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2025.07.29「卒業生の声」ロングバージョン(岡本真裕)

1,中学高校時代
 私は小中高一貫の学校に通っていた。小学校6年次の4月に「起立性調節障害」と診断され、その後中学に入学してからも体調によっては2限目から行ける日もあるものの、平均すると4限目から行ける程度で授業への出席はあまりできていなかった。中学3年生になると、高校で通信制に行くことを考え始める。しかし、授業には出席できていなくとも、宿題や課題の提出を欠かさずしており、学校のテストでも平均点以上を取っていたため学校の先生には高校に上がることを勧められた。その勧めに従い、とりあえず進学することを決める。
 しかし、コロナが直撃した高校1年次の春、学校に通うことに体力を使い果たしては大学受験ができないと判断したため、1年次の1学期で退学した。通信制の高校もいくつか訪れてみたが、私は不登校に分類される中では自分で勉強をしていたため、進度が合う学校が見つからず、高卒認定を取得し個別の進学塾に通う判断に至った。
 その後、高校1年次の秋に高卒認定を取得し、医学部を目指し勉強に励んでいたが、高校2年次の1月にまた体調を大きく崩し、志望校を慶應義塾大学SFCに絞ることに決める。医学部に行った場合は精神科医になりたいと思っていたため、文転に伴って分野の近い心理学部に強い大学を調べることにした。その中でSFCでは脳科学の勉強ができると知り、心理学と脳科学を組み合わせて勉強したいと思った私はSFCを第一志望にしたのであった。
 SFC受験にあたって小論文と英語のレベルを大幅に上げることが必要となり、高校3年次に該当する年の4月に小論文対策をしてくれる塾を探し始める。しかし、関西にはSFCの特殊な小論文の対策を引き受けてくれる塾は中々なく、途方に暮れていたところ、母の友人の紹介で志高塾に通うこととなった。

2,志高塾で育つ意識
 以降は週に2回の個別塾と週に1回の志高塾が私の生活のリズムとなる。小論文の勉強にあたって、ただ問題を解くだけではなく、前提知識になるような本を勧めてもらったり、テーマについて自分の考えを先生と話したりする時間がとても楽しかった。志高塾に通い始めてまず大きく変わったのは私の「意識」だったように思う。普段から色んな分野にアンテナを張り、世界情勢やニュースをチェックして、本を沢山読み、などと見聞を広げようという意識ができたように思う。先生と話していると自分の知っている知識の狭さや浅さを痛感し、もっと深く色んなことを知りたいと思うような知識欲が強く沸いた。もっと沢山の知識をつけてもっと深い考えを先生と議論したい、文章で表現できるようになりたいと自然と思うような空間であった。友人や家族と中々しないような社会情勢などのテーマについてじっくりと考えている時間は、普段の生活では使わない脳の部位が働いているような気がした。より深く考える習慣がつくまでは考えることや集中することが難しいが、毎週小論文に向き合う内に楽に思考できるようになり、まるで脳の筋トレをしているようであった。志高塾で学んだのはただ小論文を書くテクニックなどではなく、自分の思考の癖を知り、視野を広く持ち多角的に物事を考えるということだと思う。このことは受験だけでなく、これからの人生を生きていく上で必要な能力である。
 大学に入ると、レポートの課題が沢山出されるようになる。志高塾で小論文を沢山書いたおかげで、周りに比べると苦労することなく書けているように思う。パソコンでレポートを書くようになり、ChatGPTなどの生成AIが身近になった今、テーマを打ち込むだけでそれなりの文章を書いてもらうこともできるが、人間だからこそ紡ぎだせる文章力や国語力を持っていたいと私は思う。
 私は今、高校生の頃に憧れたSFCの脳科学の研究会に所属し、情動の研究をしている。所属するものがないことや、あまりにも自分次第の未来に不安を抱えて日々を過ごしていた中高時代の私には現在の生活は想像もできなかっただろう。今があることは、自分の努力と私を指導してくれた志高塾の先生や学校の先生などの周りの大人達、そして努力できる環境を与え、私を信じてくれた親のおかげである。
