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2022.08.30Vol.557 The 探求学習

 予定通り友人の奥さんの文章をそのまま紹介する。先に、一点修正を。前回、「アート部門の責任者」とお伝えしたが、彼女が立ち上げたので、正しくは「代表兼アート部門の責任者」となる。芯の強さと柔らかさ、彼女の人柄がそのまま伝わるものすごく心地良い文章に仕上がっている。次回のブログで私の感想を細かく述べる予定にしている。ちなみに、「すぐに質問するな!」と私はまったく反対のメッセージを子供たちには伝えているのだが、根本にあるのは同じ考え。では、お楽しみください。

タイトル;「?」を見つけるところから始めよう!

「何でもいいから、なぜ?と思う事を質問してみてください。」
こう言われたら貴方は何を質問しますか?
また貴方のお子様は質問できますか?
「んー。別にない。。。」
と思ったら今貴方がいる周辺を見回してみましょう。
5つも質問を出せたら優秀ですね。
もし1つも見つけられないとしたら、相当の知識人か人生消費者人間かのどちらかでしょう。

「学びラウンジTUMUGU」ではイベントの他、平日毎日オンラインラウンジを開放しています。
日本中の子供たちがオンライン上で一緒に勉強したり、遊んだり、教え合ったり、自分の好きなことを探究したりしています。

ルールはただひとつ。
「わからない事はすぐに聞け!」
TUMUGUは「わからない」が大好物なので、子どもたちは「わからない」というと全力でほめられます。
その質問に答えてくれる先生らが駐在していて、質問に答えたり、一緒に考えたり、アイデアを出したりします。
そこで解決しなければ、後日その道のプロの方に直接繋いで質問できるプラットフォームなどもあります。

毎日子どもたちから出される質問は、学校や塾での勉強に留まらず、日々の生活で抱いた「なぜ?」がほとんどです。
それらは大人にとっても斬新!また挑戦的でワクワクします。

ところが最初はこの質問作りがどうしてもできないお子様がいます。
いつもやらなくてはいけない宿題を与えられ、十分すぎるほどの情報と教育保護の中で育った子どもたちにとっては無理もない話です。

勉強をやらされて、止まる事を許されない子供たちに「?」なんて抱く時間なんてないのですから。

しかしこれは大問題です。身の回りに無数に散りばめられた問題や、奇跡、?などには沢山の学びが隠されているのに、それらを素通りしてひたすら「教育消費者」となるのです。
そういった消費者子供を減らすために、質問を見つけられない子どもたちとも対話を続けながら、一緒に「?」を見つけられる体質にしています。

一方でTUMUGUには不登校の子どもたちも在籍しています。
私は彼らを「優等生」と呼びます。学校で起きる理不尽な出来事に敏感に気づき、アクションを起こした子どもたちですから。
また特に不登校でなくても、そういった身の回りの理不尽に「?」を抱けば、それがその日の質問だったりします。
最初は文句に聞こえますが、文句をただの文句で終わらせないために、子どもたちと丁寧に対話を続けます。
すると問題の本質に気づいたり、ルールの先には一体何があるのかを考える事で、問題解決したり今あるルールをどうしたら変えられるか考えてみよう!という様に切り替わります。ただの消費者から当事者に変わっていく事が多々あるわけです。
文句もまた学びのチャンスです!

それでは実際にあったこどもたちの質問をいくつかご紹介しましょう。

栄養には味があるの?
お風呂に入ると外からの声が聞こえなくなるのはどうして?
ヘリウムを吸うと声が高くなったのはどうして?
シリカゲルの青いのは何?
信号の「止まれ」はなんで赤なの?
勉強はなんでしなくちゃならないの?
地球一周の長さはどうやって図ったの?
人間はおしりをふくけど、他の動物はなんでふかなくてもいいの?
透明は色なの?
お母さんはなんで怒るの?

