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2023.02.28Vol.581 口約束の固さ

 口にした限りは守る。現在に限ったことではない。ただ、過去を振り返ってすぐに思い当たったことが1つあった。父の転勤に伴い、小1のときに千葉から関西に戻って来た。大阪に行ったら手紙を出すから、と大親友と約束したのに私は反故にした。しかも、暑中見舞いや年賀状などまー君は何度か送ってくれたにも関わらず。ずっと気にはなっていて、何度か葉書を前に書こうとした記憶はあるが、結局出さなかった。引越しをした2, 3年後に千葉に遊びに行った際に、直接謝りに行った。思い出したのがそれだけで他にもあるのだろうが、子供の頃からそのスタイルは変わらない。
 社交辞令がその場を丸く収めてくれるということが無いわけではないのだろうが、私にはその有用な使い方が分からない。「使い分け」と表現した方が適切かもしれない。私の言葉を受け取った相手が、「これは社交辞令」、「これはちゃんとした約束」といった感じで区別できていれば問題ないのだが、ごちゃまぜにしているうちに当の私自身がよく分からなくなる気がする。そんな状態で共有認識は持てない。
 「口約束」を辞書を引いてみた。そこに挙がっていた例文を上から順に3つ示す。「彼は口約束だけで彼女をはぐらかそうとした」、「あの人の口約束は危ないものだ」、「口約束は当てにならぬ」。さもありなん。しかし、5番目に次のようなものもあった。「彼の口約束は証文よりも確かだ」。私に言わせれば、口約束を守れない人が、書面でのそれをきちんと履行するとは到底思えない。そんなことを考えていて、あるチームビルディングのセミナーのことを思い出した。二人一組になり、一人は真っすぐに立って、左手を右肩に、右手を左肩に置いて、両手を使えないように体の前で交差させて、目をつぶった状態で背中側に倒れて、もう一人に支えてもらう、というプログラムがあった。あんなもので信頼関係が醸成されれば苦労はしない。実際には「今から体を預けます」、「はい、どうぞ」とはならない。立っていられなくなって不意にバランスを崩すのだ。膝から崩れ落ちて前のめりに倒れるかもしれない。一度決めたからにはどうにかして支える。それが無理なのであれば、せめて大怪我をしないように対処をして、その後時間を掛けてもう一度自立できるように持って行く。私は、親御様に「任せてください」とだけ伝えることが少なくない。少々大げさではあるが、その一言にそれだけの意味を込めている。もちろん、何でもかんでもそのような受け止め方をするわけではない。「それを望むのであれば、他のところを選んだ方が良いです。うちがやりたいこととは違いますので」、「まずはここまで責任を持ってやりますが、その先のことまで現時点では何とも言えません。その時点で改めて考えましょう」と返す。こう考えてみると、すんなりと飲まないときほど、説明を試みていることに気づいた。
 そんな私に引っかかっていることが2つ。1つ目がディベートについて。これは、生徒から「やってください」とお願いされ、「オッケー」と二つ返事をし、本も何冊か買ったものの読みかけの状態で終わってしまっている。これに関しては、すぐにどうこうしようとは考えていないが、自分の中で気持ち悪い状態で残っていることだけはここでお伝えしておく。そして、もう1つが3月開催予定であった「beforeとafterの間」について。スピーカーをお願いしていた増井さんから2週間ほど前に届いたラインをここでそのまま紹介する。

 松蔭先生、お久しぶりです!
 志高塾の生徒さん向けにお話する件なんですけど、司法試験受かってからでもいいですか?話す内容がなかなか思いつかないのと、折角話すのなら受かった人として説得力ある話がしたいからです。
 中高にやって良かったことと、やれば良かったことを考えていたんですが、やれば良かったことがなかなか思いつかないです。多分性格的に過去を後悔するのは無意味だと考えがちなせいなので、まだもう少し考えたいです。
 夏にお会いした時は消極的な場合分けをしてしまっていたのですが、今はさっさと予備試験に受かりたいという強いハートで勉強しています。
 御検討お願いします!

