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2022.09.27Vol.560 フットサルデイ

 現在、月曜の朝、7時前。芦屋にある2号線沿いのマクドナルドにいる。週1回、六甲にある私立の小学校に教えに行く日である。10時半に学校に着けば良いので、まだ3時間以上もある。まずは、ここで1時間ぐらい文章を書いて、その後、灘校の裏手にあるスーパー銭湯に行き、1時間ほどサウナでととのえる。それでもまだ時間は30分以上余るので、車の中で仮眠を取るか、読書をするか、膝の上にノートパソコンを置きこの続きをするかのどれかになる。
 小、中学校時代は授業中に保健室に行き、高校生の頃は途中エスケープして学校の外に出ていた。小中高を問わず早退もよくしていた。今のようにセキュリティが厳しかったら、私は正気を保てたのだろうか、と考えることがある。授業を抜けるときは、座って授業を受け続けるのが無性に嫌になったときであったからだ。授業の最初から最後まで寝ていたり明らかに内職をしていたりするより、その場にいない方が先生に対して失礼ではない、と自分を正当化していた。そんな私なのだが、遅刻をした経験はほとんどない。しかも、余裕を持って教室にいないと嫌だった。上のことからも分かるように授業を真面目に受けたいからではない。時間に追われる、というのが昔から好きでないのだ。「こだわり」には「変な」が枕に付くことが多い。一流の人であれば、それが「ルーティン」などと呼ばれて格上げされるだけで、元はと言えば「変なこだわり」なのだ。イチローが一時期、毎朝カレーを食べていたのは有名な話なのだが、分かりやすい例である。「変なこだわり」であろうが「ルーティン」であろうが、心の落ち着きとの関係が深いように思う。私にとって、始業に間に合うように走るのも、それを無視して堂々と遅刻するのも、いずれも一日の始まりとしては好ましくなかったのだ。
 先週、19日の月曜に行った志高塾第1回フットサル大会は成功裏に終わった。きっと。よりにもよって台風が直撃したのだが、けがの功名とはよく言ったものである。学校のクラブや所属しているサッカーチームの試合や練習で参加できるかどうかが分からなかった生徒たちがそれなりにいたのだが、そちらがすべてキャンセルになったからだ。元は16:30~19:30で室外の予定だったのを、台風情報とにらめっこしながら前日の18日の昼過ぎに、10:00~13:00で室内のフットサル場に変更した。少しアクセスが悪い所になってしまったのだが、何人かのお母様に車を出してもらったおかげでそれも大きな問題にならず。結局、見学の親御様も含め30名ぐらいは集まり、プレイをされたお母様も2名おられた。いつもは勉強を通してなのだが、子供たちの別の側面を見られるのは貴重である。勉強とスポーツがつながっている子も多かったし、「おまえ、勉強もそれぐらい頑張れよ」という子もいた。うまい下手はどうでも良くて、楽しみながら、工夫をしてかつ一生懸命プレイすることが大事。どんな時、どんな場でも楽しむことと、手を抜くことふざけることとは違う。次回は来年の2月か3月に開催予定である。
 その日の朝、我が家ではひと騒動あった。朝起きたばかりの長男が、「今日、僕も行くの?」と聞いて来た。以前からそのことは伝えていて、本人も楽しみにしているのを知っていたので、「行きたいんだったら素直にそう言いなさい」と注意すると、売り言葉に買い言葉で「別にどっちでも良い」と返って来た。「本当にどっちでも良いのか」と確認しても、「うん」と応じる始末。そのやり取りを2, 3回繰り返した。これまでであれば、「じゃあ、もう来なくていい」と怒って終わらせていたのだが、おそらく30分ほど費やして落ち着いた状態でいろいろな話をして謝らせた。そのように丁寧に時間を掛けて、息子たちを説得したことはこれまでには無かったような気がする。私は、我が子の物心がついた時から前言撤回を許してこなかった。おそらくただの一度も。それは、「あの時、勢いで言ってしまって失敗したな」というのを次に生かして欲しかったからだ。発言する前にひと呼吸置くことを期待してのものだったのだが、思わず口にしてしまった本意では無い言葉を受け入れさせるだけに終わっていた。