などなど面白い質問は、ここには書ききれないほど沢山ありました。

素朴な質問から、ある程度の知識がなくては生まれない質問まで様々です。
全ての事象には理由があったりするので、それをサイエンスの見解で説明しますが、小学生では難しい事もあるし、複雑に絡み合ったりしていて一概には伝えきれない事もあります。

でもこれらはどれも子供たちが自ら「なぜ?どうして?」と切に知りたがっているので、一生懸命聞き、ノートにとり、さらなる質問を見つけ出したりします。
そのまま実験に発展することもよくあることです。これを私は「健全な学び」と呼んでいます。

また1人の質問をみんなで考えたりする時もあります。

例えば「どうしたら戦争(ケンカ)を終わらせられるのか?」
みんな一様にヒーローと悪人にハッキリと分けて話し出します。
しかし、この話し合いをするには歴史(ケンカのプロセス)をまず知ることが必須となります。

すると知識が考え方の土台となり、多面的に物事を捉えられる様になります。

「そもそも単純にヒーローと悪人が揺るぎない物だとしたら、戦争は起きないんじゃないのか?それかすぐに終わるはずだ。」とか1人が言い出します。
なるほど、鋭い!
みんなでうーんうーん言いながら、さっきまで悪人だった方の立場や気持ちを探るようになりました。

この様にどれだけ時間を割いても終わらない疑問もありますが、そんな時でも誰かが誰かを否定する事はなく、どんな意見も1つの考え方として認め合うよう心がけています。
そのためどんな意見でもわからない事でも恐れず、みんなの前で言えるのです。
この「安心できる環境」こそが、子どもの力を伸ばす秘訣です。

私の仕事は子どもたちに何かを教えるのではありません。子どもたちの話を聞くのが仕事です。

子どもたちが好きなことを自信持って「好き!」と言える。
わからない事にふたをせず、「わからない!」と言える。
困った時には素直に「助けて!」と言える。

当たり前と思うかもしれませんが、これなかなか難しいのが現実です。
でもそんな社会にしたいと思いませんか?

だからTUMUGUでは子どもがわからないと言ったら褒めて面白がり、好きなことや、やりたいと思ったことを全力で応援し、アウトプットの仕方を一緒に考えるのです。その結果、多くの子供先生が誕生し、これまでに子供が子供に教えるマイクラ教室やお料理教室、実験教室、クラフトワークショップ、プログラミング教室などを始め、多くのオンライン部活が自発的に誕生しています。
子どもたちは好きなことをアウトプットし誰かのためになりたいと望むことで、自ら探求し、学び、表現力を育んでいくのです。
まさに「人に教えることは学びの最高峰」だと考えます。

TUMUGUの代表である前に2児の母親でもある私は、是非この場をお借りしてこれを読んでくださっている皆さんにお伝えしたい。
真の教育とは教えることではない。学びたい!と思える環境を作ること。
だとするとこれは教育者や学校だけでなく、親、大人たち、友達、ひいては社会全体の課題ではないでしょうか?
だから是非、こどもの「?」を一緒に楽しんでください。そして大人の皆さんも身の回りに「?」をたくさん見つけて面白がってください。
それこそが「健全な学び」の種になります。

変わりませんか?
消費者ママ(パパ)から当事者ママ(パパ)へ。

学びラウンジTUMUGU代表;八木美佳子
https://www.tumugu-lounge.com/
八木美佳子プロフィール
東京藝術大学音楽学部卒業桐朋大学音楽療法研究科修了。
テレ東おはスタ、Eテレプチプチアニメ、ポンキッキなど教育番組にも出演。他、子供のためのコンサートやワークショップなどを行う五感塾を主催。