 これに対する補足の説明から。まずは、私のお願いの仕方が「中高生の頃にやって良かったことと、やっておけば良かったことの2点は話して。後は任せるから」というものであったこと。次に「消極的な場合分け」について。会った際に、将来の展望について尋ねると、「司法試験に合格した場合とそうで無い場合の2通り考えてます」というので、「いや、そんな奴が受かるほど司法試験はあまないやろ」と叱咤した。その本当の難しさを私がきちんと理解しているわけではないが、真剣にやりさえすれば彼女なら合格できると私は信じている。上のラインの後、「人生で初めて真面目に勉強してるということやな」、「人生で初めてではないですよ!!」というやり取りがあった。
 そして、以下は本人に直接伝えれば良いのだが、彼女が読むことを前提にこの場を借りて。
 過去を振り返ることと後悔することはイコールではない。増井さん自身がそれを分かっていないわけではない。現状、思いついていないというだけの話で。私の場合、それまで本を全然読まなかったから、大学生になってから必死になって読書をしたし、言葉の感覚が無さ過ぎて、「これじゃあ、人間としてやば過ぎる」となり、自分が成長するためにも作文を中心とした志高塾を始めた。同じ塾をするにしても、得意を仕事にするのであれば間違いなく数学をメインにしていた。しかも、当時は国語塾というものがほとんど無く、どれぐらい生徒が集まるかもまったく読めなかった。実際、開校後少なくとも5年ぐらいは中々評価してもらえず、「良いことをやっているはずなのに」と悶々としていた。話を戻す。過去に穴があると認識することで、「今できる範囲」で留まらずに、「過去の分まで埋めるぐらいやらなきゃ」となり、それが力強く前進するためのさらなるエネルギーになる。
 そして、もう1つ。「beforeとafterの間」と名付けたように、何者でも無いことに価値がある。世の中には、何かしら目標を達成した人の話は溢れている。彼らの「私も昔は苦労しました」もためにはなるが、「まだ特別何もできていませんが、こんなことに挑戦している」というのは貴重である。聞き手側だけではなく、話し手側にもそれは意味がある。彼女は「司法試験受かってからでも」と表現した。それは、口約束である。辛くて逃げ出したくなったときに、「beforeとafterの間」で話したことで、「言ったからにはやらないと」と背中を押す力になれば、私は嬉しい。今回はラインを紹介したことで、これにて口約束成立である。
 「beforeとafterの間」。スピーカーは2人目まで決めていて、2回目は今年の夏ぐらいに開催予定であった。それが1回目となる予定である。

2023.02.21Vol.580 自由と勝手の違い

 受験後に二男が解いた甲陽の過去問(物語文)より。

 ブンは先生の後ろを、まるでしかられているみたいにうなだれて歩いていた。
 胸張って歩けよ、もっと自慢しろよ、自慢していいんだよバーカ
 ブンの背中に言ってやりたかった。ちょっと乱暴に、ボールでもぶつけて、ふり向いたところに「がんばれよ」と言ってやろう。声は聞こえなくても、笑って手をふれば、あいつにはわかる。それだけで、すべてが通じる。

問6 太字部の「バーカ」というのは、どういう気持ちからですか。説明しなさい。

解答例①
「自分は負けているくせに嫌味を言ったのに、ブンは勝っているのに自慢をしないので自分の意地悪さに怒っている。」
解答例②
「メンバーに選ばれたのに自分に気づかってうなだれているブンに、そんなこと気にせずに堂々としろとはげましいいやつだなと思う気持ち。」
解答例③
「落選した自分に気づかうことなく、メンバーに選ばれたことをブンが心から喜ぶことを願う気持ち。」

本文では、中学のサッカー部に所属している主人公のモトとブンが市の選抜チームのメンバーを決めるための選考合宿に参加してから、結果が出た直後までの場面が描かれている。その大問からもう一問。
 
 メンバーに残る自信はあるし、合宿の様子を冷静に判断して、ブンはちょっとヤバいかもな、とも思う。だから、モトは笑って言う。
だいじょうぶだよ、ブンなら。俺のほうがヤバいよ、マジ
「いいっていいって、気いつかうなよ、そんなに」

問3 太字部の「モト」の気持ちを説明しなさい。

解答例①
「選抜チームにほぼ選ばれ、ブンがほぼ選ばれないと確信し、ブンに勝ったことを喜んでいる気持ち。」
解答例②
「自分がメンバーに残る自信があるという余裕から、ブンのことを少しは思いやってやろうという気持ち。」