 受験や将来のことで悩み、不安定な時にいつも志高塾の先生は指針になってくださった。自分一人でもがいている時に、一緒になって道を考えてくれるような温かい大人が私には必要であったし、誰でも不安定な時期には道を示してくれる大人が必要だと思う。また、同じような背景や状況の中にいる人にとって私の存在が少しでも勇気になればと思う。

2025.07.29「卒業生の声」ロングバージョン(楢﨑光一郎)

 弟が生まれる8歳まで私は一人っ子でした。志高塾に入塾したのは小学4年生の頃です。当時の私は誰もが認める問題児で、ある日唐突に家を飛び出して公園に泊まってみたり、こっそりお酒を飲んでみたり、志高塾で悪さを働いて家に帰らされたこともあります。後にも先にも、松蔭先生が家庭訪問を行ったのは楢﨑家だけだそうです。そんな問題だらけの私が、入塾から10年以上の時を経て、不思議なことに卒業生の一人として文章を書くことになりました。
 幼い頃から大のいたずら好きで、人にちょっかいをかけることが多かった私は、まず集中して要約作文を書きあげることを目標に志高塾へ通うこととなりました。しばらくして、自分は集中するまでが難しいものの、一度そのモードに入ってしまえば最後までスラスラと書けてしまうことに気が付きました。その時、初めて勉強することが楽しいと感じて、気持ちが高揚したことを今でもよく覚えています。もっとも、書き終えたらすぐに先生に見せたがるので、ミスばかりの原稿用紙を提出して、ちゃんと見直しをしなさいと注意されるまでがルーティーンでしたが。5年生の頃ぐらいに中学受験に臨むことを決めました。それは、親が望んだものでした。大学附属の小学校に通っていたのですが、親から説明を受けた後に興味本位で受験勉強を開始しました。ところが、勉強をすること自体が嫌いになっていきました。なぜなら、小学校にいた周りの生徒たちのほとんどが内部進学で中学に上がるため、私が塾に通う時間が増えれば増えるほど、彼らとの距離が遠のいていく気がしたからです。事実、私は彼らの興味を惹きたい一心でいろいろな行動を起こしましたが、学校と両親に迷惑をかける形ですべて失敗に終わり、最終的に私はクラスの中で異分子として扱われるようになりました。しかし、中学受験そのものには、なぜか成功しました。考えられる理由としては、志高塾の先生が受験対策の読解問題だけではなく、私が好きだった作文を並行してくれたからだと推測できます。その時期の私に嫌いなことだけをやり続けるだけの忍耐力は無かったです。目標としていた中学校に通い始めても、勉強をやる気にはなれず、作文を書くことにも嫌悪感を覚えるようになっていきました。そして、親のやさしさに甘えた私は、日本の勉強熱心な教育方法に嫌気がさしたと言い訳をして、高校からは海外へ留学することを決めました。文字通り、海外逃亡の始まりです。
 ニュージーランドの現地校へは、高校一年生から三年間通いました。その間、勉強は全くと言って良いほどしておらず、現地でのコミュニケーションツールだったスポーツと遊びにほとんどの時間を費やしました。どうすれば周りのニュージーランド人に認めてもらえるのか、そればかり考えていたのです。しかし、残念なことに、小学校の時と同様に失敗に終わりました。寮生活であったため三年間同じ屋根の下で過ごしましたが、彼らとは表面上の関係しか築けず、ついにはそこにあった境界線を越えることはできませんでした。英語のスピーキングとリスニング能力は向上したものの、読み書きに関しては微々たる成長しかできませんでした。