2022.08.23Vol.556 TUMUGUにTUNAGU

 この週末、20日(土)の朝一で伊丹から羽田に飛んで、21日(日)の最終で帰って来た。
 3か月に1回のペース、つまり年に4回ぐらいは美術館に行こうと思っているのだが、ずっと2回程度に留まっていた気がする。今年はその目標をクリアしたので、そのことから報告する。訪れた順に紹介すると、あべのハルカス美術館での『印象派・光の系譜』、札幌の北海道立近代美術館での『フェルメールと17世紀オランダ絵画展』、そして今回の、国立新美術館での『ルートヴィヒ美術館展』、東京国立近代美術館での『ゲルハルト・リヒター展』となる。7月初旬に、大阪府和泉市にある久保惣(くぼそう)記念美術館に息子たち3人を連れて浮世絵を見に行ったことを今思い出したので、実は5回だということが判明。なぜそうまでして美術館に行くことにこだわるのか。自分は今、「そうではない」ことをしている、という安心感が得られるから。ここから、そうなこと、そうではないこと、「そうではないこと」の3つを使いながら話を進めて行く。
 そうではないことが存在するためには、そうなことが先になければならない。そうなこととは大学受験まで続く答えのある勉強を指している。私の勉強時間は間違いなく少ない方だった。そんなにしなくてもできたからではなく、集中力があったからでもなく、ただ単に長いこと座っていることができなかったから、というのがその理由。だから自然、そうではないことに多くの時間を割いていたことになる。そんな私は、特段深い考えも無しに消去法的に工学部建築学科を選んだ。そして、入学後、自分がいかにものを知らないかを知り愕然とする。ザ・無知の知。補足すると、「無知の知」とは、「自分が知らないことを自覚する」という意味である。建築家の本を読んでも全然理解できなかったのだ。専門用語が並んでいたことも少なからず影響していたのだろうが、そんなことよりも視野の広さ、思考の深さが違った。それは、今のままの自分(大学生の頃の私)がどれだけ経験を積んでも全然近づけないだろうな、という決定的な差であった。頭が良いとか悪いとかではなく、人間的に完全に劣っていることを実感した。それなりに勉強ができているからそれなりに人間としてもできている、と勘違いしていただけにショッキングであった。数学しかできず、国語がからっきしだめだった高校生時分の私からすると文系はありえなかったので、建築学科以外の理系の学部、学科であれば、私はそのことに気付けたのだろうか、気付けたとしてもどれぐらい後になってからだったのだろうか。まかり間違って技術系の専門職にでも就いていたら、ずっとそのまま行っていたような怖さがある。
 さて、「」付きの「そうではないこと」。それは、答えのない勉強を指している。勉強と区別するために学びという言葉を当てることにする。要は、そうなこと=勉強、「そうではないこと」=学び、ということになる。そうなことと「そうではないこと」、「そうではないこと」とそうではないことの間にくっきりとした境界線を引くことは難しい。人によって異なり、また、同じ人でも時期によってそれは揺れ動く。私にとってのピアノは、ただ楽譜通りに弾くだけだったのでそうではないことに分類されるが、作曲もする人にとっては「そうではないこと」に含まれるのかもしれない。
 ここで、私が好きなエピソードを紹介する。生徒のお兄ちゃんで今年東大の理一に進学した。私が直接指導したことは無い。彼は2次試験数日前に『大学への数学』の答案を作成して、自ら投函しに行ったらしい。『大学への数学』は、その名の通り大学受験の数学とは関係するのだが、そのタイミングで郵送しても添削して返却されるのは受験後なので、そんなことをせずに過去問をやり直すなどもっと直接点数に結び付く勉強をするのが一般的である。こういう話をすると、「余裕があるから」で済ませる人がいるのだがそんなことはない。数点差(5点以内)の合格であったことがそれを物語っている。彼がしていたのは、紛れもなく「そうでないこと」であった。「どうだ難しいだろ」と突き付けられた問題を脇目も振らず解いてみたくなったのだ、きっと。悲しいかな、彼と同じ頃の私の円グラフはそうなこととそうではないことの2つだけで構成されていた。「あの人面白いよね」と評価される人の多くは「そうでないこと」が一定以上の割合を占めている。志高塾の中学生以上が取り組む意見作文は、正しく「そうではないこと」に分類される。一人一人の面白さが少しでも増すような、そんな指導を行っていきたい。
 今回、建築家の友人が自宅をフルリノベーションしたということでおじゃまさせてもらった。そこに集まった5人(私を含めて6人)は、すべて就活中の友人なのでもう20年来の付き合いになる。20日(土)は、ちょうど神宮外苑花火大会の日だったのでマンションの屋上から皆で花火を楽しんだ。そう言えば、学生時代、東大のキャンパス内の建物の屋上で彼らと花火をしていて警備員さんに怒られたことがあった。彼らとではないが、真冬の誰もいない阪大のグラウンドで目いっぱい高いところまで凧を揚げて、そばを通りかかった人たちの注目を集めたこともあった。そう考えると、危機感を覚えた後も、「そうではないこと」ではなく、そうではないことに精を出していた気がする。話を戻す。我々がただボーっと花火を見ている中、彼の奥さんはその屋上でノートパソコン片手にオンライン授業をしていた。彼女は、『学びラウンジTUMUGU』
https://www.tumugu-lounge.com/art
のアート部門の責任者をやっている。そのトップページには次のようにある。

TUMUGUは、受験のための勉強というイメージを壊したいと考えています。
受験制度自体を否定はしませんが、受験のためだけの勉強は、つまらないし、
受験という枠の中でしか使わない知識なら、いらないんじゃないでしょうか。