長男は14歳なので私が気づくのが遅すぎたのは否めないが、私自身が変な癖を付けてしまったので親としてそこはきちんと修正して行ってあげないといけない。上で「謝らせた」と述べたが、私に対してのことはどうでも良かった。家は単なる練習の場に過ぎないからだ。長男は人づきあいが下手なので、学校とかで同じような状況になった時に、自分が悪ければ「ごめんなさい」を口にできる人になって欲しい。言葉に責任を持つこと。それには、必要であれば間違いを認めて、それを訂正することも含まれている。自分にとって、周りの人たちにとって、発言する前はもちろんのこと、発言した後も継続的に何がベストなのかを考え続け、適切な軌道修正ができる人になって行って欲しい。
 フットサルの話に戻す。ある試合が終わった直後、弟の付き添いで来ていた女の子に、「先生、腕に黒いのいっぱいついてるやん」と笑いながら指摘された。「黒いの」とは、人工芝の上にクッション性を上げるために撒いてあるゴムのチップである。黒い消しゴムの消しかすみたいなものをイメージしてもらえれば良い。それが汗のついた腕いっぱいにへばり付いていた。華麗な技術があるわけでは無いので、グラウンドに這いつくばりながらプレイをしていたらそのようになるのだ。「がんばっているように見えるやろ。仕事もこれとおんなじや。がんばるかどうかではなく、いかにがんばっているように見せるかどうかが大事やねん」。
 課外活動の日の報告はこれにて終了。

2022.09.13Vol.559 五里霧中

 来週1週間は塾がお休みなので、それに伴いブログもお休みです。 
 うまく行かない。全然うまく行かない。何が。文章が。
 ひとまず字数制限を取り払うことにした。それを設けてからしばらくは、「これだけ短いと手を抜いてるみたいだから、もうちょっと書いた方が良いかな」というのが無くなったことが良い方向に作用していたのだが、いつの間にか字数ばかり気にするようになってしまっていた。特に、4回に1回は通常より800多い2,800~3,200字と決めてからは、長く書けそうなテーマは取っておこう、という気持ちが働くようになった。直前にならないと手を付けないので、そのときには私の中でそのテーマの新鮮味が薄れてしまっているのだ。これまでは3回に1回ぐらいは書き上げたときに一定以上の満足感が得られていたのだが、それが5回に1回になり、しかもその1回以外は、以前のような「悪くは無いか」ではなく、「アカン」となっている。たらたらと言い訳をしているのだが、もがき続けるしかない。
 「もがき続ける」だけだと単なる精神論だけでバカみたいなので、少し分析をしてみる。私は、予め構成を決めておいて論理的に文章を組み立てるのではなく、気持ちの赴くままに書くタイプである。しかし、字数を気にするようになると、かなり早い段階から、「〇字まで来たから、残り□字は何で埋めようか」と意識するようになっていた。そうなると、もう心がうまく動かない。それは頭が働かないことを意味している。それゆえ、字数制限を撤廃することにしたのだ。本来は、字数を決めようが、行けるところまで行って、オーバーすれば削り、ショートすれば何か付け足せば良いだけの話なのだが。
 それ以外には、テーマが湧いてこなくなっているのも苦しんでいる原因である。その一因として、子供のことを書きづらくなったというのが挙げられる。長男がまだ小学生の頃は、3人とも同じ公立小学校に通っていた(その前は同じ幼稚園)ので、ほとんどそこにだけに注意しておけば良かった。たとえば、私は小学校のPTAの会長をしていたのだが、学校のことはほとんど話題にしなかった。誰が読んでいるか分からないからだ。実際、校長先生から「会長さんのブログ読んでますよ」と言われたぐらいである。しかし、長男が私立の中学校に通い始めてから、気を配る範囲が広くなり、しかも私がそことの関りが薄いので「ここまでなら書いて大丈夫」という線引きが難しくなった。夏休み明け、週1回教えに行っている小学校で、生徒たちに向かって「批評と批判は違う」という話をした。それは、生徒に記述問題の答えを黒板に書かせて、その他の生徒にその添削を前に立ってさせていた場面でのことである。「否定することが目的ではないから、よく考えた上で思い切ってやりなさい。それも勉強だ」と付け加えた。
