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2022.05.31Vol.544 プラス思考になれるように

 「骨折したのがこの時期でほんま良かったわぁ」と妻に漏らしたところ、「プラス思考やね」と返って来た。5月15日のサッカーの試合中に右手を着いた際に手首を骨折し、その3日後に簡単な手術を行い、ギブスで固定された。冬であればセーターやコートなどの袖に通すことができず、真夏だとギブスのところが汗で大変なことになるところであった。それに加えて、ギブスは早くも昨日取れたので、夏だけサウナに通う私には言うことなしである。そのサウナ、以前、私が敬愛する辛坊治郎が好きだと知り、「俺と同じや」となったのだが、彼が昔クロス(アメリカの筆記具メーカー)の細いボールペンを使用していたことを数日前にラジオで語っていたので「共通することが多いなぁ」と喜びが増した次第である。私はボールペンではなく、同じデザインのシャーペンを中学生の頃から社会人になっても愛用し続けていた。色違いで2, 3本持っていて、それ以外のものをまったく使わなかったぐらいのこだわりようであった。唯一の例外は、センター試験の際の鉛筆である。
 授業中、生徒たちに、上で述べた妻とのやり取りを簡単に説明した上で、「奥さんが変なこと言うねん」と話したところ、付き合いの長い高校生、講師たち2, 3人から「奥さんが普通で、先生が変やねん」と一斉に突っ込みが入った。大阪人なので、突っ込みを期待して話を振ることは多々あるのだが、この件に関してはそうではなかった。
 「プラス思考」と言われるのは嬉しいことではあるのだが、素直に「せやろ?」とはならない。一方で、「おもろい」と評価されれば、「否定したいけど、その材料が見つからへん」などと返す。笑いを取ることを何よりも重要視して来たからだ。小学校時代、悪ふざけしてひとしきり笑いを取った後に、担任の先生からビンタをくらったこともあった。左頬も犠牲になったかいがあったというものである。この2つの事柄における私の異なる反応は、自己評価と他己評価のずれの大きさの違いによって生じている。
 妻、生徒とのやり取りがきっかけで「プラス思考って一体何なんだろか?」と少し立ち止まって考えてみた。そして初めに思い浮かんだことが、「でも、俺は能天気なわけじゃないしなぁ」ということ。辞書に「のんきで何事も深く考えないさま」とあるように、完全にネガティブな意味で用いられる。うまい具体例が見つからないが、火種が小さいうちに気付かないのはもちろんのこと、それなりに大きな予兆が目の前に現れても「大丈夫、大丈夫」と対策を打たないことで、大きな問題に発展させてしまうような人がそれに当たる。そして、能天気な人ほど問題が明確に顕在化した時点で大慌てして、わずかに残されている問題解決の可能性をあっさりとふいにしてしまう。もう少しプラスの意味を帯びたものに「楽天家」があるが、それも私にはまったく持って当てはまらない。もしかすると、辞書的な意味では「楽天家」も「プラス思考の人」も大差はないのかもしれないが、例えるなら、前者は天才で、後者は秀才となる。要は、先天的か後天的の違いである。
 話は変わる。生徒たちにも我が子にも、私自身ができていないことはできる限り包み隠さずに見せるようにしている。国語の選択問題を例に取る。志高塾ではすべて消去法で解かせ、丸付けの際にはどの順番で消して行ったのか、選択肢のどの部分が本文の内容とどのようにずれているかの説明を求める。生徒と私の答えが異なることもあり、「それ(生徒が行った説明)はおかしいと思うけどなぁ」と言いながら一緒に解答を確認すると、私が間違えていることもそれなりにある。その時には、「あれ?」、「うわっ」などとなるのだが、「次は予め答えを見ておこう」とはならない。正解を知っていると、生徒とのやり取りの充実度が下がる気がするからだ。また、副次的な効果として、「先生は間違ってたけど、(私は、もしくは俺は)合ってた」というのが生徒の喜びや自信になることがある。ただ、そうなるためには、「あの先生は間違いばかりで単なるあほや」とならないように、一定以上の信頼を得ていなければならない。仮面を被らないことで、「信頼を得られるように、もっと成長しよう」という力が私自身に働く。これも、副次的な効果の1つである。