志高塾のHPでは、「壊す」というような強い言葉は使っていないが通ずるものがある。ここでポイントとなるのは、受験自体を否定していないことである。若干異なるのは、彼らは受験という枠を意識せずに知識を入れるのに対して、我々は受験という枠の中で入れた知識をその外に持って行こうとすることである。たとえば、文学史。夏目漱石の作品を選択肢の中からすべて選べるだけでは意味が無いのだ。『坊ちゃん』でも『吾輩は猫である』でも何でも良いから読んで欲しい。慣用句もできる限り読書から仕入れて欲しいし、仮にテキストを使って丸暗記したのであれば作文の中で使って自分の言葉にして欲しい。面白い人間になって欲しいから、彼らにして欲しいこともたくさんある。
 その授業中、彼女は、岩手や愛知の子供たちとやり取りをしていた。新潟の子もいたので長岡の花火大会の話題を振っていた。また、花火の色は火薬の種類によって違っていて、赤色はストロンチウムで、緑色は銅なんだよ、という話をしていた。それを横で聞きながら、中学か高校の化学で覚えた炎色反応のことを思い出していた。大事なのは、それぞれの元素と色の組み合わせを覚えることではなく、色の違いが物質の違いによっていることを知ること、また、そのことに面白さを感じ、興味を持つことなのであろう。
 さて、次回はそんな彼女の文章を掲載する。「面白そうなことやってるから、今度ブログに載せる文章書いてよ」とお願いしたら、「いいよ」と即答してくれた。彼女とも20代の頃からの付き合いで、演奏会を聴きに行かせてもらったこともある。20年の歳月を経て、こういうつながりが持てるのは不思議な気がする。 
 最後に慣用句の使い方のお手本を見せて終わりとする。文章を書かずに済み、かつ彼女の文章を一読者として楽しむ。正に、一石二鳥である。

2022.08.16Vol.555 大学入試改革の裏側

 相手の立場で物事を考えなさい。よく言われることである。ただ、前回の「成功体験を積ませてあげましょう」同様に私自身はほとんど口にしたことが無い。「成功体験」の方はその言葉自体が嫌いだからであり、「相手の立場」の方は単純に私ができないから。現象としては同じなのだが理由は異なっている。そんな私でも、そんな私だからこそ心がけていることがある。自分だったらどうして欲しいだろうか、と問うことである。相手の側から相手の目線ではなく、自分の目線で考える。もちろん、自分がそうだからと言って、他の人もそうだとは限らない。だから、「他の人もそうだろうか?」と最終チェックを行うようにしているが、そのプロセスが意味を成しているかどうかは定かではない。見直しの甘い生徒のように、合っていることが前提になっている気がするからだ。そんな自己中心的な私が、半年か1年前ぐらいに車を運転していてハッとしたことがあった。ヒヤリもしたかもしれない。「そうか、あの車に乗っている人からしたら、俺の車に対しても同じことを思うんや」と初めて他者の視点が持てた瞬間であった。それまでは、明らかに変わった色の車などを見て、「あれはないはなぁ」などと一方的に心の中で突っ込むだけに終わっていたからだ。
 コロナが流行したことで、電車から車通勤に変わった。それまでは、ラッシュに巻き込まれる夏期講習期間とインフルエンザに罹ると迷惑を掛けてしまう受験期間限定であった。恒常的な交通手段の変更に伴い、読書がポッドキャストでのニュースの聴取に置き換わった。毎日のように60分近く聴いているうちに、いつの頃からかそれぞれのコメンテーターがどれぐらい情報を持った上で、個人の見解を述べているかが透けて見えるようになった。それまでは、アウトプットされたアイデアの良し悪しだけに注目していたのだが、それがどこから来たものかに意識が向くようになったのだ。それにより、「この人それっぽいことを言っているだけで、大して勉強してないな」というのが以前よりも掴めるようになってきた。
 引き続き、リベラルアーツに関して学んでいる。ポッドキャストで、『a scope~リベラルアーツで世界を見る目が変わる~』の全32話(1話約20分)をこの2, 3週間で聴いた。MCとの対談形式を取っていて、物理学や文化人類学の専門家などが登場する。1回では理解できないので聴き直す。それでも不十分なので、この番組を1冊にまとめた『視点という教養』を読んで、ようやく8割程度分かった状態に達する。教育学の専門家として登場したのが、東大と慶応で教授を務める鈴木寛(すずきひろし)氏であった。その中で、自身が携わった入試改革について語っていた。私は、これまで「従来のセンター試験のままで良いのに」と共通テストに移行すると共に内容の変更が掛かることに反対であった。だから、ここでも何度か紹介した『飯田浩司のOK! Cozy up!』での、コメンテーター飯田泰之氏の「センター試験はよくできたシステムなので変える必要なんて無かった」の意見に、「ほんまやで。なんで余計なことすんねやろ」と共感していた。たとえば、英語の民間試験導入に関しては、まったく活用されなかった住基カードの運営、管理が総務省の役人の天下り先の団体に委託され無駄に税金が使われるだけに終わったように、文科省の利権絡みではないか、ぐらいの捉え方であった。鈴木氏の主張をまとめると大体次のようになる。