いずれも①は二男のもの、②は赤本のもの、問6に関する③は私のものである。問3の方に③が無いのは、②が修正する必要のないものになっているから。もし、問6の②を生徒が書いたのであれば間違いなく考え直しをさせる。「~だな」は書き言葉では用いないので、そこが1つ目。そして、2つ目が「思う」。ここでは「思う」ではなく、私がそうしたように「願う」などプラスのものを当てなければいけない。日頃から、生徒たちにはプラスマイナスを意識するように、と口酸っぱく伝えている。
 その「思う」について。週1回2コマの授業を行っている小学校での我々の担当は、中学受験が終わり6年生から5年生に変わった。受験対策を求められているからだ。その5年生に対して、これまでの約一か月間、『コボちゃん』だけを扱ってきたのだが、昨日初めて読解問題をさせた。その中に、「気持ちを含めて答えよ」と指示された記述問題があった。「願いを書いた笹を皆が流すと川がゴミだらけになると心配したから」とすべきところで、3分の1ぐらいの生徒は「ゴミだらけになると思ったから」としていた。彼らは全員が中学受験をするはずであり、おそらく進学塾に4年生の頃には通っているのに、「思う」を入れさえすれば「気持ち」になると誤解しているのだ。
 話を戻す。ちなみに、問3がこの大問における最初の記述問題で、問6は最後である。モトの描かれ方は、問3の調子に乗っている嫌な奴から、落選して落ち込み、問6で実は根は優しい奴、といった感じで、ものすごく分かりやすく変化して行くのだが、二男はそもそもそこが掴めていない。

 今朝、丸付けを行った物語文からも1つ。

 その頃、父親は長年勤めていた会社をやめ、独立したばかりだった。毎月、従業員に給料を払うとほとんどお金は残らず、私の家は無給に近い暮らしが続いていた。母親はそのことを隠しもせず、味噌をぬっただけのおにぎりを食卓に並べることもあった。そのお米や味噌も母親が近所の家からもらってきたもので、「今日は山本さんちと武田さんちのブレンド米ね」と笑っていたが、その目は赤く充血していた

問 太字部から母親がどういう思いでいることが読み取れますか。

解答例①
「あまりかせげずに、子供にぜいたくな生活をさせてあげられないことが悔しい、という思い。」

これに関しては、そもそも下線部の前半部分にまったく触れられていない。それを踏まえると、次のようなものになる。

解答例③
「少しでも前向きになれるように、生活が苦しいことをおもしろおかしく表現しようとしているが、本当は辛いこと。」

それ以外に指摘したのが、「悔しい」という言葉。私の「辛い」と大差は無い。ただ、「負けて悔しくないの」と親が子供を問い詰めることは少なくないが、「辛くないの」とは通常ならない。この例からも分かるように、「悔しい」の一言に、二男が勝ち負けで物事を捉えがちだということが表れている。実際、最初に示した大問の2つの記述では、「負けているくせに」、「勝っているのに」、「勝ったことを」と具体的に入っている。
 受験1か月前ぐらいから始まった二男との読解問題の勉強。受験後の方が圧倒的に中身の濃いやり取りができている。より良い言葉、表現を求めることに時間をたっぷりと掛けられるからだ。言葉が豊かになれば、思考は柔軟になっていく。記述問題で「罪悪感を覚える」としていたことがあった。これも受験後の話である。「後ろめたさを感じる」を私からは提示した。どちらでも丸になる問題だったのだが、いくつかの中からより適したものを場面に応じて選択できるようになってほしいからだ。もちろん、読解問題で点数を取るために、ということではない。
 また、時に答えが大きくずれることがある。そこから、読書をしていても勝手な解釈をしていることが容易に推測できる。本なので好きに読めば良いのだが、自由な解釈と勝手なそれとは大きく違う。自由というのは、筆者や作者が訴えたいことをそれなりに理解した上で、「そうだよな」と共感したり、「それも分かるけど、やっぱり自分はこっちかな」となったりすること。それに対して、勝手というのは、そういうものを完全に無視して、「俺はこう思う」とただただ自分の意見だけが存在している状態。たとえば、原発に「賛成」と「反対」のように、持論が真逆な二人でも分かりあえるということはあるはずである。そこに欠かせないのは、「それにも確かに一理ある」というそれぞれの意見に対する相互理解だろう。逆に、同じ「賛成」という立場でも、たまたま同じ側にいるだけでまったく分かり合えないこともある。
 平日毎朝6時15分から1時間の二男との勉強。ならせば、国語と数学の時間は半々ぐらいになる。数学の場合は勉強を教えている、となるのだが、国語は息子の人間的な部分を育てている、となる。どちらも大切なのだが、親としての充実感は国語の方が断然得られる。国語の重要性、楽しさを再認識している今日この頃である。