 基本的にはさらけ出すことを大事にしているのだが、小さなものも含めて自分の心の中の葛藤みたいなものは自分の中に収めるように心がけてはいる。自身でどうにかして消化することで次に生かせる気がするからだ。これはあくまでも私個人の考えであって、吐き出すことで心がすっきりして前向きになれるのであれば、それも1つのやり方である。自分の弱さゆえ、うまく処理できずに外に漏らしてしまうことしばしばだが、その度に「アカンなぁ」となる。未だに小さなことで落ち込んだりうじうじしたりするが、それを見せないのは自分の立場と関係しているのだろう。子供の頃はガキ大将であったから格好悪い所は見せないようにしていたし、今は生徒や我が子に、何か問題が起こっても、冷静に対処することで解決しやすくなる、ということを教えてあげなければならない。「落ち込むのも分かるけど、今、何ができるか考えなアカンで」と一緒に対策を練り、行動に移せるように励ますのが私の役割である。そういう経験の1つ1つが生徒の糧になるのだ。
 さて、そのプラス思考、子供の頃から前向きに捉えようとはしていたものの、私が26歳のとき、それまで健康そのものだった父が、病気が分かった半年後に57歳で亡くなったことでギアが一気に上がった。その事実をどうにかして受け止めるためには、「これを乗り越えることで俺は強くなれる」、「それに耐えられる人にのみ、辛いことが起こるのだ」と思い込むしかなかったからだ。そして、その半年後、父のことすらうまく処理できていなかったのに、今度は中高の6年間個人塾で教わった先生が34歳の若さで亡くなった。卒業後も、相談に乗ってもらったり、お酒に連れて行ってもらったりしていた。その後1年ぐらいは「俺は生きているのか?」と自問を繰り返していた。答えは決まって「こんなんで生きているとは言えない」であった。就職前から独立したいとは思ってはいたものの、あのタイミングで人生に終わりがあるということを実感しなければ、「そのときが来れば」などと甘っちょろい考えを持ち続けていたかもしれない。そして、2人が生きていれば、生徒が中々集まらずに苦労していたときに伝手を使って知り合いを紹介してもらうなどの援助を求めていたかもしれない。
 プラス思考というのは、何か良くないことが起こったとき、そこを起点にして、どのようにしたら力強く前に進んで行けるかを考えようとすることである。当たり前の話だが、「私が強くなるために、2人が亡くなった」のではない。「2人が亡くなったことで、私は強くならなければならなかった」のだ。
 クロスのシャーペンは、尊敬するその先生が使っていたので、中学生の私には決して安くは無かったが少々背伸びをして自分のおこづかいで買った。最近は使わなくなっていたので長男に譲り、中学の入学祝として新しいものもプレゼントした。さすがに「俺は生きているのか?」と問うことは無くなったが、時々先生のことを思い出しては「ちょっとは成長したな、とそろそろ認めてもらえるかな」と考えることはある。きっと、「まだまだやな」の方が良いんだろうな。「もっとがんばらな」となれるからだ。「せやろ?俺みたいなプラス思考の人見たことないわ」と返せる日は来るのだろうか。

2022.05.17Vol.543 「なぜ」の行きつく場所

 今回はある講師の文章を紹介いたします。彼女は学生講師として2年、社員として2年働いたのち、昨年の4月からは非常勤として授業外の仕事をしています。現在、志高塾として意見作文用のものを中心に教材の充実を図るべく動いておりますが、その中心的な役割を担っているのが彼女です。以下は原文のままであり、「松蔭さん」という表現がありますが、それは内部向けに書かれたもの(初稿は4月初旬に私の手元に届きましたが、そこから彼女自身が修正を繰り返しました)だからです。また、タイトルの、「なぜ」の行きつく場所、も彼女の付けたものです。
