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2023.01.31Vol.577 読解問題の重要性

 落っこちてしまったので、良い受験だったとは言えないが、二男と密に過ごした直前の1か月は間違いなく良い時間であった。旅行、釣り、スポーツ観戦などでそれなりの時間を子供たちと共有している。ただ、勉強にしろスポーツにしろ、明確に結果が表れるものに関しては、日常的、直接的に息子たちと関わりを持とうとはしないため、そのような意味でも貴重であった。イギリスに「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」ということわざがある。まだ小学生であれば、頭を上から押さえ込んで、飲むまで顔を上げさせないということも可能ではあるのだろう。そんなのは論外だが、水辺まで引っ張って行くことすらしたくはない。適度な運動をさせ、水を飲みたい状態にし、「どこで水飲めるの?」と聞かれて初めて「あそこに水場があるよ。行って来な」と促すようなやり方を私は好む。もちろん、「適度」というのは「楽」とは違うのでそこには厳しさも伴う。
 子育てはわずらわしいことが多い。父親の私ですらそうなのだから、より密接に関わることが多い世の母親は日々いらいらを募らせて当然である。ただ、そんな日常の中に、「今」を感じることがある。この瞬間はもう二度と訪れない、という予感。受験1週間後ぐらいにスマホの写真を整理していると、統一入試日の朝、中学校近くのマクドナルドで事前の勉強をしているときの横顔を撮ったものが出てきた。それを見つけたとき、「ああ、あの時は『今』だったんだな」となった。少し後から振り返ってのことなので、正確には「あの瞬間」となる。1か月後であれば賞味期限切れになっていたかもしれない。いろいろな感情が渦巻いている状況だったからこそ、そのように感じられた気がする。
 さて、本題。あるお母様より、「『勉強に関して2つのシナリオを頭に描いた』理由、気を変えず、次回テーマでお願いします」との要望をメールでいただいたので期待に応えてみることにする。ポイントは、どちらにも含まれている国語である。志高塾を始めてこの15年で私は随分とましな人間になったと自負している。あくまでも自分の過去と比べてのことである。それにはいろいろな要因があるが、読解問題の影響は小さくない。正確に表現すれば読解問題の本文である。体験授業の際、開校3年目ぐらいまでは読解問題を教えることに消極的であったことや文章のレベルについて話すことは少なくない。後者に関しては、手を使ってその差異を表現するのだが、ここではそれができないので数値化してみる。中学の文章のレベルを1とすると、高校のそれは1.2、大学になると3ぐらいになる印象である。いずれも、難関校、難関大学を比べた場合の話である。1.2や3に大した意味は無い。ここで伝えたいのは、中学と高校に大差は無く、大学のそれはかけ離れている、ということ。大学受験になると、一気に抽象度が増す。それゆえ、読んでいて「いや、同じことを言うならもっと分かりやすく説明してよ」となることしばしば。このように文章にするにしろ、人前で話をするにしろ、中学、高校受験の文章が随分と役に立っている。ひとつひとつの内容をきちんと消化して整理整頓された状態で頭の中に置いておくことで、体験や新たな情報と結び付くからだ。「Vol.575ここぞとそことあそこも」で、海中で餌を捕る肺呼吸動物と『シカゴファイア』における消火活動をする消防士の共通項を見出し、そこから私自身の行動指針へと話を展開したように。
 志高塾では、中学生に難関中学のものを、高校生に難関高校のものを解かせることは往々にしてある。それぞれ小6と中3じゃないのか思われるかもしれない。もちろん、受験対策のためであればそのようになる。学校にもよるが、大抵は6割取れれば合格者平均ぐらいにはなる。しかし、そのレベルでは文章はほとんど理解できていない。10割を目指してこそ意味がある。どれだけ学校で作文を書かされても上達しないのと同様に、ただ読解問題を解くだけでは文章から得られるものはほとんど無い。作文をきちんと添削してもらえて初めて文章力は磨かれて行き、記述問題は、文中の言葉を切り貼りしたり字数を稼ぐためにどうでも良い内容をだらだらと表現したりするのではなく、できる限り自分の言葉を用いて、密度の濃いものになるようにした上で、丸付けの際に講師とやり取りすることで、筆者の主張がひとつの考え「型」としてインプットされる。もちろん、それが点数アップにもつながる。
 もし、私の今回の文章のように本文で読解問題の重要性が述べられていて、「この文章で筆者が言いたかったことは何か?」と問われ、「作文より読解問題の方が重要であるということ」という選択肢があれば、それは不正解である。もちろん、「算数(数学)より国語の方が」も同様である。いずれも大事であり、一番を決める必要などないからだ。なお、先週から志高塾に復帰した二男は、他の中学受験生同様に意見作文に取り組み始めた。
 書き洩らしがそれなりにあるので次回補足する。もちろん、気が変わらなければの話である。