 マーク型試験というのは間違いを見つける作業である。国語にしろ、社会にしろ、選択肢の中のおかしな表現を探して消去して行く。それは、できる限り不良品を出さずに大量生産することに重きが置かれていた時代には合っていたが、今はそうではない。一部の国立大を除いて、2次試験で論述試験は行われていかなった。地方の高校は、地元の国立大学にどれぐらい合格者を出せるかが1つの基準になる。2次試験でも記述が無いので、日頃の授業も必然的にそれに合わせたものになる。それが問題だったのだ。

 ちなみに、私立文系は早稲田の政経学部が一つの基準になるらしいのだが、鈴木氏などの働きかけにより、論述試験が導入されるようになった。他の私立文系の学部も追随し、その結果、予備校の授業、参考書の内容まで変わったとのこと。試験ではなく、日頃の学習を変えるための改革だったのだ。そして、それは日本人全体のクリエイティビティの底上げを図るための施策だったのだ。
 今調べてみると、国語と数学の記述式問題、従来の「読む」「聞く」に「書く」「話す」を加えた4技能の力を計る英語の民間試験の導入は2025年以降も見送られることになったことが分かった。採点者によって差が生まれることなどを含めた公平性の観点からそのようになったのだ。以前の私であれば、「そんなん初めから分かってたやん」と勝ち誇った気分になっていたかもしれないが、今はまったく違う。「この先日本は他の先進諸国と渡りあって行けるのだろうか」という心配が頭をもたげる。憂えていても一歩も前に進まない。私にできること、私たちにできること。それは、試験がどうであれ、書くこと、書くために考えることを生徒たちに徹底的にさせることである。

2022.08.09Vol.554 できるようになったこと、次にできるようにすべきこと

 授業とはまったく関係のない連絡から。志高塾第1回フットサル大会を行います。誰でも参加可能ですので、興味のある方は気軽にお声掛けください。未経験者も大歓迎です。既にサッカー未経験者のお母様一名の参加は決定しております。
日時;9月19日(月)16:30~19:30
場所;フットサルコートつかしん(http://j-spo.co.jp/tsukashin/)
持ち物;白いシャツと色付きのシャツ(チーム分けのため)
参加費;無料

