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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2023.12.08Vol.8 逃避の行方(三浦)

 昔、どこかで「好きなことを仕事にするときに必要なのは、その『好きなこと』のために、どれだけの『好きじゃないこと』を我慢できるかだ」という内容を見かけた覚えがある。本当にどこだったか思い出せないし、もしかするとインターネットの投稿だったかもしれないが、私としては腑に落ちる言葉だった。仕事に限った話ではない。「好きなことをする」というのは決して逃避の先に得られるものではない。
 さて、とある中学校の過去問に取り上げられていた村山由佳氏の『雪のなまえ』に、以下のような内容がある。いじめにあって東京の小学校に通えなくなり、長野の曽祖父母の家へと引っ越した主人公の少女が、「学校の勉強なんかより、農業の方が役に立ちそうだし、生きてるって感じがする。ばぁばの手伝いをしたい。だから農業を教えてほしい」と頼む。そしてまあいろいろなやり取りがあって、その最後、曾祖母の答えが以下のようなものだ。

「無理に学校行けって言ってるんではねえよ。そこんとこは、お父さんお母さんの意見もよーく聞いて、自分で考えて決めたらいいだ。ただな、時々、ちょこっと考えてみてほしいだよ。今の自分は、何をどれだけ辛抱してるかなあ、ってな。畑仕事を教わりたい気持ちは本当でも、それはもしかしたら、したくねえことから目を背けてるだけなんじゃねえかな、ってな」
「休みもなしに走り続けたら、心臓が潰れっちまうだわ。だもの、心の底から苦しいばっかりだったら、そんなものはやめたらいいと婆やんも思うだよ。だけどもそれは、とりあえずいっぺん走り出したモンにだけ、当てはまることなんじゃねえかなあ」

 小説を通読した訳ではなく、出題されているだけの一部分に目を通しただけなので、この後がどうなるのかはわからない。この前がどうなっているのかもわからない。ただ、この一部分を出題箇所としたということは、出題校はここに何かしらのメッセージを見出し、それを受験生に伝えようとしているのだろう。
 私自身、自分にとても甘いたちだし、精神的にタフなわけではない。高校生の頃には実際に学校に行けない日もあって、そこから心のどこかに「逃避」という選択肢、いや、癖がついてしまっているようにも思う。もちろん、逃げることがいつだって悪いわけではない。何からも逃げずに無理を重ねて折れてしまうくらいなら、逃げてしまえばいいとも思う。
 ただ、それでも、「逃げていい」という言葉を言い訳にしてしまうのは違う。ほんとうにわずかな例外を除けば、たいていの場合、「逃げる代わりに、何をするの?」という問いがセットになるのではないだろうか。追い詰められているその時にする問い掛けではないにしろ、逃げた後で、それを問うことは必要なはずだ。私はそれを頑張ってこなかった人間だった。本来であれば、環境から逃げる代わりに、いくらでも勉強なり他の努力なりをすることができたのだ。
 耐えている人に「逃げればいい」と言ってやることは簡単で、だからこそ無責任になりかねない。相手にとって本当に大切なのは逃げることではなく、「耐える場所」を変えることかもしれないし、「耐える理由」を考えることかもしれない。先ほど挙げた物語でも、「東京の学校とこっちの学校は違うはずだし、こっちには幼馴染もいる。絶対こっちの学校にも行かないと決めてしまうのは、少し早い気がする」という内容の曾祖母の話が上がる。
 嫌なことが何一つ起こらない場所、なんてものはない。何は耐えられないのか、何なら我慢できるのか、そういったひとつひとつの内省なくして全てほうり出してしまったら、いつまでも「頑張る」ことはできないままだ。それができなければ、結局、「好きなこと」すらできないままになってしまう。
 夏休みの終わり、二学期が始まる直前。図書館からの生徒の呼び掛けを目にしたことがある。調べてみれば8年前の鎌倉市図書館のポストだった。

「もうすぐ2学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね」

 逃げればいい。逃げた先で一息つけたら、そこでようやく、何か頑張れることを見つければいい。何か好きなことを見つければいい。なかなかどうして、うまく伝えることの難しいメッセージだ。

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