 さて、そのような高校生活を送っているうちに、コロナ禍を経ていつの間にか卒業を迎え、二年半ぶりに日本へ帰国することとなりました。久しぶりの日本を堪能するつもりでしたが、実際に帰国すると、大学にも通わずに遊ぶことに対する違和感と罪悪感が日に日に自分の中で大きくなっていきました。三年間の留学はなんだったのか、これから自分はどの道を進めばいいのか、ただ焦りと不満が募っていく日々でした。そんなとき、お先真っ暗な私に光を照らしてくれたのが松蔭先生でした。松蔭先生とは留学中も何度か連絡は取っていたため、その状況を見かねて、日本で大学受験をすることを条件にもう一度志高塾で面倒をみてやると言ってくださいました。志高塾での二回目の受験勉強の始まりです。そこからの一年間、私は先生の下でたくさんの文章を書きました。最初は、自分がどのような人間であり、どんなことに興味があるのかを知るために、徹底的に自己分析を行いました。その過程で、意見作文を書き始めたのですが、自分がいかに無知であるかを思い知らされました。そして、それまで物事について調べたり考えたりをしてこなかった私は、その大きなビハインドを痛感すると同時に、無知であることに恥じらいをも感じました。どこから始めれば良いかも分からず右往左往している私に、先生は、本の読み方や情報の調べ方を、丁寧に何度も教えてくださいました。そうして先生と共にいろいろな情報をインプットすることで、次第に様々なことに興味を持ち始めることができました。すると、これまではモノトーン色にしか見えなかった世界が、実は色鮮やかで美しいものであることに気づかされました。これは比喩表現ですが、私は実際に世界が色めいていく瞬間を目の当たりにしました。松蔭先生は、志高塾での時間を通じて、私に勉強することの楽しさを思い出させてくれました。そんな幸せな一年はあっという間に過ぎてしまいました。作文のテーマとしても何度も扱っていた社会問題をより深く勉強したいと考えた私は、立命館アジア太平洋大学のサステイナビリティ観光学部に入学しました。現在は、ダブル・ディグリー制度を利用して、オーストリアのザルツブルクにある大学に2年間の留学中です。
 私の世界が色めき始めたころ、教室で松蔭先生と次のような会話をしたことを覚えています。「小さい時のことは覚えてへんと思うけど、兄弟の間で親から一番愛情をもらってるのは、絶対に長男長女やで。」私もその通りだと共感しましたが、親子の距離感は、子供が成長するにつれて少なからず変化していくものです。特に、弟妹が生まれると、それまで自分に100%向けられていた愛情が他のところにも分散するので、とても虚しい気持ちになります。今思えば、私はその時からずっと寂しかったのかもしれません。遠のいていく親の気を惹きたくて反抗してみたり、あえて物理的に距離を取ったり、小学校ではクラスメイトに、ニュージーランドでは現地の人たちに、ただ構ってほしかっただけなのかもしれません。贅沢な悩みやな、と突っ込まれてしまっては返す言葉もありませんが、先生は、そんな不器用な私の感情に応えてくれました。丸一年かけて、教育という名の愛情をもって、私を導いてくださいました。そんな教育熱心で温かい愛情に救われたのは、きっと私だけではないはずです。志高塾は19年目に入り、先生はこれまで私を含む多くの生徒を支えて来られました。そして、これからもたくさんの小さな芽を育てていくことでしょう。
 志高塾で培われた私の言葉が、文章が、経験が、種類は違えど私と同様一筋縄では行かないお子様と毎日奮闘している親御様のお役に少しでも立てたのであれば幸いです。

2025.07.29「卒業生の声」ロングバージョン(中森正裕)

 僕は志高塾に、小学4年生から高校3年生まで通っていました。入塾当初、『コボちゃん』の要約が受験の国語とは全く関係がなく思え、その授業内容に驚きました。漫画を要約するなんて、浜学園の内容に比べれば簡単だろうと高をくくっていましたが、それは間違いでした。自分の語彙力や表現力、そして伝達力のなさを思い知りました。小学5年生でも要約を続けました。その頃は、僕も11歳と幼かったため受験への焦りもなく、楽しく読書をしたり、授業を楽しんだりしていました。そうして、小学6年生になり受験の国語の文章を読んだ時、あることに気づきました。自分で考える癖がつくようになっていたのです。日頃の授業では、要約の際に詰まっても答えをなかなか教えてもらえず、長時間自分で考えさせられました。