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2022.02.01Vol.529 言葉

 最近、教室で中高生から笑いを取れる鉄板ネタがある。岸田首相の答弁を読み上げ、「いや、ほんま何も言ってへんやん」と突っ込めば一丁上がり。論より証拠。まずはいくつかの例を示す。
「必要なワクチンのさらなる確保に努めつつ、高齢者への接種を加速化する」
「さらなる対策が必要かどうかしっかり考えたい」
「慎重を期して対応してきた。用意した体制や病床を機能させられるかが問われている」
 愛聴している『辛坊治郎 ズーム そこまで言うか!』の中で、辛坊治郎が「ものすごく何か言ってそうで全然何も言っていない」と揶揄していたのが興味を持ったきっかけ。言葉が抽象的で、いつまでに何をするのかについてまったく言及しない。3つ目のものなどは、問いに対する答えを求められているのに「問われている」と返してしまっているのだ。もう滅茶苦茶である。次のようなものもある。
「ミサイル迎撃能力の向上だけでなく、敵基地攻撃能力を含めあらゆる選択肢を排除せず、現実的に検討していきたい」
これも一読するとそれっぽいのだが、すべての選択肢を残していること自体が問題なのだ。本来であれば「危険度と緊急度の観点からAとBという2つの危機に対応すべく、PとQとRの3つに選択肢を絞り込みました。5年以内の配備に向けて1年以内には結論を出します」といったようにすべきである。私も若くはないので、何でもかんでも馬鹿正直にはっきり意見を言えば良いというものではないということぐらいは分かる。揚げ足を取られないようにすることも時に必要なのだが、そうで無い時ですら責任追及を避けることを目的に言葉を使う人が好きではない。
 志高塾では、意見作文を400字前後で書かせることが多い。200字であれば抽象論に終始してしまうが、そこに200字を加えることによってそれなりに具体的な内容が盛り込まれるからだ。私が添削をする際、冒頭の100字ぐらいでチェックするのは主に2つのポイントである。読み手の興味を引くようなものになっているかと反感を無意味に買うものになっていないか。たとえば、「民法改正により2022年4月から成年年齢が20歳から18歳に引き下げられます。それに対するあなたの意見を述べなさい」に対して、「私は、引き下げに賛成だ。その理由は」と書き出していれば、「あえてありきたりな始め方にしてるんやったらええけど、どうなん?」と確認し、「18歳に引き下げることは社会に大きなメリットをもたらす」と断定していれば、「何でそんなこと言えんねん、とこの時点で思われたら最後まで読んでもらわれへんかもしれんで」と注意を促す。小論文ではないので自由に話を展開して行けば良いのだが、考え抜いた末に導かれた自分なりの結論と、読者をわくわくさせながらそこにいざなうための工夫が欲しいのだ。これは単なる理想論ではなく、中学生がそのような作文を書くことも決してまれではない。そういうものに出会ったときは「これ面白いやん」と評価し、大きなところはいじらずに、細かい部分に関して「こういう風にした方が、より文章が引き締まるかもな」などといくつかアドバイスするだけに留まる。
 話は変わる。間違いなくゴルフの練習のしすぎが原因で、数か月前に寝ている最中に急に左手の小指がつったようになり、その痛みで目が覚めた。人生初のことである。数日経っても良くならなかったため近所の整形外科を初診で訪れたが、異状なしとのことであった。しかし、患部に違和感が残ったままだったので、トップアスリートも診られているスポーツ医学専門のお父様に信頼のできる整形外科医を紹介していただいた。「心配はいりません。ゴルフの練習を継続しているので治っていないだけです」との診断を受けた。そして、ようやく安心できた。「やっぱり、誰が言うかって大事やなぁ」と実感した一件であった。
 物事がうまく行かなくなったときに、「あの人のあの言葉を信じ続けて大丈夫だろうか?」という疑念が生まれる。そのときに「もう少し信じてみよう」となるかは、それを誰が発したかによるところが大きい。人から信用される「誰」かになるためには、相手のことを思った上で「何」かを発し、その「何」かに責任を持って行動し続けることだと私は考えている。その蓄積によって、ある瞬間「誰」かと認められたとしても、それは更新性の免許同様に、継続しなければすぐに「誰」でも無くなってしまう。
 将来、価値ある「何」かを提供できる人になるために、心のこもった言葉を紡いで形にしていくことを繰り返す。それが志高塾における作文との向き合い方である。

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