2023.01.24Vol.576 完。そして、続く。ずっとずっと。

 この2回、受験生の親の一人としてできる限り生の声をお伝えしてきた。その結果なのだろうか、お母様たちからメールで連絡をいただく度に「忙しいのに申し訳ございません」の言葉がいつにも増して目立ったような気がしている。優しさに触れ、改めて感謝をする共に余計な気を遣わせてしまったことへの申し訳なさを感じた。不徳の致すところである。これまでの人生、不徳の致すところ数限りなかったが、言葉にするのは初めてのことである、きっと。その初回に当たる「Vol.574(並)中学受験生の父として」において、元々「今回は、公ではなくあえて私の立場から述べることにする」というような一文を入れていたのだが、それすら抜いて、とことん我が子の受験のことだけについて言及した。中途半端にならないようにするためである。この冒頭の段落だけは、最終結果が出る前に書いていた。
 
「あのさ、かんちゃんが落っこちたせいで、みんながお父さんに気遣うやんか」
「それ僕のせいなの?」
「そりゃそうやん」

というわけである。我が子が受験した3校の偏差値にそれほど大きな隔たりはなく、前受けだけに合格したことを考えると、残り2校に受かる確率を10%と踏んだ私の予測は適切であった気がする。0では無かった。残り1か月弱、私が直接教えたことで15か20ぐらいまでは達していたかもしれないが、30までは届かなかった。
今回も含めると、都合3回のブログを我が子のことに費やしているわけであるが、それは冒頭の一文にあるように「生の声」に私自身が意味を見出したからである。落ち着いて振り返ることで見えて来るものもあるが、その瞬間だけですぐに消えてなくなってしまうものもある。そのようなこともあり、本当は最終の受験日、昼過ぎに送り出してから迎えに行くまでの間にこの文章をほぼ仕上げる予定であった。しかし、できなかった。「よし、俺の役目は終わった」とビールを飲みながらラーメンを食べて昼寝をしていたからである。宣言通り二男の受験にはすべて私が同伴したのだが、受験経験者のお母様にその日の話をした上で、「付き添いってほんと大変ですよねぇ」と漏らしたところ、「全然そんな風に聞こえませんけど」と突っ込まれてしまった。
そのとき、私が願っていたことは、とにかく力を発揮してくること。私は、度々
(結果)=(実力)×(実力発揮度)
という式を使う。会場に向かう途中、本人にもその話をした。30%未満の奴が合格を掴むにはすべてを出し切る以外にない。そして、本人は「今までで一番できた。間違いなく合格している」と私の元に来るなり、その手応えを教えてくれた。勉強に限らず、予防線を張るな、と私は伝えている。あえて低く言うのはずるである。それをすれば、悪い結果に対しても「思ってた通り」、「思ってたよりは良かったから良いか」などと自分をごまかすことになり、現実を適切に受け止められなくなるからだ。息子のことに話を戻す。その報告を受け、確信は言い過ぎだが、「じゃあ、合格してる」となった。能天気に子供の言葉を鵜吞みにしたわけではない。二男のそういう予想はそんなに外れる方では無く、親として「落ちたときの心の準備もしておこう」と保険を掛けないでおくことも大切な気がしていた。不合格者の点数が開示されるのは3月になるので、どれぐらいずれていたのかにもよるが、結果を受けて、手応えが狂っていたのではなく、単純に実力が足りなかったんだな、となった。体温を計らないといけないのに、一の位までしか表示されない温度計のようなものだったのだろう、というのが私の結論である。発熱外来の境界が37.5度であるのに、37.0度も37.9度も37度と表示されてしまっては意味がないのだ。実力が不足していると、難易度が上がったときに精度が落ちてしまうのだ。
 結果が出るまでの数日、心では合格を信じて続けていたものの、それとは別に勉強に関して2つのシナリオを頭に描いていた。いずれにしても、長男の通っている英語塾に通わせ、志高塾で作文を続けさせること。それに加えて、中学入学までに最難関中学の国語の読解問題をそれなりに解かせること。そして、不合格だった場合のみ、クラブに入る5月ぐらいまでに私が数学を教えて、中2ぐらいまでの分を一通り終えられるようにしようかな、と。なぜ、このようなことを考えたのか、気が変わらなければ次回テーマにする予定にしている。
思い通りの結果が出なかったとき、「これも良い経験だ」というような言葉が掛けられる。私も口にする。一人の人間が複数の人生を歩めるわけでは無いので、どちらが良かったのかなんて比べようがない。受験だけのことを考えれば、第一志望に合格した方が良いに決まっている。だから大事なのは、少なくとも「良い経験だったな」と振り返れるぐらいに悔しかった経験をばねにすることである。昨日、二男は担任の先生に公立の中学校に行きます、と伝えた。30年以上前のことになるのではっきりとは覚えていないが、同じ状況で私はかっこ悪さやみじめさを感じた気がする。
 完。中学受験は終わった。完結の「完」である。完敗の「完」でもある。親として、二男の心に刺さる受験にしてあげられたことには満足している。まあ、不合格になってしまったので気を遣われてしまうし、強がりにしか聞こえないだろうが。