その時は本当に苦しく、早く答えを教えて欲しいと思っていました。ただ、どんなに苦しくても最終的に自分で答えや表現を出し切ることをしてきました。すると、灘のテストで国語が平均点を超えるようになりました。言い忘れていたのですが、僕は本当に国語が苦手でした。公開テストでさえ、平均点を切ることもありました。そんな僕が入試本番では得意の算数や理科でこけたにも関わらず、国語の点数が合格者平均くらいだったため、なんとか合格出来ました。中学ではたくさん遊びたいという思いから、一度退塾をしました。ただ、中学のクラブがひと段落した中3の秋に塾に戻ってきました。その頃には、小学校の間培われていた読書習慣は消え、スマホをひたすらいじるようになっていました。そんな僕を親が見かねて、塾に入れました。高一からは、文章の要約や読解問題の勉強をしました。そして、再び頭を使うようになりました。同じ意味を様々な表現で言い換えることや、自分の頭で理解していることを人にどう伝えるかなど、日頃意識していなかったことを求められました。
 大学受験直前でも本質的にはやることは変わりませんでした。入試問題を先生と解き合い、赤本と自分達の解答を見比べ批評し、自分で論理的に考え抜くということをひたすら行いました。模試では全然点数が伸びなかったこともありましたが、志高塾で培ってきた思考力を信じ、入試に挑みました。国語は合格者の平均点くらいを取ることができ、京都大学医学部に合格しました。普通の塾だとここで合格体験記は終わると思うのですが、僕が本当に伝えたいのはここからです。大学生になってからの自分の話をします。大学生になり受験勉強から解放された喜びで、僕は1回生の時に遊び呆けました。本を読みなさいとか英語を勉強しときなさいとか周りの人にアドバイスされましたが、全て無視しました。受験が終わり、する必要がなくなった勉強をなぜわざわざしなければいけないのかと思っていました。転機は大学3年生で訪れます。バイトの同級生が就活をし始め、そのことがよく話題に上がるようになりました。その中でよく出てくる企業名や世間の一般常識、ニュースなど、自分が何も知らないことに気づきました。もしかしたら、自分は医学部という立場に甘えていたのではないかと考えるようになりました。そして、高校生の時に松蔭先生に言われた言葉をふと思い出しました。
「勉強だけできても、人間としてつまらなかったら何の意味もないぞ」
自分の無知を知り、そして人間としてつまらなくなっていることを自覚しました。
 そして、同時期に部活でキャプテンをすることになりました。リーダーシップを取ったり、部活をより良いものにするために働いたりすることを求められ、どうするべきかを悩みました。この二つの出来事が大学3年生の夏に起こり、知識欲が急に湧いてきました。リーダー論に関する本を読んだり、ニュースを見たりするようになりました。こうして、本を読み漁り、沢山の情報や知識を吸収しました。すると、世の中のことを知れば知るほど、視野が広がることに気づきました。それまで気にもしなかった国際情勢や選挙のニュースが急に面白くなり、4000円も落ちても興味がなかった日経平均の変化を見るようになりました。ここまでの自分の経験を通じて伝えたかったのは、勉強は自発的に行ってこそ意味があるということです。親に怒られたくないから、テストがあるからといった受動的な勉強ではなく、もっと知りたい、出来るようになりたいというような能動的な勉強をしていくべきだと思います。
 大学生の身で教育について話すのは恐縮ですが、自分が親なら子供が小さい頃にはテストでいい点数を取るコツを教えるのではなく、考えることの楽しさや、自分でやり切る快感を経験させてあげたいと思います。そして、志高塾は自分の思考力の土台を築いてくれた場所だと考えています。短期的な目線からテストの点数にこだわるのではなく、もっと長期的な目線から、人としての成長を促してくれたと感じています。本当にありがとうございました。

2025.07.29「卒業生の声」ロングバージョン(榎原壮良)