 サッカーと言えば、まだ夏期講習前の7月のある平日の昼間に「サッカー座談会」なるものを西北校で開催した。大層な名目だが、サッカーをしている小学生のお子様をお持ちのお母様たち3人と私の4人で、各自お弁当を持ち寄って、サッカーを含めていろいろな話をしていただけの単なるランチ会である。 
 そこから遡ること約1か月、入塾して半年も経たない5年生の生徒のお母様と勉強における取り組み方の課題について電話で話をしていたら、「最近サッカーも同じで」となり、そのまま話題がサッカーに移行した。そして、「サッカーのことまで相談に乗っていただけるなんて」という言葉をいただいた。ありがたいことに、スポーツに限らず勉強以外のいろいろな話を聞かせていただくことは少なくないのだが、その一番の理由は、周りに相談する相手がいないからである。そこで、私のところに話がこぼれてくるという仕組みになっている。折角自分のところに話が回って来たのだから、私はそのこぼれ話を丁寧にすくいあげるように心がけている。そういうことを繰り返していると、似たような話をいただいたときに、手元の材料が増えているので「こういう話を聞いたことがあります」と以前よりは役に立てるようになる。話を戻すと、「私の話だけだと偏ってしまうので、他のお母さんの話を聞いてみるのも良いかもしれません。同じチームのお母さんじゃないから、本音で話しやすいでしょうし」となり、日頃からサッカーの相談によく乗っているお母様に声を掛けて、座談会の運びとなった。
 さて、その勉強とサッカーに共通している課題とは、ある程度のところまでは人より苦労せずにたどり着けるが、一度壁を感じると、粘り切れずにあきらめてしまう、というものであった。本来であれば、「ある程度のところ」に到達するまでにできた時間と精神的な余裕を、壁を乗り越えるのにつぎ込めるはずなのだが、それは単なる理想論に過ぎない。器用にできてきたしまった分、できないことをできるようになるための経験が不足しているのだ。心の経験が。もちろん、これまでにもサッカーで新しい技を教えてもらったら、一生懸命練習をして身に付けてきたはずなのだが、それでも周りより早くできるから、「中々できなかった」よりも「早くできた」という優越感が先行するから苦しくはないのだ。そのお母様との電話の翌日、本人に「7, 8割のことはすんなりとできるねんから、残りの2, 3割のことをどれだけ考え抜けるかが大事やねん。ある程度できて満足してたらアカンぞ」と話をした。
 結果に一喜一憂してはいけない、とよく言われるが、喜び過ぎないように、落ち込み過ぎないように気持ちをコントロールしようしているようではうまく行かない。常に自分より少し高いところに目標を設定し、それをクリアすれば目標を設定し直す、ということを繰り返していれば、一喜一憂などしている暇はないのだ。小学生がそれをすることは非常に難しいので、周りの大人がそのような状況に置いてあげなければならない。灘から東大医学部に進んだ元生徒がまだ小学生の頃にお母様が次のような話をされていたのを思い出した。「幼児教室に通わせていた頃、テストで結果が出ていなかったので対策をしたら2, 3回連続して一番を取れた。少しやって結果が出るのであれば、それ自体に大した意味が無いのでは、と考えてやめさせました」。特に子育てにおいて、成功体験という言葉はよく使われるのだが、志高塾を15年やってきて、ただの一度も「成功体験を積ませてあげましょう」と言ったことはない気がする。一応予防線を張っておくと3回は無いはずである。その言葉が嫌いなのだ。進学塾の先生は受験が近づくと、親に向かって「せっかく頑張って来たのだから1つでも勝ちを付けてあげましょう」という訳の分からない話をよくする。「合格=成功体験」と考えてのことなのだが、安直である。元生徒の話、今になって思えば、お母様は偽物の成功体験を積ませて勘違いしないようにしたかったのではないだろうか。三つ子の魂百まで、と言うが、彼の「俺はできるから」という素振りを一度も見た記憶が無い。高校生の頃、「このテーマを小論文試験でどのように書けば点数がもらえるかは分かるけど、そんなことをここでやってもしょうがない。だから、ゼロから考えてるねんけど、それが難しいねんな」と漏らしながら楽しそうに格闘していたことがあった。覚えているのはそういう姿ばかりである。一般的な「よくできる子」であれば、自分の頭を使わずに、どこかで得た知識のようなものをただまとめるだけで、「俺、作文うまいやろ」となっていたはずである。
 勉強にしろスポーツにしろ、評価は相対的に決まる。しかし、それを常日頃から重要視し過ぎると、手を抜いていたのに結果が出て調子に乗る、逆に、努力したのに期待したような結果が出なくてやる気を失う、いうことになりかねない。だから、周りではなくその子の過去と比べてあげるのだ。上でも述べたように、身近な大人がそのバーをきちんと設定し続けていれば、相対的な立ち位置も自ずと上がって行くのだ。「これはできるようになったやん。それは良いことやけど、もっとできるで」という声掛けをよくしている気がする。その時、私にはその子のことしか見えていない。

2022.08.02Vol.553 ドラえもんvsのび太君

 「十人十色」の大学生版、正確には大学生以上版「beforeとafterの間」のトップバッターをお願いしている元生徒から、夜中に何の前触れもなくラインがやって来た。「こんばんは。夜遅くにすみません。なんか急に思って書いてみたので、ネタ切れてたらブログの参考にでもしてください。」ネタは常に切れているので、参考ではなくそのまま利用する。