2023.01.17Vol.575 ここぞとそことあそこも

 先に連絡から。志高塾第2回バスケットボール大会を行います。誰でも参加可能ですので、興味のある方は気軽にお声掛けください。未経験者も大歓迎です。
日時;1月29日(日)15:00~17:00
場所;西宮市立中央体育館
(https://www.nishi.or.jp/access/sports/taiikukan/bunkan.html)
アクセス;JR西宮駅より北東へ徒歩約5分
持ち物;体育館シューズ、白いシャツと色付きのシャツ(チーム分けのため)
参加費;無料
 続いて中間報告。ただいま、1月15日(日)の17時過ぎ。不合格発表から4時間が経過した。その間、私の横で勉強しているものの頭の回転が明らかに鈍っている二男に向かって「悔しくて泣くのは良い。でも、元気を失くしてるようじゃアカン。もう1回チャンスがあるんだから、そこで結果を出せ。頭の動きを止めてる場合じゃない」と発破をかけた。前受けは幸いなことに合格していた。正にサッカー日本代表と同様、勝って負けて、1勝1敗で大一番を迎える。年明け以降、塾からの車での帰り道、運動不足にならないように家の1.5kmぐらい手前で降ろして1人で走らせ、塾が休みの日曜だけはその倍の3kmを、三男にハンディを与えた上で2人を競わせている。先ほど、気分転換も兼ねて競走をさせてきたところである。今日は私も初参加した。と言っても、電動自転車で並走しただけなのだが。二男は必死に追いかけたものの、少しの差で負けた。「あきらめるな。最後まで頑張れ、頑張れ」と声を掛けていた。もちろん、受験と重ねてのことである。息を切らしながら必死に前を見ている横顔を見ていると、ふとこみあげてくるものがあった。私の親も、私が結果を出せなかったとき、こんな思いで応援してくれていたのだろうか。
 私の息子である。どうせすぐに調子に乗ってしまうのだから、自分に足りないものがあったことを明確に突き付けられるのは良い経験だ。これを人生の糧にしてくれるはずである。良薬口に苦し。私は何かうまく行かなったとき、大人になった今でも、「あのときから変わってへんやん」と中学受験のことを思い出すことはそれなりにある。
 さて、ここからは前回お伝えした年末の書きかけの文章に手を加えたものである。まずは中学の入試問題の本文の一部抜粋。

 動物たちにとって泳ぐ目的は餌をとることにある。いたずらに速く泳いでしまっては、餌のある深度に到達したときに息が切れてしまう。すぐさま水面に向けて引き返さなければならないのだとしたら、何のために潜ったのかわからない。かといって、ゆっくり泳ぐのも考えものだ。肺呼吸動物にとっては息を止めていられる時間は限られている。速すぎず遅すぎず、移動に要するエネルギーコストを最小にする最適速度が、秒速一~二メートルになるのがこれまでの研究でわかってきた。
(中略)
 動物を調べるための基本的手段は観察だ。一見、観察可能に思える海の中は、実はほとんど見えていなかった。そんな海で暮らしている動物を調べる場合、バイオロギングや音響という特殊なやり方がとても役に立つ。海の動物の暮らしぶりや、驚くべき能力が判明する一方で、「野生動物はいつでも一生懸命」といった、人間の一方的な期待を裏切る結果がいくつも得られた。常に最大能力を発揮しないどころか、同種他個体や他種、あるいは人間に大きく依存して暮らしているのだ。