 中2の長男にはこれまで何度か次のような話をした。「トップ校やと理解力もあって、さらにちゃんと勉強する奴もおるやろうけど、中堅校に両方揃ってる奴はまずおらん。どう頑張ってもかなわん奴なんて3人もおらんはずやから、半分以上は当たり前やし、10分の1に入ったからって別に大したことは無い」そのメッセージに込めているのは、目標の設定の仕方とそれをクリアできていなければ、それは能力ではなくやり方の問題だから工夫をしなさい、と言うことなのだ。今回はあえて書いてみたのだが、批判と取られかねないので、いつもであれば控える。
 現在、月曜の夜なのだが、昨日あるお母様からいただいたメールに次のようにあった。「明日までお休みと聞いています。きっと有意義な時間を過ごし、火曜のブログは、早くあがるのかなぁなんて思ってます。」受験生の二男が、先週の木曜にコロナ陽性になった。私は前日の水曜の夜に2人で30分以上車に乗っていた(もちろん、ノーマスクである)ので、これは完全にうつるな、と覚悟していたのだが、その他4人の家族には現時点で症状は出ていない。奇跡的である。オミクロンはかなりの確率で家庭内感染をして、しかも全員にうつる、というのが私の感覚である。このまま行けば、二男以外は明日から晴れて社会復帰である。二男も9割方回復している。その二男、1階のリビングの横の和室で一人寝ているのだが、木曜の朝、私が下りて行くと、食卓に力の無い文字で書き置きがあった。「かんと(二男の名前) 39.4度 頭痛 めまい 手足のしびれ」。そして、いつもは開けっ放しのふすまもきちんと閉められていた。それを見たときに思わず笑ってしまった。そこには親としての喜びが含まれている。辛い状況の中、初めてのことによくきちんと対処できたな、と。今日、「普通の受験生の親だったら、こんな時期にコロナに罹ったら焦るんだろうな」とふと思った。私はと言うと、「やる奴はどんな状況でもやる」と考えているので、何とも思っていない。
 そう、有意義な時間。自分が行きたい釣りやスポーツ観戦に連れて行くことはあっても、子供たちのために私の貴重な休みは使わない。それゆえ、お願いされてもアニメ映画には一度も付き添ったことが無い。外に出られないので、長男の数学を見ていた。一度解いたことのある問題をやらせてみたら、答えは合っていても、まあ解き方が汚い。回りくどいのだ。なぜか。解き終わった問題の解答を見ていないのだ。そんなの私に言わせれば、工夫以前の話である。「数学の、特に証明問題なんかは、いかに論理的に、かつ無駄なく答えるかの訓練やのに、自分の解答と模範解答比べんでどうすんねん」と注意した。中学入学後1年半が経っているが、その事実を初めて知った。勉強以外のことも長男といろいろと話したので、有意義かどうかは分からないがいつもとは違う時間を過ごせたことは間違いない。
 私は、小説であろうがエッセイであろうが、読んでいるうちに気付いたら全然違うことを考えていることが少なくない。そこを起点にして、意識は別のところに行ってしまうのだ。目で字だけを追っていた分ページを遡るのだが、えてしてまた同じことが起こる。そういう私なので、わざわざ時間を割いて読んでくださっている人の中で、何かしらの化学反応を起こすきっかけになるようなものを書きたい。それは、「あいつの考えのここがこう違う」でも良い。「ふーん」ではだめなのだ。そうなるためには、もっと具体的な内容を盛り込んで行かなければならない。しばらくはこの状態から抜けられる気配はないが、苦しみながら感じていることがある。
 作文って難しいな。だから作文って良いんだよな。

2022.09.06Vol.558 自問自答への道

 TUMUGUは「分からないことはすぐに聞け!」、志高塾は「すぐに質問するな!」。言葉としては真逆なのだが、通底するものがある。先に結論を述べると、TUMUGUは「自問他答」を、志高塾は「他問自答」を起点にして、「自問自答」を目指していることに変わりはない。TUMUGUに関しては、あくまでも私の個人的な見立てではあるが。
