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2022.08.23Vol.556 TUMUGUにTUNAGU

 この週末、20日(土)の朝一で伊丹から羽田に飛んで、21日(日)の最終で帰って来た。
 3か月に1回のペース、つまり年に4回ぐらいは美術館に行こうと思っているのだが、ずっと2回程度に留まっていた気がする。今年はその目標をクリアしたので、そのことから報告する。訪れた順に紹介すると、あべのハルカス美術館での『印象派・光の系譜』、札幌の北海道立近代美術館での『フェルメールと17世紀オランダ絵画展』、そして今回の、国立新美術館での『ルートヴィヒ美術館展』、東京国立近代美術館での『ゲルハルト・リヒター展』となる。7月初旬に、大阪府和泉市にある久保惣(くぼそう)記念美術館に息子たち3人を連れて浮世絵を見に行ったことを今思い出したので、実は5回だということが判明。なぜそうまでして美術館に行くことにこだわるのか。自分は今、「そうではない」ことをしている、という安心感が得られるから。ここから、そうなこと、そうではないこと、「そうではないこと」の3つを使いながら話を進めて行く。
 そうではないことが存在するためには、そうなことが先になければならない。そうなこととは大学受験まで続く答えのある勉強を指している。私の勉強時間は間違いなく少ない方だった。そんなにしなくてもできたからではなく、集中力があったからでもなく、ただ単に長いこと座っていることができなかったから、というのがその理由。だから自然、そうではないことに多くの時間を割いていたことになる。そんな私は、特段深い考えも無しに消去法的に工学部建築学科を選んだ。そして、入学後、自分がいかにものを知らないかを知り愕然とする。ザ・無知の知。補足すると、「無知の知」とは、「自分が知らないことを自覚する」という意味である。建築家の本を読んでも全然理解できなかったのだ。専門用語が並んでいたことも少なからず影響していたのだろうが、そんなことよりも視野の広さ、思考の深さが違った。それは、今のままの自分(大学生の頃の私)がどれだけ経験を積んでも全然近づけないだろうな、という決定的な差であった。頭が良いとか悪いとかではなく、人間的に完全に劣っていることを実感した。それなりに勉強ができているからそれなりに人間としてもできている、と勘違いしていただけにショッキングであった。数学しかできず、国語がからっきしだめだった高校生時分の私からすると文系はありえなかったので、建築学科以外の理系の学部、学科であれば、私はそのことに気付けたのだろうか、気付けたとしてもどれぐらい後になってからだったのだろうか。まかり間違って技術系の専門職にでも就いていたら、ずっとそのまま行っていたような怖さがある。
 さて、「」付きの「そうではないこと」。それは、答えのない勉強を指している。勉強と区別するために学びという言葉を当てることにする。要は、そうなこと=勉強、「そうではないこと」=学び、ということになる。そうなことと「そうではないこと」、「そうではないこと」とそうではないことの間にくっきりとした境界線を引くことは難しい。人によって異なり、また、同じ人でも時期によってそれは揺れ動く。私にとってのピアノは、ただ楽譜通りに弾くだけだったのでそうではないことに分類されるが、作曲もする人にとっては「そうではないこと」に含まれるのかもしれない。
 ここで、私が好きなエピソードを紹介する。生徒のお兄ちゃんで今年東大の理一に進学した。私が直接指導したことは無い。彼は2次試験数日前に『大学への数学』の答案を作成して、自ら投函しに行ったらしい。『大学への数学』は、その名の通り大学受験の数学とは関係するのだが、そのタイミングで郵送しても添削して返却されるのは受験後なので、そんなことをせずに過去問をやり直すなどもっと直接点数に結び付く勉強をするのが一般的である。こういう話をすると、「余裕があるから」で済ませる人がいるのだがそんなことはない。数点差(5点以内)の合格であったことがそれを物語っている。彼がしていたのは、紛れもなく「そうでないこと」であった。「どうだ難しいだろ」と突き付けられた問題を脇目も振らず解いてみたくなったのだ、きっと。悲しいかな、彼と同じ頃の私の円グラフはそうなこととそうではないことの2つだけで構成されていた。「あの人面白いよね」と評価される人の多くは「そうでないこと」が一定以上の割合を占めている。志高塾の中学生以上が取り組む意見作文は、正しく「そうではないこと」に分類される。一人一人の面白さが少しでも増すような、そんな指導を行っていきたい。
 今回、建築家の友人が自宅をフルリノベーションしたということでおじゃまさせてもらった。そこに集まった5人(私を含めて6人)は、すべて就活中の友人なのでもう20年来の付き合いになる。20日(土)は、ちょうど神宮外苑花火大会の日だったのでマンションの屋上から皆で花火を楽しんだ。そう言えば、学生時代、東大のキャンパス内の建物の屋上で彼らと花火をしていて警備員さんに怒られたことがあった。彼らとではないが、真冬の誰もいない阪大のグラウンドで目いっぱい高いところまで凧を揚げて、そばを通りかかった人たちの注目を集めたこともあった。そう考えると、危機感を覚えた後も、「そうではないこと」ではなく、そうではないことに精を出していた気がする。話を戻す。我々がただボーっと花火を見ている中、彼の奥さんはその屋上でノートパソコン片手にオンライン授業をしていた。彼女は、『学びラウンジTUMUGU』
https://www.tumugu-lounge.com/art
のアート部門の責任者をやっている。そのトップページには次のようにある。

TUMUGUは、受験のための勉強というイメージを壊したいと考えています。
受験制度自体を否定はしませんが、受験のためだけの勉強は、つまらないし、
受験という枠の中でしか使わない知識なら、いらないんじゃないでしょうか。

志高塾のHPでは、「壊す」というような強い言葉は使っていないが通ずるものがある。ここでポイントとなるのは、受験自体を否定していないことである。若干異なるのは、彼らは受験という枠を意識せずに知識を入れるのに対して、我々は受験という枠の中で入れた知識をその外に持って行こうとすることである。たとえば、文学史。夏目漱石の作品を選択肢の中からすべて選べるだけでは意味が無いのだ。『坊ちゃん』でも『吾輩は猫である』でも何でも良いから読んで欲しい。慣用句もできる限り読書から仕入れて欲しいし、仮にテキストを使って丸暗記したのであれば作文の中で使って自分の言葉にして欲しい。面白い人間になって欲しいから、彼らにして欲しいこともたくさんある。
 その授業中、彼女は、岩手や愛知の子供たちとやり取りをしていた。新潟の子もいたので長岡の花火大会の話題を振っていた。また、花火の色は火薬の種類によって違っていて、赤色はストロンチウムで、緑色は銅なんだよ、という話をしていた。それを横で聞きながら、中学か高校の化学で覚えた炎色反応のことを思い出していた。大事なのは、それぞれの元素と色の組み合わせを覚えることではなく、色の違いが物質の違いによっていることを知ること、また、そのことに面白さを感じ、興味を持つことなのであろう。
 さて、次回はそんな彼女の文章を掲載する。「面白そうなことやってるから、今度ブログに載せる文章書いてよ」とお願いしたら、「いいよ」と即答してくれた。彼女とも20代の頃からの付き合いで、演奏会を聴きに行かせてもらったこともある。20年の歳月を経て、こういうつながりが持てるのは不思議な気がする。 
 最後に慣用句の使い方のお手本を見せて終わりとする。文章を書かずに済み、かつ彼女の文章を一読者として楽しむ。正に、一石二鳥である。

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