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2022.10.04Vol.561 虚像も踊る

 最近にしては珍しく、ビジネス書を読んでいる。ジリアン・テット著『サイロ・エフェクト』に次のようにあった。

 1993年にIBM取締役会はCEOを更迭し、代わりにルイス・ガースナーをトップに据えた。ガースナーは劇的なリストラを断行した。(中略)この改革は激しい内部闘争を招いたが、最終的にはガースナーのサイロ破壊の試みは勝利し、IBMをアメリカ産業市場稀に見る復活劇に導いた。

サイロとは、小学校の社会で習った家畜の飼料などを貯蓄しておく倉庫のことである。教科書に載っていた写真も、北海道で実際に見たそれも、一棟だけ単独で建っていた気がする。米や小麦などの農産物が混ざらないように複数の棟で構成されている場合もある、ということを初めて知った。そのようなことから、ビジネスで「サイロ」という言葉が使われるとき、各部門などが独立していて連携が取れていない状態を指す。
 20代の頃は大企業の経営者の本をよく読んだ。自分は将来そのポジションに就くのだと思い込んでいた。新入社員の頃だったか2年目の頃だったかは忘れてしまったが、マーケティング担当の30代の女性に向かって次のような発言をしたことがあった。「あなたは、本社の担当者が伝えてきた内容をただ日本語に訳しているだけだ。そんなのは仕事とは呼べない。国ごとで状況は違うのだから、その新製品を売るためにどのようなプロモーションをするべきなのか、日本サイドの意見を集約して伝えるのがあなたの役割のはずだ」。泣かせてしまったこともあり、その後上司からお叱りを受けた。そんな私だったので、大きな組織のトップに上り詰めるなど土台無理なことだったのだ。思い起こせば、当時よく「松蔭君、ちょっと」と誰もいない会議室に呼び付けられては説教をされていた気がする。その度ごとに、「やり方が良くない。もう少し我慢しなさい」と諭されたのが、彼らがお手本になるような良いやり方を見せてくれたことはただの一度も無かった。先の本で、次のような言葉が紹介されていた。「何かを理解しないことで給料をもらっている人に、それを理解させるのは難しい」。その何かとは、どのように仕事と向き合うべきか、という取り組む姿勢のことを指している、と私は考える。
 今回、タイトルに「虚像」を入れ込むことを前提にして、(仮)の状態で「虚像と実像」としていたのだが、しっくりこなかったのでどうしたものかと数日前、寝る前に考えていた。そして、思い付いたのが「虚像も踊る」。「ああ、これだ」となった。その翌日、冒頭で紹介した内容が書かれたページを読んだ。読書をしていてこういう偶然に巡り合ったとき、何だか良い気分になれる。自らの手でたぐり寄せたような感じがするからだ。ルイス・ガースナーがIBMの改革について自ら書いた本のタイトルが『巨像も踊る』。巨像とはIBMのことであり、いわゆる大企業病に陥っていた会社をどのように立て直したかが述べられている。その組織が軽やかに動くようになったことを表現するために、「踊る」という言葉が使われている。
 ここで、中3の女の子が書いた意見作文を紹介する。テーマは次の通りである。「『自分とは違う』と思う相手を考え、その人が何を考えているのか、なぜそうするのかを想像してみてください。相手は誰でもかまいませんが、一方的に批判するのではなく、必ず自分との違いを踏まえ、その根拠や背景を明らかにすること。」

 志高塾に入って先生にインパクトを受けた。私が今まで会ってきた大人の中で断トツで自己主張が激しそうだったからだ。先生や生徒をいじり倒し、それでいて自ら堂々と謙虚であることを公言する。よく分からない人だ。また、塾の途中でサウナに行ったり、塾を休んでゴルフに行ったりする超自由人だ。しかし、自己主張が激しいのは、自分の意見をためらわずに述べられるということなので、自分に話が振られるまで黙っている私としては羨ましい限りだ。先生が謙虚かどうかは分からないが、よほど自覚があるのだろう。また、自由であることは、周りに縛られず、自分の意思で行動できるので良いことかもしれない。要するに、松蔭先生は何よりもまず自分を大切にする人なのだ。

 俺は一体生徒たちにどんな風に映っているんだ、となりはしたが、私からすると好ましい評価でもあったので、私との付き合いが長い中高生何人かに見せてみた。すると、異口同音に「分かる」、「当たってる」と返ってきた。
 物心がついたときからガキ大将であったので、周りに格好悪いところは見せないようにしていた。今は親であり先生でもあるので、息子たちや生徒たちにとって頼りない存在ではいられない。もし、親や先生など大人の目を気にして、お利口さんでいなければいけない、であればしんどかったかもしれない。しかし、私の場合は小さい頃から「こういう方がかっこいい」という自分なりの理想像に、誰に強制されるでもなく近づけようとして来たから、無理なく続けられているのかもしれない。習い性のようなものである。生徒たちに見えているのは、理想像と実像の間にある虚像である。少しでも高く見えるようにとかかとを浮かせているのだが、彼らは足元には目もくれず頭のてっぺんだけを見ているので私の実際の身長だと錯覚しているのだ。かかとを浮かせても背が伸びるわけではないが、人としては少し背伸びをすればそのうちにそれが自分のものになる気がする。
 タイトル、「松蔭君、ちょっと」の方が良かったかな。

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