 2024 年 2 月 9 日。岡山大学医学部の「バカロレア・推薦枠」の合格発表があった。自分の受験番号を見つけた時の感動は忘れられないが、こうして大学の合格に辿り着くまでの道のりは紆余曲折そのものだった。これまでの自分の経験について、先日の「十人十色」でも話す機会を頂いたが、本稿ではより詳細に記す。
 私の父は甲陽学院を卒業し大阪大学医学部に入学した、いわゆる受験のエリート街道を走ってきた人間で「息子にも同じような道を歩ませて、医者にならせたい」という強い思いを抱いていた。幼少期から、「医師になるのがいい」「いい仕事だぞ」などと言い聞かされていて、小学生の私は「パパが言うから」「なんとなくいい仕事そうだから」という理由で医師を志していた。よって必然的に(父と同じように)甲陽学院などの難関中高一貫校を目指す流れとなり、受験勉強が始まった。
 小学 4 年生のころから大手進学塾に通い始め、それ以前から通っていた志高塾でも国語に加えて算数の授業を取り始めた。受験勉強を半ば強制的に「させられている」ような状況だ。成績に対する父の期待は当然高かった。しかしながら、大手進学塾で毎月実施されていた「公開テスト」での私の成績は酷いもので、初回こそ1500 人中 600 位程度の順位だったが、回数を重ねるごとに下降し、最終的には常に 1200 位前後を彷徨っていた。それに伴ってクラスも落ち、「ほぼ最下層」といった状況である。塾や家庭教師、親など多方面から指導を受けていたものの、勉強をさせられても、させられても、父の期待とは裏腹にその成果は全く出なかった。
 自分の中では、「どれだけやっても優秀なほかの生徒には太刀打ちできない」「勉強をしたくない」「何のためにしんどいことを続けているのだろう」という思いが芽生え始め、そのような状態でテストの結果も良くないことは明らかであった。しかし、「次こそは」と期待する両親は毎月送られてくる公開テストの結果を見て、残念そうな顔をして、ため息をつく。挙句の果てには 1000 位切ったら「何か買ってあげるよ」とにんじんをぶら下げられるも、短期的なモチベーションにすらならず、何のためにやっているかわからない勉強をさせられることに対する嫌悪感がぬぐえなかった。当時を思い返すと、勉強すること、させられることがただ嫌で、進学塾の宿題は答えを見ていたことを鮮明に記憶している。恐らく「勉強の先に何があるかが見えない」「なぜこれをやらされているかがわからない」という思いから、勉強に向き合えなかったのだろうと、今感じる。
 そんな中で、母は父とはまったく異なった意見を持っていた。父とは対照的に地方出身で、父ほど受験の世界にさらされておらず、留学経験もあったために、父の決めつけによって僕が医師になることに反対していた。むしろ、「医師にはならせたくない」や「広い視点を持たせる国際的な教育をさせたい」という思いを持っていた。結果がなかなか出ないことからもその思いは一層強くなっていったように感じる。この意見の相違から、両親は自分の進路について常にけんかをしているような状況だった。私自身がその場に居合わせることも多かったが、自分の意見を求められるというよりかは、それを傍観していることしかできなかった。自分のせいで、また自分に関して、喧嘩が勃発していること、家族の絆に綻びが生じていたことは、純粋に複雑な心境だった。勉強をずっとさせられているものの、成績が一向に上がらないばかりか、下がる一方だった自分は空回りしていたのだと思う。最終的には「自分の個がつぶれないように」と母と松蔭先生が中学受験を辞めさせてくれた。前回のブログで松蔭先生が「甘やかすのと、守るのは違う」と記していたが、まさにこのことなのかもしれない。