 大学受験まで続く勉強は基本的に「他問」である。「他問」に答えを出せば「他問自答」になるわけではない。分かりやすい例として、算数のつるかめ算を挙げる。「つるとかめが合わせて10匹いました。足の数は合計26本です。それぞれ何匹ずついましたか」。進学塾では、まずやり方を教えてから類題を解かせる。頭も使わずに、習った通りに解くのは私に言わせれば「他問他答」である。志高塾ではどうするか。まずはどんな方法でも良いから答えを出させる。「つるが10匹とかめが0匹。次に、9匹と1匹。」と順番に試して行っても良い。そうすると、1匹ずれるごとに、足が2本ずつ減って行くということに気付けるチャンスが生まれる。もう少し工夫する子だったら、「ちょうど5匹ずつだったら、4×5+2×5=30になるけど、それより本数が少ないということは、足の数が少ないつるの方が多いということだ。じゃあ、つるが6匹でかめが4匹から調べよう」となるかもしれない。ちなみに、正解はつるが7匹(羽)、かめが3匹となる。また、「あめが3個ずつ入った袋Aと、4個ずつの袋Bがあります。A, B合わせて20袋あり、あめは合計67個あります。Aは何袋ありましたか。」この問題であれば、いろいろと試しているうちに、「4には何を掛けても偶数になるけど、3には奇数を掛ければ奇数、偶数を掛ければ偶数となる。合計が67で奇数なので、Aの袋の数は奇数であることが確定するから、1, 3, 5と順番に調べて行こう」と少し手間を省けるかもしれない。こういう経験を重ねて行くと、習わなくても解ける問題がそれなりにあること、手を動かすことで発見があること、法則を見つけることの重要性などが分かってくる。自分なりに苦労して答えを出せば喜びも得られるし、解法を教えてもらったときに「なるほど、そうすれば良かったのか」となる。この「なるほど」は、学び続けるエネルギーになる。点数、成績だけをモチベーションの源泉にしてしまえば、つまずいたときに一気にやる気が減退する。
 一方、TUMUGUはどうか。生徒が問いを立てて、特に科学的に難しいことなどであれば専門家が答えてくれるので「自問他答」の形式を取っているが、自問して終わりにさせていないはずである。教えてもらうにしても、答えを出すところにできる限り関与させなければ、いつまで経っても「自問自答」にはたどり着けないからだ。このことを考えていて、5年ぐらい前の出来事を思い出した。当時、確か中学生ぐらいだった男の子が、与えられた作文のテーマと間接的に関係のあることを講師に質問したのだが、それを横で聞いていた私は「思い付きで質問するな」と注意した。そして、その1週間後、授業に来たときに「そう言えば、この前に聞いてたあれ、ネットで調べてみた?」と尋ねたら、案の定、首を横に振った。「興味が無いのにとりあえず聞いているのが分かったから、先週注意してん。本当に知りたかったら、自分でどうにかして調べるやろ。質問して満足してたらアカンぞ」。TUMUGUであれば、そのような状態でもまずは質問させて、そこから興味が持てる方向に持って行くのだろう。私はと言うと、時と場合による、ならぬ、生徒の学年と性格による。小学生であれば上のように一刀両断せずに問題と直接関係しないことをあえて聞こうとしたことを褒めるかもしれないし、好奇心が旺盛な子であれば、質問をしたり一緒に考えようとしたりしてさらに刺激を与えようとしたかもしれない。
身の回りのことに興味を持てるようになる、というのはTUMUGUで学ぶことの利点の1つだが、それ以外にものすごく価値があるのは、自分一人では処理できなかった問題を周りの人と協力したり専門家の助けを借りたりすることで、解決できることが少なくない、という経験を積み重ねられることではないだろうか。大人になって壁にぶち当たったときに、それは生きる。今は、子供であるがゆえに優しく接してくれるし、授業料を払ってTUMUGUがマッチングして助けてくれているけど、大人になるとそうは行かない。積極的に動いても冷たくあしらわれるかもしれないし、自分に何か差し出せるもの(必ずしも、金銭的なものに限らない)が無ければ、手を貸してもらえないかもしれない。しかし、うまく行かないときに、解決できるはず、と経験に裏打ちされた希望を持ち続けるのと、どうせ無理だろうな、と諦めの気持ちを抱きながら動くのとでは結果は間違いなく違ってくる。
 TUMUGUの生徒も、志高塾の生徒も、誰かが用意したそれっぽい枠に収まらない面白い大人になって欲しい。

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