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2021.09.14Vol.511 柔よく剛を制す(補足編)

 文章を書き上げて、「うまく行った」とある程度の満足感が得られるのが5回に1回、「会心のでき」となるのはおそらく10回に1回ぐらいしかない。以前にもこのこと触れた気がするが、そのときはもしかすると前者を3回に1回ぐらいとしていたかもしれない。いずれにしても感覚的な部分での割合は下がっているのだが、数を重ねるほど「『また同じような内容やん』と思われないだろうか」という不安と「もっとうまくなりたい」という願望が共に少しずつ少しずつ強くなっていくからなのだろう、きっと。意見作文に取り組んでいる生徒が時々「作文って難しいわ」と漏らすことがあるのだが、そのようなときは「そりゃそうや。俺なんてな、10年以上に渡ってブログを週1回、内部配布用に月1回書いてきても未だにどうやったらうまくまとめられるのか分からへんねんから」とまるで自らを擁護するかのようにたたみかける。私がうまく書けないからといって生徒もそれで良いとはならないし、むしろ、教えている身としては成長して行ってもらわないと責任問題になるのだが、一人の人間としては「もう少しもがき苦しみたまえ」となる。中高生の期間を下積み時代と捉え、そこで学んだことが大学生以降で花開けば良いのだ。それであれば、少なくとも私が教えている間は「君、まだまだだなぁ」とあれこれ偉そうに指摘しながら、「まっ、俺ならこういう風に表現するけどな」、「さすが先生」というやり取りを継続することができる。その花開く、それなりの質のレポートをすらすらまとめられるということでなければ、読みやすいビジネス文書を作成できるということでもない。壁にぶち当たったときなどに打開策を見つけ出すことやアイデアを生み出すときにこそ役立つものであって欲しい。「見つけ出す」、「生み出す」といずれもアウトプットの話になっているのだが、そのためには自分や物事と真正面から向き合う必要がある。それができれば自ずとそれなりのアウトプットが得られるはずなのだ。生徒に「つまらん」と書き直しを指示することがあるのだが、ほとんどの場合、向き合い方が不十分であることが原因である。上辺をさらさらと撫でたようなもので読み手の心を動かせることなどあろうはずがない。
 さて、昨日から配布している今回の内部向けの『志高く』はそれなりにうまく行った。「柔よく剛を制す」というタイトルも気に入っている。一つの文章としてまとまりのあるものにできたのだが、紙幅の都合上、書き切れなかったこともあるのでここで補足することにした。以下は、その第2段落以降である。なお、第2, 3段落の不要な部分は削った。
 
 東日本大震災の翌年の2012年末に第2次安倍内閣が発足し、その後、防災、減災を目的として「国土強靭化」というスローガンが発表されました。「強靭化」という言葉を耳にしたとき、「必要なのは『強さ』ではなく、『柔らかさ』だろう」という印象を持ったことを鮮明に覚えています。恥ずかしながら、「強靭」とは「しなやかで強いこと」であり、そこに「しなやか」という意味が含まれていることを知りませんでした。それでもなお自らの無知を棚に上げ、「『強靭な肉体』と聞いてボディービルダーのようなマッチョな体を思い浮かべる人は少ないないだろうから、言葉の選び方が良くない」と個人的な感想を抱いていました。
(中略)
 「学歴は高いけど仕事はできない」には、決まったことはできるけど、正解のないものに自らゴールを設定してそれに向かって試行錯誤しながら突き進んで行くことができない、という揶揄が込められています。コミュニケーション能力の無さを指してそのように言われることもあります。
(中略)
 柔よく剛を制す。読んで字のごとく、柔が剛を「制する(打ち負かす)」という意味なのですが、「制御する」と取ってみてはどうでしょうか。受験だけであれば強さだけでどうにかなりますが、それを社会に出てから生かすためには柔らかさが欠かせませんし、それは強さを身に付けるのと同時並行で、むしろ、そっちを優先させるべきだというのが私の考えです。

 「言葉の選び方が良くない」とある。否定をするのであれば「強靭」に取って代わるものを示さなければならないのだが、現時点では持っていない。ただ、私であれば「強」はもちろんのこと、それに類する字は使わない。東日本大震災を経験したわけでなく、防潮堤を見たことすら無い私が軽々に私見など披露するべきではないのだが、10メートルで防げなかったから15メートルに、では根本的な解決につながらないどころか、1.5倍になった安心感が油断を生むような気がしている。話の流れ上、防潮堤を例に取っているだけで、一般的な話をしているのだ。
 ここで、「ハードとソフト」で検索した一例を示す。「『ハード』とは、施設や設備、機器、道具といった形ある要素のことを指す言葉です。これに対し、人材や技術、意識、情報といった無形の要素のことを『ソフト』と言います。」余談ではあるが、2文目を「『ソフト』とは、~を指す言葉です」とせずに、少しでもリズムを付けに行っている。こういうちょっとしたこだわりはとても重要である。
 「ハード」という単語が当てられたのは、「物だから硬い」というところから来ているらしい。防災においても一人の人間としても「ソフト」の部分をどうするかが鍵になってくる。最終段落で「強さよりも柔らかさを身に付ける方が大事だ」というようなことを語っているが、「どのように」というが抜け落ちている。ありきたりになるのだが、そのために作文以上に効果的なものを私は知らない。成果物としての作文ではなく、その過程こそが重要なのだ。頭を悩ませながら言葉を紡ぎ意見をまとめあげたのに、添削で、全否定と感じるぐらいの指摘を受けることもある。時に受け入れ、納得の行かない部分に関しては講師に反論を試みる。この反論は、むかついて言い返す、というものではなく冷静で論理的なものでなければならない。このやり取りを積み重ねた生徒が、コミュニケーション能力が無い人になんてなるはずがないのだ。
 今回もまあまあうまく行ったかな。
 来週は、教室が1週間休みになるのに伴いブログもお休みとなります。2週間後にお会いしましょう。

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