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2022.08.16Vol.555 大学入試改革の裏側

 相手の立場で物事を考えなさい。よく言われることである。ただ、前回の「成功体験を積ませてあげましょう」同様に私自身はほとんど口にしたことが無い。「成功体験」の方はその言葉自体が嫌いだからであり、「相手の立場」の方は単純に私ができないから。現象としては同じなのだが理由は異なっている。そんな私でも、そんな私だからこそ心がけていることがある。自分だったらどうして欲しいだろうか、と問うことである。相手の側から相手の目線ではなく、自分の目線で考える。もちろん、自分がそうだからと言って、他の人もそうだとは限らない。だから、「他の人もそうだろうか?」と最終チェックを行うようにしているが、そのプロセスが意味を成しているかどうかは定かではない。見直しの甘い生徒のように、合っていることが前提になっている気がするからだ。そんな自己中心的な私が、半年か1年前ぐらいに車を運転していてハッとしたことがあった。ヒヤリもしたかもしれない。「そうか、あの車に乗っている人からしたら、俺の車に対しても同じことを思うんや」と初めて他者の視点が持てた瞬間であった。それまでは、明らかに変わった色の車などを見て、「あれはないはなぁ」などと一方的に心の中で突っ込むだけに終わっていたからだ。
 コロナが流行したことで、電車から車通勤に変わった。それまでは、ラッシュに巻き込まれる夏期講習期間とインフルエンザに罹ると迷惑を掛けてしまう受験期間限定であった。恒常的な交通手段の変更に伴い、読書がポッドキャストでのニュースの聴取に置き換わった。毎日のように60分近く聴いているうちに、いつの頃からかそれぞれのコメンテーターがどれぐらい情報を持った上で、個人の見解を述べているかが透けて見えるようになった。それまでは、アウトプットされたアイデアの良し悪しだけに注目していたのだが、それがどこから来たものかに意識が向くようになったのだ。それにより、「この人それっぽいことを言っているだけで、大して勉強してないな」というのが以前よりも掴めるようになってきた。
 引き続き、リベラルアーツに関して学んでいる。ポッドキャストで、『a scope~リベラルアーツで世界を見る目が変わる~』の全32話(1話約20分)をこの2, 3週間で聴いた。MCとの対談形式を取っていて、物理学や文化人類学の専門家などが登場する。1回では理解できないので聴き直す。それでも不十分なので、この番組を1冊にまとめた『視点という教養』を読んで、ようやく8割程度分かった状態に達する。教育学の専門家として登場したのが、東大と慶応で教授を務める鈴木寛(すずきひろし)氏であった。その中で、自身が携わった入試改革について語っていた。私は、これまで「従来のセンター試験のままで良いのに」と共通テストに移行すると共に内容の変更が掛かることに反対であった。だから、ここでも何度か紹介した『飯田浩司のOK! Cozy up!』での、コメンテーター飯田泰之氏の「センター試験はよくできたシステムなので変える必要なんて無かった」の意見に、「ほんまやで。なんで余計なことすんねやろ」と共感していた。たとえば、英語の民間試験導入に関しては、まったく活用されなかった住基カードの運営、管理が総務省の役人の天下り先の団体に委託され無駄に税金が使われるだけに終わったように、文科省の利権絡みではないか、ぐらいの捉え方であった。鈴木氏の主張をまとめると大体次のようになる。

 マーク型試験というのは間違いを見つける作業である。国語にしろ、社会にしろ、選択肢の中のおかしな表現を探して消去して行く。それは、できる限り不良品を出さずに大量生産することに重きが置かれていた時代には合っていたが、今はそうではない。一部の国立大を除いて、2次試験で論述試験は行われていかなった。地方の高校は、地元の国立大学にどれぐらい合格者を出せるかが1つの基準になる。2次試験でも記述が無いので、日頃の授業も必然的にそれに合わせたものになる。それが問題だったのだ。

 ちなみに、私立文系は早稲田の政経学部が一つの基準になるらしいのだが、鈴木氏などの働きかけにより、論述試験が導入されるようになった。他の私立文系の学部も追随し、その結果、予備校の授業、参考書の内容まで変わったとのこと。試験ではなく、日頃の学習を変えるための改革だったのだ。そして、それは日本人全体のクリエイティビティの底上げを図るための施策だったのだ。
 今調べてみると、国語と数学の記述式問題、従来の「読む」「聞く」に「書く」「話す」を加えた4技能の力を計る英語の民間試験の導入は2025年以降も見送られることになったことが分かった。採点者によって差が生まれることなどを含めた公平性の観点からそのようになったのだ。以前の私であれば、「そんなん初めから分かってたやん」と勝ち誇った気分になっていたかもしれないが、今はまったく違う。「この先日本は他の先進諸国と渡りあって行けるのだろうか」という心配が頭をもたげる。憂えていても一歩も前に進まない。私にできること、私たちにできること。それは、試験がどうであれ、書くこと、書くために考えることを生徒たちに徹底的にさせることである。

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