
2020.03.10Vol.438 ビミョーに大きな差
「メディカルシップ構想」を起点に、「絵に描いた船」で決まりかけていたのに、「危ない危ない」を経て今回のタイトルにたどり着いた。これだけ変遷を重ねること自体過去に例を見ないのだが、どれも結構気に入っている。
私は依然コロナに囚われたままである。情報番組はもちろんのこと、ニュースも得るものがほとんどないので見ないため、どこどこで初めての感染者が見つかりました、というようなことに特段の関心はない。そのレベルの話であれば、ネットニュースで勝手に入ってくる。引き続きそれにまつわることを自分なりに考えている。
小池都知事は、豊洲が科学的に安全と言われていたにも関わらず「安心ではない」とけちをつけ、その後抜本的な対策が打たれることもなく何だかよく分からないままに豊洲市場は開かれた。3月になってからの各国の必死の拡散防止策により感染者数は減少し4月中には終息が見えてくる、と勝手に踏んでいるのだが、仮にそうだとしてもWHOが終息宣言を出すのは早くても6月以降になるはずである。オリンピックが延期になれば都知事には一大事である。人生におけるレガシー作りができなくなるからだ。今度は「安全ではないですが安心です」と海外に向けて発信するのだろうか。マラソンの札幌移転でも蚊帳の外であったので、何を言おうが影響力はないのだが。「アスリートファースト」を公言し、ボート競技を仙台に持って行くことなどを画策していたことなどを考慮すると、率先して少しでも気温の低い所でのマラソン開催を訴えるべきであった。都知事を非難することが目的ではない。他山の石としているのだ。
私は基準を明確にするということをとても大切にしている。生徒たちに対して、親御様たちに対して、働いている講師たちに対して、息子たちに対して、そうするように心がけている。都知事も自分本位という絶対的な基準に揺らぎはないのだが、それでは困る。誰が困るのか。関わっている人たちである。たとえば、三男はご飯中にふざけていて、食べ物や飲み物をこぼしてしまうことが時々ある。そういうことがこの半年ぐらいで2度ほどあった。その瞬間「やばい怒られる」という顔を私に向けるのだが、それを見て「ああ、まだ(三男は俺の基準が)分かってないんだなぁ」と思いながら「こぼした分はきれいにふきなさい」と言って終わりである。どうでもいいことで怒ると、本当に大事なときに響かなくなってしまう。もし、「ふざけているとこぼすからもう止めなさい」と事前に何度か注意していたのであれば激怒する。生徒に対しても、息子に対しても責任を持たせるということを重視している。そうすることによってうまく行ったときに自信を深め、そうでなかったときは自らの行いを反省するようになる。そのためには理に適った基準が必要なのだ。それを明確にするよう心掛けているから、生徒に対しては「俺、“いつも”そう言うやろ」となり、息子に対しては「俺」が「お父さん」に代わるだけの話である。
サッカーでもラグビーでもいいのだが、ワールドカップで日本人が試合後にスタンドのゴミ拾いをしたことに対して、「海外で日本人の民度が高いと称賛されている」というようなことが話題に上るが、この上なく違和感がある。私は野球もサッカーもそれなりに観戦するが、そのような光景を目にしない。今回のマスクやトイレットペーパーの騒動を見ると、やっぱり、となってしまう。アルコール系の消毒液なら理解できないこともないが、トイレットペーパーはどうにでもなる。無くなれば代用すればいい。プーケットでは、元々トイレットペーパーを流せないのでごみ箱が置いてあった。我が家にはコストコでまとめ買いしたキッチンペーパーがたくさんあるので何も慌てることはなかった。ティッシュペーパーが無くなれば、洗面所で鼻をかませて手を洗わせればいい。家族はそれで済むが、生徒には強要しづらいので教室用のみは必要であった。真価は有事のときに試される。
この前、ガラガラの電車に乗っていると、席1つ分ぐらい空けたところに女性が座った。花粉症対策でマスクをしていたのだが、香水の匂いがプンプン漂ってきた瞬間、マスクに効果がないことを実感した。匂いの元となる粒子が、コロナのそれより格段に小さければ話は変わってくるがそんなはずはない。理科の植物の実験と似ているな、となった。水に色を付ければ、茎を輪切りしたときに吸い上げられた水がどこを通っているかが分かる。無色透明でも、においや色をつければ識別できるのだ。次回はタイトルの変遷がテーマになるはず、きっと。