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2024.07.09Vol.645 文章を書く者としての心構え

 徳野に「Vol.27狩らずに増やす」の書き直しを命じた。「そういうことが起こらないようにするために、事前に確認したら良いのではないか」という意見があるかもしれないが、それではだめなのだ。誰かにチェックしてもらえるとなると安心感が生まれ、責任感が薄れるからだ。それはその分やりがいが失われることを意味している。現行のものを残した上で、別のものを追加するという方法を取る。あんな文章を書いたことを忘れてはいけないからだ。私自身、文章がうまくまとまらずに情けない思いをしたことは数知れない。誤脱字に後から気づいて修正を加えることはあるが、文章を差し替えたことはただの一度もない。大事なのは、そのことを胸に刻んで、同じことを繰り返さないようにすることである。それが読んでくださる方への礼儀であり、作文を教えている者の務めなのだ。
 私の『志高く』も社員たちの『志同く』も、主に以下の3つのことを目的としている。
A. 書き手の人となりを伝えること
B. 有用な情報を提供すること
C. 考えるきっかけを作ること
先週土曜の朝に、前夜にアップされた彼女の文章を読み、その日の授業前に、読み手が上のB、Cを享受できると思って文章を書いたのか、と問うた。そして、彼女は黙り込んだ。書き手と読み手の「思う」、「思わない」の組み合わせは4通りあり、一番良いのはもちろん①「書き手が思ったから読み手に思ってもらえる」ことであり、その次が②「思ったけど思ってもらえない」となる。そして、③「思わなかったのに思ってもらえる」、④「思わないから思ってもらえない」と続く。④は論外だが、③も大差は無い。読み手の時間をいただいているという責任感がない時点で単なる偶然でしかなく、意識が変わらない限りその後は④の文章を垂れ流すことになるからだ。気持ちがあれば良いというものではないが、②には未来がある。
 私が文章を書く際、教育や受験の話を直接的にせずにスポーツなど他のことに例えることが多い。そうすることで、読み手がそのまま飲み込むのではなく、咀嚼するという過程が入ることで消化されやすくなるからだ。今回の徳野の文章を要約すると、「『障害者』と表記していたのを、あるときから『障がい者』に変えたが、やはりこれからは『障害者』を用いることにする」となる。これを読んだ人が、「ああ、そう言えば私も」とその人自身が何気なく使っていたある言葉について思いを馳せるきっかけになるのであれば価値はあるが、私個人はまったく持ってそうならなかった。だから、本人に問うたのだ。もし、そこで「こういうことを思ってもらえたら良いという期待を込めて書きました」という返答があり、「こういうこと」に私自身それなりに納得が行けば、書き直しをさせることはなかった。
 もし、私が「障害」という言葉を取り上げるのであれば、あんな状態で話を終わらせずに「学習障害」のことと絡める。私はその言葉が大嫌いである。それは、先生を含めた学校関係者が、「おたくのお子さんは学習障害なんで、みんなと一緒に授業を受けない方が良いです」とその子の学力をどうにもできないことの責任が自分たちに及ばないようにするために使う言葉であり、それを聞いた親がどれだけ不安に思うかなんて想像すらしていないからだ。これまで、そのような相談を受けた回数は少なく見積もっても片手では足りない。そのようなとき、私は決まって「彼らはそういうレッテルを貼ろうとしているだけで、特別な対策をしてくれるわけではないです。不安になるだけなので検査なんて受けない方が良いです」というアドバイスをする。幸いにして、我々は作文を教えている。将来、社会に出ればどのような仕事をするにしても人との関わりは生まれる。コミュニケーションが少しでも円滑にできるようになることは、彼らが社会で自分らしく生きることの手助けになる。作文はコミュニケーション力を上げることに間違いなくつながる。それ以外にも、親御様と一緒にどのような道を進んだ方が良いのかを考える。そのとき、一つのポイントになるのは手先の器用さである。器用であれば、それを活かして手に職を付けられないかと考え、不器用なのであれば、さあ何がある、となる。もちろん、決めるのは本人なので、私にできることは、彼らがより充実した生活を送れるようにするための有用な選択肢を1つでも多く用意することである。それとは別の、もっと自分にあったものを彼ら自身で見つけられるのならそれに越したことは無い。それを単に期待するのではなく、意見作文を通して、自分を見つめる力、世の中を広く見渡す力を付けていってあげるのが我々の役割である。
 どのような文章であっても、「A. 書き手の人となりを伝えること」の条件は満たす。文章を読んだとき、読み手は書き手のことを良くも悪くも想像するからだ。この『志高く』をある程度読んだ上で体験授業に来られた方が、実際に私と話して、「イメージ通りでした」という感想を漏らされることは少なくない。それはとても嬉しい評価である。私が等身大の文章を書けていることの証だからだ。正確には、少しだけ背伸びをしている。そして、人間として成長して、それが等身大となれば、かかとを浮かして、また少し上を目指す。それを繰り返すことは未来ある子供達と接する大人の務めである。

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