 来週は、GWに頑張った分の振替としてお休みですので、次回は5月31日になります。

 「エンパシー」という言葉は、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ、新潮社、2019年)を読んで知った。それを直接的に扱っているのは16章あるうちの1章のみだが、「誰かの靴を履く」という英語の定型表現とともに、ひときわ強く印象に残っている。
 著者のブレイディさんはいくつかの辞書を参照しながら、「エンパシー」の語義を「自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力」というように表現している。一方、似たような言葉である「シンパシー」は、「かわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情」といった定義がなされている。日本語圏内で生活しているわたしでも、後者は「共感」や「同情」といった訳がなんとなく思い浮かぶくらいにはなじみがあるし、そうした感情なら普段いくらでも生まれているような気がした。だからこそ、上記の違いを知った当時、志高塾に通う子どもたちにはぜひ「エンパシー」に触れてほしい、単に用語として知るだけでなく、その能力を用いる時間を持ってほしいと考え、意見作文基礎の題材の一つとして据えた。いや、その時点では、そこまではっきりとした意図はなかった。「みんな、このテーマでおもしろい作文書いてくれるんじゃないかな!」という大変安易な思いつきでしかなかったはずだ。
 ずいぶんと長い前置きになってしまった。なぜ今この時「エンパシー」に思いを巡らせているのかといえば、ロシアのウクライナ侵攻について勉強する中で、まさにこの力を使う必要に迫られたからだ。本題に入る前に、立場を明確にしておくが、わたしは現在プーチンが主導しているウクライナへの軍事侵攻、侵略行為には、絶対に反対だ。
 この事態が起こったのは2月24日。すでに1か月以上も経っているのに、わたしは今までこの問題にきちんと向き合えていなかった。予備知識がまったくないことも手伝い、連日のニュースだけでは、どうしても無力感や絶望感など、即時的なリアクションばかりが先行してしまっていた。書店に並ぶ関連書籍にも、「これを読んだところで、わたしにはなんにもできないじゃないか」と、なかなか手が伸びなかった。募金をしても、ある種の罪悪感が募るだけだった。そんな中、しばらく聞いていなかった「COTEN RADIO(コテンラジオ)」というポッドキャストの番組、そのラインナップをなにげなく眺めていると、「特別編 ウクライナとロシアの歴史」というテーマで6回分の放送をしていたことが分かった(「歴史を面白く学ぶ」がコンセプトの当番組は、2年ほど前に松蔭さんから教えて頂いた)。緊急収録されたそれは、今回の出来事の「解像度」を上げることが目的とされており、ウクライナやロシアのルーツから、現在に至るまでの経緯や系譜を追っている。なお、その初回放送の冒頭において、これから話す内容は、あくまで日本に住む自分たちがアクセスしうる30冊ほどの書籍を読んで得た知見やファクトであり、この出来事に関して自分たち以上に精通している専門家は山ほどいる、という前提が冒頭で明確に示されていた。始まった瞬間「あ、これは聞いてるだけじゃだめだ」と気づいて、ノートと筆箱を引っ張り出し、とにかく一つでも多くの情報を書きとめようとした。それこそ学生時代に戻ったように、必死に。