2023.02.14Vol.579 直接的で間接的に

 有森裕子に倣えば、「自分で自分を褒めたいと思います」となる。昨日UPしたばかりなのに、翌日の水曜の朝から早くも文章に手を付けているからだ。オリンピックの銅メダルと比べるな、という話である。あれは咄嗟に出た言葉なのだろうか。それとも、メダル獲得が見えてきた時点で、走りながらインタビューされている自分を想像して湧き出てきたものなのだろうか。もし、後者であったとするならば、そういうイメージをすることが最後のひと踏ん張りに繋がったような気がする。
 追い込まれないとやらない私が動き出したということはそういうことなのだ。今週後半から来週にかけては月間報告にかなりの時間を費やすことになり、今回は「十人十色」で私自身が話すので、少しぐらいは準備も必要である。親の立場からはもちろんのこと、それに加えて、もっと広い視点での話をできればと考えている。当日の朝、あわてて資料を用意する羽目になるのであろう、きっと。二男には、「お父さんは『十人十色』で話す予定だから、大逆転して合格を勝ち取って来て」と発破を掛けていた。いらぬプレッシャーと取る人もいるかもしれないが、自分のことだけを考えるのは意外と苦しいものである。それなりにしょっているものがある方が行動指針が明確になり、余計なことを考えずに済む。今の私であれば、気持ちが後ろ向きになりそうになったとき、息子や生徒のことを思い浮かべる。そうすることで、「こんなちっちゃなことぐらいで、アカンアカン」となり、邪念を振り払える。親がださかったり、先生がみみっちかったりすれば子供や生徒はかわいそうである。ここで、国語の先生っぽい話を少々。記述問題に用いるのであれば、迷うことなく「背負う」を選ぶ。平仮名にするのであれば「せおう」である。辞書を引いてみると、「しょう」というのは「せおう」の音が変化したもの、とあったので、平仮名で「しょう」としても減点はされないのかもしれない。書き言葉と話し言葉の区別というのは難しいので、確実な方を選択する方が無難である。「せおう」だと重荷が、「しょう」だとほど良い負荷がかかっているような。これは、語感に対する単なる主観であり、共感は得られないだろうと諦観している。副業をするなら、ラッパーかな。
 最近は自分自身が最低限納得できるレベルの文章にできているが、それまでの短くない期間、かなり苦戦していた。数か月間ブログを休みにしよう、と何度か考えるぐらいに。画面の向こうの人を意識しすぎていたのであろう。グーグルの機能で、どのページにどれだけのアクセス数があるかは以前から分かっていたのだが、「楽しみにして読んでます」というような言葉をいただくことが増えるにしたがって、少しずつ少しずつ具体的な顔をイメージするようになり、気づかないうちに勝手に深みに入って行ってしまった。その画面の向こうの話でいえば、二男の中学受験のことを続けて話題にしていて、ふと、そこに二男だけではなく息子たちの顔が初めて見えた。正確には、将来の。3人とも私の文章など一度も目にしたことが無いはずなのだが、大人になって、何かのきっかけで読んだときに「お父さんはこんなことを考えていたのか」となり、何らかの形で彼らの刺激になれば親として幸せである。もちろん、これまで同様、親御様を中心として読者に少しでも役立つようなものすることが最大の目的である。読んでくれる人がいる、そして、時々感想がもらえるというのは本当にありがたいことである。もし、誰に見せることも無く、自分の文章力を磨くためだけに書き留めるのであれば間違いなくこんなにも続けられなかったであろう。そう言えば、「筆が進まない」という表現は当分の間有効なのだろうが、「キーボードが躍らない」のように新たなものは出てきたりしないのだろうか。
 前回に続き、二男の国語のことに触れないまま今回もここまで来てしまった。完全に予定が狂っている。「Vol.577読解問題の重要性」において、「中学の文章のレベルを1とすると、高校のそれは1.2、大学になると3ぐらいになる印象である。いずれも、難関校、難関大学を比べた場合の話である。」と述べた。大阪府の公立高校の入試問題は、国語、数学、英語の3教科に関しては、a(基礎的問題)、b(標準的問題)、 c(発展的問題)の3段階に分かれている。ただ、そのcですら、難関中学の読解問題よりははるかに簡単である。字数の多い記述問題が出題されるが、抜き出して切り貼りすれば解答ができあがってしまうからだ。事前に細かい部分の確認などを含めた調整はさすがに必要であるが、そんなテストで高得点を取るための対策を長期に渡ってするのは時間の無駄でしかない。国語力は磨かれないからだ。ここで言う「国語力」とは、「Vol.578目の前の目標と今やるべきこと」の「ここで、『国語力』とは何かを定義しないが、単に国語の点数に結び付くだけではなく、その後の人生に生きる国語的な力であると捉えていただきたい。」と同様である。
 国語の読解問題という直接的なやり取りを通して、私は間接的に二男の人間的な部分での成長を促している。もし、読解問題というツールが無ければ、二男の一つ一つの言動や行動を取り上げ、その根底にある考え方に言及して、「今のは、これこれこういう点でおかしい」みたいなことをしなければならない。そうなると、説教じみてしまい、二男も聞く耳を持てなくなるであろう。これだけでは何のこっちゃよく分からないだろうから、今朝丸付けした問題を例に取る予定だったのだが、字数の関係上できなくなってしまった。次回、乞うご期待。