 数か月前からアメリカのテレビドラマ『シカゴ・ファイア』にはまっている。現在、シーズン8の途中まで来た。ウィキペディアの紹介文をそのまま引用する。「シカゴ市消防局第51分署に所属する消防士・救急隊員らが、人命救助という重大な責務に悩み苦しみつつも、力を合わせて任務にあたる様子を描いたテレビドラマ」。年明け、生まれて間も無い頃からの幼馴染と会った。その彼はアメリカに留学していた際、シカゴに住んでいたので話題を振ったところ、当然のごとく見ていたので盛り上がった。そのドラマを通して知ったことや驚いたことなどを3つ挙げる。1つ目。シカゴは、頻繁に、しかも大火事が起こるということ。もちろん、そうでなければドラマにならない。2つ目。すぐに放水をしないこと。火事が起これば、とにかく早くたくさん水を掛ければ良いと思い込んでいたのだがそうではなかった。建物内に人がいないことを確認してからしか消火活動をしないのだ。それは、液体と気体ではやけどをするときの温度が違うからだ。お風呂のお湯であれば50度になればまず耐えられないが、サウナは90度から100度である。避難し終わる前に水を掛けると、高温になった水に直接触れることで大火傷を負ってしまうのだ。そして、3つ目。消防車はサイレンを鳴らしながらできる限りスピードを出すものの、現場に着いてから、隊員たちは決してダッシュをしないこと。そこでエネルギーを浪費すると、救命、消火活動に支障をきたすのだ。
 前述の文章は以下のように締められていた。
 「そんな野生動物たちの姿は、サボっているようにも見える。しかし、よくよく考えてみれば、このやり方こそが厳しい自然環境で生き抜いていく動物たちの本気の姿だ。」
 初め、タイトルを「ここぞ」にしていた。この一年、勝負どころでの精度を上げよう、という意味を込めてである。しかし、それ以外の部分、日常での頑張りがそもそも足りないので、「ここぞとそこも」にした。それでも不十分な気がしたので、自身の手抜きの性格を考えて、最終的に現在のものに落ち着いた。一年を振り返った時、「今年はよく頑張ったな」と思える一年にしたい。