 一を聞いて十を知るどころか、十聞いても一知ることができたかどうか、今の自分にはそれすら難しい。ただ、長い歴史をさかのぼる中で、「なぜそうなったのか」が少しずつ浮き彫りになっていくのはひしひしと感じられた。自分にとって、これまで得体の知れなかったロシア連邦という世界最大の国が、そしてそれを率いるプーチンが過去にたどってきた道のりを少しでも知ることで、それらはある程度俯瞰できるまでに、立体的かつ多面的にたちのぼってきた。次の段落は、ラジオを聞き、その後他の文献やニュースを参考にして認識が更新された部分を、備忘録として自分なりにまとめた内容だ。特にこの部分については、いくら書き直しても、納得がいかない。どんな言葉にしても、何か違うような気がする。これじゃだめだと、うなだれる。書けば書くほど、自分がいかに何もわかっていないのかを思い知らされる。それでもなお、何かを書こうとするのは、何も知らないままで、わかったつもりのままでやり過ごしたくないからだ、と思う。
 およそ1000年前の大国「キエフ・ルーシ公国」は、ウクライナの首都キーウを中心とした国家であり、これを形成した東スラヴ人が、現在のウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人の祖先となる。この国がモンゴルの征服によって終焉すると、「最初のウクライナ国家」と呼ばれるハーリチ・ヴォルイニ公国が誕生するものの、1世紀ほどで滅亡し、リトアニアとポーランドに併合されてしまう。その後300年もの間、ウクライナを代表する政治権力がその地には存在しなかったが、それにもかかわらず、ウクライナは、ロシアともベラルーシとも異なる独自の文化、言語を育んでいった。17世紀にはコサックと呼ばれる自治的な武装集団によってウクライナ・ナショナリズムの動きが生まれ、独立を求める不撓不屈の精神は、18世紀末からロシア・オーストリア両帝国によって支配される中でも、第一次世界大戦後に四か国の分割統治下に置かれても、ソ連に編入された時代においても、決して失われることはなく、1991年のソ連崩壊とともにやっとのことで独立を果たした。
 一方のロシアは、上記の「キエフ・ルーシ公国」滅亡後にモスクワ公国として力を伸ばし、拡大していった。しかしその中で、モンゴルやナポレオン、ナチスなどの外敵脅威を何度も経験したこの国は、切り崩され崩壊していく恐怖心を常に抱えてきたハートランドである。同じユーラシア大陸でも、言語も文化も宗教も異なる「西側」には、近代化において後塵を拝し、民主主義対社会主義という構図の中でもソ連崩壊という形で敗北した。いずれも、いわゆる「国民国家」としてまとまりきれなかったことが一因であると考えられる。また、一つの国家へと束ねにくいのは、その土地があまりにも広大すぎるからであり、そこに多種多様な民族が入り乱れているからだ。たとえば、19世紀後半の鉄道建設や製鉄業を主とした工業化に際し、ウクライナへ多くのロシア人が流れ込んだ。独立したウクライナには20%のロシア人が残っていたという。どこまでがロシアで、どこから先がロシアではないのか。誰がロシア人で、誰がロシア人ではないのか。島国に住むわたしにはなかなかイメージがつかないほど、境界線を引きづらいあの大陸において、自らのアイデンティティ、ルーツ、自国意識を確立させるのは困難だ。
 そんなロシアにとってウクライナはかつての「小ロシア」「旧ソ連国」であり、豊かな穀倉地帯と発達した工業都市、さらには黒海に面した「不凍港」を持つ。天然ガスを用いた重化学工業においてこの二か国が密接な関係にあることは言わずもがなであり、そのうえ、バルト三国も加盟したNATOとの距離をとるという意味では、緩衝地帯としての役割も大きい。つまり、ロシア(プーチン)の視点に立てば、欧米諸国の囲い込みによって疎外され、着実に「勢力圏」を削がれつつあるかつての大国を守り、もう一度「強いロシア」を復活させるというストーリー、そのためには、地政学的にも経済的にも枢要なウクライナをどうしても自らの「勢力圏」に置かねばならないという一貫したロジックが見えてくる。
