2学期中間平均点取ります」
「じゃあ、それでオーケーです。1秒でも超えたらアウトです。1つ間違えないで欲しいのは、ゲームのために勉強をするわけではないということです」
このやり取りの後にお母様に
「気づかなかった、とかすべてだめです。20時になったら(ゲーム機を)取りに来て、23時までに返す。5分前に終われば確実です」
とお伝えした。
 代数は29点だったのだが、幾何は平均点を超えた。数学で1教科でも平均点を答えたのは入学後初めてのことだったのだ。成績表をひた隠しにしていた彼が、嬉しくてわざわざ学校からそのことを伝えるためにお母様に電話をして来たとのこと。
 夏期講習中に5分ほど遅刻をし、かつ少し居眠りをしていた日はゲームをさせなかった。昨日も4分オーバーしたので今日から3日間は禁止にした。今の彼は、それを黙って受け入れられるようになった。そして、久しく見られなかった笑顔も取り戻しつつある。これからも我々の戦いは続く。その戦い、彼と私が対戦しているのか、それとも彼と私が、さらにはお母様なども含めて同じチームのメンバーとして共闘しているのか。どちらであるかは読者の想像に委ねることにする。

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