2023.01.10Vol.574 (並)中学受験生の父として

 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 現在、祝日の9日(月)の朝9時過ぎである。中学受験に臨む二男を前受けの受験会場に連れて行き、不安気な背中を見送って帰って来たところである。幼稚園の頃、YMCAのお泊りキャンプに初めて参加させたときのことを思い出した。驚いたことがある。それは、付き添いの父親比率が高いことに対してである。私の見た限り父だけが全体の6、 7割で、それに両親を合わせると9割近くになっていた。もし、二男が私についてきて欲しいとお願いしなければ間違いなく妻に任せていたので、実に不思議な感じがした。ちなみに、私の中学受験のときは母であったし、父が来るなど考えられなかった。煙たい存在だったからだ。時代は変わり、子育てをするようになった分、父と息子の距離は縮まっているのだろうが、息子にとって父というのは基本的にそういうものだと認識している。世間一般がそうであり、私も例外ではないということである。それゆえ、男の子が生まれたとき、私の話に耳を傾けているうちにいろいろなことを伝えようと考えたものである。その期限は、自分の経験上高学年ぐらいに設定していたのだが、中2の長男との関係もまだ悪くはなっていない。話を戻す。当時の記憶はほとんど無いが、試験後に学校の近くにある古びたラーメン屋に母と寄ったことは何だかよく覚えている。確か、キャベツやもやしなどの野菜がたくさん載っていた気がする。
 年末に着物を来て正月特番を収録する芸能人よろしく、新年一発目の文章を年末に書き始めていた。構想もできあがっていたので、後は仕上げるだけという状態だったのだが、今日(9日)急遽それを来週の17日に回すことにした。その理由は2つある。1つ目は、二男の受験日が9、14、18日ですべて私が同伴することもあり、この1週間はバタバタしていつも以上にアイデアが浮かびそうな気がしないこと。2つ目は、受験が終わってから落ち着いて振り返ってみるのも良いのだが、今の生の私の気持ちを伝えるのも少しぐらいは意味があるかもしれない、ということ。
 通常、タイトルの前後に付けるのであれば、(仮)、(続)などなのだが、新年早々ややこしいことをした。並列の意味である。来週16日から内部生の親御様に配布する『志高く』は、早くも書き上げ、そのタイトルを「中学受験生の父として」とした。(続)であれば、そちらを読んでいなければこちらが理解しづらくなってしまうのだが、これ単体としてもひとつの形を成すようにした。(ス)としても良かったかもしれない。映画やドラマであるスピンプオフの頭文字である。内部配布の方では、志望校を明らかにしているのだが、結果的にこちらではオープンにしないことにした。わざわざここで言う必要もないか、となったからなのだが、統一入試日の14日はさておき、9日と18日は日程からほぼ特定できるので隠す気はないのだ。そんなことを考えていて、学生時代、点数の書かれた右上の部分を折っていた女子が多かったことを思い出した。「誰もお前の点数に興味なんてないわ」と心の中で突っ込むか、本当に見られたく無さそうにしている子の分に限ってはめくっていた気がする。昔からちゃんと性格が悪かったのだ。それに関して今回気づいたことがある。あれは、実際に見られたくないというのもあるが、もしかすると同調圧力の方が強かったのではないか、ということに。「見られるのは別に嫌じゃないけど、他の子もしてるから合わせといた方が良いかな」という。この私の推測が当たっていたとしても、それがどうした、ということになるかもしれないのだが、こういう自分なりの発見とそれに伴うちょっとした喜びを積み重ねて行くことはすごく大事なことであるような気がする。釣りに例えると、鯛ではなく太刀魚である。鯛は小さいのは海底の周辺にいるが、大きいのはそれよりも浅いところにいることが多い。それゆえ、周りの人がたくさん小さいのを釣り上げていても、ぼうずになることを恐れずに粘り強く大きいのだけを狙うことが大事になる。しかし、太刀魚は違う。大きいのも小さいのも同じところにいるから、とにかくたくさん釣ることが大物に出会う可能性を高めてくれるのだ。
 今回、親として貫けたこととそうでなかったことがある。まず前者から。ここで経緯に関しては割愛するが、志望校に関しては二男にとってぎりぎり手が届くか届か無いかというところだけに絞った。前受けを除いた2校のいずれかに合格できる確率は10%ぐらいである。3校とも偏差値はすべて同程度なので、不合格、不合格と来て、最後の受験を迎える可能性が非常に高い。本人にもそのことは伝えてある。それゆれ、実際にそうなったときにどのような声掛けをしようかな、ということに思いを巡らせている。ものは考えようである。サッカーの日本代表はコスタリカ戦で負けたという若干の誤算はあったものの、初戦のドイツ戦で大金星をあげてなお、強豪のスペイン戦を前にして土俵際に追い込まれていたのだ。二男の場合、負け、負け、と来てもその最後の勝負に勝てれば良いのだから恵まれている。次に後者に関して。年が明けて5日ぐらいまでは3学期もそのまま学校に行かせる気でいたのだが、これは正直私自身がびびってしまった。コロナになったとしても、救済措置はあるし、あの歳でそういう経験をしていれば、その後の人生でコンディショニングの大事さを意識するだろうからそれも経験だ、と考えていたのだが。そう言えば、年末に箕面にある勝尾寺をお参りしたのだが、手を合わせた後の帰り道、「『合格させてください』などと願っているようではアカン。合格はあくまでも自分でつかみ取るものだから、自分ではコントロールしきれないこと、今であれば『コロナに罹らずに、本番に臨めるようにしてください』などにするもんやで」という話をした。まだまだ書きたいことはあるのだが、今回はここらへんで。
 最後にお知らせです。今回の『十人十色』は2月19日に行うことが決まりました。少しでも多くの方に参加していただければ幸いです。私も話す予定にしています。「(初)中学受験生の父として」といったところでしょうか。

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