 もちろん、そんな理屈を武力行使で、しかも二度の世界大戦を経て深く反省してきたはずのこの時代に押し通そうとするのは、間違っている。『物語 ウクライナの歴史』(黒川祐次、中央公論新社、2002年)によれば、長い歴史の中で常に近隣諸国からの侵略を受け続けてきたウクライナは、「国がない」というハンディキャップを持ちながらも、そのアイデンティティを失わず、独自の言語、文化、習慣をつくりあげていったとある。何度支配されても、何度阻まれても、大きな犠牲を払いながら独立を目指し続けてきたのである。どんな理由があっても、戦争という形でその意志を踏みにじるのは、間違っている。
 だが、今までのわたしは、この「間違っている」という感覚だけしかわからなかった。いや、今だって、本当は何にもわかっていない。きっと何にもわかっていないのだけれど、「なぜそうなったのか」を問うことで、ようやく、考え始めることができた。ようやく、思考のスタートラインに立てたように思う。扇動的なメディア、真偽の曖昧な情報に気持ちを揺さぶられながらも、それを抑えこみ、「なぜ」を問うこと。自分なりに考え続けること。「それしかできない」は、やり方ひとつで「それができる」に変わるかもしれない。反射的に「間違っている」と叫ぶことと、たくさんの「なぜ」を経て「それでも間違っている」と断言すること。結論は同じでも、その言葉の重みや深さには大きな隔たりがあるはずだ。
 ここまで考えてきて思い至ったのは、やはり志高塾の作文だった。意見作文のみならず、初歩教材である『コボちゃん』や『ロダンのココロ』の要約でも、オチや全体の流れを捉えるために、「なぜそうなったのか」を考慮することが非常に重要になってくる。最後の一コマを切り取っだだけでは、その面白さは掴めない。コマ同士のつながりを意識しながら、「何が起こったのか」「それについてどう思うか」だけでなく、「どうしてそうなったんだろう」という問いを立て、自分なりに思考しなければならない。情報に深く切り込み、的確に理解するためには、そうした「なぜ」の姿勢が不可欠だ。そのような思考の力を身につけるために、志高塾に通う子どもたちは、うんうんうなりながら作文を書いている。そのような思考の力を身につけてもらうために、先生たちは粘り強く指導している。そんなこと、わかっていたつもりだった。でも、本当に「つもり」だった。今日までちっともわかっていなかったという事実を、今更ながらに痛感する。
 ウクライナとロシアの件に関して、ラジオに耳を傾けながら「なぜ」を問わねばならなかった時、わたしは渦巻く感情を一旦抜きにして、ウクライナの歴史ではウクライナの視点から、ロシアの歴史ではロシア(プーチン)の視点から物事を考えざるをえなかった。とりわけ後者に関しては、歴史的にも地理的にも、プーチンの謎に満ちた生い立ちも、理屈も理想も、何もかもがわたしの見てきた世界とはまったく異なり、共感も賛同もできない。それでも、今の自分にできる範囲ではあるが、客観的に想像しようとすることはできた。「自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力」。「エンパシー」は、「なぜ」が発せられた時に、ごく自然に発揮されているような気がする。もしそうであれば、志高塾に通う子どもたちはどの教材に取り組んでいる時でも、多かれ少なかれ「なぜ」と向き合い続けているはずで、それを考えるために、知らず「エンパシー」なる力を駆使していることだってあるかもしれない。そんなささやかな気付きを得るだけで、わたしが見ている世界は、ほんの少し明るく、ほんのりあたたかみを帯びていく。かれらに負けないよう、わたしも、日々「なぜ」を問い続けていきたい。
 蛇足になるが、最後にもう一つだけ。「なぜ」という問いかけは、何かを不思議に思ったり、疑問を感じたりしたときに生まれる。だが、日々のニュースを目にした際に浮かぶ「なぜ」の底深くには、あらゆる理不尽、暴力、不寛容に対する憤りや悲しみが、ある。何度も何度も、たくさんの「なぜ」を自分に問い続けて、俯瞰して、あらゆる「事実」や「正解」や「間違い」を目の当たりにして、自分なりの結論を出した時、それでもそこに混じった一抹の感情は、物事をどんなに客観的に突き詰めても消え去らなかった感情の残滓は、きっとその人がその人たるゆえん、証明、「その人らしさ」なのだろう。論理的な思考の中に収まりきらない、地中から湧き出る泉のように清らかな思いも、あるいは泉の底に沈んでいる澱にも似た感情でさえも、大切に守られるべき「その人らしさ」なのだと思う。