2023.02.07Vol.578 目の前の目標と今やるべきこと

 まずは告知。TUMUGU代表の八木美佳子さんから、2回シリーズのオンラインイベント「【がんについて学ぼう!】〜ちゃんと知れば本当は怖くない!〜」のご紹介。ちなみに、第1回は「がんってなぁに?」、第2回は「医療現場のロボットたちを見てみよう」となっている。詳しくは下記URLを参照のこと。宇宙シリーズに続き、二男と三男は参加予定である。
https://shoutout.wix.com/so/1aOOG-v8q?languageTag=en&fbclid=IwAR2n5rjIcGMcONQL1bSG7kmzOt-ngAp9kf9Eqfrf2W4oGnNxQWRyrOnQKNc

 志高塾には、主に中学生以上が取り組む「資料読解」と呼ばれる教材がある。そこでは、人口、エネルギー、食品ロス、プラスチックゴミなどの問題別に章立てされていて、各章で200字から400字程度の作文が3つほど課される。データがグラフなどで与えられ、それを読み解いた上で、そこに自分の知識などを絡めて、最終的には少しでも現実的な解決策を提示する。第2章はAIに関わるものでいくつかある設問の1つに「図 1~図 3 を参考に、AI やそれを搭載したロボット、IoT がどのような人にとって、あるいは状況において、どのように役立っているのか、具体的な事例を挙げて説明しなさい。上記の資料にないものを取り上げても良い。」がある。なお、3つの図のうちの1つが、病院におけるAIによる画像診断に関わるものである。今回のイベントで医療現場のロボットについて学べれば、「上記の資料にないもの」として挙げることも可能になる。二男は第1章の人口問題をもうすぐ終えるので、そのような意味でもタイミングは良いのかもしれない。インプットしたものが新鮮なうちにアウトプットすることでより多くのものが血となり肉となるからだ。
 現在、高校2年生の生徒は西北校だけで9人、3校合わせると13人いる。なお、西北校9人の入塾時期は小2が2人、小3が2人、小4が1人、中1が3人、中3が1人となっている。一番遅い中3からの彼も、中高一貫に入学した中1の時点で将来入塾することはほぼ決まっていた。上の子が既に通っていて、お母様から「クラブがひと段落したら」という話をいただいていたからだ。そして、中学のクラブを引退したタイミングで予定通り門を叩いてくれた。中1の頃に入塾する生徒の多くは、中学受験のときに国語で苦労したのでどうにかしてあげたい、せっかくの6年一貫なので大学受験のためだけではなくその先に役立つことを時間のあるこの時期からじっくりとやらせたい、という親の意向が働くことが多い。そのようにして連れられてきた生徒が反発することは少ない。時間的な余裕が心のゆとりを生むからだ。数日前に、中3のときに入塾した高1の女の子のお母様から、「志高塾でやっていることが何の役に立つから分からない、と言われて困っています。どうしましょう?」との相談を受けた。親の私としては通わせ続けたいのですが、そのためにはどうしたらいいでしょうか、ということである。最終的に、「ひとまず、作文から効果が分かりやすい読解問題に変えて、しばらくはそれを通していろいろ教えるようにします。3か月、いや半年は我慢して通うように本人に伝えていただけないでしょうか」とお願いした。もちろん、それがどのように役立つかを論理的に説明することはできる。ただ、「価値がある」、「意味がある」、「役に立つ」ということを口にする生徒は、「受験にとって」という指標でしか判断をしない。