 そこからは、インターナショナルスクールに編入し、それまでとは全く違った環境下に身を置くこととなった。中学から入るという選択もあったが、内部進学のほうが簡単であるという話を聞き、そこは「戦略的に」小学6年から編入をした。実際、同校の中学に入学した時点である程度の英語の基礎を固めることはできていた。(とはいっても、インターに通う日本人のレベルだが)目先の進路選択を迫られることはなくなったものの、インターの中高を卒業した後の進路については自分・両親を含めて常に意識している点ではあった。「医師を目指す」必要がなくなった当時、自分の将来の仕事像ややりたいことについて決まっていなかった。むしろ「医師」という学歴色の強い進路については忌避していた程だと思う。ただ、その中高は開校して2、3年ほどの新設校だったうえに、国際バカロレアを履修できる認定校になるかも不透明だった。よって進路選択の可能性を増やすために留学を決意するに至った。
 留学先はカナダのモントリオールで、国際バカロレア認定校である現地校に通っていた。カナダやアメリカでは「学士編入」や「二分野の同時専攻」を容易にすることができ、大学に行ってから自分が関わりたい専門分野や職を探すことができるため、進路をすぐに決めてしまうのではなく、まずは自分の興味を伸ばすことを軸とした。また、その環境に魅力を感じて、そのまま現地校を卒業して大学へと進学することを考えていた。日本では大学入学時にすでに学部が決まっていることが多く、そこから関われる分野や職が限られることも少なくないため、当時、できるだけ広い選択肢を持つようにしていたのだと思う。そういう意味で、「中学受験」というレールを外れたものの、別のレール(ただ乗っかって受動的に進む道という意味で)を探すのではなく、能動的に興味ある分野にいつでも進んでけるような、小学生時代とは違った考え方が身についていたのかもしれない。
 結果的にはコロナで帰国を余儀なくされた。留学中や帰国後に、自分の興味を伸ばしている中で、元々自分の中にあった、防災や人命に関わる仕事がしたいな、という思いが強くなっていった。さらに留学を通してより国際的な社会に身を置く中で、差別や貧困に直面することも多くあった。そこで、災害医療や貧困地域での医療、日本にとどまらず、国際的に活躍する国際臨床医こそが、自分の興味や想いを反映する職なのではないかと考えるようになった。そのため帰国後はインターナショナルの高校に戻り、国際バカロレアを履修して国内の医学部を受験した。結果的には、当初受験勉強をさせられるきっかけともなった職業ではあるが、当時志した「医師像」と今自分がなりたい「医師像」や、進みたい分野は全く異なっている。自分から興味を持って志したものであるからこそ、受験勉強に際しても中学受験のときとは違い、能動的に学習を進められたのだろう。
 幸い、最終的に医学部へ合格することができたものの、大学受験でも挫折を味わった。国際バカロレアの点数が思ったように出ず、既に内定をもらっていた私立大学医学部の合格を取り消されたり、本気で浪人を考えたりと、一筋縄ではいかない部分もあった。中学受験においても、バカロレア履修中に迷走した時も、浪人を本気で考えた時も、松蔭先生が脱線しないようにしっかりとガイドしてくれた。それが必ずしも志高塾や松蔭先生である必要はないが、誰か「頼れる人」「リードしてくれる人」を見つけることが大切であるだろう。
 先日の「十人十色」で受けた質問でもお答えさせて頂いたが、中学受験は「勉強がどのくらいできるかというゲーム」と見ることもできる。ビデオゲームやボードゲームなど、どんなゲームでも負けてばかりだと楽しくないし、辞めたくなる。反対に勝っているとその優越感からどんどんと楽しくなっていく。精神的にも未熟で、将来のビジョンもまだ定まっていない小学生にはそのゲームを続けるべきか、一旦引くべきなのか、わからないのだ。だから、自分が中学受験の頃に助けてもらったように、親を含めた周りの大人が、本人のキャパシティや性格を鑑みて上手に道案内をしてあげる必要があると思う。
 挫折を味わった結果、それをエネルギーに次に進める子もいれば、そこで自己肯定感を失って中学からの勉強のモチベーションが失墜してしまう子もいる。だが、それは受験で合格という成功を勝ち取っても然りなのだろう。

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