2022.05.10Vol.542 そうでないことを誤解なく伝えるには丁寧な説明が求められる

 昨日から半年に1回の面談が始まっている。「希望調査票」というものを事前にお配りして、できる限り第3候補まで挙げていただくようにお願いしているのだが、「〇日以外可能です」、「午前ならどの日でも大丈夫です」といった感じ、つまり候補日時をたくさん挙げてくださる方が以前よりも明らかに増えている。これまででも十分だったので、日程調整はさらに楽になっている。この話の場合、「候補日時をたくさん挙げていただくこと」が「そうであること」に当たる。このことに限らず、親御様との関係において嬉しいことというのはそれなりにあるのだが大抵はここでは書けない。それは「そうであること」を肯定した時点で、「そうでないこと」が否定的な意味合いを帯びてしまうからだ。
 「そうでないこと」に言及する上で、面談に関して少々おさらいを。遡ること15年、2007年に初めての面談を行った。それがいつの季節であったのか今となっては忘れてしまったが、ひとつ確かなのはプリントを配布した翌週、生徒のファイルを受け取って、どこかの日時にチェックが入っていないかどうかをそれなりに緊張しながら確かめていたこと。書き込まれているのを見つけては、「時間を作ってわざわざ話を聞きに来ていただけるんだ。ありがたいな」と喜んだことをはっきりと覚えている。今なお、その「ありがたさ」というのを感じる。ただ、実際のところ、自然とそうなっているのかどうかは自分でも分かっていない。「初心忘るべからず」という言葉がある。忘れてしまってから、いかんいかん、と原点に戻ることもあれば、きれいさっぱりと、ということもある。一般論について語っている。私は自分との付き合いがもうすぐ45年になる。それだけ長くなれば、さすがに自分がいかに傲慢であるかはきちんと認識しているし、15年前の時点でも十分に合格点をもらえるぐらいではあった。それゆえ、初心の時点で「この気持ちは忘れたらあかんぞ」と自分に言い聞かせていた。他の人が自分の心をどのようにコントロールするかは知らないが、私の場合は、危険を事前に察知して、胸に深く刻むことで回避することが多い。そのような予防策を取らずに、その時その時の心の赴くままに任せたらどうなるんだろう、というのもあるが、ものすごくはちゃめちゃなことになりそうなので怖くて試せない。話を戻すと、そもそもお越しいただけるだけでありがたいのだ。「そうでないことは、そうであることと上下関係にあるわけではない(続編)」というタイトルでは工夫がないのでやめておいたが、2つが上下関係にないことをご理解いただけたはずである。
 このように述べてきたことで、今度は新たに「面談に来ること」が「そうであること」として設定されてしまっている。すると、「面談に来ないこと」が「そうでないこと」となる。ただ、これに関しては例外的に丁寧な説明は不要である。そもそもお子様を志高塾に通わせていただけているだけでありがたいからだ。たとえば、こんなお母様もおられた。入塾後、半年、1年ぐらいは面談だけではなく電話も頻繁にいただき相談を受けていた。そして、その後1年、連絡はぷっつりと途絶えた。前回、久しぶりに面談に来られて、その冒頭、「来づらかったんですよね」、「そうです」というやり取りをした。当初、私がいろいろと提案をしていたのだが、それとは別の道を選ばれていたからだ。私にはその道の先にはお母様が求めているものはない、というのが分かっていた。これこそ傲慢な物言いだとのそしりを受けるかもしれないが、そうではない。私が何かの才能に恵まれているからではなく、これまでにある程度の数の生徒を身近に見てきた経験上、それなりの確度で「その先は、こうなる」というのが想定できるだけの話なのだ。もし、その選択がその後に取り返しのつかない結果を生むことが予想されるのであれば、私も一生懸命説得を試みるが、そんなことはほとんどない。だから、ひと段落した時点で、「さて、これからどうしましょうか」という話を始めれば良いだけの話なのだ。