そして、多くの場合、そういう生徒の方が一日の時間の使い方を見たとき、ユーチューブやラインなど、その基準に照らし合わせればそれこそ役に立たないことにより多く費やしているのだが、そのことを指摘したところで「リラックスするのに必要」などと返ってくるので話が前に進まないのだ。ちなみに、今回中学受験を終えた生徒と秋にご両親、本人と4者面談を行った際、「リフレッシュと言いながら、休憩が長いんですけど」とお母様から伝えられたので、「フレッシュな奴にリフレッシュなんて必要ないです」と返したところ、お父様にそれをいたく気に入っていただいたということがあった。もちろん、ずっと勉強させておいてください、ということではない。習っていた野球も12月はさすがに休会していたが、それまでは週1回続けていた。私は「そんなのはやめさせる必要はまったくないです」と伝え続けていた。受験後しばらく休めばいいのに、「志高塾ロスや」と、親が背中を押したわけでもないのにすぐに戻って来て、国語と数学と合わせて週3通ってくれている。まったく疲れていないのだ。先の高1の生徒のお母様からの相談におけるジレンマというのは、国語力が無い生徒ほど、国語力の必要性を訴えたときにそれが理解できないということである。私自身がそういう人だったから、彼女の気持ちは痛いほど分かる。ここで、「国語力」とは何かを定義しないが、単に国語の点数に結び付くだけではなく、その後の人生に生きる国語的な力であると捉えていただきたい。では、今の高2の生徒たちがそれを論理的に説明できるかと言えばそういうことでもない。ただ、長年通い続けている中で、「何か将来に役立ちそうかも」となっていたり、「これはこう」とよく分からないことをさも正しいかのように主張し続ける同級生などを目の当たりにして、「あいつ、思考に柔軟性が無いな」と彼我の差を感じ取り、それが国語力の有無、それを鍛えているかどうかに起因していることを感覚的に掴めたりはしている気がする。
 この前のバスケットの帰り道、豊中校から参加してくれていた高2の双子の生徒を車に乗せて帰った。家が近所だからだ。2人と初めて話したのだが、そのうちの1人は阪大の法学部が第一志望で、第二志望がハムの法学部とのこと。大阪「公」立大学だからそのように呼ぶらしい。「偏差値の順番からしたらここらへんやと第二志望は神大になるんじゃないの?」と聞いたら、「私の学びたいことを教えている先生がいるんです。だから、阪大がだめならハムに行きたいです」と返って来た。その先生の本を読んで興味を持ったとのこと。その子の志望校の決め方にも国語力は大きく関係している。自らの成績と大学の偏差値との数値的なマッチングだけではなく、別の要素を加味しているのだ。京大医学部に進んだ元生徒ついて、阪大の医学部教授が高校生向けに行っているセミナーに定期的に参加していたことを私はよく話す。好きなエピソードだからだ。プレゼンテーションの準備などにも時間を掛けていたので、受験の点数に直結しないどころか、そのことだけを考えればマイナスである。親類に医者がいないこともあり、ひとまず目標とした医学部が自分に本当に合っているかを確認していたのだ。そこに何かしらのやりがいを見つけられたことは、大学受験に向けてのモチベーションにもつながったはずである。
 目の前の分かりやすい目標に完全に視界を遮られることなく、その先を見据えようとして、そこに自分の時間を少しでも注ぎ込んでいく。そういうことを繰り返して行くことで持っている能力が引っ張り出されて視野の広い面白い人間に育って行く。私はそう信じ切っている。

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