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2022.08.09Vol.554 できるようになったこと、次にできるようにすべきこと

 授業とはまったく関係のない連絡から。志高塾第1回フットサル大会を行います。誰でも参加可能ですので、興味のある方は気軽にお声掛けください。未経験者も大歓迎です。既にサッカー未経験者のお母様一名の参加は決定しております。
日時;9月19日(月)16:30~19:30
場所;フットサルコートつかしん(http://j-spo.co.jp/tsukashin/)
持ち物;白いシャツと色付きのシャツ(チーム分けのため)
参加費;無料

 サッカーと言えば、まだ夏期講習前の7月のある平日の昼間に「サッカー座談会」なるものを西北校で開催した。大層な名目だが、サッカーをしている小学生のお子様をお持ちのお母様たち3人と私の4人で、各自お弁当を持ち寄って、サッカーを含めていろいろな話をしていただけの単なるランチ会である。 
 そこから遡ること約1か月、入塾して半年も経たない5年生の生徒のお母様と勉強における取り組み方の課題について電話で話をしていたら、「最近サッカーも同じで」となり、そのまま話題がサッカーに移行した。そして、「サッカーのことまで相談に乗っていただけるなんて」という言葉をいただいた。ありがたいことに、スポーツに限らず勉強以外のいろいろな話を聞かせていただくことは少なくないのだが、その一番の理由は、周りに相談する相手がいないからである。そこで、私のところに話がこぼれてくるという仕組みになっている。折角自分のところに話が回って来たのだから、私はそのこぼれ話を丁寧にすくいあげるように心がけている。そういうことを繰り返していると、似たような話をいただいたときに、手元の材料が増えているので「こういう話を聞いたことがあります」と以前よりは役に立てるようになる。話を戻すと、「私の話だけだと偏ってしまうので、他のお母さんの話を聞いてみるのも良いかもしれません。同じチームのお母さんじゃないから、本音で話しやすいでしょうし」となり、日頃からサッカーの相談によく乗っているお母様に声を掛けて、座談会の運びとなった。
 さて、その勉強とサッカーに共通している課題とは、ある程度のところまでは人より苦労せずにたどり着けるが、一度壁を感じると、粘り切れずにあきらめてしまう、というものであった。本来であれば、「ある程度のところ」に到達するまでにできた時間と精神的な余裕を、壁を乗り越えるのにつぎ込めるはずなのだが、それは単なる理想論に過ぎない。器用にできてきたしまった分、できないことをできるようになるための経験が不足しているのだ。心の経験が。もちろん、これまでにもサッカーで新しい技を教えてもらったら、一生懸命練習をして身に付けてきたはずなのだが、それでも周りより早くできるから、「中々できなかった」よりも「早くできた」という優越感が先行するから苦しくはないのだ。そのお母様との電話の翌日、本人に「7, 8割のことはすんなりとできるねんから、残りの2, 3割のことをどれだけ考え抜けるかが大事やねん。ある程度できて満足してたらアカンぞ」と話をした。
 結果に一喜一憂してはいけない、とよく言われるが、喜び過ぎないように、落ち込み過ぎないように気持ちをコントロールしようしているようではうまく行かない。常に自分より少し高いところに目標を設定し、それをクリアすれば目標を設定し直す、ということを繰り返していれば、一喜一憂などしている暇はないのだ。小学生がそれをすることは非常に難しいので、周りの大人がそのような状況に置いてあげなければならない。灘から東大医学部に進んだ元生徒がまだ小学生の頃にお母様が次のような話をされていたのを思い出した。「幼児教室に通わせていた頃、テストで結果が出ていなかったので対策をしたら2, 3回連続して一番を取れた。少しやって結果が出るのであれば、それ自体に大した意味が無いのでは、と考えてやめさせました」。特に子育てにおいて、成功体験という言葉はよく使われるのだが、志高塾を15年やってきて、ただの一度も「成功体験を積ませてあげましょう」と言ったことはない気がする。一応予防線を張っておくと3回は無いはずである。その言葉が嫌いなのだ。進学塾の先生は受験が近づくと、親に向かって「せっかく頑張って来たのだから1つでも勝ちを付けてあげましょう」という訳の分からない話をよくする。「合格=成功体験」と考えてのことなのだが、安直である。元生徒の話、今になって思えば、お母様は偽物の成功体験を積ませて勘違いしないようにしたかったのではないだろうか。三つ子の魂百まで、と言うが、彼の「俺はできるから」という素振りを一度も見た記憶が無い。高校生の頃、「このテーマを小論文試験でどのように書けば点数がもらえるかは分かるけど、そんなことをここでやってもしょうがない。だから、ゼロから考えてるねんけど、それが難しいねんな」と漏らしながら楽しそうに格闘していたことがあった。覚えているのはそういう姿ばかりである。一般的な「よくできる子」であれば、自分の頭を使わずに、どこかで得た知識のようなものをただまとめるだけで、「俺、作文うまいやろ」となっていたはずである。
 勉強にしろスポーツにしろ、評価は相対的に決まる。しかし、それを常日頃から重要視し過ぎると、手を抜いていたのに結果が出て調子に乗る、逆に、努力したのに期待したような結果が出なくてやる気を失う、いうことになりかねない。だから、周りではなくその子の過去と比べてあげるのだ。上でも述べたように、身近な大人がそのバーをきちんと設定し続けていれば、相対的な立ち位置も自ずと上がって行くのだ。「これはできるようになったやん。それは良いことやけど、もっとできるで」という声掛けをよくしている気がする。その時、私にはその子のことしか見えていない。

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