 最後に飲み会に関するご報告を。メンバーの中には社会人3年目のAさん(中3で入塾し生徒として4年、講師として大学院卒業までの6年)がいた。その彼が、「『叱されやすいっていうのは(叱ってやろうと思ってもらえるのは)、才能の1つやで』と松蔭先生に言ってもらえたことを頭に入れながら仕事をしています」と報告をしてくれた。自分の言葉が誰かの役に立っているなんてそんな嬉しいことは無い。
 そして、もう1つが社会人3年目のBさん(中2で入塾し生徒として5年、講師として大学卒業までの4年)に関する話。彼が高校生の時のことである。今となってはあちこちで見かけるようになったが、当時はまだ珍しかったザ・ノース・フェースの真っ赤な大きなリュックを持って来た。あまりに嬉しそうにしているので、いたずら心に火が付いた。彼がトイレに行った隙に周りを見渡して、「ごみ箱や」となった。新品の物を捨てるなどと言う残酷なことはしない。帰って来た彼が即座に気付き、鞄のチャックを開け、「やめてくださいよぉ」と言いながら、中にすっぽりと納まっていたゴミ箱を取り出した。その話はこれまでにも何度か出てきていたのだが、今回は新たな情報が。「帰宅後、おとんとおかんにそのことを報告したら、『松蔭先生、めっちゃおもろいな』と2人が笑ってたんすけど、僕の欲しかった答えはそんなんちゃうかったんすよぉ」彼の場合、いたずらしてやろうと思ってもらえるのが才能だと言えるかもしれない。
 思い出は作るものではないが、志高塾での出来事を誰かと何かの機会に振り返ったとき、何となく楽しい気分になれたとしたら、共有していた時間はそれなりの意味を持っていたと言えるのかもしれない。

2022.05.03Vol.541 そうでないことはそうであることと上下関係にあるわけではない

 ただいま5月1日(日)の16時過ぎ。大学生ではないので、忙しい自慢などする気はないが、明日2日(月)は6時過ぎには家を出てゴルフ。急いで帰宅し、17時から梅田で元生徒、元講師たちとの飲み会。3日(火)は9時ぐらいには家を出て、昼過ぎから長男と乗合船でのタイ釣り。そして家に着くのは20時前後。一週間前、「仕事が休みのときに書いた方が気楽で良い、ということに気付いてしまいました」と書いたものの、今回に関しては当日と前日に時間の余裕がない。日頃、同じような状況の人に向かって私は何と言うか。「急に決まったことではなく、前から分かっていたことやろ」現実と向き合う決心がついてようやくパソコンの前に。ちなみに、大学生の頃の私は、記憶できる程度にしか予定を入れていなかったのでスケジュール帳いらずであった。実際のところは、大学生になったからには、と入学と共に身銭を切って少し高級な皮のシステム手帳を買ったものの、ほとんど白紙状態の中身を毎年入れ替えることを繰り返していた。理由は単純で、その日に何をしたいかはその日になってみないと分からなかったから。マージャンをしたければ仲間を誘い、飲みに行きたければ友達に声を掛ける。寝たければ寝る。前もって用事が入っていると、大抵その日の朝には「行きたくないなぁ」と憂鬱な気分になったことは少なくなかった。きっと、大学生というのは、自由に使える時間を一生のうちで一番持っている時期なのだろう。
 長くて、よく分からないタイトルを付けたときは「なんだか村上春樹っぽいな」と感じる。似て非なるものの典型かもしれない。そして、そういうとき、かなりの確率で実際に彼の本を読んでいる。今は、『職業としての小説家』だ。今回のテーマとは関係のないことなのだが、その中に次のようにあった。

