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2023.02.14Vol.579 直接的で間接的に

 有森裕子に倣えば、「自分で自分を褒めたいと思います」となる。昨日UPしたばかりなのに、翌日の水曜の朝から早くも文章に手を付けているからだ。オリンピックの銅メダルと比べるな、という話である。あれは咄嗟に出た言葉なのだろうか。それとも、メダル獲得が見えてきた時点で、走りながらインタビューされている自分を想像して湧き出てきたものなのだろうか。もし、後者であったとするならば、そういうイメージをすることが最後のひと踏ん張りに繋がったような気がする。
 追い込まれないとやらない私が動き出したということはそういうことなのだ。今週後半から来週にかけては月間報告にかなりの時間を費やすことになり、今回は「十人十色」で私自身が話すので、少しぐらいは準備も必要である。親の立場からはもちろんのこと、それに加えて、もっと広い視点での話をできればと考えている。当日の朝、あわてて資料を用意する羽目になるのであろう、きっと。二男には、「お父さんは『十人十色』で話す予定だから、大逆転して合格を勝ち取って来て」と発破を掛けていた。いらぬプレッシャーと取る人もいるかもしれないが、自分のことだけを考えるのは意外と苦しいものである。それなりにしょっているものがある方が行動指針が明確になり、余計なことを考えずに済む。今の私であれば、気持ちが後ろ向きになりそうになったとき、息子や生徒のことを思い浮かべる。そうすることで、「こんなちっちゃなことぐらいで、アカンアカン」となり、邪念を振り払える。親がださかったり、先生がみみっちかったりすれば子供や生徒はかわいそうである。ここで、国語の先生っぽい話を少々。記述問題に用いるのであれば、迷うことなく「背負う」を選ぶ。平仮名にするのであれば「せおう」である。辞書を引いてみると、「しょう」というのは「せおう」の音が変化したもの、とあったので、平仮名で「しょう」としても減点はされないのかもしれない。書き言葉と話し言葉の区別というのは難しいので、確実な方を選択する方が無難である。「せおう」だと重荷が、「しょう」だとほど良い負荷がかかっているような。これは、語感に対する単なる主観であり、共感は得られないだろうと諦観している。副業をするなら、ラッパーかな。
 最近は自分自身が最低限納得できるレベルの文章にできているが、それまでの短くない期間、かなり苦戦していた。数か月間ブログを休みにしよう、と何度か考えるぐらいに。画面の向こうの人を意識しすぎていたのであろう。グーグルの機能で、どのページにどれだけのアクセス数があるかは以前から分かっていたのだが、「楽しみにして読んでます」というような言葉をいただくことが増えるにしたがって、少しずつ少しずつ具体的な顔をイメージするようになり、気づかないうちに勝手に深みに入って行ってしまった。その画面の向こうの話でいえば、二男の中学受験のことを続けて話題にしていて、ふと、そこに二男だけではなく息子たちの顔が初めて見えた。正確には、将来の。3人とも私の文章など一度も目にしたことが無いはずなのだが、大人になって、何かのきっかけで読んだときに「お父さんはこんなことを考えていたのか」となり、何らかの形で彼らの刺激になれば親として幸せである。もちろん、これまで同様、親御様を中心として読者に少しでも役立つようなものすることが最大の目的である。読んでくれる人がいる、そして、時々感想がもらえるというのは本当にありがたいことである。もし、誰に見せることも無く、自分の文章力を磨くためだけに書き留めるのであれば間違いなくこんなにも続けられなかったであろう。そう言えば、「筆が進まない」という表現は当分の間有効なのだろうが、「キーボードが躍らない」のように新たなものは出てきたりしないのだろうか。
 前回に続き、二男の国語のことに触れないまま今回もここまで来てしまった。完全に予定が狂っている。「Vol.577読解問題の重要性」において、「中学の文章のレベルを1とすると、高校のそれは1.2、大学になると3ぐらいになる印象である。いずれも、難関校、難関大学を比べた場合の話である。」と述べた。大阪府の公立高校の入試問題は、国語、数学、英語の3教科に関しては、a(基礎的問題)、b(標準的問題)、 c(発展的問題)の3段階に分かれている。ただ、そのcですら、難関中学の読解問題よりははるかに簡単である。字数の多い記述問題が出題されるが、抜き出して切り貼りすれば解答ができあがってしまうからだ。事前に細かい部分の確認などを含めた調整はさすがに必要であるが、そんなテストで高得点を取るための対策を長期に渡ってするのは時間の無駄でしかない。国語力は磨かれないからだ。ここで言う「国語力」とは、「Vol.578目の前の目標と今やるべきこと」の「ここで、『国語力』とは何かを定義しないが、単に国語の点数に結び付くだけではなく、その後の人生に生きる国語的な力であると捉えていただきたい。」と同様である。
 国語の読解問題という直接的なやり取りを通して、私は間接的に二男の人間的な部分での成長を促している。もし、読解問題というツールが無ければ、二男の一つ一つの言動や行動を取り上げ、その根底にある考え方に言及して、「今のは、これこれこういう点でおかしい」みたいなことをしなければならない。そうなると、説教じみてしまい、二男も聞く耳を持てなくなるであろう。これだけでは何のこっちゃよく分からないだろうから、今朝丸付けした問題を例に取る予定だったのだが、字数の関係上できなくなってしまった。次回、乞うご期待。

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