「のび太最強説」
 老若男女問わず慣れ親しまれているアニメ「ドラえもん」だが、主人公のび太は最強なんじゃないかとふと思った。もしある日突然自分の机の引き出しから、未来の知能ロボットが出てきたら、われわれはのび太のように即座に受け入れ、仲良く暮らすことができるのだろうか。ドラえもんはいつも助けてくれるというわけではない。のび太がピンチに陥って、ドラえもんに助けを求めない限り、なにもしてくれない。逆に言えば、自ら絶体絶命の状況を作り出して、ドラえもんの情に訴えることで、ねこ型ロボットは最大限の力を発揮する。
 人工知能が日常に少しずつ溶け込んできている現代社会において、われわれはどれ程AIを使いこなせているだろう。YouTubeをみていたら、ついつい関連動画をクリックしてしまうことはないだろうか。AIによって生活が豊かになった気がしているだけで、実はAIを本当の意味で使いこなすことはできていないのではないか。
 のび太は本当は出木杉君よりも賢いのかもしれない。いじめっ子のジャイアンも、嫌なお金持ちのスネ夫も、ドラえもんの道具を手にしたのび太とは仲良くしようとする。のび太は、ドラえもんの力をMAXでかりるためにあらゆる犠牲をはらって、最終的にしずかちゃんとの明るい未来を作り出すことができた。確実に人工知能が進歩している今日、われわれはのび太から多くのものを学ばないといけないのかもしれない。

 元の文章で「出来過ぎ君」となっていたのを「出木杉君」と修正した以外は何も手を加えていない。苗字が漢字と平仮名の組み合わせは無いだろう、と調べてみて、フルネームが「出木杉英才(ひでとし)」であることを初めて知った。名前負けしていない出木杉君のメンタルこそ最強なのかもしれない。
 彼女は、この春に筑波を卒業し、慶応の法科大学院に進んでいる。「まだ読み始めたばっかりですけど」と断った上で、『AIの法律』を私に勧めてきたので、それを読んでいて書いてみたくなったのではないだろうか。「頼まれたら断らない」ならぬ「勧められたら試してみる(読んでみる、行ってみるetc.)」の精神で、早速購入したがいつになったら手を付けられるのやら。と言うのも、この一か月で買った本が手元に5冊以上はあるからだ。何週間か前に、軽い気持ちでリベラルアーツについて触れた。山口周著『自由になるためのリベラレルアーツ』を読破したら書く予定だったのだが、さすがに後何冊か読んでもう少し勉強してからでないとまずいな、となった。
 閑話休題。2年ほど前から、私立の小学校で週1回2時間、私ともう1人の講師で国語の集団授業を行っている。1学期の終わりぐらいのことだっただろうか、その講師が生徒たちに向かって、ドラえもんを例に取って説明をしていた。それがきっかけでドラえもんについて考えた。タイトルを付けるのであれば「ドラえもん教師の鑑説」となる。『ドラえもん』について詳しくないのだが、私の記憶が正しければ、ドラえもんというのは日頃のび太君を助けはするが、ここぞという大事なところでは「自分でどうにかしなよ」と突き放す。ドラえもんは、のび太君の能力を踏まえた上で手を貸すかどうかの判断をしているのだ。そして、のび太君は死力を尽くして難局を乗り越えていく。そういう経験の積み重ねが、高嶺の花だったしずかちゃんに見合う男に成長させたのかもしれない。のび太君にとってドラえもんは、お守りのようなものだ。冷静に振り返れば、「あれっ、実はドラえもんって肝心なときには何もしてくれてへんやん」と気付けたかもしれないのだが、「ドラえもんは困ったときには絶対に助けてくれる」と盲目的に信じ続けていたからこそ、泣き言を漏らしながらも、やれるところまでやってみよう、という戦う勇気を持てたはずだからだ。
 浪人をしていた元生徒が7月になってようやく合格の報告を電話でしてきてくれた。彼は姫路に住んでいたということもあり、中学受験後は長期休みにスポット的に何度か見ていた。それも中学生の頃の話であり、高校生になってからはそれすらも無くなった。その間もお母様とは半年に1回のペースで連絡を取り続けていたのだが、おそらく合格の報告だけは自分の口から伝えるように促されていたはずなのだ。3か月以上遅れて本人から連絡を受けた旨をお母様に伝えたところ、「先生には感謝の気持ちしかありません」という言葉をいただいた。そして、私はその言葉をそのままちょうだいすることにした。「私はドラえもんのような存在です」などという気はさらさらない。さすがにそこまで面の皮は厚くはない。ただ、何かを頼まれればいつでも応える気でいたし、そのことは伝え続けていたので、その点において少しは役に立てたのかもしれない。
 特別な道具は出せないが、助け舟を出すところと突き放すところを適切に見極め、生徒たちを人として成長させられる人でありたい。

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