 これはあくまでも僕の個人的な意見ですが、もしあなたが何かを自由に表現したいと望んでいるなら、「自分が何を求めているか?」というよりはむしろ「何かを求めていない自分とはそもそもどんなものか?」ということを、そのような姿を、頭の中でヴィジュアライズしてみるといいかもしれません。「自分が何を求めているか?」という問題を正面からまっすぐ追求していくと、話は避けがたく重くなります。そして多くの場合、話が重くなればなるほど自由さは遠のき、フットワークが鈍くなります。フットワークが鈍くなれば、文章はその勢いを失っていきます。勢いのない文章は人を ―あるいは自分自身をも― 惹きつけることができません。

 要約作文、読解問題を一通り終えて意見作文に入ったばかりの生徒が取り組む教材で与えられるテーマの中に、「あなたの一番楽しい時間について説明しなさい」、「多数決という決め方に賛成か反対かを述べなさい」というものがある。先週もある生徒に、「一番楽しいことだけを書きに行くと、どんづまりになるから他のことについて考えを巡らせなあかんで」とアドバイスをした。200字以内であればそれで良いのだが、志高塾では400字が一つの目安なので、そのことだけで密度の濃いものにするのはほぼ不可能である。世の中にじゃんけんもなく、くじ引きもなく、話し合いもなく、多数決しか存在しなければそもそも賛成も反対もないのだ。一番楽しいことも、多数決の価値もその他のこととの比較によって決まるのだ。
 翻って私の場合は、ご存知の通り、人に言うだけのことはあってテーマから始めることはほとんどない。正確には、まったく関係のないことから話を展開して行き、さほど中心に近づくこともなく終わることしばしばである。しかし、これは考えてみればおかしな話なのだ。題材は私自身が決められるからだ。多くの場合、タイトルを別のものにすれば解決するのだが、それをしていないだけなのだ。それには2つの理由がある。1つには、タイトル自体を気に入っているから。2つ目としては、それに備忘録の役割を持たせているから。来週こそはそれについて書こう、という積極的な気持ちもあれば、書きたいことが何も思い浮かばなければ困るから保険を掛けておこう、というのもある。「二歩先三歩先」もそのままになっているので、さすがに今回は少しだけ中心に向かおう。
 私が具体的な学校名を挙げるとき、「東大、京大」、「灘、甲陽」が圧倒的に多い。前者は自分が受験生の頃の名残で、後者は志高塾の開校時の状況と深く結び付いている。当時、中学受験予定の小3, 4の男の子が圧倒的に多く、志望校を尋ねれば、異口同音に「灘、甲陽」と返ってきた。そういう背景があって、今でも中学受験の結果にはその2校の累計の実績を載せている。別に、灘、甲陽に合格する生徒を増やしたいわけではない。仮に、偏差値が高い順に1, 2, 3, ・・・, 10とあった場合、結果だけを見れば3より2の方が良い。しかし、2の生徒は元々1を目指していて、3の生徒は志高塾に入塾した段階では5に受かるかどうかのレベルだったかもしれない。また、勉強以外に熱中していることがあり、受験のためにそれを犠牲にすることなく、希望通り7の学校に合格し、しかも、作文への苦手意識も無くなり、読書の習慣も付いた。この3者の良し悪しを軽々に判断はできない。そもそもその比較などに意味はないのだが。大事なのは、生徒の未来を明るくするために我々が役立てたかどうかなのだ。
 上の話では「そうであること」は「灘、甲陽(もしくは、同等レベルの学校)」で、「そうでないこと」は「それら以外の学校」ということになる。上限の2,400字が目前に迫っているため、今回はここらへんでやめておく。さすがの私でも、これだけ中途半端な状態で終わるわけにはいかないので、続編をご期待ください。
 
 現在、3日の朝8時。一昨日書き上げたものの最終チェックを終えた。爆釣を夢見ながら一路淡路島へ。

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